〈2〉Obituary
目を開けると、辺りは薄暗かった。地面はべちゃべちゃしてて、湿っぽい。雨が降った後の道に座ってるような感触だ。
おまけに、なんだか鉄の臭いが鼻につく。足元の感触が不愉快なので、とにかく立とう―――
―――足?
「うわっ」
そうだ、やっと気づいた。左足の感覚がないんだ。つまり、俺には左足がない。地面のべちゃべちゃの正体は、血だ。
俺はとりあえず這い這いで逃げることにした。しかし、何も見えない。霧がかかったようにぼんやりしてて、薄暗い。地面は黒い。しばらくそうやって逃げてたら、俺の後ろを誰かがついてきた。
『……足をちょうだい』
「うわああああっ!」
前の夢で聞いた、あの声だった。昨日の不審者の声とは違う。こっちの方が冷徹で、人間味がなくて、気味が悪い。
俺は叫んで、頑張って早く走ろうと試みた。しかし、無駄だった。びちゃ、べちゃ、と足音を立てて、わざわざ俺の速度に合わせてゆっくりとついてくる。
―――どすっ、と、俺の前に何か落ちてきた。…俺の左足だった。声にならない声を上げながら、俺は逃げ続けた。しかし、右足首をつかまれた。手袋の感触が足首にしっかり伝わってきて、もう逃げ場はないのだと語っているようだ。
『ねえ。足をちょうだい』
「うわあっ! 来るなぁ!」
振り向けなかった。俺はただまっすぐ前を見て、後ろの奴に向かって叫んでいる。
と、遠くの方に誰かが見えた。
「…荻内さん!」
あの背格好、雰囲気、間違いない。昨日俺を助けてくれた荻内さんだ。俺は無我夢中で助けを求めた。
「荻内さん! 助けて! 助けて下さい!」
こちらに背を向けていた荻内さんは、気づいたらしくこっちを向いてくれた。しかし、昨日のようにはいかなかった。彼は儚げにほほ笑んで、俺に手を振っているだけだった。
「荻内さ……」
『見つからないの。まだ、見つからない』
冷ややかに響いたその声に遮られて、俺の視界は暗転してぐにゃりと歪んだ。
―――まただ。また、あいつだ。あの夢だ。
最悪の夢で朝を迎えた俺は、普段より失せた食欲のまま朝食を食べ、宿題をし、昼飯を食べ、ネットサーフィンし、漫然と夕刻を迎えた。
心の奥でずっと引っかかっている荻内さんの姿。女の声。そして思い出す、黒い女。
もやもやとした気分を抱えながらリビングに向かい、テレビを点けようとリモコンを探し出した時、届いたばかりの夕刊に目を通した姉が声を上げた。
「…ちょっと、お母さん! 仁志!」
「なんだよ、突然……」
ただごとではないその態度と声色に、俺は少したじろいだ。
母も父も姉の許に集合し、指された記事を目に留める。
“本日午前9時ごろ、赤鹿市西去来川区財田三丁目の民家で、男性の変死体が発見された。被害者の荻内真さん(25)の足は切断されており、警察は猟奇殺人と見て捜査を開始。加害者ならびに、切断された両足の行方はいまだ不明”
「……はぁ?」
目の前の事実がまるで信じられなかった。この瞬間も認識も光景も夢なのではないかと、冗談抜きでそう思えてならない。
頭がぐらぐらする。耐え切れなくなり、倒れこむようにしてソファーに腰かけた。
…犯人はあいつしか考えられない。昨日の、全身真っ黒不審者だ。あいつならきっとやってのけるだろう。あの時荻内さんが顔を出さなかったら、奴は間違いなく俺の足をちょん切っていた。
ひとまず俺を諦めて、せっかくのチャンスを奪った荻内さんにターゲットを変更し、奴はまんまと足を手に入れたのだ。
…だが、あいつ、足をどうするつもりなんだ? あの女がこの世に顕現した亡霊だというのなら、まだ考えられる。
しかしあの女、よくよく考えてみると生身の人間だ。あいつの鬼気迫るオーラには気圧されたが、よくよく考えてみるとあの女は幽霊なんかじゃない。
あの女に足首を掴まれた時、感触がちゃんとあったのだ。手の温度も、熱いぐらいにしっかりと感じられた。死人はもちろん、幽霊に体温があるとは思えない。
―――あの女が、逃げずに物陰から様子を伺っていたとしたら?
尾行するか俺と荻内さんの会話を盗み聞くかして、荻内さんが家に戻ってくるのを待ち構えていたとしたら?
そして、邪魔をした仇とばかりに、荻内さんを殺したとしたら?
あの濁り沼のような目で、俺たちをずっと見てたんだとしたら?
……夏なのに、全身が粟立つような悪寒に襲われた。
このまま、奴が俺を見過ごしていくとは思えなかった。そういう根拠はないが、とにかく今はそう思ってしまうのだ。
情報を集めなくては。俺はふらふらと立ち上がり、家族の心配そうな視線を背に受けながら、自室へと戻ることにした。
「ちょっと、仁志……」
「一人にしてくれ。飯は自分で作る」
***
部屋の窓を閉め、結局俺は朝飯も食べずにネットの海を泳ぎ始めた。
手始めは、この間のホームページだろう。
閲覧履歴を探すと、ホームページは簡単に顔を出した。迷わずそれにカーソルを合わせ、クリック。
…おっ、更新されてる。ここの管理人は結構几帳面みたいだな。手が早いときたもんだ。どれどれ……
『2011年7月23日(Fri)6:30 無題
今朝の5時ごろ、兵庫県赤鹿市の民家で猟奇殺人事件が発生しました。
被害者の方のご冥福をお祈りいたします。
「カシマレイコ」は、「足」と関わりの深い怪異です。
この事件の加害者は、被害者の足を切断し逃亡しています。加害者の目的や動機は不明ですが、私が思うに、この犯行はカシマレイコとの類似点があります。
足を切断したことです。
これだけで類似しているとは言いがたいですが、私にはそう思えてなりません。
体の一部を切断して逃走するという猟奇的かつ残酷な手口が、普通の殺人事件と一線を画しているし、何より異常です。
わざわざ手間のかかる方法を選んでいることから、快楽殺人ということも考えられます。
加害者がカシマレイコのことを知っているということは未確定ですが、可能性の一つとして考えてもいいのではないでしょうか。』
どうやらこの管理人も、カシマレイコ絡みかと踏んでいるらしい。
しかし、起こったばかりの殺人事件をネタにして考察するっていうのは…大丈夫なんだろうか。
まあ、俺には関係のない事なので、気にしないことにしよう。
この間見たサイト以外にもアクセスしたものの、やはり怪異としてのカシマレイコの話がほとんどで、モデルとなった人身事故と連続殺人事件について語っているものはそう多くなかった。
やっぱり、本物よりフィクションの方が語り草にしやすいということだろう。
もう昼過ぎか…。腹減ったな。たまには自分で昼飯でも作ろうかな。
大きく伸びをして、俺はカーテンを開けた。
どんよりと雲が垂れ込め、空を覆っている。窓を開けると、生ぬるい風が顔を撫でていく。
冷蔵庫の中身を確認するため、部屋を出ようとすると、ドアが小気味よく鳴った。
「仁志、いるか?」
父の声だった。俺は迷わずドアを開けた。
「なんだよ」
「荻内さんの葬式、駅向こうの会館であるみたいでな。来週ぐらいだけど、お前も行くか」
「…うん。世話になったんだし、ちょっとだけ覗くだけでもしといた方がいいよな」
「じゃあ、母さんとも話してくるから。予定、空けとけよ」
父はそれだけ行ってその場を後にした。
…急な話だ。でも、よかった。お礼らしいお礼もできないまま、二度と会えなくなったんだから。これが荻内さんへの餞になればいい。
あのモノクロ女め、来るなら来いよ。何も知らない一般市民を毒牙にかけることはできても、俺はそう簡単にいかんぞ。
傷一つ負わず、お前から逃げ切ってやる。