一章
季節は、間もなく冬を終えようとしている。
その日、王都カスパリエの上空には、既に次の季節を先取りしたかのような、柔らかな霞を帯びた優しい色合いの青空が広がっていた。
広々とした港町の空を彩るのは、白い羽根を伸ばしつつ気持ち良さそうに空を舞うカモメ達だけではない。カモメ達のさらに頭上を行き交う、おびただしい数の空中帆船もまた、青いキャンバスに趣を添える重要な役者達だった。それらはいずれも、地下から沸き出す地脈エネルギー、通称プルームを利用し浮力を得る船である。
ただし、いくら空中帆船とはいえ、停泊するのはやはり海岸に設けられた港だ。人や荷物の積み下ろしは、空を飛ぶ船であれ飛ばない船であれ、皆、この港にて行われる。
その港から、王都の城門へ至る長い石畳の坂を、幌馬車から牽引用の馬を取り払ったような形の荷車が、乗客を満載しゴトゴトと行き交う。これらは、プルームによって動力を得る自走車である。初めてこの国を訪れる旅人は、ほぼ例外なく、この自走車を目にするなり腰を抜かして驚く。が、ここカスパリア国内においては、今や自走車は、貴族のみならず平民の足としても親しまれる、ごく一般的な輸送手段と化している。
船から下りた乗客達の多くが、港から城門までの冗漫な坂道を嫌い、この快適な荷車に足を借りる。だが、そんな彼らを横目に、黒尽くめの青年クロエ・アルカサルただ一人は、ブーツの踵を鳴らしつつ自身の足で石畳を踏みしめながら、王都の城門へと向かっていた。運賃をけちるためではない。自分の足で事足りる距離にプルームの力を借りる趣味を、彼が持ち合わせていなかったというだけの話だ。
坂を登りきり、人と車の往来で混雑を極める狭い城門を抜けると、途端、その眼前に、国内最大の規模を誇る王都の町並みが広がる。
「うわぁ……」
半年振りにカスパリエの街に立ったクロエは、自身が生まれ育った街ながら、改めて、その繁栄ぶりに舌を巻いた。ざっと見渡すだに、その華やかさ、賑わいは国内のいずれの街とも比べるべくもない。他の町ではまずお目にかからない三階、四階建ての石造りの建物のみならず、それらの町並みの向こうでは、さらに巨大で荘厳な塔や神殿の石柱が、視界を埋め尽くさんばかりに空を突いている。
だが、その中でもとりわけ人々の目を釘付けにする建物といえば、やはり丘陵の頂上に聳える白亜の王城だろう。王都中央の丘をぐるりと囲む高い城壁と、空を突き上げる大小さまざまの尖塔が、青空の下にその純白の威容を誇っている。いずれも大理石と花崗岩でしつらえられた、頑強で上等な造りの建物だ。
圧巻なのは町並みだけではない。目の前を行き交う人の数も、建ち並ぶ露天の数もその種類も、他のあらゆる街の比ではない。
「やっぱり王都はすごいな……」
生まれ育った街に対して何を今更、と思いつつ、クロエはそう呟かずにはおれなかった。
そんな彼の傍を掠めて行き交うのは、港に揚がった魚や、近隣の農園で採れたオレンジ、それに穀物を満載した巨大な自走車達だ。
また増えたな、とクロエは思った。王都へ帰るたび、自走車の数が増えつつあるようにクロエには思えてならなかった。もっとも、いつも寂れた辺境の街ばかりを巡っているために、感覚が田舎の基準に慣れつつあるせいだ、と言えなくもなかったが。
―――いや、それにしても多すぎる。どう見ても不必要な自走車が……。
慣れない人混みを掻き分け、王宮方面へとクロエが向かっていた、その時だ。
「クロエ!」
不意に背後から呼び止められ、クロエははたと振り返った。
声は、路傍の露天から聞こえたものらしかった。声の出所と思しき、色とりどりのドライフルーツを並べたその露天の庇を覗き込むと、案の定、そこにはクロエにとって見覚えのある若い男の姿があった。
「あれ? ロベルト君?」
ロベルトと呼ばれたその巨漢は、久々に出くわした旧友の姿に、日に焼けた顔を少年のようによころばせて笑った。
「久しぶりだな、クロエ。何年ぶりだ? こうして王都で会うのは」
「ええと、三年ぶりぐらいだと思います。そもそも君は、随分前にアルバの街へ越したはずでは?」
するとロベルトは、赤銅色の短髪をごりごりと掻きながら、困ったように言った。
「いや、戻ったんだよ。半年ぐらい前に、こっちにな」
「あんなにカスパリエの人混みはウンザリだと言っていたのに?」
言いながらクロエは、店頭のドライフルーツを適当に摘み上げた。ぬらりと脂っこいツヤを放つ茶色いその実は、貴重な糖分源として砂漠の旅には欠かす事のできないナツメヤシの実だ。
茶化すようなクロエの言葉に、しかし旧友はつられて笑うでもなく、かえって憮然となって言った。
「いや。あの街はもう駄目だ。とてもじゃないが、まともな人間の住める場所じゃない」
「え?」
意外な言葉に、クロエは思わず干しナツメヤシを弄ぶ手を止めた。
アルバと言えば、北方国境付近でも最大の規模を誇る植民都市だ。王都程ではないにしろ、上下水道や道路などの都市インフラも充分に整い、居住環境としては申し分ない。そんな快適なはずの街を、この旧友は人の住めない場所だと評する。
「何が起こったんです? まさか、北方民族が国境を侵して襲ってきた、とか?」
怪訝な表情で訊ねるクロエに、旧友は「いや」と小さくかぶりを振った。
「違うんだよ。あのレオンってバカ王がさ、いきなり街のメインベントから増幅装置を取っ払っちまったのさ」
「え? ――――増幅装置を?」
「ああ。おかげで、街で使えるプルームの量も減っちまって。住民にとっちゃ、とんだ災難だよ。部屋で暖を取るどころか、夜に明かりを灯すのもままならなくなっちまって―――で、あんまり不便なんで、こっちに戻って来たってワケ」
「それは……確かに災難ですね」
青い瞳を丸く見開きながら、クロエは呆けたように呟いた。
「ったく、いっそ弟のイスマエル殿下が、新しい王に就いて下されば良かったんだ。あのお方の方が、よっぽど俺達下々の気持ちを分かって下さる」
その時、不意に背後の往来が騒々しさを増した―――と思うや否やクロエは、やおら押し寄せた人の波に、たちまちのうちに飲み込まれた。
「何だ? パレードでも始まるのか?」
露天越しのロベルトが興味半分迷惑半分で声を上げる。が、一方のクロエには、露天を挟んだ旧友と同じ余裕を見せる事は適わなかった。あばらが折れそうな程の強烈な圧迫感に耐えつつ、どうにかクロエは顔を上げた。と、そこには、がら空きとなった大通りの真ん中を、腹立たしいほど悠然とした足取りで歩く、一頭の巨象の姿があった。
象の背中には、これまた大きな鞍が設けられ、その鞍の上には、召使に持たせた日傘の陰から町並みを見下ろす、一人の若い男の姿があった。
遠目にもそれと分かる、目鼻のすっきりした爽やかな顔立ちに、王家の血を示す艶やかな紅色の短髪。
金糸の縫い込まれた見事なローブは、見るも鮮やかな紫色に染められている。一般人がみだりに衣服へ使用する事を禁じられたその色は、自ずから、着用者のやんごとない身分を明らかにしていた。
「ハッ、噂をすりゃ、バカ王レオン様のお通りだ」
「ロベルト君、こんな公衆の面前で、そんな事を口にするのはまずいですよ」
「なに、構やしないさ。どうせここいらにいる全員、本心じゃそう思ってんだから」
確かにロベルトの言う通り、沿道に並び立つ人々は皆、眉を潜め、陰口を叩き合いながら、象の背中に揺られる王の姿を見上げていた。が、そんな彼らの非難めいた眼差しに気付いてか気付かずか、鞍上の若い王は、あくまで泰然と沿道の人々を見下ろしている。
兵士達の露払いが解け、ようやく大通りに元の往来が戻った頃、ロベルトは露天越しに、クロエに訊ねた。
「ところでクロエ、相変わらずお前は誰に遣える事もしねーで、一人で僻地をぶらついてるのか」
「ま……まぁ、はい」
一方のクロエは、先程の人垣で乱れた上着を調えつつ、こくりと頷く。
「へぇ。せっかく変換士になったってのに、もったいねぇな」
「そう、ですか?」
「ああ、とっとと要職にありついてよ、キレイな女でも見つけて結婚しろよ。その気になりゃ楽勝だろ? 何たって変換士なんだから、引き手数多だろうがよ」
「い、いや、案外、そうでもないんですけど……」
困惑気味な笑みと共に、クロエは首を傾げた。
変換士―――それは、国内でも最難関の学科試験と、体質テストをクリアした者だけが拝する事を許される、極めて希少な肩書きである。
この奇妙な名前の肩書きは、彼らの持つ能力を由来としている。
通常であれば、専用の変換装置を使用しなければ不可能なはずのプルームの変換を、彼らは一切の装置も使わず、思うままのエネルギーへと変換し利用する事ができる。
数百人に一人という割合でしか存在しない彼ら変換士は、その希少性ゆえ、得られる報酬の相場も当然、高い。―――にも関わらずクロエは、変換士の肩書きを受けてよりこちら、誰に仕える事もせず、各地を一人でぶらついて回るだけの生活を続けている。仲間内から変人扱いを受けるのも、ある意味、仕方のない話だった。
その後、ナツメヤシを一盛り買い込んだクロエは、早々に旧友に別れを告げると、再び、変換士学会の本部が控える王宮へと足を向けた。
王宮の城門をくぐり、豪奢な噴水が虹を描く美しい庭園を横目に抜けると、やがて、花崗岩の巨大な円柱がずらりと並ぶ荘厳な建物に突き当たる。
円柱の間を抜けると、そこには、足音一つも百の雑踏に響くほどのがらりとしたホールが広がる。一面に大理石のタイルを敷き詰めたホールの中ほどでは、全身を黒いローブで覆った一人の老人が、椅子に腰を下ろし、何をするでもなくじっと虚を見据えている。
クロエがホールに足を踏み入れるなり、老人は新たな来訪者の足音を耳聡く聞き分け、そして顔を上げた。
「久しぶりですね。クロエ・アルカサル」
男の真っ白な眼球は、クロエの姿を視覚の上では捉えていない。彼はただ、来訪者の足音のみで、その主を判別したのである。
「はい。新しい調査報告書が出来上がりましたので、提出に参りました」
「そうですか、それはご苦労です」
老人はなおも、虚を見つめたまま頷いた。
老人の脇を抜け、踵を鳴らしつつ奥へ進みかけたクロエを、再び老人は呼び止めた。
「近頃は、歩き方まで父上に似てきましたね」
「……父に、ですか?」
立ち止まり、訊き返すクロエに、老人は見えぬ瞳で彼方を見やりながらそっと呟いた。
「一瞬、クロノが来たものと聞き紛いました」
「……」
クロエは何も答えず、ただ黙して一礼を返すと、再び建物奥へと歩みを進めた。
暗い玄関ホールを抜けるなり、クロエは眩しさに思わず目をしかめた。
ホールのすぐ裏には、回廊にぐるりと囲まれた広大な中庭が広がっている。そのむき出しの砂地に反射した真っ白な陽光が、日の届かない玄関ホールの暗さに慣れ始めていた来訪者の瞳に、鋭い一突きを食らわせたのだった。
ようやく眩しさに目が慣れ始めた頃、クロエは庭の中ほどに出来た人だかりと、その人だかりの中心に立つ、一人の若い男の姿に目を止めた。もしやと思ったクロエは、すかさず回廊の円柱の陰に姿を隠すと、今一度、その人物の姿を注意深く観察した。
黒いマントにジャケットとパンツ。さらにその腰には、黒い鞘に収められた長剣と短刀が提げられている。いずれも、変換士の身分を示す装備だ。
が、一方でその髪色は、もう一つの彼の身分を表していた。
春先の日光の下で艶やかな輝きを放っていたのは、彼が王族の一人である事を示す、燃えるような紅色の髪の毛だった。その、絹のように繊細な前髪から覗くのは、麗らかな顔立ちと、妖艶ですらある切れ長の眼差し、そして、ラピスラズリの宝玉を髣髴とさせる、深みを帯びた青い瞳である。
先王の第二王子にして、現王レオンの異母弟、イスマエルに違いなかった。
やがて彼らの前に、薄汚い貫頭着に身を包んだ数人の男達が、兵士達の手によって引き立てられてきた。
男達はいずれも、その足首を鎖によって数珠繋ぎにされている。どうやら彼らは、牢獄から連れ出された罪人であるらしかった。
「さて同志諸君。本日は君達に、つい最近私が編み出した、新しいプルームの利用方法を、披露したいと思う。位置エネルギーと運動エネルギーを複合させた、新たな技術だ」
イスマエルがその涼やかな声で朗々と述べ立てると、周囲にたむろした黒服の男達から、たちまち歓喜の声と拍手が沸き起こった。野太い歓声が、中庭に回廊にひどくこだまする。
しばし、ひとりでに歓声が止むのを待ったイスマエルは、再び中庭が静寂に包まれるや、傍に立つ罪人達に、そっと語りかけた。
「これより君達に、このイスマエル・カスパリアの名をもって特赦を与えよう。おめでとう。たった今から君達は、晴れて自由の身だ」
イスマエルの命令により鎖を解かれるや、男達は、背後の兵士達に小突かれ、慌てて王子の眼前に片膝をついた。
「ただし―――条件がある」
「?」
恭しく頭を垂れていた男達は、その言葉に、やおら怪訝の色を帯びつつ顔を上げた。
不安げな表情を浮かべる罪人達を見下ろしながら、イスマエルはなおも微笑みと共に続けた。
「無事に、この中庭を逃げ出す事が出来れば、の話だが」
王子の言葉に、男達は再び不安げな顔を付き合わせると、ややあって、その恐るべき真意に気付いてか、弾かれたように回廊へと駆け出した。
「さて」
男達の背中を見送りつつ、腰のベルトからそっと短剣を引き抜いたイスマエルは、早速、その短剣に何やら言葉を吹き込み始めた。その一方で男達は、立ちはだかる黒服達を押し退けつつ、なおも回廊目掛けてひた走る。
―――瞬間、独り言を終えたイスマエルの青い瞳に、鋭利な殺意が光った。
と同時に、短剣を手にした腕が、鋭く虚空を一閃する。
「―――!!」
観客達には、瞬きの暇すら与えられはしなかった。
男達の首はもれなく、まるでそういう仕掛けの玩具であるかのように、胴体からポンと弾け飛び、そして、硬い砂地にゴンゴンと鈍い音を立てて降り注いだ。
一方、彼らの首を刎ね飛ばした短剣は、まるで見えない糸に引き戻されでもしたかのように、主の手元へストンと収まる。
五つの首のない胴体と、胴体のない五つの首が転がるだけとなった砂地の庭を、しばし、水を打ったような沈黙が包んだ。が、ややあって、観客の一人が思い出したように拍手を始めると、他の男達も、石化の呪いから解放されたかのごとく、次々と拍手を始めた。
中庭が再び歓声に包まれるのに、さして時間はかからなかった。五人の罪人の死に対し、悼む者は誰一人としてそこにはいなかった。―――ただ一人、クロエを除いては。
ところがこの時、割れんばかりの拍手と賞賛の声に包まれた演者イスマエルの目に止まったのは、卑しい笑みを浮かべて彼に擦り寄る御輿担ぎの群れなどではなかった。
「君」
「えっ」
唐突に声をかけられ、クロエははっと顔を上げた。その視線が、殺戮を終えてもなお微笑みを崩さないイスマエルの優美な眼差しと鉢合う。
「名前は何と言うんだい? 君」
「ク、クロエ、アルカサルです……」
強張った喉から搾り出された答えに、途端にイスマエルは、その端正な顔を嬉しそうにほころばせた。
「なんと! 君があの脱プルーム論で有名なアルカサル君か!」
まるで旧知の友人に出くわしたかのような歓迎ぶりに、クロエは戸惑うを通り越し、完全に面食らった。一方のイスマエルは、クロエの混乱などまるで知りもせず、平然と死体の海を踏み越えながらクロエに歩み寄る。
片膝を付こうとするクロエを制しつつ、イスマエルはなおも溌剌とした口調で続けた。
「君の論文は、既にいくつか拝見させてもらっているよ。いや、君の研究テーマはなかなか興味深い。今やプルーム枯渇説を唱えているのは、この広い学界でも、もはや君一人しか残ってはいないからね」
「はい」
「そうだ。良ければこの後、私と共に軽い食事でもどうだね? 君とは以前から、一度意見を交わしてみたいと思っていたのだ」
「い、いえ、殿下と一緒に食事など……めっそうもございません」
畏まるクロエに、イスマエルはいたずらっぽい笑みを浮かべると、頭半分は低いクロエの顔を覗き込み、からかうように言った。
「変わっているね、君は。世の中には、目を瞠るほどの金貨を突き出しながら、私と一席を共にしてくれと願い出る人間すらいるというのに」
「申し訳、」
「―――というのは冗談だ。いや、決して冗談ではないのだが……ただ君とは純粋に、同じ学問を究める者同士、学友として言葉を交わしてみたかったのだよ」
「……学友として、ですか」
ちら、とクロエは、イスマエルの背後に広がる血の海に目をやった。クロエには、他人の命を何の呵責もなく奪っておきながら、その見物人を平気で食事に誘うような人間を友人に持つ趣味はない。―――だが。
「よし、決まりだアルカサル君。早速、王宮の方に席を用意しよう」
断りの文句を探す間に、イスマエルの腕に肩を捕えられたクロエは、早々と、言い逃れる機会を失ってしまった。
クロエがイスマエルとの会食を渋ったのは、単に、人を斬り殺した直後の血なまぐさい人間と共に、食事を摂る事が躊躇われたためではなかった。また、自分のような平民ふぜいが、王族と食事の席を共にする事に畏れ多さを感じたから、という理由でもなかった。
「相変わらず、君は脱プルーム論に基づいた研究を進めているようだね」
そう言って、テーブルを挟んでクロエの向かいに座るイスマエルは、その形の良い唇を、ぶどう酒でそっと湿した。
「は……はい。申し訳ありません」
「謝る必要などないだろう。君自身は、自分の理論が正しいと信じた上で、その正しさを証明するために、証拠を探す努力を続けているのだから」
「……はい」
「で、肝心の研究の方は、進展しているかね?」
「……いえ、それほどは」
「そうか」
煮え切らないクロエの答えを、イスマエルはさして気に止める風もなく聞き流した。
学会本部からさらに奥、王宮の見事な中庭を眼前に望むテラスで、二人は共に同じ食卓を囲んでいた。だが、軽快なお喋りと共に次々と食事を口に運ぶイスマエルとは対照的に、クロエの方は、いっこうにそれらへ手を伸ばす様子を見せない。
頑なに石像のまねごとを決め込むクロエを見かねてか、ついにイスマエルはテーブル越しに声をかけた。
「見たところ、ちっとも食が進んでいないようだが、ひょっとして、このような料理は好みではなかったかい?」
クロエの目の前には、普段の旅暮らしであれば絶対にありつく事もなければ、まして、目にする機会もない豪華な料理が所狭しと並んでいた。魚の香草焼きに、ヤギの乳から作られたプディング、バターの匂いも香ばしい平パンに、極めつけは銀の大皿に盛られたふんだんなフルーツが、食卓を色鮮やかに彩っている。イスマエル曰く、これは少し軽めの昼食との事で、晩餐の卓にはさらに豪華な食事が供されるのだという。
「い、いえ、とんでもありません。その、むしろ、あまりに豪華すぎて……」
旅の道中は専ら、焼きしめた平パンとドライフルーツ、チーズなどの保存食で食い繋ぐクロエにしてみれば、温かいというだけでそれは既に充分なご馳走だった。まして宮廷付きの料理人が、王族とその友人のために腕によりをかけた料理ともなれば、クロエにとってそれはもはや、ご馳走を通り越し、未知の食べ物に近かった。
だが、彼が目の前の料理になかなか手を伸ばす事が出来なかった理由は、これも単に、料理があまりにも豪勢だったから、という事だけでもなかった。
なおも頑なに身を縮めるクロエの様子に、ふと、その理由を察したイスマエルは、先程まで自分が啜っていたスープの皿を、クロエの目の前に突き出して言った。
「飲みさしで悪いが、こちらをあがりたまえ、クロエ君」
「え?」
「警戒しているのだろう? 毒を盛られるのではないかと」
思いがけない言葉に、クロエはその空色の瞳を丸く見開いた。一方のイスマエルは、なおも穏やかな笑みを湛えつつ、そんなクロエをじっと見据えている。
「恐らく、君はこう考えているはずだ。脱プルーム論を唱える人間が、近年になって急速に減少したのは、彼らの存在を良しとしない私が、何らかの力を学会に働かせたためだ、と……」
「い、いえ……、そんなつもりは」
「いや、あるいはもっと直接的な方法、例えば君が想像したような、」
「そんな、本当に、私は何も」
すかさずクロエは、イスマエルの言葉の続きを遮った。が、その狼狽が、かえってイスマエルの洞察の正しさを証明する結果となっている事に、不幸にもクロエは気付いてはいなかった。
「安心したまえ、クロエ君」
「?」
「君が変換士である限り、私は決して、君をペン以外の手段で殺すような事はしない」
「え……」
「なんてね。冗談だよ冗談。君は私の良き友人だ。殺すだなんてそんな」
カラカラと軽快な笑い声を響かせるイスマエルに、しかしクロエは、ただただ苦笑で返すより他はなかった。
不穏な会話を切り上げるべく、クロエは、今度は自ら話題を切り出した。
「ところで殿下。先程の術は、一体どのようにして……その」
クロエの質問が的を射たのか、イスマエルはやおら、そのラピス色の瞳を少年のように無邪気に輝かせた。
「ああ、あれは刀に充填したプルームを、ある一定の割合で位置エネルギーと運動エネルギーに変換させて飛ばす術さ。原理としては―――そうだな、例えば」
得意げに語りつつ、イスマエルは先程の短剣をすらりと鞘から引き抜いた。いつしか血糊は拭き取られ、漆黒の刀身が、陽光を反射するでもなく、ただ持ち主の手の中で静かに佇んでいる。
艶のない漆黒の刀身を誇るこの剣、通称モノリス刀は、金属ではなく、ある特別な鉱石から削り出されて作られている。
カスパリア南西部の鉱山でのみ採掘される鉱石、通称モノリスは、プルームの蓄積能に極めて優れ、また同時に、命令に応じて術者の望むエネルギーにプルームを変換し発散する、大変便利な性質を備えている。
通常、このモノリスは、剣の素材と言うよりランプの光源や、暖炉や調理場の熱、それに自走車の動力源等といった生活の中で目にされる機会の方が多い。むしろ刀身に使用されるケースの方が圧倒的に少ないと言ってもいいぐらいだ。
モノリス刀は、刀と呼ばれる割にその切れ味は決して良いとは言えない。むしろ一般の人間にとっては、台所の菜切り包丁の方がよっぽど使い勝手が良いぐらいである。一応、変換士以外でのモノリス刀の携帯は禁じられてはいるものの、たとえ、そのような規則がなくとも、望んでこの刀を帯びたいと思う者は、一般人においてはまず皆無だろう。この刀を、本当の意味で使いこなせるのは、プルームを様々なエネルギーへと自在に変換する事のできる変換士以外には、有り得ないからだ。
そんな、変換士の象徴たるモノリス刀に、イスマエルは命を吹き込むかのようにそっと囁く。
「要請する。残存プルームを運動エネルギーと位置エネルギーに変換……以上、要請を終了する」
言い終えるなりイスマエルは、まるで池に小石でも投げ入れるかのようなスナップで、軽く、短剣を放った。―――が。
イスマエルの手を離れるや短剣は、放物線すら描く事なく一直線に中庭を突っ切ると、庭に植えられた椰子の木々を次々と貫いた。やがて短剣は、三、四本ほど椰子を突き抜けた後、その背後に立つ大理石の石柱に深々と突き刺さるに至り、ようやくその直進を止めた。
「まぁ、こんな風にナイフを直進させる程度の芸当ならば、君にも充分出来るだろう?」
「は、はい。まぁ」
ナイフを直進させるためには、プルームを、運動エネルギーの他にも、高度を一定に保つための位置エネルギーへ変換する事が不可欠となる。同時に二つ以上の種類のエネルギーにプルームを変換させるのは、実は、並大抵の変換士には困難な、非常に高度な技術であった。
クロエの返答に満足げに頷くと、イスマエルは銀皿からいちじくの実を取り上げ、皮も剥かずにかぶりついた。瑞々しい咀嚼音を奏でつつ、なおもイスマエルは揚々と力説する。
「この、二つのエネルギーの割合を随時変化させる事で、先程のように、思うがままの軌道でモノリス刀を飛ばす事もできる。―――まぁ、実はその他にもいくつかコツはあるのだがね……まぁ大体そんな所だよ。理解は出来たかい?」
極めて難易度の高い技術を、さらりと口にするイスマエルに、クロエはただ舌を巻いた。
「さすがは、稀代の天才変換士と呼ばれる、プルーム使いの第一人者であらせられますね」
クロエの賛辞を、イスマエルは軽く笑い飛ばした。
「天才? 確かに良く言われるが、私は自分を天才だと思った事は一度もないよ。これまで私が学会に発表した新術の数も、せいぜい四〇〇が良いところだしね」
「よ……四〇〇、ですか」
まるで謙遜にならない謙遜に、クロエは自身の立場も身分も忘れ、ただ単純に一人の変換士として驚嘆の溜息をついた。
一般的な変換士では、せいぜい一生のうちに一〇〇個の新術を編み出すのが関の山と言われている。つまりイスマエルは、未だ二〇代の若者でありながら、既に通常の変換士の四倍もの新術を生み出している事になる。イスマエル・カスパリアは、王子であると同時に、天才的な、あまりに天才的な変換士でもあった。
「別段驚く数字でもないだろう。若い君ならば、充分に追いつける数字だ。プルーム枯渇説などという古臭い学説の証明は、この際、コルネリウス学長のような老骨達にでも担って頂くとしてだね。君のような若者は、時代を切り開く新技術の開発に労力を注ぐべきだ。そうすれば、君にも充分可能な数字だよ、クロエ君」
やはりそう来たか、と内心で思いつつも、しかし、稀代の天才の言葉には、クロエもただただ頷くより他はなかった。
昼食を終えたクロエは、未だ日も傾かないうちに、早々に王宮の中庭を後にした。
白亜の大理石の廊下は、いずれも人の姿が映るまでに丁寧に磨き上げられ、下手に走ると、ともすれば転びそうにさえなる。もっとも、廊下を行き交う人々は、官吏から貴族に至るまで、皆、悠然と大理石の上を歩いている。たまに召使が、急な用事を頼まれたか小走りに駆けて行く以外は、せわしない王都の中で、まるで王宮のみが時間の流れから切り落とされたかのように、あらゆるものがゆったりと拍動していた。
緑溢れる中庭を、蝶の群れがヒラヒラと舞う。そんな蝶たちの可憐な羽根が遊ぶのは、ローズマリーの香り漂う芳しい微風だ。
「綺麗だな……」
感心したように、クロエが溜息をついた、その時だった。
ぱたぱたぱた……どがっ!
突如、前方から襲った激しい衝撃に、クロエはたまらず尻餅をついた。―――と同時に。
ばらばらばらばら……。
土砂降りが木板の庇を打つかのような耳障りな音が、中庭の静寂を破る。
「な、何だ……?」
どうやら、中庭に目を奪われ、前方への注意が散漫になったその時に、向かいから駆けて来た人物と真正面にぶつかったものらしい。だとすれば非は自分にある。すぐに謝らねば、と、ここまで頭を巡らしたところでクロエは顔を上げた。
そこでクロエの目に入ったのは、床に散乱するおびただしい量のパピルスの巻物だった。中には、落とした衝撃で蜜蝋が剥げてか、だらしなく中身を開け放っているものさえある。
特に覗き込むでもなく、クロエは、目の前でだらしなく開け放たれたとある一巻に目を落とした。
―――嘆願書……?
それは、増幅装置の設置を要請する、とある辺境の街からの嘆願書だった。街の領主と思しき人間が記したのだろう、文面の最後には、街の代表を示す大きな印鑑まで捺されている。
「見るな」
突如その巻物は、クロエの眼前から強引に引き払われた。
「―――え?」
つられるように顔を上げたクロエは、自分と同様、床にへたりこんだままのその人物に、思わず目を奪われた。
―――綺麗、だ。
それは、柔らかな絹のドレスに身を包んだ、一人の少女だった。
白く透けるような肌に、細い首筋、鋭利な目鼻立ちは、美女というよりむしろ、綺麗な造形の少年を思わせる。切れ長の眼差しの奥では、磨き上げられたラピスラズリをそのまま埋め込んだかのような蒼い瞳が、いやに大人びた思慮深い光を放っている。
だが、何よりクロエの目を釘付けにしたのは、その美麗な顔でも、深い蒼色の瞳でもなく、肩口で切り揃えられた見事な紅色の艶やかな髪だった。その髪色の持つ意味に、もちろん気付かないカスパリア人はいない。
「殿下!」
―――殿下?
回廊を歩いていた召使が、否、召使のみならず、それまで優雅に廊下を歩いていた貴族や官吏までもが、咄嗟に少女の元へと駆け寄り、散らばった巻物を拾い始める。だが。
「構うな! これは、私の仕事だ!」
それは、少女の小振りな唇が発したものとは思われないほどの、厳然とした声だった。
その声が廊下に響き渡るや、貴族も召使も一様にその手を止めると、少女に背を向けぬよう気を払いつつ、すごすごと後退った。
再び静寂を取り戻した中庭の隅で、今度は少女が、散らばったそれらの巻物に手を伸ばし始める。と、ようやくクロエは、思い出したように身を起こすと、少女の前に片膝をつき、恭しく頭を垂れた。が、残念ながら、その名前を思い出す事まではかなわず、クロエは、単なる敬称のみで少女を呼んだ。
「も、申し訳ありません。……殿下」
「構わん。私が悪かったのだ。―――ちと抱えすぎたようだ。おかげで目の前が見えなんだ」
「え? これ全部、殿下お一人で……?」
今一度、クロエは床に散らばった巻物を見渡した。その数、数十は下らない。大人の男の腕をもってしても、一人で運ぶにはかなりの難義を強いられる量である。
だが、少女は驚きを露わにするクロエには構わず、なおも淡々と巻物を拾い続ける。そんな彼女につられるように、クロエもまた巻物に手を伸ばす。
「よせ。先程も言っただろう。これは私の仕事だ」
「い、いえ、」
案の定、クロエの手を制する少女に、クロエはなおも巻物を集めながら切り出した。
「私にも責任が……その、中庭の美しさに気を取られておりまして……殿下の方に、全く気を払っていなかったもので」
「……」
怒るでもなく、かと言って文句を言い返すでもなく、少女はクロエの言い分に黙って耳を傾けた。
結局その後、全ての巻物を拾い終えるまで、少女が再びクロエを制する事はついぞなかった。
ところが、いざ巻物を運び始めようとした時だ。
「そなたが持つ巻物を、こちらに寄越せ」
既にその細腕を大量の巻物で一杯にしながら、少女は、未だクロエが抱えたままの巻物の束を、ついと顎で示して言った。
「あの、よろしければ私も運ぶのを手伝いましょうか?」
「構わん。これは皆、私が抱えねばならんものだ」
「ですが、さすがにこの量を一人で抱えるのは……」
クロエが持つ巻物まで加えてしまえば最後、またもや少女は、ろくに前も向けないほどの荷物を抱える事になってしまう。事実、先程も彼女は、そのためにクロエとぶつかってしまったのではなかったか。もっとも、前方に注意を払っていなかったクロエにも十分過ぎるほどの非はあるのだが。
しかし、少女はあくまでも譲る気配を見せなかった。
「確かに、ぶつかったまではそなたにも非があった。だが、ここから先は私の仕事だ。そなたの手を借りる訳にはいかん」
「仕事、ですか?」
奇妙だな、とクロエは思った。先程、召使達は彼女を殿下と呼んでいた。殿下と呼ばれる程の人物の仕事が、荷物運び、などという事があろうはずはない。
「そう。私の仕事―――責務だ。国を支えるという、私の……」
「?」
なおも釈然としない様子を見せるクロエに、いよいよ苛立ちを覚えてか、やおら少女は烈しく怒鳴った。
「とっとと渡せ! 私は忙しいのだ!」
結局、少女の剣幕に気圧されるかたちとなったクロエは、やむなく、手にしていた巻物を少女の腕へと戻した。
方頬で荷物を押さえるべく横を向いた少女は、またしても前方への視界を自ら失した。
それでも少女は、なお毅然とした足取りで歩き出すと、誰の手を借りる事もなく、廊下の向こうへと歩み去っていった。
クロエに許されたのは、そんな少女の小さな背中を黙って見守る事、ただ、それだけだった。




