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五章

その夜、ミラの来訪という突然の慶事を得たカサンドラ邸の大広間には、急ぎ豪華な晩餐が用意された。城内で飼育された豚や七面鳥の丸焼きがテーブルの中央を飾り、その周囲を、オレンジやぶどうなどの色鮮やかなフルーツが華やかに彩る。卓には、傍らに控えた召使達の手により、温かなスープと焼き立ての平パンが間断なくサーブされ、グラスには、樽から注いだばかりの特上のぶどう酒が注がれる。

香草の匂いと列席者達の暖のある喧騒が、堅牢な石造りの大広間を緩やかに満たす。そんな中、王女として卓の中心に座を構えるドレス姿のミラは、卓に居並ぶ年長者達の中でなお、その威厳ある佇まいを誇りつつ、優雅なフォーク捌きで食事を口に運んでいる。

そんなミラの姿を末席から遠く眺めながら、クロエは、今更ながら自分と彼女の間に横たわる距離をまざまざと思い知らされていた。

 昨夜から今日にかけての冒険譚が、まるで遠い昔の出来事のようにクロエには思われた。

それはまるで、夢か幻にでも目くらましを食らったかのような心地だった。並み居る貴族達と肩を並べながらも、霞むどころかかえって周囲を圧倒する程の、威厳と風格を備えた王族の姫君と、たかが一変換士に過ぎない自分とが、半日はいえ、互いに手を伸ばせば届く距離にいられたという事自体が、もはや奇跡的と呼んでも差し支えのない出来事だったのだ。

目の前に供された平パンは、街のパン屋のそれとは比較にならないほど芳醇なバターの香りを醸している。これほど美味いパンを毎日のように食べ付けていれば、確かに、市井のパンを馬の餌と勘違いする感覚も身に付こうものだ。

「どうなさいましたの? クロエさま。さっきからずっとぼんやりなさって」

 隣に座るベルダが、心配顔でクロエの顔を覗き込む。

「あ、いえ……何でも」

 そんなベルダの席には、今やすっかり冷え切ったパンとスープが手付かずのままで置かれている。オートマタであるベルダに、そもそも人間の食事は不要なのだ。

ところが、事情を知らない列席者達は、そんな彼女の態度をホストに対する無礼と捉えてか、ベルダとその知人であるクロエに対し、しきりに白い眼差しを投げつけていた。

ベルダは、動いてさえいれば、その佇まいは普通の人間とほとんど変わるところはない。人形としてあまりにも高いベルダの完成度が、今この瞬間のクロエにとってはかえって仇と化していた。

 とはいえクロエには、途中で席を投げ出す事もまた無礼であるように思われた。そこでクロエは、彼女がオートマタである事を周囲に知らしめるような会話を、それとなく持ち出すという手に出た。要は、彼女が人形である事を、皆に理解してもらえばいいのだ。

「と、ところで、新しく充填されたプルームの調子は、どうですかベルダさん」

するとベルダは、表情機能の限界を振り切らんばかりに満面の笑みをほころばせた。

「はい。クロエさまに熱い棒を突っ込んで頂いたおかげで、とぉっても快調ですわ」

全身に喜びを溢れさせるベルダの一方で、クロエは途端にその表情を硬直させる。

「う……うん。それは、何よりです」

「やっぱり、あんな乾燥イチジクみたいなジジイのでは駄目ですわね。愛の濃さが違いますもの。クロエさまに入れて頂いた棒は、それはもう熱くって力強くって、」

「あの、僕があなたのプルームをチャージする度に、そういう言葉を口にするのは、いい加減やめて頂けますか?」

 いよいよ冷気を増す周囲の視線には気付く事もなく、ベルダは困ったような笑みを浮かべつつ小首を傾げた。

「何故ですの? 単に私は、クロエさまの濃厚な愛に対して感謝の気持ちをお伝え申し上げているだけですのに」

「いえ、それ自体は嬉しいんですけど、言い方がどうも、誤解を招きやすいと言いますか……あと、せめて棒じゃなくてモノリスと言って下さい。色々と紛らわしいです」

顔を真っ青にしてうろたえるクロエに、テーブルの向かい席からギルが口を挟む。

「変換士、やっぱりテメェ、そういう趣味があったんだな?」

 汚物でも見るようなギルの眼差しを横目に、クロエはなおもベルダに訴えた。

「ね? ベルダさん、世の中にはこういう勘違いを起こす人もいるので、無闇にそういう事を口にするのは、止めて下さいね?」


晩餐が終了するや、クロエは早々に大広間を飛び出すと、割り当てられた客人用の寝室へ早々に逃げ込み、バルコニーで一人、のんびりと物思いに耽り始めた。

眼前には、岩山の斜面に沿って石壁の家々がずらりと軒を連ねている。既に随分と夜も更け、銀盤のような満月が頭上高くに輝く頃合に差し掛かっているものの、斜面の所々からは、酒場かあるいは歓楽街か、今もなお白々とした灯りが溢れ出ている。

手すりから身を乗り出すと、先程まで晩餐が催されていた大広間と、そこからテラス越しに広がる見事な庭園をも足元に望む事が出来る。大広間やテラスでは、未だ宴の続きを名残惜しむ貴族達が、三々五々集まってはぶどう酒などを酌み交わしている。

貴族達の歓談に混じり、楽人達の奏でる竪琴や笛の音が、夜風に乗って漂い来る。どこか物悲しい旋律に身を任せながら、クロエはただ、一幅の絵のような眼下の光景をのんびりと楽しんでいた。

庭先から、むせるようなジャスミンの香りが漂う。

全てが、彼のために供されたかのような、素晴らしく美しい夜だった。

ただ―――何故だろう。何かが、何かが決定的に足りない。

「これから、どうしようかな……」

 得体の知れない空虚感を埋めるべく、クロエは卑近な現実へと目を向けた。

―――あのような騒動を起こした以上、王都に近付く事はしばらく避けた方がいいだろう。ベルダの事はどうする。きっと彼女も追われる身と化しているに違いない。働き手としての彼女を頼るレッジョさんには悪いが、少なくとも一ヶ月は、王都でのほとぼりが冷めるまで僕が預かるとしよう。明日にでもレッジョさんに手紙を書き、事情を説明しなければ。―――殿下とは、ここでお別れだ。彼女の強固な後ろ盾であるカサンドラ伯爵の元で過ごす限り、彼女の身の安全は保障され続けるはずだ。

「お別れ、か……」

「何を眺めているのだ」

不意に、背後から聞こえた思いがけない人物の声に、クロエは喉元から心臓が飛び出す心地がした。弾かれたように振り返り、恭しく片膝をつく。ついた後で、いよいよ彼女との距離に愕然とする。

「良い、立て」

「し、しかし……」

「良いから立て。そもそも今更、貴様にそのように畏まられても、気色が悪いだけだ」

「は、はい……」

顔を上げたクロエの前に立っていたのは、晩餐会にて威厳と風格を漂わせていた王女とは似ても似つかない、子供じみた不機嫌顔を浮かべたミラだった。苛立っているのか、あるいは単に疲れているのか、唇を尖らせ、その白い頬を巣篭もり前のリスのようにぶぅとむくれさせている。

「どうした、貴様。阿呆の面を晒しおって」

「あ、いえ……てっきり殿下は、大広間で伯爵様方とご歓談に興じておられるのかと」

「何だ? 拗ねておるのか。私が相手をしてやらなんだから」

「ぼ、いえ、私が? め、めっそうもございません」

「なんだ……拗ねておらんのか」

「?」

王女の赦しを得て立ち上がったクロエは、今一度、月明かりの中に立つミラの姿をつぶさに眺めた。柔らかな絹のドレスが、銀の月光を浴びて濡れたような艶を放つ。薄く織られたそのドレス越しに、まるで影絵のように浮かび上がるのは、俊敏な獣のように細くしなやかな彼女の身体だった。

 その顔には、恐らくは王族としての威厳を示すためだろう、幼い造りの顔にいやに大人びた化粧を施している。が、少女でも女でもないその曖昧さが、かえってクロエの心を激しく惑わせた。

「綺麗だ……」

「綺麗? 何がだ?」

意図せず内心を吐露してしまったクロエは、慌ててその口をつぐんだ。

 一方のミラは、そのラピス色の瞳に、何かを待ち侘びるような眼差しを浮かべる。

 ―――もちろん、殿下の事に決まってる。いや、殿下以外に、答えなどありえない……。

しかし、とクロエは思った。彼女は王女だ。そして僕は、ただの変換士に過ぎない。

「ええ、本当に、今夜の月は綺麗です」

「月?」

 はた、とミラは、頭上高くに輝く白銀の天体を見上げた。

「あ、ああ……そうだな。綺麗だ」

どこか気の抜けたような表情で呟くミラの横顔を眺めながら、クロエはその心に、小さな風穴が開くのを感じた。

しばしの沈黙の後、再び、ミラは口を開いた。

「こうして、クロノの息子であるお前と遭えたのも、ともすると、何かの巡り合わせなのかもしれんな」

「―――え?」

今やミラの眼差しは、威厳と強さを湛えた王女のそれへと戻っていた。

「そういえば、どうして殿下は、父の事を……」

クロエの問いに、ミラは遠い眼差しを浮かべつつ答えた。

「我が兄上は、王に即位する以前より、クロノの学説に多大な影響を受けていてな。即位した暁には、是非、彼の説を前提とした政策を取りたいと、考えておられた」

「まさか、アルバの増幅装置を取り払ったのも、そのため……?」

「ああ」

呻くような声で、ミラは答えた。

「兄上は、この国の将来を真剣に考えた上で、自らの政策を実行に移されたのだ―――なのに……」

「?」

いつしかミラの細い肩は、小刻みに震え始めていた。

「なのに結局、このような事に……」

溢れる感情を押し殺すように、下唇を噛み締めながら、ミラは呟いた。

 その悔しげな横顔を見つめながら、しかしクロエは、彼女の沈痛な心情こそ理解は出来るものの、その言い分にはどうしても違和感を覚えずにはおれなかった。

「しかし殿下。事前に何らの代替エネルギーも用意せず、いきなり増幅装置を撤廃した事は、やはり性急に過ぎたのでは、と、私は思います」

「何だと?」

やおらミラは、きっ、とクロエを睨み据えた。が、クロエは、そんなミラの視線に軽く怖じつつも、なおもはっきりとした口調で続ける。

「ある日突然、プルームの供給を減らされてしまえば、多くの人はその生活に混乱を来たしてしまいます。彼らはパンを焼く熱も、自走車を走らす動力も、それに、夜の闇を凌ぐ明かりさえも全て、プルームを変換する事で手にしているのです」

クロエがその脳裏に思い起こしていたのは、昨日、王都で旧友と交わした会話だった。旧友はまさに、そのために街を見捨てたのではなかったか。

「確かに、大局を見れば正しい判断だという事は分かります。ただ、人々にとって重要なのは、正しさよりもむしろ、」

「そんな悠長な事を申していては、何も始まらん!」

クロエの言葉尻を、ミラはばっさりと斬って落とした。

「枯渇の兆候を示す国土の疲弊は、各地で見え始めておる! ――――アルバでもそうだった。あの近辺ではここ数年、異常なまでの小麦の不作が続いておった。プルームを過剰に汲み上げた他の地域でも、軒並み同じ現象が生じておる……それなのに国民は、そのような事実には目もくれず、ひたすらプルーム、プルームと……挙句は増幅装置までも用いて汲み上げる始末だ。……いずれ誰かが、彼らの目を覚まさせねばならなかった。その汚れ役を買って出たのが、兄上だ!」

「では、陛下は全てを承知なさった上で……」

「ああ」

ミラは頷いた。その拳は、今にも血を噴き出さんばかりに硬く握り締められている。

「許し難いのはイスマエルだ。奴は、プルーム枯渇説の存在も、増幅装置の危険性も全て認識した上で、なおも増幅装置の設置を広めようとしている」

その事実は、すでにクロエの良く知る所でもあった。イスマエルは、稀代の変換士としてのみならず、プルーム利用推進派の急先鋒としても学会内で知られている。そして、探究心と野心に満ちたイスマエルが、王族としての立場と、研究者としての立場を完全に割り切っていたか、と言えば、それは嘘になる。

これまでもイスマエルは、自身の威光を笠に、クロエの唱えるプルーム枯渇説を、そして、枯渇説に基づいた研究―――増幅装置の暴走とその被害に関する調査報告を、陰に陽に、様々な手段を講じて封殺し続けてきた。

その甲斐あってか、今や枯渇説についての研究を行う変換士は、学会内では学長のコルネリウスを含め、すっかり希少種と化している。が、本当の問題は、むしろ学会内ではなく、むしろ、その狭小な学窓の外で生じていた。

今なおほとんどの国民が、クルスをはじめ多くの街が粉微塵に焼き尽くされたのは、流れ星が落ちたせいである―――などという幼稚な風説を、自明の理であるかのごとく信じ込んでいる。真実を啓蒙するという機能が、学会から完全に失われている証拠だった。

彼らは知らない。増幅装置の暴走によって引き起こされるプルームの過剰噴出こそ、消滅の真の原因なのだという事を。

「奴が王位に就こうものなら、間違いなくこの国は滅びる。たとえ国民に石つぶてを投げられようとも、真実に基づいた己の信念を貫く―――その気概を持たぬ者に、今のカスパリアを、本当の意味で導く事など出来ん」

そこでミラは、決然とした眼差しを、きっとクロエに振り向けた。

「私と共に、この国を救ってくれ。クロエ」

その曇りのない毅然とした眼差しに、クロエは見入った。

 クロエは本来、運命などというまじないめいた話を良しとしない類の人間である。が、そんなクロエも、さすがに今回ばかりは、何らかの見えない力の作用を感じずにはおれなかった。もし、この力に何か名前を付けろと言われたならば、クロエは迷う事なく、運命と名づけるだろう。

 脱プルーム論を唱える自分と、その論に基づいて国を救おうとする王女殿下。

 ―――手を取り合わない訳には、いかない。

「はい」

 こく、と、クロエは頷いた。

「ところで、殿下」

「何だ、クロエ」

「ずっと、不安に思っていたのですが」

「不安?」

「宜しいのですか? 召使も付き従えずに、たった一人で男の部屋に入るなど……」

するとミラは、やおら王女としての相貌を崩し、いたずらっぽい笑みを浮かべて言った。

「ほう、貴様。この私に狼藉でも働くつもりか」

からかうようなミラの言葉に、クロエは目玉から火花が出る心地を覚えた。

「ち、違いますっ! 妙齢の王族の女性が、一市井の男の部屋に一人でお出でになるのは、色々と、問題があるのではと思っただけです!」

「まぁ良いではないか。ここは王宮ではないのだ、それに―――」

「……それに?」

「この屋敷には、頼まずとも私の身辺警固を買って出る奴がいるのでな」

そこでミラは、腐ったオレンジでも見るような眼差しを浮かべながら、その細い顎で、くい、とクロエの背後を示した。

「え?」

もしやと思い、クロエは恐る恐る背後を振り返った。―――と。

「変換士ぃいぃぃ」

そこには、上階のテラスに足を掛け、宙ぶらりとなったままクロエを睨み据えるギルの姿があった。ただでさえパンパンに充血した顔に、いやましにしかめ面を浮かべた様は、まさしく鬼神そのものといった体である。

「俺のミラ様と、なに二人っきりでイイ感じの雰囲気醸してんだテメェぇぇええっ!」

「ぅああああっ!」

 咄嗟にクロエは床を蹴り出し、ドア目掛けて駆け出した。

ところが。

「この泥棒猫ぉおっ!」

 今度はそのドアを蹴破り、目の前に立ちはだかるようにベルダが部屋に飛び込んで来た。

「ベルダさん!?」

 ところがベルダは、部屋に入るなり、まるで雑木を薙ぎ払うかのように眼前のクロエを脇に弾き飛ばすと、そのまま矢の速度でテラスへと疾走した。

「私のクロエさまをたぶらかそうだなんて、一〇〇億年早いですわよ、この泥棒猫ぉっ!」

 が、この罵声に噛み付いたのは、ミラではなくギルだった。

「俺のミラ様を泥棒猫呼ばわりたぁどういう了見だ、この人形女!」

 獣の怒気も剥き出しに吠えるギルに、しかしベルダは、怯む事なく掴みかかりながら、なおも喚いた。

「私のクロエさまに手出しする女は、王女だろうと聖女だろうとみんな泥棒猫ですわっ!」

一方のギルも、負けじとベルダの胸倉を締め上げつつ怒鳴る。

「んだとぉ! どっちがドロボウだゴルァ! テメーのツレこそ立派な泥棒だろうがよ!俺のミラ様に手ぇ出しやがって! もし、俺のミラ様にテメーのツレがナニでもしてみろ、そいつのモノぶった斬って、豚の餌にくれてやるっ!」

「ちょっとあなた! いくらオートマタでも私、一応女なんですのよ! 女性の前で、そのような下ネタは止めて頂けるかしら!? あと、クロエさまのモノを豚の餌にするなんて、もったいない事はおよし下さいまし! 豚に与えるぐらいなら、この私に下さいまし!」

「はぁ!? んなモン貰ってどーすんだよ、このメガネ痴女っ!」

「それは乙女の秘密というものですわ! 愛でてさすって触ってこすって、夜な夜なハァハァしたいだなんてそんな破廉恥な事、口に出来る訳ございませんもの!」

 最低過ぎる罵声の応酬を繰り広げるギルとベルダの一方で、クロエとミラは、バルコニーの手すりにもたれながら、ただただ、美しい月夜の景色を愛で続けた。

「月が綺麗だのう、クロエ」

「え、ええ……そうですね、殿下」



翌朝。カサンドラの街は、乾燥がちなこの地域には珍しく、ひどい朝靄に包まれていた。

庶民には贅沢品である羽毛布団の感触を惜しみつつ、ベッドから起き上がったクロエは早速、木綿の肌着にいつもの黒いジャケットとパンツを重ね、そそくさと部屋を出た。

屋敷内に漂う物物しい雰囲気に、クロエが気づくのにさしたる時間はかからなかった。

中庭を囲む回廊には、早朝にも関わらず身だしなみを整えた男達が行き交い、その合間を、不安げな面持ちの召使達がせわしなく駆け回っている。

「何だろう?」

 ふと、不安を覚えたクロエは、すぐさま階段を駆け下り、階下の大広間へと向かった。

「くそっ! イスマエルめぇ!」 

忌々しげな伯爵の怒声が、回廊の静寂を突き破ったのは、まさにそんな時だ。

「そのような要求に、私が応じられるはずなど……!」

遠雷のような伯爵の怒声に応じたのは、意外な人物の声だった。

「落ち着け、セリオ。何も、プルームの海で泳げと言われている訳ではないのだ」

 それは、他でもないミラの声だった。その声がいたく沈んでいるのは、どうやら寝起きのためというのでもないらしい。

身を隠しつつ、クロエはそっと大広間の様子を確かめた。がらんと広い長卓には、伯爵をはじめ昨夜の晩餐で見かけた貴族達がずらりと列席している。その中には、空色のロングドレスに身を包んだミラも並んでいた。顔ぶれこそ昨夜と似通っている。しかし、彼らが付き合わせるその表情は、酒と歓談に緩んだ昨夜のそれとはうって変わり、まるで戦評定のような物々しさと重苦しさを漂わせていた。

「道理で、追撃の手が緩かった訳だ。……奴め、私がカサンドラへ入る事を想定した上で、わざと泳がせたな」

口惜しげに、ミラは吐き捨てた。その声は、一〇代半ばの少女のものとは思えないほどに重く、沈痛な響きを帯びていた。

しばし大広間に、床全体が薄氷にでも化したかのような緊張感を帯びた沈黙が漂った。

並み居る大人の男達が一言も発せずにいる中。沈黙を破ったのは一〇代の少女だった。

「決めたぞ、セリオ。今すぐ奴らの元に投降する」

決然たるミラの言葉に、男達の誰もが腰を浮かせ、色めき立った。

「何を仰います、ミラ様! この私に、大人しく連中の条件を飲めと仰るつもりですか!?」

しかしミラは、伯爵の激昂には応じず、早々に席を立つと、もはや背後を顧みる事もせず、つかつかと大広間を後にした。

回廊に飛び出したミラの背中を、すかさずクロエは追った。そして、その細い肩を、相手が王族という点を抜きにしてもなお無遠慮に掴むと、力任せに思い切り振り向かせた。

「冗談じゃありません! イスマエル様の元に投降するなど、」

 が、昂ぶる感情と共に怒声を上げたクロエは、そこに、思いもよらないものを目にした。

「……え?」

―――泣いて、いる?

「クロエ……」

枯れ枝が折れるような声で、ミラは呟いた。その瞳を、涙の中で儚げに震わせながら。

「え……?」

「この国を……頼んだ」

 簡潔な言葉を残すと、再びミラは踵を返し、つかつかと回廊の向こうへと歩み去っていった。途中、居合わせた召使達に身支度を手伝うよう命じながら。

 

 日が高くなるにつれ、街を覆っていた朝靄は次第にその濃度を落としていった。

 と共に、大広間のバルコニーからも、カサンドラの城壁の向こう、小麦畑が広がる平原の中ほどに佇む巨大な空中戦艦の姿を、はっきりと目にする事ができるようになっていた。

 小規模な村であれば、その船底だけで軽く圧しうる程の巨大な鉄の船が、収獲を待つばかりとなっていた黄金色の小麦畑を、さも当然とばかりに蹂躙している。

 そんな不躾な鉄の塊を遠目に眺めながら、クロエは、それらの窓のいずれかから、こちらを見つめ返しているだろうミラの姿を、その沈痛な表情を想像した。

 泣いているのだろうか、今も―――。

 振り向かせたその時には、すでにミラは、そのラピス色の瞳に膨大な量の涙を溜め込んでいた。部屋を後にするその瞬間まで、王女としての表情を保っていた彼女は、きっと部屋を飛び出し、一人になった途端、押さえ込んでいたものを溢れさせてしまったのだろう。

 怖くないはずはないのだ。未だ一〇代の少女が、今や敵の本陣と化した王都に連れ戻される事を、怖いと思わないはずはない。しかし、そんな本心を晒してしまえば最後、伯爵をはじめ多くのカサンドラ兵士が、彼女を守るべく決起するに違いなかった。

 王都にて臨時の指揮権を戴いたイスマエルは、昨夜、あの空中軍艦に一〇〇〇人もの重装歩兵を積載させると、ミラが身を寄せるカサンドラの街へと送り込み、未だ夜も明けやらぬうちに、近郊の小麦畑へ陸上停泊用の支柱を下ろさせた。

もちろん、城壁や城砦の見張りはこの事に気付いたが、自国の軍艦が、物資やエネルギーの補給のために街の近郊へ臨時に停泊する事はさして珍しくもない。そのため、今回もいつもと同様、モノリスにプルームでも充填しに降りたのだろう、とばかりに彼らは考え、さしたる警戒心も抱く事なく軍艦の停泊を許した。

よもや、その攻撃対象が、他でもない自分達の街であるとも知らずに。

攻撃を止める条件として、彼らがカサンドラ側に突きつけた要求はただ一つだった。

王女ミラの身柄を無条件で引き渡せ。

 そしてミラは、カサンドラを出た。無用な血が流れる事を防ぐために。

「何やってんだよ、テメェえっ!」

「え?」

振り返ったその瞬間、クロエはその横っ面に鋭い衝撃を覚えた。

床に倒れ込んだところでようやく、クロエは頬をしたたかに殴られた事に気が付いた。骨に響く痛みと共に、不快な熱が、心臓の鼓動に合わせてジンジンと頬を疼かせる。

意識もろくに定まらないまま、クロエは顔を上げた。すると、そこには空色の瞳に怒気を滾らせ、憤然とクロエを見下ろすギルの姿があった。

「な……何ですか、いきなり……」

ぼんやりと、しかし非難めいた口調で訊ねるクロエに、ギルはすかさず馬乗りになると、その胸倉を掴み上げながら、なおも雷鳴のような声で怒鳴った。

「何ですか、だと!? とぼけんな! 何で姫様を引き止めなかったんだよ、えぇ!?」

「ひ、引き止めましたよ! ……ですが、ミラ様のご意志を、尊重しない訳には、」

「ふざけんなあっ!」

ゴッ!

再びギルは、クロエの頬に強烈な拳を叩き付けた。

「こんなのが……こんなのがミラ様のご意志なワケねーだろボケェ!」

いよいよ遠のく意識を、どうにか繋ぎ止めながらクロエはギルを睨み据えた。

「で、ではギルさん、あなたは彼女に……自分のために街の人々の命を危険に晒させる、という残酷な状況を強いるべきだったと言いたいんですか?」

「はぁ? どういう意味だよ?」

「きっと、彼女は我慢がならなかったんです……自分一人のために、国民の命を犠牲にしてしまう事を―――どんなに身の危険に晒されようとも、自分よりもまず国の事を慮ってしまう彼女の事だから、きっと……」

「じゃあ、そのミラ様の事は誰が護るって言うんだよぉっ!?」 

「―――え?」

 ギルの怒号にクロエは、拳よりもなお強烈な一擲を、その脳天に食らった心地がした。

「国を守って、国民を守って、でも、最後にミラ様がそこにいなけりゃ、何んっにもイミがねーんだよボケェ!」

「……ミラ様を……護る……?」

 今やすっかり霧の晴れた城壁の向こうでは、離陸準備を整えた空中戦艦が、支柱を収め、いよいよ浮上を開始しつつあった。巨大な鉄の塊が、プルームを変換した位置エネルギーにより、ゆっくりと高度を増してゆく。

私と共に、この国を救ってくれ。私と共に―――。

―――そうだとも、約束したじゃないか。彼女と一緒に、この国を救うのだと。

「ギルさん」

「何だよ」

「空中艇を一艘、工面できますか」

「そんなもん、何に使うんだよ」

「これから……殿下を、迎えに上がります」


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