〈1〉Lady in black
気づくと俺は走り出していた。
忘れかけていた不吉な感じが蘇る。光を投げかける街灯。黒い空、黒い地面、黒い景色。耳に入ってくる二人分の足音。夜の路地を走る俺と、後ろの何か。今朝見た夢とダブった光景が、俺の視界に映りこんでいる。
額ににじむ汗も気にせず、人っ子一人見かけない夜の住宅街を、俺はひたすらに駆け抜けた。
何だ、これは? カシマレイコは夢に出るんじゃないのか。今ここは確かに現実のはずだ。―――それとも、これは夢なのか。
「ね、ちょうだいよ、ねえ」
もう一度声が聞こえる。やはりこれは夢じゃない……しかし、脅かしのための演技とか、そういうレベルじゃない。
焦るな、落ち着け。こういう時何て言えばいいか、インターネットにはしっかりと書いてあったはずだ。
「いっ…今、必要です!」
ブン、と風を切る音がしたと同時に、俺の太もも辺りに鈍い痛みが走った。
足がもつれて転び、アスファルト道路にしたたかに膝を打ち付ける。痛みと緊張で強張る体に追い討ちをかけるように、無防備な足首を掴まれた。
…見ちゃいけない。いけないと思いながらも、後ろを見そうになる。
こいつがどんな姿をしているのかは俺にも分からない。声からして女であることは想像できるが、とてつもない美女なのか、怪物のような顔なのか、そんなものよりもっとおぞましい存在なのか、そこまでは分からない。想像したくもない。しかし、やっぱり―――見たくなる。
背後の奴が放つ毒気のようなオーラにあてられ、ついに俺は誘惑に負けて頭を後ろに向けてしまった。大丈夫、これはただの本能に基づいた行動だ。相手がどんな奴かを知るためのな………と、自分に言い聞かせながら。
「…うっ」
いたのは、やはりと言っていいだろう、女だった。
外見は至って普通だ。うつむいており顔は見えないが、それ以外の所は一般人と何ら変わりない。途方もなく黒くて長い髪に、黒い半袖の薄いカーディガン、黒いブラウス、黒いスカート、黒ストッキングに黒い靴。真珠のネックレス。俺の足首を掴む手は、真っ黒い手袋が二の腕まで包んでいる。見事なまでの漆黒スタイル、まるで葬式帰りだ。
こんな状況においても冷静に分析できている俺自身に対しても驚愕の極みだが、この女の違和感だらけの服装に対する驚きの方が断然高い。
次の瞬間、そんな俺の強靭な精神が瓦解した音が聞こえたような気がした。
女と目が合ったのだ。濁りきった沼のような、という例えは少し外れているが、一番近しい例えだろうと思う、そんな感じの目だった。
「ふふ」
女はチェシャ猫のように不気味に口角を上げている。にたにた、という擬音が相応しい表情だ。
そして、女が右手に持っているものを見た瞬間、俺の精神はキャラメルのように溶け崩れた。
大振りの鉈。それが、街灯の光を反射してキラリと光ったのだ。
「………嘘だろ?」
「ひひひっ」
「ドッキリなら間に合ってるぜ」
どこを見渡してもテレビカメラなどは見当たらない。俺がとった行動をあざ笑うように、女がまた笑う。
「うふ。ふふふふひひっ………ははは! あははははは―――――」
まるで会話が成り立っていない。その態度はただただ不気味で…とにかく怖い。
重そうな鉈を、女は軽々と頭上に掲げる。瞬間的に危機を察知した俺は、年甲斐もなくちびりそうになった。抵抗すらも許さない素早さで、女は薪割りでもするように腕を振り下ろした。
「うわああああ――っ!」
カメラで切り取って収めておきたいぐらいの強烈なシーン。しかしカメラなど使わなくても、そのシーンは俺の脳と網膜にしっかりと焼きついた。
「うるせーぞ! 何時だと思ってんだ、バカ野郎!」
死を覚悟したその瞬間、近くの一軒家の窓が開いて男の声が轟き、俺の心臓を刹那、女の動きを一瞬止めた。
怒号を上げた男は噴火直後の火山のような顔をしていたが、俺たちの姿を見た途端、液体窒素に浸かったかのようなスピードで青ざめ、固まった。
「え? ちょ、えっ!? おい、どうしたんだ!?」
どうもこうも…。できれば通報してもらえるとありがたい。
「あっ!おい、こら!」
女は休息中にライオンを見つけたシマウマのような速さで立ち上がり、そのまま脱兎の如く逃げていった。外に飛び出してきた男は後を追うが、どうやら見失ってしまったらしく、フラフラと俺の近くに戻ってきた。
夜闇に消えた女を見届けると、俺の体はすぐさま放心状態に移ってがくりと力を無くした。
「だ…大丈夫?」
一度にたくさんのことが起こりすぎてしばらく何も言えずにいたが、そばに人がいたので、すぐに調子を回復できた。
「何だろさっきの人、不審者かな」
「そう…みたいっすね、ハイ」
「知らない人?」
「ハイ。見たこともないです」
男は矢継ぎ早に質問を浴びせてきたが、やがて一呼吸おき、落ち着いた声でまた聞いた。
「どうする、交番行く?」
「いえ、明日…自分で行きます」
「まあ、こんな時間だもんな。家まで送ろうか」
「え? いや、いいですよ。騒がせてしまったのに、悪いです」
「一人で帰って、また襲われたらヤバイでしょ。俺のことなら気にしないでいいよ、ちょうど眠れなくて起きてたとこ」
男はTシャツにジーンズ姿という、これからコンビニにでも行きそうな格好をしている。このまま俺の家に行っても顰蹙を買うことはなさそうだ。
「…ありがとうございます。そうさせて頂きます」
断るのも礼儀に反すると思ったので、俺はご厚意に甘えることにした。一瞬、実はこの人はさっきの女の仲間で、俺を連れてさっきの女と合流するつもりでいる……なんてことも予想したが、そんな戯言はすぐに忘れた。この人懐っこそうな顔からして、凶行に走るなんてことはあまり想像がつかない。
「えーと、名前なんていうのかな。オレは荻内っていうんだけど」
「垣渕仁志です」
「かきぶちひとし君ね。君んち、どこ?」
気さくに話す荻内さんに道案内しつつ、俺は夜の道を歩き始めた。
少しして、荻内さんが話題を振ってきた。
「なあ、垣渕くん」
「何ですか?」
「君ってさ、オカルト信じる? 幽霊とか、都市伝説とか、UFOとか超能力とか、そういうアヤシイ系」
「……いえ、信じません」
少しだけ迷った。90%の俺はオカルトを信じず、10%の俺は信じている。さっきの女を幽霊だと認めるなら即座に「信じます」と答えただろうが、あれを幽霊と認めるのは何だか悔しいので、とりあえず90%側の俺を支持することにした。
「どうして信じないの?」
「そういうのって、大抵は錯覚だったり思い込みだったり詐欺だったりするじゃないですか。だから、信じません」
「いるかどうか分からないものは信じない、ってことか。君頭よさそうだもんね。じゃあもう一つ聞くけど、カシマレイコって知ってる?」
一回だけ心臓が高鳴った。まさか、さっき知り合ったばかりの人からこの単語を聞くなんて、思いもよらなかったからだ。
「…矢羽野区の、人身事故の?」
「そうそう。現場に落ちてたメモに書いてあった言葉。あれって誰が落としたんだろうね」
「さ、さあ」
荻内さんは一瞬だけ下を向いて、小さく息を吐いた。すぐに姿勢を戻し、俺の方を向く。
「何年前だっけな……。近くの駅で人身事故があったんだよ。新聞の一面記事に載るくらいの派手な事故。死んだのは若い女の人でね。両足の損傷が特にひどかったらしいんだけど」
「…知ってます、その事件。カシマレイコのモデルになったんですよね」
「そうそう。なんだ、結構知ってるじゃん」
話を遮ったというのに全く怒らず、荻内さんは明るい声色で言った。
「矢羽野区の事故と関係あると思わない? 幽霊がメモ落とすなんておかしいけどさ……でも、なんか共通点も多いし。垣渕くんはどう思う?」
「………」
百物語の前の調査で、俺はあの事件のことを初めて知った。「あった」という事実のみを。
事件現場や被害者の本名、その前起こった殺人事件の加害者も知らない。事の顛末は、インターネットによる情報収集で知ったのだ。俺はカシマレイコというオカルト的な存在の“情報”を手に入れ、そして皆の前で怖い話として語るつもりだった。
矢羽野区の事故だの、現場に落ちてたメモだの、カシマレイコの正体だの、そんなものはどうだってよかった。あの百物語が終わったら、カシマレイコに用はない。
結局、金田教諭によって百物語は幕を閉じ、俺が用意した話も役目を終えて、そのままカシマレイコという単語は俺の頭から消失するはずだった。……なのに、奴はまだ存在している。
さっきの不審者がカシマレイコだというつもりはないし、その証拠も保障もない。しかし、どうしてこのタイミングで来た? 俺がカシマレイコという単語を最も意識する今日この日に。タイムリーにもほどがある。
外見もそうだ。恋人を喪い、殺人鬼と化した女。さっきの女がそうだと言えば誰もが信じるだろう。それほどあの女は狂気に満ちていた。
仮に、あの女が蘇った恋人の亡霊だとしたら……俺の足を切り取って、死んだ男に供えるつもりだったのか?
そうだとしたら、どうして俺なんだ? 俺はあの事故とは何の関わりもないのに。どうして―――
「…ちょっと難しい質問だった? そんなに考え込まなくてもいいよ」
我に返り、荻内さんの方を見ると、彼は苦笑いしていた。
「あ、すみません……つい」
「いいよいいよ。ていうか君、器用だね。考えながらちゃんと歩いてたよ」
ふっと前を見る。いつの間にやら、家に着いていた。
「あのねえ、仁志。こんな時間まで、どこをうろついてたの!」
ドアが開いた瞬間、怒り心頭の母の顔が眼前にあった。行く前に「遅くなるから」と言っておいたけど、さすがに遅くなりすぎたようだ。母の後ろには姉が「怒られてやんの。ばーかばーか」と言いたげな顔で立っている。
「ゴメン。この人が送ってくれた」
「ええ?」
俺が体をどかすと、荻内さんが照れくさそうに一礼した。母はそれを見た瞬間、深々と頭を下げた。
「申し訳ありません、うちの息子がご迷惑をおかけしまして……」
今にも泣きそうな声色で侘びの言葉を述べて、さらに腰を深く曲げていく。このまま土下座してもおかしくないくらいだ。
「えーと、お母さん、そんなに頭を下げなくても……僕、そんなに大したことしてませんし」
「何をおっしゃいます。こんな遅い時間にお送り下さって…本当にすみませんでした。あの、何かお礼をさせていただきたいのですが…」
「えっ、そこまでしていただかなくても結構ですよ。僕が勝手にしたことですし」
荻内さんは遠慮するが、母はさらに食い下がる。…我が母ながら、しつこい。
結局、荻内さんは根負けして、名前と住所を教えて帰っていった。後日彼の家に菓子折りか何かが届けられるだろう。
「仁志」
風呂に入ろうとした所、低い声で呼び止められた。むすっとした顔の父が、パジャマ姿で仁王立ちしている。
「なんでこんなに遅くなったんだ?」
「…友達と遊んでた」
「何をして?」
「みんなで怖い話してた。…暑いから」
学校で、とは言わなかった。余計なことを言って首を絞めるようなことはしたくない。
「…そうか。もうお前も高校生だから、あんまり口うるさく言うつもりはないけど、遅くなったのならせめて連絡しなさい。何のために携帯があると思ってるんだ」
「ごめん」
「門限、ちょっと早めるからな。今日はもうさっさと風呂に入って寝ろ」
「うん」
父の言葉通り、俺は適当に風呂をすませて、ゲームをせず本も読まずに床についた。