〈5〉Unkindred sisters
喫茶店に着くと、店内に榊原の姿を確認できた。俺の少し前に来ていたが、注文はまだのようだ。
朝ランチAセットを頼んだ俺の後に、新商品らしき生ライムスカッシュをオーダーした。色気のない奴と思っていたが、結構年相応の注文をするんだな。
運ばれてきた生ライムスカッシュを前にして、昨日までモノクロに見えた榊原がライム色に染まったような感覚を覚えた。
「何、じっと見つめて」
「別に。それより話って何だ?」
「カシマレイコに決まってるでしょう。……あの人身事故を切欠に、カシマレイコについて色々調べてみたの。もともと奴のことは知っていたけど、新しく知った事項も多かった。
その内の一つが、『カシマレイコは、夢にしか出てこない』ということ」
―――そうだ。遭遇したのはいつも夜の夢。直接相まみえたのは、あの喪服の女と会った時だけだ。
片や、人間味を感じさせない夢の声。
片や、人間の熱を持った現実の女。
「カシマレイコは、その話を聞いた者の所に夢として現れる。逆に言うと、話を聞かなかった者の前に現れることはできない。話を聞いた者の所にしか出て来れないのなら、行動範囲は限られてしまう。奴の目的は恋人の足を探し出すことであるから、行動範囲が狭まるのは喜ばしいことではない。
そのため、自らの存在を感知した人物の夢に現れ、その人物に干渉し操り人形とすることで、行動範囲を拡大する。……これが私の推理」
ライムスカッシュが泡立つ。
やっと俺の前に出されたAセットのアイスコーヒーに砂糖を入れ、喉を潤した。
「って事は、俺が会った不審者は操り人形ってわけか」
「そう考えるのが自然ね。ねえ、その不審者に何かされたの」
「あー……」
切り分けた目玉焼き。半熟の黄身がとろりと皿にへばり付いている。
「……足を切られかけた」
「…本当なの!」
しゅわあ、とライムスカッシュの中でたくさんの気泡が浮き上がった。
榊原が声を上げたという現実を認識するのにしばし時間がかかり、数秒ほどフリーズしてしまう。
「でっかい鉈を持っててさ、今にも俺の足を切ろうとしてたよ、あれは。荻内さんが来なかったら死んでたな」
「……警察に知らせた?」
「いや、忘れてた。襲われた日の翌日から友達と遊んでたし、警察に行く暇もなかったから。まあ、行った所でまともに話を聞いてもらえるとは思えないけど」
あの時、荻内さんと一緒に交番に行っていたら、少しは好転の兆しが見えていたのかもしれない。
「俺を襲った奴の正体が分からないんじゃ、カシマレイコを捕まえるなんて夢のまた夢だ。俺らにできる事なんてたかが知れてんだから、無闇に何とかしようとしても無駄だと思うけどな」
突然、榊原は口を閉ざした。
黙々とAセットを口に運んでいると、ライムスカッシュを飲み干す音が聞こえて、やっと重々しく話し始める。
「私、血の繋がらない姉がいるの。母の再婚相手の子供。……私が5歳の時に初めて会って、それ以来ずっと姉妹として過ごしてる。今は大学に通ってるの」
「……ふーん」
「姉は小さい頃から怖い話が好きで、妖怪とか都市伝説とかに詳しくてね、私にもいろいろ教えてくれたの。私は小学校に入学してから、仲が悪くなったけど。
正確に言うと、姉があまり構ってくれなくなったのよ。そのころ姉は高校受験で忙しくて、テストの点もあまり振るわなかったみたいで……。一方で私は『成績がいい』とかもてはやされて、父も母も私に構うようになって……ストレス溜めてたみたい」
「それで、どうなったんだ?」
「別にどうもなってないわ。…前は私のことを無視したり、文句を言ってきたりしたけど、今はそんなこと全然なくなったの。性格もちょっと明るくなったし」
「……で、どういう事だよ」
「…なんだか、人が違ったみたいなのよ。本当に私の姉? って思えるくらい」
ひょっとして、その姉がカシマレイコの件に一枚噛んでいるとでも言いたいのだろうか。
血縁者じゃないとはいえ、こいつにオカルトを教え込んだ人間だ。こいつ以上に不気味な感じの人物じゃないだろうな。
「詩織ー、そんなとこで何してんの?」
貴島か平河か黒江辺りかと思って顔を上げたが、その予想は全く的を射ていなかった。
黒髪を頭の上で団子状にまとめ上げた髪型―――シニヨンヘアーとかいうやつにして、シンプルな模様のTシャツとカッチリしたジーパンを着用した、快活な印象を与える大人の女性が、俺らの目の前に立っている。
「……姉よ」
その女性が近づいてくるたびに、俺がそれまで抱いていたイメージが完膚なきまでに破壊されていくのが分かった。
「珍しいね、喫茶店に来てたなんて」
「…まあね」
気のせいか、榊原の様子が少しおかしいように思えた。俺にはどこか突っかかるような態度で話していたのに、姉に対しては腫れ物を触るような態度で接している。まるで親に怒られまいとする子供のような。
「ふーん。それで、こっちの彼はどなた? 友達? それとも、彼氏だったりして」
榊原の姉はニヤニヤしながら俺を見ている。なんだか誤解されていそうなので、速やかに反論しようとしたが、榊原が一瞬早く声を上げた。
「友達よ」
「なんだ、そうなの。お名前は?」
「あ…垣渕っていいます。垣渕仁志です」
「あたしは榊原李恵です。よろしくー」
彼女は笑顔で俺を見ている。思わずどこを見ればいいか分からなくなり、視線が宙を泳いだ。
「仲良くしてあげてね。詩織、ちょっと人見知りなとこがあるから。男の子の友達ができるなんて初めてだし」
今までよりも一層にこやかな笑みを作り、李恵さんは俺から遠のいた。解き放たれたような開放感が全身を包み込み、つい大きく息をついてしまう。
「それじゃ、詩織。これから家に帰るんだけど、一緒に帰る?」
「悪いけど用事があるから、先に帰ってて」
「ん、オッケー。遅くならないようにね」
バイバーイ、と俺にまで手を振って、李恵さんは姿勢よく歩き去っていった。
…妙な圧迫感のある人だ。俺の姉とはまた違った怖さだな。
「血は繋がってないにしても、全然感じが違うな」
榊原は黙っていた。その代わりに、遠ざかっていく李恵さんをレーザーメスのような視線で見つめている。その表情に鬼気迫るものを感じて、俺は口を閉ざした。
やがて李恵さんの姿が見えなくなった時、榊原はやっと視線を外した。
「どうしたんだよ、一体」
「…話、続けるわね」
ふう、と一息置いて、榊原はまた語り始めた。
「父と母は私を誉めそやしたけど、姉にはどこか冷たかった。『詩織を見習いなさい』って言われているのを何度も見た。
たまに喧嘩になることもあったのよ。『あんたがここに来たせいで、私は不幸になった』って、姉は口癖みたいに言って……。でも、大学に行くようになってから仲直りした。両親ももう姉と私を比較しなくなったし、ちょうどその頃、姉に恋人ができたの」
そりゃ、李恵さんは決して悪いルックスじゃなかった。むしろ美人といって何ら差支えないほどに。
「だけど、付き合うようになって二ヶ月ぐらいだったか……いきなり別れたの。手ひどく振られた、弄ばれて捨てられたって、毎日泣いてたの。今にも自殺しそうなぐらいに。立ち直ったのはつい最近」
「最近? あの調子でか?」
「そう。彼氏が死んでから、吹っ切れたみたいに前の調子に戻っちゃった」
「え、死んだって……何だよそれ」
「ほら、この前人身事故があったでしょ」
「―――あの人か!?」
足を轢かれて死んだ男性―――本郷賢治。
単なる事故の犠牲者だと思っていた。カシマレイコなんぞとは微塵も関係ない、ただの一般市民だと思い込んでいた。
それがなんだ、榊原の姉の元カレ? ……偶然もここまで重なるともはや作為的だ。そうだとしたら、一体誰がこの偶然を作り上げた? もちろん、神の見えざる手なんてのは論外だ。
メモを落としたのは誰だ? そもそも、あれはただの人身事故だったのか?
「…李恵さんと、カシマレイコとは関係があるっていうのか?」
「不審者の格好、詳しく教えてくれる」
未だ色鮮やかに蘇る、黒い半袖の薄いカーディガン、黒のブラウス、黒いスカート、黒ストッキング、あと黒い靴。それから真珠のネックレス。
榊原は悪い予感が的中した時のような絶望を顔中に浮かべ、俯いて唸るように呟いた。
「姉の喪服が、無くなってたの……」
グラスから滴り落ちた水滴がテーブルの上に水溜りを作っていた。