八章
王都中心部の市民広場は、既におびただしい数の人々によって埋め尽くされていた。
いつもは、広い石畳の広場に、市場や大道芸のステージが開かれるだけの猥雑な広場は、今宵ばかりは、いつになく厳粛な雰囲気によって充たされていた。広場脇にしつらえられた式典用の舞台は、花や果物、オリーブの枝などで華麗に装飾され、舞台袖に灯された巨大なモノリス灯の光を浴び、燦燦たる輝きを放っている。
その周囲では、普段は王宮の中を行き交うだけの貴族や召使達が、今日ばかりは大理石の廊下ではなく、市民の雑踏によって磨り減らされた石畳の上を、せわしなく駆け回っている。
舞台前に詰め掛けた人々は、皆、一様にイスマエルを称える旗を振り、新しい王の登場を今か今かと待ち侘びている。すでに広場は、舞台の上に主賓を迎える前から、溢れんばかりの歓迎の意に満ちていた。
十六夜の月が、ようやく東の地平に顔を覗かせたその時、蓄積された人々の熱気が、やおら夜空へと弾けた。待ち侘びた新王が、ようやく、彼らの眼前へと姿を現したのだ。
純白のマントにジャケット。いつもは変換士として、黒一色の服を身に纏うイスマエルにあって、それは極めて珍しい出で立ちだった。しかし、彼がそのような服を纏うのには、王の戴冠式に臨むため、という理由の他にもう一つ、重要な意味があった。
堂々たる佇まいを誇る新王の傍らには、同じく純白のロングドレスと、そして、瞳の色と同じラピスラズリをあしらった、豪華なネックレスを身に付けた花嫁が付き従う。が、晴れやかな表情を浮かべたイスマエルに対し、花嫁は、まるで感情という感情を忘れ去ってしまったかのような相貌を呈していた。
満場の歓声、そして興奮の中、舞台中央の演説台の前に立ったイスマエルは、しばし満場の観衆に埋め尽くされた広場を見渡すと、彼らがひとりでに静まるのを見計らい、やがて穏やかな、厳粛な口調で語り始めた。
「カスパリエ市民の皆。いよいよ我々は今宵、待ち侘びた瞬間を迎える。ついに我々カスパリエ市民は、長らく我々の生活を悩ませてきた問題に決着をつける時が来たのだ」
新王の第一声に、広場は、耳を聾するほどの歓声によって満たされた。
再び場が静まるのを待ってから、イスマエルはまたも口を開く。
「ついに今宵、このカスパリエにおいてもプルーム増幅装置の稼働が開始される。この装置の効果は、既に他の街々から届く歓喜の声によって皆も既に承知の事と思う。この装置の稼動により、我々はこれまで強いられていたプルーム供給不足という、市民生活の不安に繋がる問題から開放されるのだ。この私、第三八代カスパリア王国国王イスマエル・カスパリアは、王座への就任に際し、皆と約束を交わそう。―――私は、決してそなた達から夜の闇を灯す光を奪う事はしない。凍える冬の居間から、暖炉のぬくもりを奪う事はしない。私の世の続く限り、この約束は必ずや守られる事だろう!」
いよいよ広場は、夜空をも突き破らんばかりの歓声によって飽和した。
「もう一つ。これを機に是非、皆に報せたい事がある。私は今宵、ここに立つ先王の妹君ミラ・カスパリアを妻に迎える事を宣言する」
もはや観衆は、イスマエルの言葉の一つ一つが金のつぶてであるかのように、手を高く掲げ、旗を振りつつそれらを迎えた。
市民の歓声に、ミラは笑みをもって応じた。が、その笑みが、彼女にとっては全くの機械的な動作であった事を、そこに集った市民の誰一人として見破る事はなかった。
ただ一人、彼を除いては。
やおら、舞台袖から不穏な喧騒が聞こえ始めたのは、そんな時だった。
イスマエルをはじめ舞台上に立つ誰もが、怪訝な顔を騒乱の方へと向けた。そんな中にあって、純白の花嫁ただ一人だけは、騒乱の中から微かに漏れる声を耳にするや、石像のようだったその顔に、今宵、初めて瑞々しい生気を宿した。
ラピス色の瞳が見開かれ、小さな唇が、待ち侘びたようにその名を口にする。
「クロエ……」
近衛兵達に押し戻されながら、クロエはなおも壇上に、そして、広場に集った市民達に
叫んだ。
「増幅装置を起動させてはいけません! そんな事をすれば、必ずや王都は滅びます!」
人々の間に、やおら不穏なざわめきが走った。
その様子をあくまで冷静に眺めつつ、イスマエルはなおも平然と応じる。
「皆の者、静粛に。いつの世も、悪い噂というものは絶えないもの。そのような無根拠な不安に惑わされる事なく、我々はただ、未来だけを見据えておればよい」
朗々としたイスマエルの声に、応じたのは、他でもない彼の花嫁だった。
「イスマエル。そなたは卑怯者だ」
「は?」
怪訝な表情と共に振り返る花婿に、ミラはさらに続けた。
「彼の言葉を、無根拠な噂と断じるのであれば、その前に、正々堂々と彼の説に耳を傾けた上で、それを論破してから言え」
「ミラ……!?」
ぎり、と、花婿の端正な口元が歪む。が、構わずミラは畳み掛ける。
「どうした、イスマエル。あ奴の事は、剣でなくペンで殺すのではなかったのか?」
その言葉にイスマエルは、まるで憑き物が落ちたかのように、歪めていた口元をはたと緩めた。
「ああ、そうだったね。ミラ」
すぐさまイスマエルは、予定外の論客に対し壇上での発言の許可を下した。
近衛兵達の列を割り、演説台の前に進み出たクロエの姿を見るや、イスマエルは、いよいよその相貌に不快の色をはっきりと浮かべた。
クロエが着用していたのは、入口の老人―――変換士学会本部長・コルネリウスが、公式の席でのみ身につける事を許される、儀礼用の制服とモノリス刀だった。デザインや色合いこそ通常の制服とさして変わらないものの、その布地もしつらえも、通常の制服と比べ、一層豪奢な造りとなっている。わけても、金糸によって胸元に縫い込まれた変換士の紋章が、国民に対し、とりわけ変換士達に対し、着用者の威厳を示していた。
「そんなものを着て、一体何を私に示したいのだ?」
「コルネリウス様のご意志をです、殿下。―――これ以上、変換士としての殿下の横暴を看過する事は出来ない、と」
「なるほど……あの老いぼれめが」
忌々しげに吐き捨てるイスマエルを横目に、クロエは演説台の前へと恭しく進み出た。
困惑と不満、中には敵愾心さえ向ける人々を前に、クロエは改めて思い知った。
―――僕の言葉は、決して彼らの心に歓迎される事はない。
それでも、僕は伝えなければならない。彼らにとっては耳障りなだけの、その真実を。他でもない、この国の未来のために―――……いや。
そこでクロエは、ふと、背後に立つミラに目を向けた。
婚礼用の化粧を施したミラは、神殿を照らすモノリスの白い光の中で、宝玉さえも霞むほどの美しさを湛えていた。が、クロエの目を捕らえていたのは、そのような彼女の表面的な美しさではなかった。彼女の瞳から発せられる、決意を帯びた眼差しだった。
―――そうだ。僕は、この国の未来を想う彼女のために……。
再び、観衆へと向き直ったクロエは、一つ大きく息を吸い、そして、声を発した。
「まず、最初に皆さんにお伝えしたいのは、先日消滅したクルスや、その他、辺境で消滅した多くの街や村は、流れ星などのせいで滅びたのではない、という事実です」
クロエの発した言葉に、俄かに、会場がどよめいた。どよめきに負けぬよう、クロエはさらに声を張り、続ける。
「本当の原因は、増幅装置の暴走……、そう、これから王都での稼動を予定されているものと同じ、増幅装置の暴走、すなわち、過剰なプルームの汲み出しによって起こるプルームの不安定化と、それに伴うプルームの噴出によって、滅んだのです」
が、人々はなおも、クロエに怪訝な眼差しを寄越し続けた。差し向けられる悪意の視線を堪えつつ、クロエはなおも続けた。
「その事実を、イスマエル殿下はずっとひた隠しにしてこられたのです。流れ星のせい、などという子供じみた嘘で繕い、真実を隠しておられたのです!」
いよいよ人々は、ざわめきと共に困惑顔を突き合わせ始めた。市民の反応に勢いを得てか、得意気な表情でイスマエルが口を挟む。
「一体、どのような証拠を元に言っているのだね、クロエ君」
嘲るようなイスマエルの言葉に、しかしクロエは真摯な眼差しを差し向けて答えた。
「証拠ならいくらでも提示できます。それこそ、本一冊程度では足りないほど……もっとも、あなたが私に、この場でのそれらの証拠の発表を、許して頂ければの話ですが」
そして再び、クロエは民衆に向き直って言った。
「皆さんも薄々、気付いているはずです。何故、無作為に地に墜ちるはずの流れ星が、人の住む街ばかりを狙って墜ちるのか。中でも、何故増幅装置を使用する街ばかりを狙うのか―――思い込みを廃し、冷静に事実を見つめれば、自ずと答えは出せるはずです。後は、あなた方がいかに事実と向き合うか、ただ、その一点に託されているのです」
いよいよイスマエルは、我慢できないとばかりに哄笑を上げ始めた。一方で民衆からは、あの気の狂った変換士を、早く舞台から引き摺り下ろせとの怒号が飛ぶ。
朗々とした口調で、イスマエルは言った。
「偽りの事実と、どう向き合えと言うのだね。存在も確かでない事実より、今は目の前の問題を解決する事の方が先決だ。―――増幅装置を使わない限り、市民の平穏な都市生活は決して保障されえない。不測のプルーム供給停止に、市民は皆、困り果てているのだよ」
「では、あなたは、今の快適な都市生活を維持するために、国民から真実を―――おぞましい真実の存在を、隠蔽し続けると仰るのですか」
「そのようには言っていない。ただ、ありもしない問題を引き合いにして相手を責めるのは卑怯だと言っているのだ。暴走説然り、枯渇説然り」
「暴走説は事実です。もちろん、プルーム枯渇説も―――増幅装置を必要としているのがその最たる証拠です。減少しつつあるプルームを、それでも以前と同じ量を汲み上げるためには増幅装置の稼働が不可欠―――つまり、あなたの施策こそ、私の論を証明している事に他なりません」
「……なるほど」
静かに、そして、忌々しげにイスマエルは吐き捨てた。そんなイスマエルに、なおもクロエはまっすぐに向き合いながら続ける。
「国民の生活を思い、あくまで国民の視点に立った施策にこだわるその姿勢は、純粋に尊敬申し上げます。―――しかし、だからと言って、いたずらに将来の国民の生活を犠牲にして良いとは私は思いません。どうか、彼らに真実を伝えた上で、改めて彼らに問うて下さい。今のまま、快適な生活を求めるか、それとも多少の不便を飲んでも子や孫の世代に豊かな世界を残すのか」
クロエの訴えに、しかしイスマエルは、
「問うまでもない」
言い捨て、そして、指を鳴らした。
と共に、神殿の隅に控えていた近衛兵達が、いっせいに舞台へと上がり込み、演説台のクロエを取り囲んだ。
「先王子飼いの御用学者殿には、大人しく舞台を降りて頂こう。レオンの世は、既に終わったのだ」
勝ち誇るようにイスマエルが吐き捨てる間も、鎧姿の近衛兵達はじり、じりと、クロエへの包囲の輪を縮める。
「これが、貴様の言う変換士の殺し方か、イスマエル!」
ミラの怒声に、しかしイスマエルはあくまでもにこやかに応じた。
「もはや彼は変換士ではない。どのように殺そうと、それは自由だ」
「イスマエル、貴様ぁあっ!」
ミラの怒声が、夜空に炸裂した、その時だ。
「ミラさまぁあああっ!」
「え?」
やおら観衆の渦の中から、一人の皮鎧姿の男が神殿の壇上へと飛び出して―――否、放り込まれた。
どすん、ごろごろごろ……ごろん。
あまりにも無様な着地に、観衆のみならず舞台に居合わせた誰もが思わず見入った直後、男はガバと立ち上がり、そして怒鳴った。
「てめぇえっ! 俺のミラ様に花嫁衣裳を着せたまではグッジョブだがなぁ、その艶姿を独り占めするのだけは許せねぇ!! とりあえず全国のミラ様ファンに、おろし金で額すり減らしながら三つ指ついて謝れぇえ! このロリコン変態野郎!」
と、そこへ。
「タンカを切る暇があったら、とっととあの泥棒猫を助けろってんですわよ! この短小鶏頭ぁあっ!」
どごっっ!
続けて神殿内に飛び込んで来た、いや、先程の男にドロップキックをかましてきたのは、メイド服を纏った緑色の髪の若い女だった。
「何すんだ、ベルダ! 殺す気かボケェ!」
「ええ。いっそクロエさま以外の殿方は、みんな死んでしまうが宜しいですわ」
突然の闖入者に、それまでクロエを囲んでいた近衛兵達が、すかさず向きを変えて殺到する。が。そんな兵士達を前に、二人の闖入者は怯むどころか、むしろ敢然と向き合い、身構えた。
「おいアバズレ、もし俺を邪魔した日にゃ、問答無用でぶった切ってやるからな!」
長剣を抜き取りながら、ギルは傍らのベルダを振り見る。
「あなたこそ、その阿呆面をブッ潰されたくなければ私の邪魔をなさらないよう」
ぷりぷりとベルダも言い返す。
そこへ、最初の兵士が猛然と切りかかった。ギルはこれを数手で切り伏せると、すかさず次の兵士へと刃を向ける。
だが、その背後から、兵士の一人がギルに大上段を振り下ろす。―――と、がら空きとなったその懐へ、ベルダが強烈な一蹴を食らわせ、これを吹っ飛ばす。
「油断してんじゃないですわよ、鶏頭!」
怒鳴るベルダに、すかさず一人の敵兵が詰め寄り、下段から袈裟に切りかかる―――と、今度はギルが、ベルダを突き飛ばしながら、この一太刀を剣ごと叩き落す。
「てめぇこそ! 無駄口叩いてんじゃねぇ!」
苛立たしげに喚くギルの背後へ、さらに数人の兵士が殺到する。そんな彼らに、ベルダは、今し方剣を叩き落された兵士を抱え上げ、これを思い切り投げつける。
「無駄口ではなく、忠告と仰いまし!」
勝負は、瞬く間に決した。
累々と転がされた兵士達を踏み越え、一人と一体はイスマエルの前へと詰め寄った。
しかしイスマエルは、クロエを含めた二人と一体に詰め寄られてもなお、その不敵な笑みを崩す事はなかった。どころか、いよいよ勝利を確信した笑みを浮かべる。
そんな彼の背後からは、民衆の怒号が巨大なうねりとなってクロエ達に押し寄せる。
「聞こえるだろう、君達。今、君達はこの国を、この国の民を敵に回しているのだよ」
イスマエルの説明を待つまでもなく、それらの怒号はいずれも、新しい王とその花嫁との慶事に、余計な水を差した闖入者達に対して向けられたものだった。今、この瞬間、クロエ達は間違いなく、民衆の敵だった。そして、他でもないイスマエルこそが、唯一無二の、民衆にとって敬愛すべき英雄だった。
「私の声は民の声。私の手は民の手。私の下す判断は、いずれも民の意思の総意なのだ。私を否定する事はすなわち、民の意思を否定する事になる。それを知った上で、私を殺すと言うのならば殺すがいい。しかしそれは、永久に、君達がこの国の民にとっての敵となる事を意味する」
堂々然と言い放つイスマエルに、クロエは目を逸らす事なくまっすぐに言った。
「真の敵は、あなたです、イスマエル殿下」
「なに?」
つい、と片眉を上げるイスマエルを、ぎり、と睨み据えながらクロエは怒鳴った。
「国民を欺き、いや、己さえも欺き、迫り来る危機から目を逸らす、そんな貴様こそ、真の国民の敵だっ! イスマエルっっ!」
「……なんだと?」
呆然と呻くように、イスマエルが問い直した、その時だ。
ゴゴゴゴゴ……。
腹の底に響くような地響きと共に、突如、足元から突き上げるような激しい振動が、広場に居合わせた人々を、のみならず、街全体を襲った。
「な、何だよ、クロエ、何が起こってんだ?」
咄嗟に身を屈めつつ、ギルは周囲を見回す。その一方でクロエは、恐怖ではなく怒りに声を震わせながら、イスマエルに訊ねた。
「まさか、殿下。すでに装置を起動させていたのですか」
「誰も……式典終了後に起動させるなどと言った覚えは、ない」
そう答えるイスマエルさえ、すでに不安げな面持ちを浮かべ、しきりに辺りを見回している。そんな彼の背後では、突然の地震に驚き、逃げ惑う街の人々が、すでに狂乱の様相を呈し始めていた。互いにあらぬ方向へ駆け出し、どつきあい、怒鳴り喚く。まさに阿鼻叫喚の図である。
「こんなもの、いずれ収まる!」
「いえ」
イスマエルの怒声に、クロエはきっぱりと応じた。
「消滅した街から辛うじて逃げおおせた人の多くは、消滅前に巨大な地震が街を襲った、と証言しています。―――だとすれば、この地震もまた、その予兆、」
「そんなはずはないっ!」
そんなクロエの言い分を、イスマエルは一喝をもって掻き消す。
「私の計算は完璧だった……。今までもずっと……それに今回も……間違いはない。正常に作動している。確かに作動後間もなくは、地脈の流れが不安定になる事もある、だが、所詮は一時的なもの……! こんなもの、いずれ収まるんだ! いずれ!」
「殿下っ!」
今度は、クロエが怒鳴る番だった。
「完璧だろうとなかろうと、今、あなたの背中で起こっている事、それが事実なんです!」
「……事実、だと?」
ゆっくりと、イスマエルは背後を振り返った。
そこに広がっていたのは、まさしく地獄と呼ぶべき光景だった。
次々と崩壊する、簡素な石組みの家や建物。その合間を、統制も秩序もなく、ただ闇雲に駆け回る人々、そして、そんな人々によって、不幸にも押し倒され、踏みつけにされた挙句に命を落とし、そのまま誰に顧みられる事もなく広場や通りに打ち捨てられた人々。
中でも子供の犠牲は、その数についても悲惨さにおいても目立った。背も低く、また、体力も少ないために、大人よりも余計に人波の犠牲になりやすかったのだろう。
「こんなものが……こんなはずが」
肩をわななかせながら、イスマエルは呻いた。
「これが、事実です、殿下。これまで何度も、繰り返された……」
「こんなはずはないいっ!」
刹那、振り返るなりイスマエルは、その腕を横一文字に一閃した。
「させませんわぁあ!」
すかさずベルダが床を蹴り、イスマエル目掛けて跳躍する。しかし、その蹴りが届くよりも、イスマエルの腕が空を薙ぐ方が一瞬、早かった。そのイスマエルとクロエの間に、咄嗟にギルが立ちはだかる。と同時にギルの長剣が、目で追う事すら敵わない速度で銀の太刀筋を描く。
バラバラバラ……。
ギルの足元に、おびだだしい数の短剣が、雨あられと降り注ぐ。その数、数十本。
だが。飛来した短剣は、それが全てではなかった。
「さすがにコウモリとは……違うな」
「ぎ……ギル、さん!?」
いつしかギルの身体には、おびただしい数の刀傷が刻まれていた。のみならず、その肩や腹の所々には、彼の太刀筋を潜り抜けた短剣が深々と突き刺さっている。
それらの刀傷から、あるいは足を伝い、あるいは雫となって滴り落ちた血が、ギルの足元にゆっくりと血の海を拡げる。
「だ、大丈夫ですか、ギルさん!」
「な、ワケねー……だろ……」
呻くなり、ギルは崩れるように膝をつくと、受身さえ取る事もせず横様に倒れた。
「ギルっっ!」
弾かれたようにミラが駆け寄り、力を失った戦士の上体を抱き上げる。
そんな彼らの目の前では、抜刀したイスマエルに対し、ベルダが果敢に挑みかかっている。が、人外のパワーを持つオートマタをもってしても、イスマエルの振るう超高温の長剣の前には、もはや成す術などありはしなかった。
「おかしいな……見切った、はずなのに……ちきしょう」
「喋るな! 傷に障るぞ!」
長い睫毛に湿り気を宿しながら、ミラが必死の形相で怒鳴る。が、そんな彼女の腕の中で、刻一刻と、ギルは生気を失ってゆく。
「す、すみません姫様……俺、もう、ダメみたいです……」
「い、行くなぁあ、ギルっっ!」
「せ、せめて、さいごに、き、キス……」
言葉も半ばに、ついにギルはその瞼と共に、ぱたり、と意識を閉ざした。
「ぎ……ギル……」
ガギンッ!
その時、イスマエルの一太刀が、ベルダの腕を輪状に切り落とした。
「ベルダ!」
「駄目ですっ!」
駆け寄ろうとするクロエを、ベルダは鋭い声で制する。
「行って下さい! この街を、救うために!」
「―――っ!」
素早くクロエは踵を返し、ギルとの別れを惜しむミラの腕を取って駆け出した。向かう先は無論、地下のメインベント脇に設置されているはずの、プルーム増幅装置だ。
一方のイスマエルは、ベルダの切り口から覗くカラクリを目にするなり、俄然、その目を子供のように輝かせた。
「ほう。過去に、プルームを使い人形に命を与えた術者がいたと聞いた事があったが……よもや、その実例に出くわすとは、興味深い」
「残念ですわね! 生憎私は、クロエさま以外の殿方には興味が沸きませんの!」
「そうか、それは私としても、」
言うなり、イスマエルはその長剣で、ベルダの腹部を内部のモノリスもろとも、一気に――――
パキン……。
「残念だ」
貫いた。
途端、ベルダの身体は、まさしく糸の切れた人形そのままに、ガクリと力を失った。
「そんな……あのギルが、負けるなど……」
クロエに連れられ、地下への階段を駆け下りながら、ミラは歯噛みと共に呻いた。
「あやつは変態だが、剣においては決して負ける事はない……なのに」
ミラの口ぶりは、そもそもギルが剣において負ける事など、ありえないと言わんばかりのものだった。事実、ギルは剣においては負けていない。彼を敗北に追いやったのは、むしろイスマエルの持つもう一つの力の方だった。
「あれは、剣術と言うより、プルームを使った投擲術です。一度投擲したモノリス刀に、継続して新たな指示を与え、軌道を変更する―――熟練した剣士でも、あれほどの数を防ぎきる事は、まず不可能です」
「おのれイスマエル……どこまでも卑怯な、」
「そういう訳でもありません。並の変換士には、あれだけのモノリス刀をいちどきに制御する事など出来ません―――ギルさんは確かに、剣においての天才でした。ですが、それ以上にイスマエル殿下の方が、変換技術において天才だった、という事です」
その間も、地震は激しさを増し、いよいよまともに歩く事さえ覚束なくなっていた。
王都のメインベントは、王宮の聳える岩山の底に位置している。大変深い場所にあるせいか、メインベントへ至る階段は、降りても、降りても、なおも目の前に新たな階段が現れるといった始末だ。そんな、いつ果てるとも知れない地の底への階段を、今にも、背後にイスマエルが追いつくかもしれない、王都自体が吹っ飛んでしまうかもしれないという恐怖に苛まれながら、二人はひたすら駆け下りた。
やがて、ようやく彼らの眼下に、階段の終点と思しき場所が見えた―――その時だった。
これまでと比べ、ひときわひどい揺れが、二人の足元を襲った。と、その揺れに足元を狂わされてか、ミラが階段を踏み外す。
「きゃあっ!」
「危ない!」
咄嗟にクロエは手を伸ばした。だが、時すでに遅く、その腕が差し出される頃には、彼女の痩身は、すでに宙へと大きく投げ出されていた。
思うよりも先に、クロエは階段を蹴り出していた。そして、中空でミラの身体を抱き止めると、そのたおやかな身体を懐に納め、自身の身体を下に据えた。
ドサァアアッ!
が、クロエがその背中でもって、階下の石畳へ着地を果たした、その瞬間。
「ぎゃっ!」
クロエはその右肩に、これまで体験した事のない、肩口を引きちぎられるかのような激痛を覚えた。
「ど、どうした、クロエ」
痛みに耐えつつ、クロエはそっと瞼を開いた。するとそこには、吐息すらかかるほどの距離に、目一杯に涙を蓄えたミラの瞳があった。
「み、ミラ……殿下?」
「すまない……」
ぽた。
揺れるその瞳から、クロエの頬に、雫が落ちる。
「私のせいで……皆に苦労ばかり……かけてしまった」
「え……?」
「本当は、こんな事……全部、私一人で、成すべきはずだった……のに……誰も、苦しませたく、なかった……すまない……本当にすまない……」
なおもミラは、その瞳から鼻から、とめどもなく雫を垂らし続けた。嗚咽と共に、唇が肩が、小刻みに震える。
「……すまない」
なおも、ミラは繰り返した。まるで、それ以外のあらゆる単語を、記憶から忘れ去ってしてしまったかのように。
何度目かの“すまない”が繰り返されようとした、その時。
「すま―――」
その言葉を断ち切るように、クロエは、自身の唇を、ミラの唇にそっと重ねた。
キスは、一瞬で終わった。
何が起こったのか理解できず、ただ呆然と目を見開くミラに、クロエはそっと囁いた。
「あなた一人で抱え切れるほどに……軽いのですか? あなたの国は……?」
「……え?」
「もっと……僕にも、分けて下さい。あなたが抱えるもの……」
ミラは何も答えなかった。答える代わりに、その瞳から、いよいよ止め処もなく熱いものを溢れさせた。
いつぞや、王宮で巻物を拾い集める際に見せた頑固さは、もはや面影すら失っていた。涙でぐしゃぐしゃに崩れた表情を見つめながら、クロエは、きっと彼女は、これまでもずっと、一人で重みに耐え続けていたのだろうと察した。重みに耐える事こそ、王族の使命であると自らに言い聞かせながら。
王族としての気概に水を差すつもりはない。けれどもこの時、クロエは純粋に、ミラという一人の少女の支えになりたい、彼女を守る盾になりたいと強く願った。
国のため、国民のため、将来のため……そのような大仰な事情はさておき、クロエはただ、この一人の少女のために、生きたいと思った。
―――父さんの気持ちが、少し、理解できたような気がする。
身を起こし、立ち上がったクロエは、そこで、ある異常に気付いた。
右腕が、動かない。
どうやら先程の着地の衝撃で、右肩が折れるか脱臼しているものらしかった。何とか動かそうと右腕に神経を巡らすが、その腕が、指が動く様子は、いっこうにない。
「行きましょう……殿下」
未だ床にへたりこんだままのミラに、クロエは怪我を気取られないよう、無事に済んだ左手をそっと差し出した。
「……ああ」
こく、と頷くや、ミラはその手を、そっと取った。
メインベントを収める地下室は、階段からそう遠くない場所にあった。
歩く事すらままならないほどに揺れる地面に、おののきながらミラはクロエに訊ねる。
「滅びるのか、王都は」
「いえ―――させません」
答えと言うより、決意と言うべき言葉を返しながら、とうとうクロエはメインベントへ至る鉄扉を開いた。
そこには、カサンドラのものと同様、青い輝きで満たされた、しかしながら、カサンドラのそれとは比較にならないほど広大な、プルームの湖が広がっていた。
二人にとって、そこは決して、初めて訪れる場所という訳ではない。ミラは王族として、クロエは変換士として、それぞれの目的と使命を帯び、何度もこの場所へと訪れた。が、その際には目にしなかったものを、今、湖の中心に見出すなり、二人はどちらともなく、中心の小島へ至る通路を駆け出していた。
湖の中心に、その底にかけてまっすぐに差し込まれた黒く巨大な円筒こそ、まさしく増幅装置の本体に他ならなかった。
柱は、湖と地脈流を仲立ちする湖底のベントまで至り、今まさに、地脈から強引にプルームを引きずり出す機能を作動させ始めたばかりだった。
その柱の上には、これまた黒い外観の小屋が建てられている。どうやらそこが、増幅装置を運転するための操作室であるらしかった。
操作室に辿り着くと、そこにはすでに人の影はなく、すっかりもぬけの空と化していた。
イスマエルの指示によって機械を作動させたであろう技術者―――恐らくは変換士だろう―――のほとんどは、今や影すらも拝む事ができなかった。唯一地上と繋がった階段で、鉢合わせる事もなかったという事は、揺れ始めるや相当早い段階で、地上への脱出を始めたのだろう。自らの責任を、早々に放棄して。
鉄板敷きの無骨な床には、手順説明書と思しき、図や文字をびっしりと書き記したパピルスの巻物が、だらしなく開いたままあちこちに散乱していた。
「止めないと……早く……」
巻物を拾い上げるべく、膝をついたクロエは、そこで思わず、あっと声を上げた。
操作盤の下では、一人の初老の変換士が、肩を丸め、膝を抱えるようにしてうずくまっていた。その変換士は、クロエと目が合うや、やおら気が触れたような金切り声で喚き始めた。
「わ、私はただ、陛下に命じられて機械を作動させただけだ! 私は何も……何も悪くない! 悪いのは陛下だ! 陛下なんだぁ!」
蒼白な面でひたすら醜い自己弁護を続ける男に、しかし、クロエは咎めるでもなく、そっと語りかけた。
「誰が悪いとか、そういう事は、今はさしたる問題ではありません。とにかく今は、この装置を止める事が何よりも先決です」
しかし、このクロエの言葉さえも、男は激しくかぶりを振って拒む。
「だ、駄目だ。私には、そのような決断を下す権限など、ない」
この期に及び、都合の良い責任逃れを繰り広げる男に、いよいよクロエは怒気を覚えずにはおれなくなった。が、それでもなお、クロエは静かに言い放つ。
「責任は、僕が―――学長の意思を預かった、このクロエ・アルカサルが取ります」
「……学長の?」
はっと目を見開き、男は今一度、クロエの纏う服を眺めた。変換士であれば誰であれ、その礼服が示す意味に気付かない者はない。
クロエの言葉に、ようやく安堵を覚えたと思しき男は、すぐさま立ち上がり操作盤に取り付くと、早速、盤上のスイッチやハンドル、ギアを、こなれた動作で扱い始めた。
やがて。
ギュウウウウ……ン。
これまで、どこからともなく発する異音によって満たされていた操作室、そしてプルーム湖が、ゆっくりと静けさを取り戻す。
「こ、これで、止まりました」
振り返るや、男はその顔を、驚愕に硬直させた。
「へ……陛下」
「え?」
男の眼差しにつられ、クロエもまた振り返る。するとそこには、今まさに操作室目掛けて歩み来る、純白の婚礼衣装に身を包んだ男の姿があった。男は急ぐでもなく、一歩一歩、足元を確かめるようにクロエ達の元へと歩み寄る。
「へ、陛下ぁぁあ!」
途端、男は弾かれたように操作室を飛び出すと、イスマエルの元へと駆け出し、すかさずその足元に平伏した。のみならず、イスマエルの長い足へとしがみつき、赦しを請う言葉をしきりに叫び始める。
―――が。
「邪魔だ!」
やおらイスマエルは、男をしたたかに蹴り上げ、その小さな身体を、プルームの湖面へと突き落とした。
「いひゃあああああっ!」
青い光の中へと真っ逆さまに落ちた男の身体は、湖面に触れるや、その傍から白い霞と化し、骨片一つ残す事なく、いずこかへと霧散していった。
そんな男の姿にまるで顧みる事もせず、なおもイスマエルはクロエ達の元へと歩みを進める。
「止めるなぁあああっっ!」
常ならぬイスマエルの怒号が、ドーム状の空間に轟然とこだました。
「私は、約束したのだ! 国民と! 私の世が続く限り、飢えも、凍えも、闇への恐怖も、全ては無縁な存在と化すと! それが、私が国民に誓った約束なのだ! この約束は、誰にも、破らせはしない!」
その厳然とした声は、紛れもなく、王としての言葉―――イスマエル王の言葉に違いなかった。
その言葉に、今更ながらクロエは感じた。
―――彼もまた、背負っているのだ。
姿こそ違え、それはミラが背負うものと同じ、王としての重責に違いなかった。
彼もまたミラと同様に、国民の幸せを願い、国民の喜びを求めている。そして、ミラと同様、その重責から逃げる事もせず、彼なりの方法で、立ち向かおうとしている。
その姿は、ただ、痛々しい、の一言に尽きた。
これほど民思いの王が、何故、このような機械なぞに―――。
「陛下……」
クロエは踵を返すと、なおも歩み寄るイスマエルの前に自ら進み出た。と共に、携えていたモノリス刀を鞘ごと床に置き、恭しく敬服の念を示す。
「どういう事だ、貴様」
片膝をついたクロエを憤然と見下ろしながら、イスマエルは唸った。
「あなたは、紛れもなく本物の王です、イスマエル陛下」
その言葉に、背後から怒声を上げたのはミラだ。
「クロエ! そんな奴の言葉に耳を貸すな! そ奴は王でも何でもない! ただ、己の私欲、支配欲を満たしたいがだけの、王族の風上にも置けぬ俗物だ!」
が、そんなミラに、クロエは諭すように言った。
「いいえ、殿下。このお方は、紛れもなく我々の国王陛下です」
改めてクロエは、イスマエルの前に向き直り、頭を垂れた。
「畏れながら、只今の陛下のお言葉に、感服致しました。民を思う、陛下のお言葉に」
「何だ、今更」
「その陛下には、もうお分かりのはずです。今、この瞬間、国民が真に求めているのは、異常事態の収束―――そうは思われませんか、陛下」
「……!」
その言葉に、イスマエルは、ミラと同じ色の瞳をはっと目を見開いた。
一方、クロエはなおも続ける。
「陛下。王として、今、ここで成すべき事をなさって下さい。枯渇説に対する反論は、事態が収束してから、改めて学会のテーブルで伺いたく思います」
「……」
「陛下。今すぐ王宮に戻りましょう。恐らくは今頃、地上では恐怖と混乱が広がっているはずです。彼らを安心させるためには、あなたの存在が必要なのです」
「分かっていたのだ、全て……」
やおらイスマエルは、微かな、木々の葉が擦れるような覚束ない声で呟いた。
「え?」
顔を上げたクロエは、そこに思いがけない王の姿を見た。ラピス色の瞳から、その頬にかけてとめどもなく涙を流す、イスマエル王の姿を。
「陛下……?」
「だったとして……私はどうすれば良かった? いたずらに国民に不便を強いる事が、不安を与える事が、果たして正しいとでも?」
「……いえ、陛下、あなたは、」
刹那、イスマエルの身体が、ふっ、と傾いだ。
「約束を果たせぬ王に、もはや生きる意味はない」
―――まさか。
クロエが立ち上がった時にはもう、イスマエルはその足で、通路の縁を蹴り出していた。
咄嗟にクロエは、その右手を伸ばし―――が、動かない。
「させないぃいっ!」
咄嗟にクロエは、その足元に横たわる剣を、プルームの水面目掛けて勢いよく蹴り飛ばした。
「要請する―――」
イスマエルと共に湖面へと落下するその剣へ、クロエは唱える。
「残存プルームを全て運動エネルギーに変換」
一方、いよいよイスマエルの身体は、湖面へと至る―――
「打ち上げろぉおっ!」
バキイイッッ!
刹那、中空に落ちつつあった剣は、誰に振るわれる事もなく、ひとりでに空を切った。そして、その強烈な一振りにより、イスマエルの身体を、天井へと軽やかに打ち上げた。
どさっ……。
鈍い音と共に、通路へと転がったイスマエルの身体に、すかさず馬乗りになりながらクロエは怒号を上げた。
「ふざけるなぁっ!」
「な……何が」
呆けるイスマエルの胸倉を、左手のみで乱暴に掴み上げながらクロエはさらに怒鳴る。
「そんな事で、自分の行いにけじめをつけるつもりですか、陛下っっ!?」
ようやく事態を飲み込んだイスマエルは、しかし、なおも覚束ない口ぶりで呻く。
「だが……私には何も……王としても、変換士としても、もはや、」
が、うなだれるイスマエルに、クロエはなおも力強い口調で語りかけた。
「何もないはずはありません、陛下。あなたに出来る事は、まだ、たくさんあるはずです」
その言葉に、イスマエルははたと顔を上げた。
「―――私にも、手伝わせて下さい」
「え?」
イスマエルの胴から立ち退くや、クロエはその左手を、そっとイスマエルの目の前に差し出した。
「あなたの国造りを……国民が真の意味で幸せになれる国造りを」
その横へ、今度はもう一本の手が差し出される。
白く輝く細い右手は、他でもない、ミラのものだった。
「行くぞ、イスマエル。そなたの声を、国民は待ち望んでいる」
しばし、二つの手をじっと見上げていたイスマエルは、ややあって、おもむろに頷いた。
「……ああ」
そしてイスマエルは、差し出されたそれらの手を、両手で、ぐっと握り締めた。




