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四章

昼も半ばを過ぎる頃には、すでに周囲の景色は、王都近郊のぶどう畑を抜け、茫漠とした小麦畑の平原へと取って変わられていた。

王都を脱した二人と一体は、レオン兄妹の母親一族が領主として治める、カサンドラなる街を目指していた。人の足ならば三日はかかる行程だが、分捕った荷車を使えば、半日も走れば充分辿り着く距離である。

どこまでも広がる黄金色の絨毯の中を、古い荷車に乗ってガタゴトと流しながら、操縦席のクロエは、ふと、背後のミラに訊ねた。

「そういえば殿下は先程、私の事をクロノ、とお呼びしていましたね」

魚臭い荷台で、木箱に埋もれながら小麦畑の海に見入っていたミラは、腹が減っているのか眠いのか、「ああ」と、いかにも気のない返事を寄越した。その傍らでは、未だプルームの補給を受けられずにいるベルダが、相変わらず中途半端な表情と格好で、荷車が揺れるのに合わせて、木箱と共に右に左へと転がっている。

「そんな事よりクロノ、この臭いはどうにかならんか」

「そ、そう仰られましても……荷台を洗っている間に追いつかれては……ん?」

クロエが煮え切らない答えを寄越す間に、ミラが荷台の柵を越えて操縦席へと乗り込んで来た。さらにミラは、クロエが座る粗末な木椅子へ、クロエの腰を押しやるように強引に腰を下ろす。と共に、小さいながらも形の良い尻が、クロエの腰にぽふんと当たる。

唐突かつ大胆な接触に、クロエは、意図せず身体に良くない動悸を覚えた。顔の火照りを悟られまいと、慌ててミラから顔を逸らし、俯く。

ところがミラは、そんなクロエの努力など知らぬとばかりに、ラピス色の瞳を見開きながらクロエの顔を覗き込んだ。

「そなた、歳はいくつだ?」

 動揺を気取られないよう、クロエはつとめて静かに返す。

「十八、です」

「十八、だと!?」

クロエの答えに、ミラは猫のような目を見開くと、声を裏返して喚いた。

「嘘だ! そなた、あの脱プルーム論で有名な、クロノ・アルカサルであろう?」

「ち、違います。それは父の名前です。僕の名前はクロエ。クロエ・アルカサルです」

「息子だと? ―――ああ……なるほど」

 一人合点するミラの一方で、クロエもまた疑問の答えに納得していた。つまり彼女は、これまでずっと、クロエを彼の父親と混同していたのである。

「道理で、おかしいとは思っていたのだ。二〇年近くも前に活躍した変換士が、これほど若い訳があろうかと……よもや息子だったとはな。しかも、私と同じ歳だったとは」

「え?」

 ミラの最後の言葉に、クロエもまた驚きに目を瞠った。

「という事は、殿下も十八……なのですか?」

今一度、クロエはミラの姿を見つめ直した。ミニマムな身長といい、卵のように丸みを帯びた顔といい、何より、女と呼ぶにはあまりにも凹凸に乏しい筒のような体つきといい、どう眺めすかしても、その姿は一〇代前半の未成熟な少女にしか見えない。

「貴様、今、私の言葉を疑ったな?」

「え、そそそ、そんな、めっそうもございま、」

だが、ミラはクロエの言葉尻を待たず、早々にその首へ腕を回すと、気道をキメながらギリギリと締め上げ始めた。もちろん、締め上げられるクロエの後頭部を出迎えるはずの二つの膨らみは、そこにはない。

「いげげげげげ、ぐるじ、いぎが、でぎまぜんでず、あい」

「構わん、死ね! 私を子ども扱いする者は、皆死ね!」

いよいよクロエの目の前で、冥土への扉が開きかけた、その時だった。

ドドドドドド……

「ミラさまぁああああぁ!」

その大音声に、クロエは思わず前を見やった。すると、はるか街道の前方に、しきりに馬に鞭を入れつつ、クロエ達の荷車へと駆けて来る一人の男の姿があった。自走車をはじめ、プルームを動力とする移動手段が充実した昨今、それでもなお好んで馬に乗るのは、プルームを買う金もない貧乏百姓か、そうでなければ騎士と相場は決まっている。

「げ……ギル」

 やにわにミラが、顔をしかめ、忌々しげに呻いた。

「お知り合いですか?」

「ああ。母方の家に、古くから仕える騎士一族の者だ」

そう説明を入れるミラの表情は、しかし、知り合いに対する親しさと言うよりむしろ、庭の草花にとりつく芋虫を見るかのような嫌悪感を帯びていた。

とはいえ、目的地方面から、しかもミラの名を叫びながら駆けつけてくる人間が、敵対勢力からの刺客であるとは考えにくい。ともすれば保護を求められるかもしれないと思い、声をかけましょうかと提案したクロエに、しかしミラは、

「いや、このまま進め」

と、あっさりと否を唱えた。

「しかし、お知り合いの方であれば、何らかの保護を頼めるかもしれません」

「分かっている。だが、奴とだけは、関わるのはご免被る」

どうやら本気でご免被りたいらしく、ミラは、クロエの肩から強引に黒マントを引き剥がすと、生臭い荷台に戻り、マントを纏っていよいよ本格的に身を隠してしまった。

「あれ……あの、殿下?」

 困惑げに訊ねるクロエに、マントの隙間からちょこんと顔を出してミラは答えた。

「何も喋るな。そして、さっさと奴を追い払え」

 言うなりミラは、がばとマントを引き被り、再びその白い顔を隠した。

ミラの不可解な行動をクロエが怪訝に思う間にも、みるみる騎士はクロエとの距離を詰めて来た。そして、距離が詰まるにつれ、騎士の姿形が次第に明らかになっていった。

首元から足の先まで、みっちりと頑強な鎧甲冑で固めた姿は、このまま戦場の最前線にでも突っ込んで行くかのような物々しさを呈していた。が、身分を示す旗印や、頭を護る兜をつけていない点から、どうやら正式な兵士としての任を仰せつかっている訳でもないらしい。

いよいよ男は、クロエのすぐ目の前へと迫った、このまま何事もなく、黙ってすれ違ってくれるものとクロエが期待した矢先、青年は、荷台の前へ至った所でやおら手綱を引き、その馬脚を引き止めた。不満げにいななく馬の頭を巡らせながら、すかさず青年は、荷台の操縦席に腰を下ろすクロエを鋭く呼び止める。

「おい、お前。王都から来たのか」

断じるような青年の質問に、クロエは「ええ、まぁ」と頷いた。この街道は、王都からカサンドラへ向けて一直線に敷設され、よっぽど地元民といった風情を醸してでもいない限り、誤魔化す事は無意味と考えたからだ。そもそも、こんな海から遠く離れた内陸の穀倉地帯を、魚の臭いを撒き散らしつつ走る荷車が、地元のものであるはずはない。

「って事は当然、今朝の出来事も知ってるんだろうな?」

「え、今朝の、ですか?」

 そ知らぬふりで訊き返すクロエに、青年はなおも馬首を諌めながら続けた。

「ああ。今朝、王都からミラ様がどこぞの変換士に連れ去られたと―――って、お前、その服装は変換士か? って事はお前が、ミラ様を連れ去ったっていう変換士だな!?」

「え? え?」

 あまりにも飛躍の過ぎる論法に付いて行けず、クロエが反論を練りあぐねている間に、青年はとうとう脊髄反射的な思考回路でクロエを黒と断じた。

「てめぇえっ! よくも俺の愛するミラ様をぉおおっ!」

怒鳴るなり、青年は馬上からそのまま荷台の操縦席へ飛び込むと、クロエの肩を鷲掴みにして激しく振り始めた。椰子の木と同様、振れば望ましい答えが落ちて来るとでも言わんばかりに、なおもブンブンと振る。

「俺が……俺が今まで、どれだけミラ様の事を敬愛申し上げてきたか……幼い頃よりずっとお慕い申し上げてきたか……貴様ら冷徹カラス野郎にわかるか、えぇ!?」

「ひょっとして、あなた……」

悲痛ですらある男の怒声に、クロエは、ミラに対する青年の複雑な心模様を察した。

王女と騎士。決して結ばれ得ない身分違いの恋。だが、それを知りつつなおも恋い焦がれずにはいられない、上代の時代から語り継がれる永遠の悲恋劇―――

「ちきしょおおっ! 羨ましいいいっ! 見たのか? ミラ様の寝顔とか着替えとか、入浴中とか入浴後とか、見たのか!? 正直に言え! ていうか細かく報告しろぉ!」

「……は?」

ぼーぜんとするクロエをよそに、青年はなおも血眼で喚いた。

「どうだったよ、えぇ? 可愛かったかよ? そりゃそーだよ、とーぜんだよ! すんげー可愛いんだもんよミラ様はよ! つか知ってるか? 普段はああして澄ましていらっしゃるけどな、本当はすげぇ寂しがり屋で泣き虫で、夜になると召使の目を盗んで、部屋で一人、枕を濡らしてたりすんだよ。『寂しいよぉ、ギル』ってな。まぁ、全部俺の想像なんだけどよ! うあっ、言ってる傍から禿げ萌える……」

 そして青年は、鎧を纏っているとは思えない程に、ぎちぎちと身をよじった。

「つーか変換士! とっとと報告しろつってんだろ!? って、ひょっとしてアレか? お前、入浴前派か? ……そうか、そういう事かテメェ! 下着を脱ぎ捨てた瞬間の、脇とか首筋からむわりと漂う甘酸っぱい汗の臭いがたまらねぇってクチだろ!? え!? どうなんだ、正直に吐き出せ、このド鬼畜変態野郎!」

「変態は貴様だ」

ゴッッ。

瞬間、クロエの肩越しに、男の顔面へ容赦のないミラの鉄拳が叩き込まれた。


夕刻、小麦畑の丘の向こうへ日が傾きかけた頃、クロエ達はようやく、茜色の空を背に威容を示すカサンドラの、花崗岩造りの堅牢な城壁へと至った。

「殿下御自ら我々の元へお成り頂けるとは、この上ない光栄にございます」

壮年の領主、セリオ・カサンドラは、屋敷の玄関に降り立った姪の前で片膝をつくと、恭しい挨拶と共に彼女を出迎えた。一方、姪であるミラは、伯父であるカサンドラ伯爵を前に、姪としてではなく、あくまで王女としての威厳を示しつつ応じた。

主やその召使らと共に、大理石でしつらえられた堅牢かつ豪奢な屋敷が、王女と、その背後に付き従う黒尽くめの青年、そして、その青年が両腕に抱えるオートマタを出迎える。

さらにその背後には、黒尽くめの青年に対し、敵愾心を剥き出しにした視線を投げつける鎧姿の青年、ギル・バティスタが従う。

屋敷に着くやミラは、早々に屋敷奥の応接室へと誘われていった。これから、伯爵や街の有力者達と共に、王都に対する以後の対応策について話し合いの席を設けるのだという。

その小さな背中を扉の向こうに見送るや、クロエは早速、ベルダのモノリスにプルームをチャージするべく、ぐるりと建物を見渡した。そこでクロエは、今もなお自分をぎろりと睨み据える、獣のような視線と鉢合った。

「あれ? 殿下と一緒には……?」

「ばぁか。俺はまだ正式な騎士じゃねぇから、ああいう場所には入れねぇんだよ」

聞けば、ギルもまたクロエやミラと同じ十八歳であるらしかった。この国では、騎士は二〇歳ではじめて正式な騎士としての位を拝する事になっている。つまり残り二年の間、彼は騎士見習いという地位に甘んじ続けねばならない。そして見習いは、領主と王族との正式な会談の席に列する事は許されない。

「はぁ。俺も早く正式な騎士になりてぇなぁ。そうすりゃ、ミラ様が行く所ならどこにでも付いて行けるのになぁ。天国だろうと風呂だろうとベッドだろうと」

重い溜息と共にギルは、屈強なはずの身体をしおしおと萎めた。

「ベッドにも、お供するんですか?」

 口にしたクロエ自身、恥ずかしさで頭がよじれそうになる言葉に、さすがのギルも顔を真っ赤にして噛み付いた。

「だただ、誰が、一緒にベッドに入りたいなんて贅沢な事を言うかぁっ! お、俺は騎士だぞっ!? 俺みたいな身分の人間にとっちゃ、ベッドの傍で一晩中ミラ様の寝顔を眺められるってだけで、もう充分過ぎるぐらい贅沢なんだよぉっ! ……そ、そりゃ、一緒にベッドに入れるって言うんなら、引き換えに明日死ねと言われたら死ぬけどよ。ああ死ぬとも。ミラ様の寝顔とぬくもりを直で感じられるならもう、今すぐにでも死ねるよっ! っつーか、死ぬだろ普通! 耳元で『ねぇギル、寒いわ。もっとぎゅっとして』なんて言われてもみろよ! 悶死確定だろコレ! 昇天モノだろコレ!」

 言いながらギルは、鎧で固めたその身体を、今一度ぎっちぎっちと捩った。

かように気色の悪い趣味ばかりを露呈するギルの姿形は、単体の男として見れば、決して魅力に欠ける方とは言えない。鎧越しにもそれと分かる、鍛え上げられた頑強な体格に、くっきりとした目鼻立ちの精悍な顔つき、とりわけ、鋭く切れ上がった双眸から放たれる鋭い眼差しが、早くも戦士としての彼の素質を露わにしている。

羽飾りのように逆立った赤銅色の短髪が、ただでさえクロエより頭半分は高い身長に、さらなる迫力を加えている。が、伯爵に部屋から閉め出され、がっくりと肩を落とす今の彼は、それらの恵まれたポテンシャルを、いずれも見事なまでにブチ壊しにしていた。

「ところで、さっきから気になってしょーがなかったんだけどよ―――何なの、そいつ」

ギルが示すのは、もちろんクロエが抱えるベルダだ。

「ちょっと、貸してみろよ」

「え……は、はい」

クロエの腕からベルダを受け取るや、ギルは意外だとばかりに「あ」と声を上げた。

「意外に重くねぇんだな。ちょっとした椅子……ぐらいか?」

「そうですね。そこまで重くは、ないです」

「ふーん……で、結局何なんだよ、こいつ。後生大事に抱えてよ。変態か? お前。こういう人形を愛でる趣味でもあんのか?」

 変態に変態と呼ばれ、いささか心外な気分を覚えつつもクロエは丁寧に答えた。

「彼女はオートマタです。プルームを動力源にして動く人形です」

「え? こいつ動くの?」

「はい。動くベルダさんは、変わり者で早とちりで強欲で、怒ると手がつけられなくなるぐらい凶暴化しますけど、とっても優しい素敵な女性ですよ」

「それ、優しいって言わなくね?」

 すぐさまクロエは、ギルの案内で回廊脇の空き部屋へ邪魔すると、暖炉脇の大理石の床へそっとベルダを下ろした。

その傍らではギルが、用済みとなった鎧を早々に脱ぎ始める。

「やっぱフル装備はきちぃな……って、ん?」

振り返るなりギルは、騎士とは思えないほどに狼狽を露わにして叫んだ。

「んな所で、何をおっ始めてんだよ、お前っ!」

「何って、彼女の身体からモノリスを取り出そうとしているんですけど」

などと、こともなげに答えるクロエは、今まさに横たわるベルダの上体に覆い被さり、黒いワンピースのボタンを外しつつあるところだった。その傍らには、すでに剥ぎ取られたエプロンがきちっと畳まれて置かれている。

「つーかぱっと見、完全に変質者だぜお前。寝てる女の服を、勝手に脱がせたりしてよ」

「でも、そういう構造なんですから、仕方ないですよ」

 なおもクロエは、淡々とした手つきでボタンを外し、黒い布地から白い胸部を露わにする。その様子を、ギルはひたすら横目で気まずそうに見やる。

「なんか……人形だって分かってんのに、良くわかんねーけどドキドキするな」

「そうなんですか? 僕はもう慣れてますから、そういう気持ちは、いまいちよく分からないんですけど」

「いや、そこは慣れるなよ。もっと自覚しろよ。自分のビジュアルのヤバさをよ」

 そんなギルの苦言に構わず、クロエはベルダの腹部に設けられた蓋を開くと、様々な機器が組み込まれたその内部から、短剣ほどの長さの黒い棒をかぱっと取り出した。

「やっぱ、人形なんだ、そいつ……」

 次にクロエは、暖炉に据え置かれたモノリスを取り上げると、空となった台座へ、先程ベルダから取り出したモノリスをゴトリと差し込んだ。

「要請する。ベント開放。プルーム量五〇〇〇〇ガルを充填……以上、要請を終了する」

「何やってんだ? それ」

「プルームの充填です。暖炉に導かれたプルーム供給ラインに彼女のモノリスを繋げて、メインベントからの供給を図っているんです」

「暖炉でチャージなんて出来んのかよ」

「出来ますよ。供給ラインさえ引かれていれば、どこででもチャージは出来ます。台所のコンロや、それに照明用のソケットでも、径が合えば可能です。もっとも、普通の方は、自走車用のプルームステーションでチャージなさるようですけど」

「だったらお前もステーション使えよ。その方が楽だろ」

「面倒くさいじゃないですか。すぐ目の前にチャージ出来る場所があるのに」

「あ、あぁ……。変換士なら、まぁそうだよな」

「もっとも……暖炉の方は、概して時間毎の供給量がステーションよりも少ないので、多少、余計に時間はかかりますけどね」

「へぇ、どんぐらいかかるんだ?」

するとクロエは、懐から懐中時計を取り出し、青く光る文字盤を見下ろしながら呟いた。

「まぁ、多く見積もって、四半刻程度でしょうか」

その後、窓外の庭を眺めるなどして何となく時間を潰していたクロエは、やがて、再び時計に目を落とすや暖炉に戻り、改めてプルームの充填具合を確かめた。

クロエの顔が、怪訝な色を浮かべつつ傾いだのは、そんな時だ。

「今度は何だよ」

手元の時計とモノリスをしきりに見比べながら、クロエは呟いた。

「おかしいですね……いくら時間がかかるにしても、少し、かかりすぎです」

すると、今度はギルが、困ったように頭を掻きながら答えた。

「ああ、そいつはあれだ……仕方がないっつーか」

「え?」

「最近、街のメインベントの調子が悪くてよ。減ってんだよ、プルームの供給量が」


 そこは、一見すると、まるで天然の洞窟と見紛うかのような地下道だった。はるか昔、この地に初めて定住を始めた人々は、日中の強烈な日差しを嫌い、石灰岩の岩盤に穴を穿って居を構えた。カサンドラの街を抱く石灰岩の丘には、その所々に、先人達の穿った長大な地下通路が今もなおそのままの形で遺されている。

 昼なお暗い地下通路を、クロエはランタンの灯りと、ギルの案内を頼りに進む。

「この先に、メインベントがあるんですか」

「ああ。はぐれるなよ。一度はぐれたら、余所者は一人じゃ絶対出られねぇから。まぁ、俺はそれでも構わないんだけどよ……ん?」

「そそ、それだけは勘弁、」

「しっ!」

突如、ギルは鋭い声でクロエの続きの言葉を制した。と共に、ランタンの光が届かない暗闇の向こうへ、注意深く耳をそばだてる。つられるようにクロエも耳を澄ます。確かに、暗闇の向こうから、釘の先で金属板を引っ掻いたような耳障りな声が聞こえる。

「まずいな……連中に勘付かれた」

「どうしたんですか?」

「いや、大した事はねーんだ、ただ最近、この洞窟にデカい吸血コウモリの群れが棲み付いちまってよ。そいつらが、まぁ人が来るたびに大挙して襲ってくるっていうか」

「めちゃくちゃ大した事あるじゃないですか! 逃げましょうよ、早く」

「でも、メインベントの調子を見たいつったのは、お前の方だろ?」

「そ、それは見たいですけど……」

「だったら行こうぜ。平気だって。せいぜい大きさつってもこれぐらいだから」

 そう言ってギルは、人の肩幅ほどに両手を広げて見せた。

「でかっ! でかいですよギルさん!」

「そうか?」

その間も、声は次第に、二人の所へ近付いてくる。

「や、やっぱり僕、帰りますっ! ってか帰らせて下さい、ほんとに帰らせてぇぇ!」

「ったく、しょうがねぇなぁ……」

大の男のものとは思えないクロエの慌てぶりに、ギルは呆れたように溜息をつくと、「ちょっと持ってろ」と、手にしていたランタンをクロエに預け、その腰からすらりと長剣を引き抜いた。

「ま……まさか、こんな暗闇でコウモリを?」

「ちっと黙ってろ」

背中越しに寄越された声は、既に、殺気を帯びた戦士のそれと化していた。シャツ越しに伝わる気迫と熱量に、圧倒されるようにクロエは口をつぐむ。

 いよいよ、すさまじい羽音と共に、頭蓋を貫く音の刃が二人の元へと迫る。それは紛れもなく、コウモリ達の上げるときの声に違いなかった。

 が、闇を睨んで佇むギルの背中は、なおも微動だにしない。クロエもまた、いざという時に備え、ランタンを置いてモノリス刀の柄に手を掛けた。しかし、内蔵していたプルームを、今朝方の戦闘でほとんど使い果たした彼のモノリス刀は、今や菜切り包丁よりも切れ味の悪い、ただの巨大なペーパーナイフと化していた。ましてクロエの力量では、そんな棒切れ一つで飛び回るコウモリを仕留める事など、出来ようはずもない。

「余計な事すんな」

「え?」

―――まさか、音だけで、僕が剣の柄を握った事を……?

 クロエが息を吞んだ、その刹那。

 ぼとぼとぼとぼとぼと……

 やおら、大量の水袋をぶちまけたような鈍い音が、狭い地下道を一杯に満たした。

「え?」

いつしか、クロエの耳を聾していた羽音や鳴き声は、ぴた、と鳴りを潜めていた。恐る恐るランタンを取り上げ、闇の奥を照らしたクロエは、眼前に広がるすさまじい光景と、光景に伴う異臭に思わず言葉を失った。

「十三匹か。今日は割と少なかったな」

ふう、と息をつくや、ギルは手持ちの布切れで刀身の血糊を拭き取ると、何事もなかったかのように、かちん、と剣を鞘に収めた。そんなギルの足元には、いずれも一刀の元に切り伏せられた巨大コウモリの死体が、ごろごろと転がっている。

―――こんな大量のコウモリを、一瞬で……?

「さてと―――おい、行くぜ変換士! なにボーッとつっ立ってんだよボケェ!」

苛立たしげなギルの口調に、ようやっと我に返ったクロエは、死体の海からはっと顔を上げた。

「は、はい、すみません!」


やがて二人は、地下道の最深部、メインベントを擁する部屋へと至った。もっとも、部屋とは言えその様相は、岩盤内にぽっかりと空いた巨大な洞窟と言った方が相応しい。

その、ドーム状の“洞窟”は、ゆらめく青白い光によってくまなく満たされていた。

「やっぱ不気味だよなぁ。ここ。何度来ても慣れねぇわ」

海底から水面を見上げているかのような光に彩られた天井を、ギルはしかし、忌々しげに眺めながら呟いた。そんなギルの言葉に、クロエはくすっと笑みを漏らす。

「な、何だよテメェ! 笑っただろ、今!?」

「だって、あんな大量のコウモリを一刀に切り伏せるギルさんが、こんな綺麗な光を不気味だなんて」

「う、うるせぇよ、苦手なもんは苦手なんだから仕方ねーだろ?」 

 部屋の中心には、男の足でも十数歩の径はあろうかという丸く大きな地底湖が広がっていた。この地底湖こそ、カサンドラで消費されるプルームを、一手に賄うメインベントに他ならない。

天井へ向けて青い光を放つその湖面は、ここが風一つない洞窟の底だという事をつい忘れてしまう程に激しくうねり、蠢いている。その様はまるで、おびただしい数の透明な蛇が、水面の下でいちどきにのたうち回っているかのようでもある。青く光るその液体は、湖底のベンドを通じて地上に汲み出されたプルームが、一時的に実体化したものだ。

「なぁ。ガキの頃からずっと気になってたんだけどよ」

湖面を見下ろしていたギルが、ふと、隣に立つクロエに訊ねた。

「この湖って泳げるのか? 親父からは、絶対に入るなって注意されてんだけど」

 プルーム使いの専門家である変換士にしてみれば突拍子もない質問に、しかし、クロエはあくまで真面目に答えた。

「泳げますよ。ただし、形質は崩壊しますが」

「形質が崩壊? 何だそりゃ?」

「膨大な、しかも未変換のエネルギーに生身の身体で触れるのは完全な自殺行為です。肉体は肉体としての性質を失い、もれなく、灰のような粉に分解させられます」

「灰? それって燃えちまうって事かよ?」

「だいぶ違いますが……一般の方なら、そういう理解でも差し支えないかもしれません」

淡白な、だからこそ冗談とは思えないクロエの説明に、ギルはやにわに表情を凍りつかせた。ごくりと唾を飲み、今一度、神々しい光を放つプルームの湖面へと目を戻す。

「そういえば、ギルさんは時々、ここに足を運んでいるような事を言っていましたね」

今度は、クロエがギルに訊ねる。

「やっぱり、昔に比べると、プルームの量は減ってきていますか?」

「あ、ああ……。俺がガキの頃は、今にも床に溢れ出そうなほどギリギリまでプルームが迫ってたんだけどな。……今はご覧の通りさ」

 ギルが示す通り、床と湖面との間には、すでに子供の背丈ほどの間隙が出来てしまっていた。つまり、ここ一〇年前後で、その分のプルームが減少したという事になる。

「ひょっとして、カサンドラではここ数年、農作物の不作などが続いているんじゃないですか?」

「確かに……何で分かるんだよ、そんな事」

 半ば化け物でも見るような目で見下ろすギルに、クロエはなおも淡々と答えた。

「プルーム量の減少は、その土地の地味にも影響します。減ると、それだけ土地は痩せます。あまりにも減り過ぎると、いずれ土地は砂漠と化します」

「マジ、かよ……」

呻くようにそう口にするや、それきりギルは、硬直した表情と共にその口を閉ざした。

クロエもまた、その隣に神妙な面持ちを並べたまま、足元でのたうつプルームの海を、しばしの間じっと見つめ続けた。



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