〈2〉Ghost storys of evening
―――その夜、俺は悪夢を見た。
あれは女の声だった。聞き覚えのない、気味の悪い女の声が、いつまでも俺を追ってきた。
俺は深夜の路地を、何者かも知れない女から、ひたすらに逃げていた。
『足をちょうだい。』
女は、深雪のように静かな声でそう言っていた。
逃げ続けているのに、一向に距離が縮まらない。同じ声質、同じ声量、同じ声色で、女は俺を追い続けていた。
俺は逃げつつも、女の正体を薄々感じていた。
…あんなものが実在すると認めたくはない。しかし、あの怪談の生みの親となった人物は実在したのだ。
百物語を目前に控えた今日という日にあんな夢を見るとは、出来過ぎた偶然にも程がある。
そもそも、俺がカシマレイコを知ったのは、あいつに百物語の話を持ち出されてからだ。引き金を引いたのは他ならぬ貴島だ。…ごく僅かだが、不吉な予感がする。
突然、携帯が震えだした。…貴島からメールだ。
『百物語、今日の7時からだよ~(*´・ω・)ノ まさか忘れてないよね?(;@3@)
みんな来るって言ってるんだから、仁志も絶対来てよね;´Д`);´Д`);´Д`);´Д`)
来ないとヒドイぞo(`Д´*)o』
どうやら「忘れてた」という言い訳は通用しないらしい。
『忘れてねーよ。アホ。来たらいいんだろ』
送信、っと。…気が抜けるメールよこしやがって。顔文字だらけなのがさらにムカつく。
あいつの名前を見たら逆に元気になってきたので、クローゼットを勢いよく開けてお気に入りの服を取り出し、さっさとパジャマを脱いでそれに着替えた。
朝食を食べるために自室のドアを開けて、リビングに向かうと、姉が俺よりも先に朝食を食っていた。
早起きを億劫がる姉に先を越されたのをまず驚き、姉が新聞を読んでいることにも驚愕した。今日は槍が降ってくるのかと窓の外を見たが、見えたのはいつものカラリと晴れた蒼天だった。
「おはよー」
「珍しいな。姉ちゃんが新聞を読む日が来るとは」
「そうなのよ! 起きて一番に『朝刊どこー?』なんて聞いてくるから、びっくりした」
台所から母が横槍を入れてきた。どうやら相当驚いたらしい。
「例のアレか?」
「そう。最新ニュース来てないかなーって思って」
「ニュースに全然興味なかった癖に、どうしたんだよ」
「女はコロコロ気が変わるからね」
「それもそうだな」
俺はソファーに腰を下ろして、新聞を食い入るように見つめる姉を観察することにした。貴重な光景だ、じっくり拝んでおくとしよう。
「ああそうだ、今日は帰るの遅くなるから、晩飯先に食ってて」
「どこか行くの?」
「ちょっとな」
「気をつけて帰るのよ。最近は物騒なことが多いから」
「へいへい」
***
現在、午後4時45分。陽が落ちるまでかなりの時間を残している。
学校のあちこちからアブラゼミの鳴き声と、部活に勤しむ連中の声が聞こえてくる。蝉にとっても、運動部の奴らにとっても、夏は始まったばかりだ。
召集されたメンバーの中に運動部に籍を置く者はおらず、よってこの場には全員が集まっていた。
「おっす、早乙女」
「おう。やっぱお前も誘われてたか。お互い大変だな」
友人、早乙女邦彦が朗らかに笑う。
「おーい、垣渕、早乙女ぇ」
騒々しくこちらに来たのは清瀬と弓沢だ。早乙女ほどの仲ではないが何かとよくつるむ間柄であり、まあ有体に言えば悪友だ。
「なんだよニコニコして。女子に誘われて舞い上がってんのか?」
「いや、学校に忍び込んで怖い話するとか、そうそう経験できるもんじゃないし? テンション上がってきた」
早口でそう言った後間髪入れずにゲラゲラ笑いが続く。自分の台詞で抱腹絶倒するとは、高2にもなって未だに中学生根性が抜けきっていないようだ。
「放課後に学校に忍び込んではしゃぐ小学生じゃあるまいし」
「お前アホか? はしゃぎたい時にはしゃいで何が悪いんだよ」
「そうだそうだ。クール気取ってんのか? あーん?」
悪ガキ二人に愛想をつかし、俺はそっぽを向いた。付き合ってられん。
それにしても夜の学校で百物語とは、貴島も酔狂なことを思い付くものだ。
隠れオカルト好きだったりして、などと柄にもない邪推をしつつ、いつの間にか滲んでいた額の汗を拭った。
…それにしても暑い。暑くて湿気ていて蝉がうるさい、これぞ現代日本の夏―――しかし暑すぎる。
この分だと、閉め切られた教室はさぞ蒸し暑いことだろう。そんな中で腰を据えて怪談大会とは、まるで江戸時代にタイムスリップしたようだ。平成生まれの俺には些かそぐわないイベントだと思う。
「鈴子ー、もう暑いってば。早く中入ろ」
「…ん、あーホントだ、もう5時になっちゃう。よしっ」
パン、と大きく手を叩いた貴島に注目が集まった。
夕暮れでも色あせないヒマワリ女の大輪の笑顔が、時代遅れの集まりの始まりを告げる。
「それでは、第一回納涼怪談大会を開始しますっ!」
そして俺たちは、下校時刻を過ぎた7時まで学校に居残っていた。(ちなみに5時を過ぎると生徒は強制的に帰らされ、校門が閉まる)
運よく誰にも見つからずに潜伏は成功し、俺たちは無事2年1組の前に辿りついた。
学校で百物語をする、と簡単に言ってのけたが、それは存外難しいものだ。もしこの教室の鍵が閉まっていれば、せっかくの潜伏成功の事実は水泡に帰し、俺たちは泣く泣く家に帰る羽目になる。
だが、貴島は抜かりなかった。おもむろに辺りを見回し、教室の窓を開け、そこから室内に入ったのだ。呆気にとられている間もなく、中から手招きされて入室を促される。…あらかじめ窓の鍵を開けておいたらしい。
「ばれちゃうから、電気はつけちゃダメだよ」
貴島のひそひそ声で、全員がこそこそと教室に入っていく。貴島はそれを確認すると、素早く、かつ静かに扉を閉めた。
「そういえばさ、なんでこんなとこで百物語なんかやろうと思ったんだ?」
早乙女が思い立ったように声を上げた。貴島は目を丸くして、きょとんとした顔をする。
「なんでって……あたしがここでやりたかったから。それだけだよ?」
「…ふーん」
「こんなこと高校生のうちしかできないでしょ。やれることは今やっとくのが得だと思うんだよね。…じゃ、清瀬はカーテン閉めといて。弓沢はこれに水入れてきて。あんまり音立てないでね。由里、千紗、ロウソク出すの手伝ってー」
貴島は持参したトートバッグから蝋燭の箱を取り出すと、平河と黒江に渡している。ご丁寧に百本集めてきたようだ。
「貴島ー、閉めたぞー」
「じゃあ、輪っかの形になるようにみんなで座って」
何だかんだいっても、こいつは進んでリーダーシップをとれる奴だ。いてくれると助かる。自分からこの会合を持ちかけたんだから当然とも言えるが。
「これ、一人一つずつ持っててね。これにロウソク刺して、火を点けるの」
仏壇に供えるようなタイプの、金属製の燭台が手渡された。さほど大きくないが金属の塊らしく、ずっしりと重量がある。
「すごい、本格的。こんなの家にあったの?」
「近所の仏具店が閉店セールしてたからまとめて買ってきちゃった。七つで500円」
椅子が引かれ、貴島が俺の左隣に座る。座席の順番は、俺から反時計回りに貴島・平河・黒江・弓沢・清瀬・早乙女だ。
貴島が円陣の中央に洗面器を置いた。さきほど弓沢が汲んできた水がなみなみと入っている。なるほど、貴島にしては用意周到だ。
「誰から話す?」
「よっしゃ、オレが話す」
弓沢が手を上げて、椅子から半分立ち上がった体勢で声を上げた。貴島が慌てて口に指を当て、それを諌めた。
「しーっ。外に聞こえちゃうでしょ」
「おっと、ごめんごめん」
弓沢はやや萎縮して咳払いを一つした後、勿体ぶった動作で蝋燭に火を灯すと、おどろおどろしい声色で話し始めた。
「第1話、『ベッドの下の男』」
弓沢の話が終わった後も語りは続いた。黒江の『ピアスの白い糸』、平河の『さとるくん』、清瀬の『イルカ島』、貴島の『コインロッカーベイビー』…どこかで聞いたことのあるような、雑多な話が次々と飛び出す。俺も適当に創作した怖い話をいくつか話したが、カシマレイコの話が出る気配はない。
「…おしまい。次、誰の番?」
平河がトーンの低い声で呟いた。ついに俺の持ちネタを出す時が来たようだ。
「俺が話す」
「オッケー。どうぞ」
バトンタッチ。俺はロウソクを一本出して火を点け、大きく息を吸った。
「第21話、『カシマさん』。俺が用意した中で一番の怪談だ」