六章
戦艦は比較的ゆっくりとしたスピードで、暮れゆく西の空へと向かっていた。もっとも、ゆっくりとは言え、人の足で三日の行程をたった半日足らずで進む程の速度ではあるが。
だが、数刻後れを取ってカサンドラを飛び出したクロエ達の空中艇が、戦艦の巨大な影を雲間の彼方に捉えるのに、夜を待つ必要はなかった。
「見つけました! ギルさん、もっと運動エネルギーの出力を上げて下さい!」
金色の雲の切れ間に巨大戦艦の船影を見つけるや、クロエは、前方の操縦席にて操縦桿を握る皮鎧姿のギルに声を張った。
「えらそーに俺に命令すんな! つか、これ以上出ねぇよボケェ!」
一方ギルは、手元のレバーを一杯に引き上げながら、背後を振り返り、こちらも目一杯声を張り上げる。街も丘も、山でさえもはるか眼下に望む高度で、しかも、馬や自走車すら軽く凌駕するスピードで飛ぶ空中艇では、いくら声を張っても、相手に「うるさい!」と怒鳴り返される事だけはなかった。
羽根を広げる鷲の姿を象ったその空中艇は、その胴体部分に前後に一つずつ、計二つの座席がしつらえられている。ギルはその前方の操縦席に、そしてクロエはその後部座席に座る。椅子に掛けるベルダの膝に、ぎゅっと抱えられながら。
「この短小鶏頭っ! いいかげんクロエさまへの暴言はやめてくださいますこと!?」
今度はベルダが、クロエの小脇からぐいと顔を覗かせながら前方に喚く。
「るせー! このメガネ痴女っ! つか、お前のセリフが一番タチ悪ぃんだよ! あと俺は短小じゃねぇっ!」
「二人とも、こんな所で仲間割れは本当にやめて下さい! 共に闘う仲間でしょう?」
「そもそも俺は、こんなアバズレについて来いって頼んだ覚えはねぇよ!」
「んですってぇ!? クロエさまをこんな面倒事に巻き込んでおいて、よくもそんな事が申せますわね! 私の心と身体は、いつだってクロエさまのもの! 引き剥がそうったって、そうは問屋が卸しませんことよっ!」
言いつつベルダはぎうぎうとクロエを締め上げる。そんなベルダの腕を、肋骨が軋むのを堪えつつクロエはしきりにタップする。
「それともあなた、クロエさまに妬いていらっしゃるの? 本当は私の事が好きなんですの? ツンデレなんですの?」
「だぁあれが、テメーの事なんか好きになるかぁ! このメガネ痴女っっ!」
「やめてください、二人とも、ほんと、やめてとめて痛い……」
そうこうするうち、いよいよ彼らの目の前に、戦艦の巨大な影が迫り始めた。
彼の父親、騎士隊長バティスタ氏が、かつて空中遊覧を目的に購入したというこの空中艇には、モノリス弾を撃つための砲台といった、空中戦闘用の装備は一切備えられていない。
片や向こうは、そもそもが他国の都市を丸ごと制圧する目的で建造された戦艦だ。その側面および上部からは、おびただしい数の砲身が、鈍く黒光りする顔を覗かせている。
そんな巨大戦艦を、お気楽な遊覧用空中艇一艘で落とせる、などという楽観思考などは、さすがの彼らも持ち合わせてはいない。
彼らの接近に気付いてか、砲身が彼らの動向を捉え始める。あまつさえ、砲撃を始める砲台もある。最初こそ、威嚇射撃程度の照準だったモノリス弾が、いよいよ彼らの船を掠め始めるに至り、クロエは再び声を上げた。
「甲板の上に寄せて下さい、ギルさん!」
「言われなくてもわぁってるよ! 弾幕のせいで近づけねーんだボケェ!」
特に、彼らの接近を拒んでいたのは甲板傍の砲台だった。決して大きなものではないとはいえ、微に細に、クロエ達の船が近づけないよう実に細やかな弾幕を張る。
「ちきしょう、あいつらさえ何とかすれば」
「ったく、仕方がないですわね。これだからクロエさま以外の殿方は……」
むく、と席から身を起こしたのはベルダだった。代わりにクロエを椅子に押し付け、船体の縁に足を掛けるや、バンと船を蹴り出し、黒いワンピースと白エプロンのフリルをはためかせながらふわりと宙に舞う。そして、中空でひらりと身を翻すや―――
しゅたたたたた!
一直線に連なるモノリス弾の弾道を、その発端である砲身へ向けて一直線に駆け出した。
撃ち込まれるモノリス弾をことごとく蹴りつけながら。
そして。
「おんどりゃああああ!」
めごおおっ!
見惚れるほどの踵落しが、堅牢な砲身を、ものの一瞬で叩き潰した。
「……マジかよ、あいつ」
「ギルさん、今です!」
弾幕が晴れたと見るや、クロエは、壊れたくるみ割り人形のような顔で甲板を見下ろすギルに向けて再び声を張った。
「だから、テメーみてぇな黒モヤシが、俺に命令すんなつってんだろ! この俺に命令を下して良いのは、この世でミラ様ただ一人だけだっ!」
悪態をつきつつも、ギルは操縦桿を傾け、飛行艇を甲板上部に寄せた。一方、バランスに気を払いつつ椅子の座面に立ったクロエは、ようやく人の背丈ほどの距離まで近付いた所を見計らい、一息で船に飛び移った。―――が。
ごがんっ! ごろごろごろごろ……
着地の足を踏み外し、坂道に置かれたオレンジのように甲板上を転がり落ちた。
「と、とまらないいいいいっ!」
「クロエさまぁあっ!」
咄嗟にベルダは甲板を駆け出し、なおも転がり続けるクロエへ追いすがった、そして、今まさに甲板のデッキから飛び出さんとするクロエの黒マントを、はっしと掴んだ。
あわや雲の下へ落下かと思われた所を、すんでの所で救われたクロエが、しかし、安心するのはまだ早かった。首に引っ掛かったマントが、命綱と同時に気道を締め上げる凶器と化していたからだ。
「べべ、ベルダさん、首が、し、しまってます……」
「いやあああっ、クロエさま! 死なないで下さいぃっ!」
「何やってんだよ、アバズレ!」
そこへ、空中艇を乗り捨て、戦艦へ乗り移って来たギルが、ベルダの横からクロエに手を伸ばす。
「おい変換士! さっさと掴め!」
「は、はい」
すかさずクロエは、すがるようにギルの手に取り付いた。剣の鍛錬によるものだろう、その左手はびっしりとマメに覆われ、なめす前の牛革のように硬くごわついていた。
ようやくクロエの身体を甲板に引き上げたところで、ギルは苛立たしげに溜息をついた。
「ったく、何なんだよお前! あれぐらい、ガキでも普通に着地できるぞボケ!」
「ちょっと鶏頭! そのようにクロエさまを責めないで頂けます?」
弁護の口を挟んだのはベルダだった。こんな情けない姿を晒す自分にも、味方になってくれる人間がいる―――と、クロエの気持ちが励まされた次の瞬間。
「クロエさまは、変換以外は何をなさってもダメなんですの! 特に運動神経は目も当てられないぐらいヒドイんですのよっ!」
クロエの心は、音を立てて瓦解した。
「てかお前も、何でそういう自慢にならねぇ事を自信満々に言うんだよ!? 好きなんじゃねーのかよ? コイツの事が!」
「ええ好きですわよ! むしろ変換以外は何にもできないヘタレぶりがソソるんじゃございませんこと? あなた、もっと女心について勉強の必要がおありのようですわね!」
がるるるる。野獣同士の睨み合いが繰り広げられる狭間で、クロエはポツリと呟いた。
「なんか、すみません、生きてて……」
そこへ早速、彼らの侵入を察してか、鎧を纏った数人の兵士が甲板室から飛び出した。
甲板に乗り出すや彼らは、次々と抜刀し、威圧感と共にクロエ達の進路に立ちはだかる。
「はー……ったく、嫌になるぜ、マジで」
居並んだ兵士達を見渡しながら、ギルはガシガシと短髪を掻いた。
「そうですね……こんな所で手間を取らされる訳には、」
「ちげーよ」
「え?」
「俺のミラ様への愛を、この程度の人数で阻めると思われてる事が、ムカつくんだよ!」
言うが早いかギルはすらりと剣を抜くと、雷光のように剣を閃かせつつ兵士達の列へと斬り込んだ。
「らぁあああああっ!」
野獣のようなギルの気迫に、兵士達はうろたえ、僅かに隊列を乱す。その一瞬の隙をつき、ギルの剣が一気に列を突き崩す。
「走れ、お前ら!」
そう叫ぶ頃には、すでにギルの剣は甲板室への路を拓き始めていた。
ギルの剣は、相手を殺すためではなく、相手の動きを封じるためだけにひたすら振るわれた。彼の刃は、手馴れた狩人のように敵の肩や足を狙い、それらの腱に、的確に鋭い刀傷を負わせてゆく。
隊列を突き抜けるや、二人と一体はすかさず甲板室へと駆け込んだ。
が、階下からは、すでに多くの兵士達が列を成して迫りつつあった。そこでギルは、それまで猛然と振るっていた長剣をやおら鞘に収めると、今度は、予備として携えていた二本の剣を引き抜いた。いずれの刀身も、長剣の半分ほどの長さでしかない。一見すると頼りない装備に、クロエは不安げに眉を潜めた。
「大丈夫なんですか、そんな剣で」
「アホ! こんな狭い所で、あんなバカ長い剣が振れるか」
そしてギルは、再び獣のような俊敏さで兵士達の列に斬り込むと、彼らが狭い通路で長剣の刃を持て余している間に、先程と同様、次々と彼らの要所を仕留めていった。
あまりにも圧倒的なギルの強さに、このまま順調に斬り進めるもの、とクロエが期待した矢先、気勢を取り戻した甲板隊が、背後から一挙に押しかけてきた。
「しゃらくせぇですわぁ!」
と、今度はベルダが背後からの敵に応戦する。先頭に立つ兵士が、侵入者達の頭上に剣を振り下ろしかけた刹那、ベルダはその懐に飛び込むと、剣ごと相手の身体を掬い上げ、階下から押し寄せる兵士達目掛けてブン投げた。
「伏せなさい! 鶏頭!」
その声に、振り返る事もなくギルは伏せる。と、その頭上を掠めつつ、今し方ベルダの手によって投げられた兵士が、階下に控える仲間達の列へと突っ込む。
「もっと早く言えぇ、このアバズレがぁ!」
そこで初めて振り返り、怒り心頭で怒鳴り散らしたギルに、ベルダも負けじと喚く。
「男のくせにガタガタぬかすなってんですわ! ほら、次いきますわよ!」
かく言うベルダの腕には、すでに次の生贄が掲げられている。
「ベルダさん、あまり張り切らないで下さい、出力を上げすぎて、途中でプルームが切れると困ります」
「はぁい。クロエさま♪」
にこ。至福の笑みを浮かべると、ベルダは掲げていた兵士を再び階下にブンと放った。
頭上から次々と注がれる兵士の雨あられに、階段下に待機する兵士達はたまらず身を退いていった。ぶつかり、あるいはぶつけられ、痛みに悶絶しながら階段に転がる男達を、容赦なく踏み越えながら、二人と一体はさらに艦の奥へと駆け抜ける。
が、外観から想像するよりもはるかに広い船内からは、いくら倒しても切り伏せても、次々と兵士達が溢れ出てくる。
「くそぉっ、どんだけ沸いてくんだよバカ野郎!」
しばらく斬り進んだ頃、やおらギルは苛立たしげに喚いた。
さすがのギルも、息つく暇のない剣戟にいよいよスタミナを切らし始めたか、その広い肩を激しく上下させ、荒い息をついている。そんな彼の身を守る黒い皮鎧は、散々に敵の返り血を浴びてか、すでにその一面に赤いまだら模様を浮かべている。
「つか、その部屋ってのはどこにあるんだよ、変換士!」
背中越しに喚くギルに、今や彼と同じく剣を手にしたクロエは、やはり背中合わせのままで答えた。
「非常に重いものですから、大抵の船では、船体の安定を図るために船底の中心に据えられている事が多いです。―――恐らく、この船でも」
一〇〇〇人もの兵士が乗り合わせる戦艦に、たった二人と一体で何の策もなく切り込むのは、単に殺されに、もしくは破壊されに行くようなものである。だが、その二人と一体は、自らの命を絶つために戦艦へ乗り込んだのでは決してなかった、彼らには確たる目的があった。姫を奪還する、という、唯一無二の確固たる目的が。
目の前に目的が存在する以上、そして、その目的との間に越え難い障壁が存在する以上、当然、達成のためにはこれが欠かせなくなる。これ、即ち策略だ。
そして今回、二人と一体が取った策略とは、つまりは以下のようなものだった。
まず彼らは同時に船に乗り込む。乗り込むために使用する空中艇はここで乗り捨てる。
そして、艦に進入した後は一目散にミラの所へ―――と、言いたい所だが、この段階では、ミラが囚われている場所へ駆けつける事も、まして、助け出す事もしない。間違いなく艦内で最も手厚い警備が敷かれているであろう場所へ、みすみす少人数で飛び込んで行くのは、敵の張った網に自ら捕らわれに行くようなものだからだ。
そこでクロエ達が目をつけたのは、そこが自力での脱出が不可能な空中戦艦である、という特異な状況だった。
「どけぇえええっ!」
ドアの前に控えていた三人もの兵士を、ものの数手で仕留めたギルは、最後の一人を切り伏せるなり早速、目の前の扉にあるドアノブに手をかけた。
だが、“動力室”なるプレートが掲げられた鉄扉は、ギルの腕力をもってしてもビクともしない。そんなギルの背後で様子を見守っていたクロエは、どうやら扉には鍵が掛けられているらしい、と見るや、傍に立つベルダへと振り返った。
「ベルダさん、お願いします」
「了解ですわ。クロエさま。―――ほら鶏頭、邪魔ですわよ、さっさとおどきになって」
しっしっ、と、野良犬を追い立てるような手つきでギルを扉の前から追い払うと、ベルダは早速、その堅牢な鉄扉に鮮やかなドロップキックを食らわせた。
ごおおおん……!
腹に響く重低音を響かせながら、L字に折れた分厚い鉄扉が、部屋の内側へと沈む。
扉が開くや、彼らの眼前には、巨象の身体を収めてもなお余るほどの巨大な円筒形の柱が姿を現した。戦艦の動力源が充填された、巨大モノリスである。
その周囲では、十数人の白ローブ姿の男達が、計器や機器を扱う手を止め、唐突な方法で入口に現れた三人の人影に、不審と恐怖の目を向けていた。彼らは、この巨大モノリスを管理維持するために搭乗したモノリス技師であるらしかった。
クロエはすかさず部屋を見渡すと、彼らの指揮を預かっているであろう変換士の姿を探した。
が、いくら見回しても、変換士の身分を示す黒マントの姿は、どこにも見当たらない。
「てめーら! さっさとここを出ねーと、ぶっ殺すぞ!」
ギルの怒声に怯んでか、あるいは血まみれの皮鎧と剣に恐れをなしてか、白ローブ達は我先にと争うように、どかどかと部屋を駆け出していった。
ついに部屋には、膨大な計器類と、巨大な黒いモノリスが残されるのみとなった。
神々しいまでの威容を示す巨大な柱を見上げながら、クロエは背後の二人に声をかけた。
「では、ここは僕に任せて、お二人は早速、救命艇のある格納庫へと向かって下さい」
「かしこまりました、クロエさま!」
「……おう」
いつも通り溌剌と応じるベルダの一方で、ギルは何とも歯切れの悪い返事を寄越す。
「変換士」
「はい」
「本当に……いいんだな?」
質問と言うより、確認と言うべきギルの口調に、クロエはなおも振り返る事なく答えた。
「行って下さい。別れを惜しむ余裕など、今の僕らには、ありませんから」
「……ああ」
いつになく沈痛な面持ちで頷くと、ギルは早々に踵を返し、艦内の廊下を駆け始めた。
「では、クロエさま、また後ほど」
そう言い残し、ベルダもまたギルの後を追う。次第に遠ざかる二つの足音を背中に聞きながら、クロエは、「また、は無いよ、きっと」と、誰に聞かせるでもない独り言を呟いた。
ベルダには、ついぞ知らせる事はなかった。これが、クロエにとっては捨て身の作戦であった事を。
これから行う作業は、その捨て身の作戦の中でも特に、要と呼ばれるべき重要な作業だった。手順それ自体は、クロエにとっては決して難しいものではない。その代わり、命の無事は、保障されない。
しかし、この手順の実行なくしては、今回の作戦はそもそもスタートすらしない。
早速クロエは、目の前の黒い柱に歩み寄ると、その表面に手を添え、そっと瞼を閉じた。
深く息を吸い、それから、ゆっくりと、一言一言確かめるように言葉を吐き出す。
「要請する、残存するプルームを全て、」
「クロエ!」
その声が聞こえた刹那、クロエの脳裏から、唱えるべき続きの言葉が一気に消し飛んだ。
「……え?」
それは、ここにいるはずのない―――否、決してここにいてはならない人物の声に他ならなかった。ひとりでに生じる震えをどうにか押さえながら、そっと入り口を振り返る。
「な……」
と同時に、クロエは再び驚愕に呻いた。
そこには、今のクロエにとって、出くわすには最も望ましくない黒服の男が、いつぞやと同じ柔和な笑みを浮かべて立っていた。その傍らに、数人の屈強な兵士と、そして、クロエがつい先程まで命を賭して救おうとしていた少女を引き連れて。
「やぁ。久しぶり―――と言っても、たかだか二日ぶりの再会だけどね。……でも何故だろう、随分と懐かしい気がするよ。まぁ、あれからお互い、いろいろあったからね」
「どうして……殿下が、ここに」
ともすれば膝を崩しそうなほどに愕然とするクロエを、軽く嘲笑うかのように、平然とイスマエルは答えた。
「どうして、って? 別に驚く事でもないだろう。こんな時、変換士であれば誰であれ大体同じ事を考える―――そうだろう。違うかい?」
クロエは、頷く事もかぶりを振る事も出来ず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
これほど巨大な戦艦に、一人の変換士も同乗していないという事はありえない。しかしながらその一人が、よりにもよってイスマエルだったとは、クロエには想像すらし得ない事実だった。
なおもイスマエルは得意気に続けた。
「君の考えは全てお見通しだよ。艦のメインモノリスに充填されたプルームを光エネルギーに変換して一気に消費する。プルームを失った艦は、位置エネルギーを維持する事が不可能になり、やがて落下を始める。慌てた乗員達が、脱出用小型艇のある格納庫へミラを連れ出したところを、格納庫に潜伏させた別の仲間が襲い、そのまま小型艇にミラを乗せて奪い去る―――大方、そのような計画でも立てていたのだろう。違うかい?」
今や全ての手の内を綺麗さっぱり見透かされたクロエは、もはや否定する気も起こす事が出来ないままこくりと頷いた。
「ええ。仰る通りです」
「という事は、ここにミラがいる限り、君はその計画を、永久に実行には移せない」
言いながらイスマエルは、そのしなやかな腕を、ヘビのようにするりとミラの腰に回した。一方のミラは、これまでギルにさえも見せた事のないほどの嫌悪の色を、その顔に色濃く滲ませる。
「クロエ君。僕らはもうじき結婚する。慶事を前に、血生臭い面倒事など、これ以上続けたくはない。ここは大人しく、我々の元に投降してはくれまいか」
「え……結婚?」
はっとしてミラを見やったクロエの視線を避けるように、ミラは顔を俯かせた。涙こそ気丈にも浮かべてはいないものの、硬く引き結んだ唇が、溜め込んだ感情を今にも爆発させんばかりにふるふると震えている。
と、やおらイスマエルは、その柔らかな目元に、鉄をも貫くような鋭い視線を浮かべた。
「私には、君が理解出来ない」
「え?」
思いがけず硬質なその声に、クロエは軽く面食らい、その瞳を瞠った。
唖然とするクロエには構わず、イスマエルはさらに苛立たしげに続ける。
「考えてもみたまえ。そもそも我々は変換士だろう? プルームを用い、いかに我々の生活を豊かにするか……その方法を模索するのが我々の仕事だ。にも関わらず君ときたら、プルーム枯渇説だの増幅装置暴走説だのと、我々変換士の存在意義を、根底から覆す研究ばかりにかまけて……本当に、私にはまるで理解できない」
クロエは答えず、ただ、イスマエルが投げつける言葉に、じっと耳を傾けた。
「今回だけは、同じ変換士の情けとして命ばかりは助けよう。その代わり、君の変換士としての身分は、その制服もろとも剥奪させてもらう」
「……そんな事をしても、私には何の意味も、」
「ああ、分かっているよ。身分など所詮は飾りだ。剥奪されたからと言って、変換自体が不可能となる訳じゃない―――だがね、クロエ君」
するとイスマエルは、俄かにその美麗な目尻を鋭く釣り上げると、端正な顔を醜く歪めて唸った。
「私には我慢がならないんだよ! 君のように、与えられた職務を全うしない、変換士に対して国民から寄せられる期待に、役割に、まるで応えようとしない! そういう怠慢な変換士の存在がね、私には我慢ならないんだ!」
獣のような咆哮に、しかしクロエは怯む事なく、むしろ毅然と返した。
「それは、いわゆる見解の相違というものです」
「は?」
「僕にしてみれば、増幅装置の危険性から目を背けてまで、安易なプルーム依存を国民に許す、あなたのやり方こそ理解できない」
「……何?」
「もし、殿下の仰る変換士のあり方というものが正しいのであれば、もう僕は、こんな制服など要りません」
言い放つやクロエは、身に纏っていた黒いジャケットを、もぞもぞと脱ぎ捨て、それを、イスマエルの手元へ―――ミラの眼前へと放った。
と同時に瞼を閉じ、モノリスに触れつつ小声で一気にまくし立てる。
「残存プルームを全て、光エネルギーに変換」
その瞬間。
「ぅああっ!」
クロエを囲んでいた兵士達から、野太い絶叫が上がった。
が、そんな彼らが一体どんな表情で、どんな格好でその声を上げているのか、それを知る術はクロエには与えられなかった。瞼を閉ざしてさえもなお、目の前が白く霞むような強烈な光が、クロエを、のみならず、その場に居合わせた全ての人間を包んだからだ。
瞼越しに光が収まるのを確かめるや、クロエは堅く閉ざしていた瞼を開き、と同時に足を蹴り出した。そして、視力を奪われ、混乱する兵士達の列をすり抜けると、イスマエルの腕に囚われたままのミラに駆け寄り、その手を伸ばした。
「行こう! ミラ!」
その声に、ミラもまたその白く細い手を伸ばす。
だが―――。
クロエの手が、ミラの手を捕える事は、ついぞなかった。
咄嗟に身を翻したイスマエルは、ミラを背後に隠しつつ、もう一方の半身をクロエの懐に捻じ込むと、同時に、そのみぞおちに強烈な肘の一撃を食らわせた。
「な、何故……」
驚き、そして、内臓がことごとく挽き潰されたような痛みに膝を崩しつつ、クロエは、強張る喉を振り絞った。そんなクロエを貼り付けたような笑みで見下ろしながら、イスマエルは答えた。
「言っただろう。君の考える事は、全てお見通しなんだよ、とね」
「……っ」
「それにしても無茶をする。私の花嫁が失明でもしたらどうしてくれるつもりだった」
瞬間クロエは、今度は喉元から頭上にかけて、脳味噌を天井に弾き飛ばされるような衝撃を覚えた。イスマエルの放った膝蹴りが、クロエの顎を鋭くかち上げたのだ。
「クロエぇえっ!」
ミラの絶叫が、薄れ行くクロエの意識を微かに呼び戻す。が、その効果も、目立った効を奏する事はついぞなかった。ほどなく、事切れたように全身の力を失ったクロエは、他愛なく、あまりにも他愛なく、どさ、と横様に倒れ込んだ。
無様な格好で床に横たわるクロエを睥睨しながら、イスマエルは静かに言い放った。
「安心したまえ、クロエ君。君が変換士である限り、君をペン以外の方法で殺すような真似はしない」
「……え?」
「君の唱える増幅装置暴走説が、全くの出任せであるという事を、間もなく証明して見せよう。他でもない、我らが王都においてな」
その言葉を耳にするや、いよいよクロエの意識は黒く、深い闇へと沈んでいった。




