三章
肌を刺す明け方の冷気に叩き起こされるように、クロエは目を覚ました。
昨夜まで街に大量の雨を注いでいた雨雲は、今やことごとく地平の彼方へと消え去り、窓越しの空は、澱みのないすっきりとした青色に染められている。
寒さに硬直した身体を震わせつつソファから起き上がったクロエは、開け放され、冷気の通り道と化したままの窓へ歩み寄ると、早速、これを閉ざした。
外の冷気を締め出したクロエは、今度は部屋に暖を入れるべく、壁際の暖炉前にしゃがみ込んだ。煤で汚れた暖炉には薪の一つも置かれてはいない。代わりに暖炉の真中に据えられているのは、レモン大ほどの太く短い、黒い円筒ただ一つである。
変換士の常として、ついモノリスに触れ、直接命令を言い渡そうとしたクロエは、はたとその手を止めた。暖炉脇にしつらえられたレバーが目についたからだ。
本来であれば変換士のみが可能とするプルームの変換だが、それを一般人は、専らこのような変換装置に頼って行っている。そして、実は変換士にとっても、頼れる時はこの装置に頼った方が楽を出来る、という点は一般人と変わらなかったりもする。まして、寝覚めの悪いクロエにとって、起き抜けの変換ほど面倒くさい作業はなかった。
レバーに手をかけ、ぐいと引き上げる。すると、やがて暖炉のモノリスから、柔らかな光と共にじんわりと温かな熱が広がり始めた。
「はふぅ……あったかい……」
冷たい指先を、暖炉の前でしきりに揉み合わせながら、クロエはふぅと息をついた。
―――と。
「う……ん」
不意に背後から上がった呻き声に、クロエはびくりと身じろぎし、はっとして振り返った。そこで初めてクロエは、部屋のベッドに昨夜の少女を寝かせていた事を思い出しのだった。
足音を忍ばせながら、そっとベッド脇に歩み寄る。ふかふかの枕に埋まる少女の顔は、血の気を失った蒼白な顔色さえ無視すれば、その表情はどこまでも穏やかなものだった。
今でこそ、清潔な寝巻きに着替えさせてはいるものの、店に現れた当初の彼女の格好たるや、まさにひどいの一言に尽きた。
ローブの下に少女が纏っていたのは、木綿の下着と絹のネグリジェのみ。誰がどう見ても、外出のために身につけたとは考えられない服装だった、にも関わらず彼女の服は、そこかしこが砂や煤、草の汁などで汚れ、まるで一昼夜休まず野山を駆け回って来たかのような、そんな様相を呈していた。
―――一体、彼女の身に何が起こったというのだろう。
少女の寝顔を見下ろしながら、クロエは、彼女の身に起こったであろう出来事に思いを馳せた。あんな土砂降りの夜に、よもやピクニックもあるまいに。
薄い羽根布団が、少女の呼吸に合わせてゆるやかに上下する。安らかな表情で寝息を立てる少女の寝顔に見入っていると、彼女が昨晩、鬼気迫る様相で深夜の酒場に駆け込んで来た少女と同一人物である事など、つい失念してしまいそうになる。
うっすらと閉じられた瞼、ゆで卵のようになめらかな肌、そして、艶やかな桃色の唇。
少女と自分の間に横たわる身分の差も忘れ、クロエは、その奇跡的なまでの見事な造形にひたすら見入った。
―――触れたい。
なんとはなしにクロエは、その骨張った指先を、少女の白い頬にそっと近づけた―――。
と、その時。
トン、トン。
「ぎゃおぉおっ!」
唐突なノック音に、クロエは鼠に噛まれた猫よろしく飛び上がった。
「どうなさいました? クロエさま!」
ノックに続き、ドア越しにベルダの不安げな声が響く。
「べべ、ベルダさん!?」
「クロエさま、今の悲鳴は一体どうされたんですか? ―――まさか、起き抜けのナニをその小娘に弄り倒されていらっしゃるとか!?」
「ち、違います! ってか、何なんですかその下衆な発想は!」
「おのれ、許すまじ小娘っ! いくら朝一のクロエさまがスゴいからと言って、」
「スゴくないです! ぜんっぜんスゴくないですから! あの、ところでベルダさん、こんな早朝に一体何の用なんですか?」
「ええ、朝食をお持ちしましたので、もし召し上がるのでしたらと」
「そ、そういう事なら、早く言って下さい……」
早くも一日分の精神力を使い果たしたクロエは、なおも早鐘を打つ心臓を宥めすかしながら、ふらつく足取りでドアを開け放った。
入って来たのは、朝食を乗せたトレーを抱えたベルダだった。
「今日は、お早かったですね」
テーブルにトレーを置きながら、ベルダは満面の笑みをクロエに向けた。屋根裏の小部屋が、温めた牛乳や焼き立てパンの優しい匂いに満たされる。
「ありがとうございます」
早速クロエは、トレーから平焼きのパンを取り上げると、ちぎる事もせずそのままかぶりついた。バターと小麦の香ばしさが、目覚めたばかりの頭に幸せを届ける。
「ところでクロエさま」
「はい」
先程の満面の笑みとは一変、じと、と鋭い眼差しでクロエを睨み据えながら、ベルダは唸った。
「あの方は、ひょっとしてクロエさまのお知り合いの方ですか?」
「い、いえ、まさか、」
「アヤシイ……ですわ」
ぎらり、と、ベルダの眼鏡が鋭い光を放つ。
「ひょっとしてクロエさま、あちこちの地脈流を調査して回っているなどと仰りながら、本当は、いろんな街の女を取っ換え引っ換えつまみ食いしては泣かせて回っているんじゃございませんこと?」
「ぼ、僕が、ですか?」
「挙句、泣かされた女の一人が、責任を求めてクロエさまの元へ駆け込んだ、とか」
「ち、違いますよベルダさん! そもそも僕なんかが、女性を取っ換え引っ換えなんて出来る訳がないですよ」
「クロエさま。もし男の子が産まれましたら、是非この私に育児を任せて頂けませんか? 私好みの男性に育て上げ、将来はクロエ二世さまとうへへへへ……」
「きもちわるっ! ベルダさん、さすがにその発想は本気で気持ち悪いです。―――違いますよ、恐らくは王族の方です。何らかの事情で、王宮を抜け出したものと、」
その時、再びベッドの方から、うん、と苦しげな呻き声が響いた。
「何だ……さわがしいのう……」
すかさずクロエはベッド脇に駆け寄り、大理石の白さもかくやの少女の顔を覗き込んだ。
ややあって少女は、その長い睫毛をふるふると震わせながら、薄い瞼をそっと開いた。
「何だ……貴様」
開口一番、少女はそう訊ねた。
それは、寝起きのためか、昨日の毅然とした口調とはうって変わった、ひどくぼんやりとした口ぶりだった。
「え、ええと、変換士、クロエ・アルカサルです」
クロエの返答に、少女の寝惚けまなこが俄かに見開く。
「クロエ……アルカサル……」
何かを思い出すように、言葉を反芻するその少女に、クロエは訊ねた。
「あの、恐れながら、あなたは、もしや、」
「ミラ・カスパリア」
「―――え」
それは、クロエにとっては決して予想外の返答という訳ではなかった。とはいえ、改めて耳にすると、やはり驚くより他はなかった。国名を拝したその姓は、紛れもなく、彼女が王家の人間である事を示すものに他ならなかった。
驚きに顔を強張らせるクロエを横目に、少女は誰の手を借りるでもなくムクリと身を起こすと、履物も借りずにベッドを降り、裸足のままスタスタとテーブルに歩み寄った。そして、誰に断るでもなくパンを手に取り、齧りつく。
が、齧るや否や少女は、早々にパンを口から離し、ポイとテーブルに投げ捨てた。
「不味い。何だこれは。馬の餌でも食わす気か」
「はいぃ?」
パンを運んだ当人のベルダが、眼鏡の奥に満面の笑みを浮かべて返事をよこす。だが、そのか細い指が、次第に分厚い銅製のトレーにメキメキとめり込んでゆくのを、クロエただ一人は、横目でしっかりと捉えていた。
「オレンジを食べたい。おい、そこの召使い。今すぐオレンジを持って参れ」
「か……かしこまりましたぁあ」
またもや満面の笑みで応じると、早々にベルダは踵を返し、部屋を後にした。テーブルに、もはや原型を留めない程にねじれひしゃげた、銅のトレーだったものを残して。
ベルダが退室するや、早速クロエは少女に訊ねた。
「やはり、あなたは王族の……」
ところが、そんなクロエの問いに、少女は答えるどころかまるで耳を傾ける事もせず、ただ、先程のパンを物珍しそうに弄くっては眺めすがめつしていた。
「もしや、これはパンなのか?」
「え、ええ、そうですが」
「ほう。パンにも色々な種類があるのだな。こんな土臭いパンを口にしたのは初めてだ」
なおも手持ち無沙汰にパンを弄くる少女には、自分より頭一つ背の高い男を前に、怖じる様子などは一切見当たらなかった。むしろクロエの方こそ少女を前に畏まり、存在感という一点に絞って言えば、かえって少女よりも小さく萎んでいる。
「ところで、昨夜は何故、あのようなお姿で?」
少女はまたしてもだんまりを決め込んだ。今度は、自然に聞き流したのではない、明らかに意図的な沈黙だった。
「ミラ……様?」
その時、やおら窓の外から、街の眠りを乱暴に破る少年の声が飛び込んで来た。
「王宮でクーデターが起こったぞぉ!」
さらに、窓向こうの少年は続けた。
「レオン陛下が捕えられたぁ!」
早朝の街路に響く少年の声に、少女はただ、ぐっと唇を噛み締めながら耳を傾けていた。が、その細い肩は、今にも破裂せんばかりにふるふると震えている。
「ひょっとして、その事と関係が……?」
クロエの問いに、ややあって少女は、こく、と頷いた。
クロエはそこで初めて、自身の問いの迂闊さに思い至った。現王レオンには、母親を共にするミラという名の一人の妹がいる。それは、王都の住人であれば当然聞き知っておくべき、自明の常識だった。
「ああ。それで、私の所にも……。私一人は、どうにか逃げおおせたが、兄上は……」
沈痛な面持ちを浮かべつつ、震える声でミラは呻いた。
と、その時だ。
ドドッ、ドドッ……ギシ、ギシギシ……。
やおらドア越しに、大人数がいっせいに階段を踏みしめる、せわしない木擦れの音が響き始めた。
さらに、そこへ暢気なベルダの声が加わる。
「はい、殿下は上のお部屋にいらっしゃいます」
怪訝に思い、クロエはミラの方を振り返った。すると―――
「奴らだ……私を追って、こんな所まで」
そこには、ただでさえ白い頬を、いよいよ死人のように青褪めさせたミラの姿があった。
「奴ら、と申しますと?」
「イスマエルの放った追手だ」
クロエの問いに、震える声でミラは答えた。
「え? ……どういう、」
「クーデターを起こしたのは、イスマエルだ」
彼女の言葉は、クロエにとってはまさに青天の霹靂だった。つい昨昼、クロエはそのイスマエルと共に同じ食卓を囲んだばかりだったのだから。
そのイスマエルには、あと数時間後に兵を従えて王座を覆しに行く、などという覇気を帯びた様子などは、微塵も感じられはしなかった―――にも、関わらず。
「イスマエル……殿下が?」
コンコン。
「クロエさま」
ドア越しに、ベルダの声が響く。もちろん、その用向きにクロエは察しがついている。
が、敢えてクロエは、そ知らぬふりでドア越しに訊ねた。
「どうしました、ベルダさん」
「はい、殿下をお迎えに上がったという方が」
再びクロエは、ミラの方を振り見た。ラピス色の大きな瞳が、何かを言いたげに、じっとクロエを見上げる。―――と。
「クロノ」
「え?」
やおらミラが囁いた名前に、クロエは耳を疑った。
―――どうして、父の名を?
が、そのような疑問は、続けてミラが口にした言葉によって一気に消し飛んだ。
「……助けて、くれ」
その言葉に弾かれるように、クロエは窓を開け放つと、すかさず外を見下ろした。
その窓の下には、象が通えばたちまち両端の壁に身を詰まらせてしまうであろう、ひどく狭い路地裏が通っていた。クロエが顔を出したちょうどその時、そんな路地裏の片隅には、オレンジで荷台を一杯にした小さな荷車が停められていた。
「殿下……かくなる上は、」
今一度、クロエは背後のミラを振り返った―――その時。
カチャ。
いよいよ、ドアノブの回る乾いた音が、明け方の静かな空気に響いた。
「と、飛びますよ!」
言うが早いか、クロエはミラの腕を取ると、彼女と共に窓の桟を踏み越え、眼下に停められたオレンジの荷台目掛けてまっしぐらに飛び込んだ。
次第に遠ざかる窓の奥から、追手と思しき男達の怒声が響く。
「ミラ殿下だ!」「逃げられた!」「追えっ!」
やがて二つの影は、まるで吸い込まれるようにオレンジの荷台へずぼりと突っ込んだ。
と。
がごん! ごろごろごろ……!
その衝撃で荷台の枠が抜け、と同時に、文字通り堰を切ったように、大量のオレンジが裏路地へと溢れ出た。
オレンジの雪崩れに巻き込まれたクロエ達は、成す術もなく石畳へと滑り落ちる。
めまいを堪えつつクロエが顔を上げると、彼らが飛び出した窓から、白の法衣で身を包んだ男達が、上体を乗り出しつつ彼らを見下ろす姿が見えた。
「おい、てめぇらそこで何やってんだぁ!」
やおら間近で響いた怒号に、クロエはがばと身を起こした。すると、今まさに向かいの商店から、荷台の持ち主と思しき大男が、猛然と飛び出して来るところだった。
すぐさまクロエはオレンジの山から立ち上がると、ミラの腕を取り、大通り目掛けて石畳を蹴り出した。
「走ってください!」
だが―――――ごてっっ!
早速、クロエは足元に転がる大量のオレンジに足を取られ、石畳の上へ後ろ様にすっ転んでしまった。
「あ……あうぅ……」
後頭部を派手に打ちつけ、脳震盪を起こして目を回すクロエを、しかし、荷台の主は気遣うでもなく、その胸倉をむんずと掴み、乱暴に引っぱり上げて怒鳴りつけた。
「てめぇ、何してくれやがった!」
「す、すみません、でも、今はそれどころでは……」
今度は、宿屋の裏口から飛び出してきた追手達が、クロエ達の元へと殺到して来た。その姿を見るや、咄嗟にミラはその場から駆け出す。
「すすす、すみません、このお代はいつか必ず……」
「いつかじゃねぇ、今払え! つーかてめぇ変換士だろ? 金持ってんだろ!?」
「ぐぐ、ぐるじ……」
いよいよ男が、クロエの喉元をぎりりと締め上げた、――――その時だ。
「クロエさまに、何て事するんですかぁぁぁあああっ!」
不意に、白と黒の影が舞い降り―――
ゴガァンッ!
男の禿げ頭に、強烈なカカト落としを食らわせた。
「クロエさまを傷つけようとする奴は、たとえ王様だろうと神様だろうと許しませんわ!」
オレンジの海にごろりと倒れる男の巨躯を見下ろしながら、ベルダは傲然と言い放った。
「た、助かりました、ベルダさん」
が、クロエが一息ついたのも束の間。
「クロノぉっ!」
路地裏に悲痛な悲鳴が反響し、クロエははっと振り返った。すると、路地の向こうには、今まさに追手達に追いつかれんとするミラの姿があった。
すると。
めぎめぎめぎ……ごろごろごろ……
やおら、クロエの背後で木材の激しく軋む音が響いた。と同時に、巨大な影がゆっくりとクロエを飲み込んでゆく。恐る恐る背後を振り見たクロエは、ベルダが両腕で抱え上げる“それ”に、もはや驚くを通り越し、唖然とした。
「ちょ……ベルダさん?」
「ふんごをををををっ! さいだい、しゅつりょくぅぅぅっ!」
それは、つい先程クロエ達が無謀なダイブによって破壊した、オレンジの荷台に他ならなかった。その荷台を、ベルダは積み込まれたオレンジごと両腕に高々と掲げると、はるか前方を走る追手達目掛け、ぶん、と放り投げた。
「くらえぇえぇええっ!」
女性とは思えない、獣のような怒号が路地裏に響き渡る―――や否や。
どがああああんっ!
地が割けるかと思われるほどの炸裂音と共に、荷台は追手とミラとの間を遮るように落下した。狭い路地に、木材の破片と大量のオレンジがぶちまけられ、すさまじい振動に、石畳のみならず周囲の空気がびりりと震える。
が、それでもなお、追手達全員の足を止めるには至らなかった。六、七人ほどの追手のうち、その半分程度が、オレンジの驟雨をくぐり抜け、なおもミラの背中を追い続ける。
「ちっ、逃したか――――行きますわよ! クロエさま!」
言うなりベルダは、今度はクロエの身体をその小脇に抱えると、オレンジの海に足を蹴り出し、周囲の景色が歪むほどのスピードで駆け出した。
「ちょ……待ってくだ、ベルダさん!」
うろたえるクロエに構わず、ベルダはなおも路地裏を駆けた。そして、横倒しになった荷台に行く手を阻まれた追手達の頭上を、のみならず荷台さえも見事な跳躍によって飛び越え、危なげもない着地と共に、再び石畳を駆け始めた。
路地裏から大通りに飛び出すなり、ベルダはすかさず、人影も未だまばらな明け方の町を見渡した。そして、ある一点に目を留め、叫んだ。
「いましたわ!」
「え? どこに、」
クロエの質問に答える事もせず、ベルダは再び石畳を蹴り出すと、先程よりもなおいっそう速力を上げて駆け出した。
「べべべ、ベルダさん、もう少しゆっくり……」
その脇で、すでに顔面を蒼白にしたクロエが涙目で訴える。
「何を仰いますの!? そんな悠長な事を仰って、あのクソ生意気なドロボウ猫……じゃない、殿下を見失っては元も子もありませんわ!」
「た、確かに、彼女を助けるのが先決ですけど、にしても、その、」
「助ける? 何を仰いますの!? あのガキを王宮に引き渡せば、国から一〇〇〇万ジェニの報酬を頂けるんですのよ! 一〇〇〇万ジェニを頂いたら、南洋の島に農場を買って、クロエさまと一緒にのんびりレモンでも育てながら過ごすんですの! そして老後は、細々とレモンリキュールを造りながら暮らすんですの!」
「な、何か、具体的かつ現実的過ぎて怖いんですけどぉ!」
その間も、なおもベルダは往来の合間を駆け続ける。大の男を小脇に抱えているとは思えないほどの機動力で、朝市の準備を始める人々の合間を抜け、並走する自走車を抜き去りながら突っ走る。
ついにベルダは街の城門前にて、ようやくミラの、そして、彼女を追う白尽くめの追手達の背中を捉えた。
が、既に城門の手前には、鎧を纏い、剣を手にした屈強な警備兵達がずらりと待ち構えていた。その傍らには、白い法衣を纏った男達が立っている。どうやら、追手の一部が城門に先回りし、王女を待ち構えるべく先手を打っていたものらしかった。
男達の壁を前に、ミラはすかさず足を止めた。その小さな背中へ、ようやく彼女に追いついた追手達の手が殺到する――――と思われたその時。
「させるかぁああぁぁですわぁあっ!」
すかさずベルダは石畳を蹴り、再び大きく跳躍すると、空中で鮮やかに身を翻し、その両足を、追手達の背中へ叩き込んだ。
どごどごどごっ、と鈍い音を立て、追手達はさながらドミノのように、いっせいに石畳へと突っ伏した。―――その一方。
すたっ。
男達の死屍累々が築かれた横に、今まさに一仕事を終えたばかりのベルダが、風のない日に枝から舞い落ちる木の葉のように、軽やかに降り立った。
唖然とする通行人達の様子には構わず、パンパンとスカートの土埃を払いながら、ベルダは平然と言った。
「ふー……危うく報酬がパーになるところでしたわ」
一方、彼女の脇では、彫像のように表情を強張らせたクロエが、いよいよ顔を真っ青にし、死霊のようにぐったりとうなだれている。
「どうなさいました? クロエさま」
「……は……はきそう……」
が、その時。
「く、来るなぁあっ!」
やおら路地に響いた悲痛な叫び声に、クロエは否が応にも正気へと引き戻された。がばと顔を上げ、声の主を探す。すると、その視線の先には、城壁を背にしつつ警備兵達に取り囲まれて立ち往生する、紅髪のミラの姿があった。
「ベルダさん!」
「わかってますわぁ!」
叫ぶが早いか、再びベルダは石畳を蹴り、スカートをはためかせながら警備兵達の輪の中へ舞い降りた。突如眼前に舞い降りた奇妙な人影に、警備兵達が、どよ、と色めき立つ。
その中で一人、ミラだけが、安堵と喜びをないまぜにした嬌声を上げる。
「クロノ!?」
が、そんな彼女の表情が輝いたのはほんの一瞬に過ぎなかった。目の前に現れたクロエの姿に、ミラの表情はみるみる曇ってゆく。
「お待たせしました、殿下」
きりっ、と精悍な眼差しを振り向けるクロエに、しかしミラは、今や酷寒の冷気を帯びた視線を返した。
「かっこ、わるいのう……貴様」
「え?」
彼女のジト目でクロエは初めて、自分がベルダの小脇に抱えられたままという恥ずかしい状態にある事に気付いた。
「うあっ、い、いや、これは、」
ところが、クロエがその弁明を全うする事はかなわなかった。突如ベルダは、何の断りもなくクロエの身体を石畳へ取り落としたのだ。
「いたた……ベルダさん、離すなら離すと、せめて一言、」
が、顔を上げたクロエの目に飛び込んできたのは、今のクロエにとって、あまりにも望ましくない光景だった。
「申しわけ、ございませんクロエさま、すこし、はりきりすぎた、みたい……ですわ」
そこには、中途半端なポーズのまま、手足を硬直させたベルダの姿があった。
「う、うそ……」
愕然とするクロエを振り返る事もせず、なおもベルダは辿々しく言葉を紡ぐ。
「そろそろ、プルームの、ざんりょ、う、が……が、g……」
ピタ……。
いよいよ完全な人形と化してしまったベルダを横目に、そっと身を起こしたクロエは、ミラを背中に隠し、改めて目の前に並ぶ警備兵の男達と対峙した。
「何故、こやつは急に固まってしまったのだ?」
「いえ、違います。彼女は、プルームを動力源として動くオートマタなんです」
なおもクロエは、眼前の男達を睨み据えながら答えた。王族の問いに対し背を向けながら答えるなど、本来であれば不敬罪にも問われかねない無礼な行為である。しかし今はクロエにも、そしてミラにも、そんな形式上の礼儀に気を払う余裕などは微塵もなかった。
「オートマタ……人形なのか!?」
「はい。どうやら、チャージしていたプルームの残量が切れてしまったようで……」
「ならば、今すぐチャージを、」
「出来るならば、とっくに取り掛かっています、しかし……」
クロエはぐるりと周囲を見渡した。ベルダのモノリスにプルームを充填するには、一度、彼女の胸部にある蓋を開き、中から充填用のモノリスを取り出さねばならない。が、屈強な兵士達に取り囲まれ、一寸の予断も許さないこの状況で、のんびりとそんな作業にかまける余裕は、当然ない。
よしんば騎士の情けとしてそのような余裕を与えられたとしても、ランタンや暖炉のようなプルームの供給口もないこんな石畳の上では、そもそもチャージ自体が不可能でさえある。
「こ、こうなったら……」
そっと男達を振り見たクロエは、不安げな足取りで男達の前に進み出ると、これまた覚束ない手つきで、腰に携えた長剣を抜いた。腕の長さほどはあろうかという長い細身の刀身は、夜の闇を凝らせたかのような漆黒を帯びている。もちろん、これもモノリス刀だ。
浮付いた呼吸もそのままに、クロエはその刀身を、ふらふらと中段に構えた。
そんなクロエの構えを見た警備兵の列から、たちまち失笑が湧き上がる。
クロエの構えは足も腰もひどく浮つき、おまけに剣の重みに腕力が負けているのか、あるいは単に怯えているのか、終始、その剣先は不安げに震えていた。見る者が目にすれば、それが素人の構えである事は一目瞭然だった。
「な、なんだ、笑われておるが……?」
怪訝そうに訊ねるミラに、しかしクロエが返事を寄越す事はなかった。血の気が失せ、まっさおになったその唇は、ただひたすら、独り言を唱える事に費やされていたからだ。
「ど、どうした、クロノ?」
やがて警備兵達の輪の中から、ひときわ屈強な体格を持った一人の男が進み出た。岩山のようなその威容に、頭ひとつ小さなクロエは思わず怯み、軽く後退る。
「ふざけているのか、貴様」
開口一番、男は獣のような声で呻いた。逞しい筋骨と鋭い目つき、そして、角ばった坊主頭の所々に走る刀傷が、男の迫力をいやましに増強している。
「変換士ふぜいが。そんな物を俺達に向けて、一体どういうつもりだ」
「よ、よろしければ、ここを通らせて、頂きたいと……」
なおも唸る男に、強張る喉を振り絞り、クロエは答えた。一方、男はその浅黒い顔に、苛立ちと呆れ、そして一抹の憐れみさえも露わにして返す。
「ふざけるな。日がな一日穴倉に篭り、ただ王宮から与えられる禄を食むしか能のない寄生虫ふぜいが、今度は、俺達警備兵の手柄を掠め取りたいと言うのか」
すると、それまで相手の気迫に押され、ただ恐怖に視線を泳がせていたクロエは、やおら、その眼差しに険を湛え、静かに言った。
「そ……それは、偏見です」
「偏見も何も、事実だろうが」
嘲るような男の口ぶりに、さらにクロエは食って掛かる。
「た、確かに……変換士と呼ばれる方のほとんどが、学会の建物にこもり、独りよがりな研究ばかりを続けておられるのは事実です……で、でも、中には本気で国を憂い、真実のために戦い続ける変換士もいる!」
「寄生虫ごときが、国を憂える、だ?」
言いながら男は、背中の鞘から大剣を引き抜くと、そのままぴたりと大上段に構えた。
数歩の間隙を残し、剣を構えた二人の男が対峙する。が、その力量差は、剣を切り結ぶ前から既に露わとなっていた。
半身を取りつつ深く腰を落とした男が、その間合いに張り巡らせた気には、文字通り鼠一匹さえ這い入る隙もありはしなかった。素人判断で下手に斬りかかれば最後、途端に男の一撃を誘い、その大剣の餌食と化してしまうだろう事は、いかな剣に心得のない者の目にも一目瞭然だった。
さらなる対峙の後――――。
最初に踏み出したのは、男の方だった。
踏み込みと同時に、男は大上段に構えた大剣を一気呵成に振り下ろした。身体のしなりに剣の自重も加え、刀もろとも叩き潰す勢いで、敵の頭上に重い一擲を食らわせる。
「ひっ……!」
「クロノ!」
勝負は、その場の誰もが予想した通り、一瞬で決した。
―――ただし、誰もが予想だにしなかった結末と共に。
カァアアアアン……ガランガランガラン……。
石畳をしたたかに叩く金属音が、まるで試合終了の合図であるかのように、静かな朝の空に響き渡った。周囲に構える兵士達はもちろん、騒ぎを聞きつけ家々から飛び出してきた野次馬達さえも、誰もがその目を疑い、そして声を失った。
「なにが……」
今や刀身のほぼ全てを失い、柄のみとなった愛刀を見下ろしながら、男は呆然と呻いた。
その片割れである刀身は、すでに男の背後で静かに横たわり、高みを増し始めた朝日の光を浴びて、石畳の上で白々と輝いている。
本能的に後退り、クロエから間合いを取った男は、今一度、刀身の切り口をつぶさに検めた。が、男がそこに見出したのは、力負けした場合に生じるはずの、鋭利な切断面などではなかった。それは、湯気と共に赤銅色の光を放つ、どろりと爛れた醜い切り口だった。
「なんだ……これは」
一方のクロエの手には、相変わらず、例の黒い剣が無傷のまま握られている。が、改めてその刀身へと目を凝らした男は、その黒い表面から、ゆらゆらと陽炎のようなものが立ち昇っている事に気付いた。
「貴様、その剣に何を仕込んだ!」
男の怒号に、クロエは、振り下ろした剣を構え直しながら答えた。
「熱を、加えました……大体、二〇〇〇度ぐらい」
「溶かしたというのか、その熱で」
ぎり、と歯軋りする男に、クロエはなおも敢然と言った。
「こ、これが、あなたが馬鹿にした、変換士の力です!」
「ほう……」
男は、今や完全に用を成さなくなった剣の柄を腹立たしげに石畳へ叩き付けると、腰から予備の長剣を引き抜き、今度は、下段に深く構えた。
刹那、男は再び鋭く踏み込み、その剣を袈裟に振り上げる。
咄嗟にクロエは後ろ様へ飛び退くと、背後のミラを振り見つつ怒鳴った―――
「伏せて!」
―――が早いか、クロエはその剣を、男達の足元に残る水溜りへと放った。放るなりクロエは石畳に伏せ、その手で素早く耳を塞ぐ。
水溜りにクロエの剣が着水するや否や。
ドォンッッ!!
突如、男達の足元から、激しい爆音と共にすさまじい爆風が巻き起こった。
たまたま運悪く水溜りの付近に居合わせた警備兵達が、透明な象にでも撥ね飛ばされたかのように激しく吹っ飛んだ。運良く爆風の難を逃れた兵達も、爆音や湯気によって視聴覚を奪われ、目標どころか味方と野次馬の区別すらかなわなくなったか、ひどい混乱をきたし始めた。
もうもうと白い煙が立ち込める中、クロエの言うとおり石畳に伏せていたミラは、そっと顔を上げ、周囲を見渡した。
「な……何が……?」
今や彼女の周囲は、折り重なるようにして倒れる鎧姿の男達と、そんな兵達の身体に足を取られながら、おぼつかない足取りで彷徨する兵や人の影で溢れていた。
「逃げましょう、殿下!」
「あ、ああ……?」
ミラが頷くのも待たず、クロエはミラの細腕を取ると、人混み目掛けて一目散に駆け出した。途中、投げ捨てた剣を回収し、棒立ちのベルダを抱え上げ、混乱と湯気に乗じて一気に人垣を突き抜ける。
「な、何が起こったのだ?」
「剣の熱で、水蒸気爆発を起こしたんです」
「は? 聞こえぬぞ」
「ええと、水溜りに熱した剣を投げ込んで、水蒸気爆発を、」
「はぁ? 聞こえぬっ! もっとはっきりと申せ!」
苛立ちを帯びたミラの声に、ふとクロエは気が付いた。伏せろと言った覚えはある。だが、耳を塞げ、とまでは確かに忠告していない。
「殿下の寝顔、ものすっごく可愛かったです!」
「だから聞こえぬと言っておろうが!」
霧を抜けるや、クロエ達の眼前に一台の荷車がぬっと姿を現した。
恐らく、街の市場に魚を卸した帰りなのだろう。空の荷台には、暖かさを増し始めた朝の空気の中で、生臭い異臭を放つ空の木箱が山と積まれている。
荷車の前にしつらえられた操縦席は、その荷台が、紛れもなく自走車である事を示している。が、操縦者と思しき人影は見当たらない。その様子を見るやクロエは、咄嗟にベルダの身体を魚臭い荷台に放り込んだ。続けて、ミラの身体も同様に抱き上げる。
「なっ、何をする!」
「殿下も乗って下さい!」
「は?」
ミラの身体を荷台に押し上げると、クロエは早速、海水でぬめった操縦席に飛び込んだ。そして、目の前の操縦板から突き出たレバーを思い切り押し上げる。
「お、お前ら、そこで何やってんだよォ!」
「あっ!」
背後で、荷車の持ち主と思しき男が声を上げる。が、もはやクロエは振り返りもせず、さらにレバーを押し上げると、運動エネルギーの出力を目一杯に切り上げた。
「走れぇええ!」
クロエの嘆願に呼応してか、ほどなくして荷車は、ごろごろと軽快な音と共に石畳を駆け始めた。
「このまま全速力で城門を突っ切ります!」
「おう! 走れ走れ!」
ようやく聴覚を取り戻したかミラは、クロエの掛け声に威勢よく応じる。
荷車は、並み居る警備兵らの列を突っ切ると、そのままの勢いで城門を飛び出した。
「ところで貴様、さっきは一体何と申しておったのだ?」
「え?」
「え、ではない! さっきは何と申していたのだ、と聞いておる!」
「きょ、今日もいい天気になりそうですねぇ! 殿下!」
すぐさま警備兵達は彼らを追った。だが、自走車に乗り込んだ彼らが城門を出た頃には既に、クロエ達が乗ったおんぼろ荷車は、ぶどう畑が広がる丘陵のそのはるか向こうへ、もうもうと土煙を上げながら駆け去っていた。




