Cr's are Thinkerー深く、淀みへー
〆
コンクリートが剥き出しになった床には砂埃が降り積もっていた。天井と壁もまた床と同質のコンクリート。壁に嵌められた、くすんだ窓の幾つかは罅が入り、それ以外は全てが割れていた。
窓に切り取られた光の帯は、宙に舞う埃を雪のように煌めかせている。無機質な長方形の箱のような室内は、そのあまりにも感情と情緒のない姿故にある種宗教的であり、森厳とさえしていた。神殿めいたその場所の中心には豪奢な椅子が置かれていた。
張られた上質な紅い革は竜のものであった。意匠の凝らされた肘掛けは木材ではなく、微かに黄みがかった白い素材――竜の遺骨だ。
竜の遺骸を用いて作られた玉座のような椅子に足を組んで座すのは道化師。煌びやかなドミノマスクに黒いマントを羽織った、鳶色の短髪の男。唇に嘲るような笑みを浮かべ、ゆったりと足の上で手を組み合わせていた。
饐えた臭いが充満する埃まみれの廃屋で、しかし彼の周りだけは清い静謐のように感じられた。出で立ちは詐欺師めきながら、しかしそこには貴族のように優雅な空気を彼は纏っている。
薄汚れた廃屋でさえ情緒溢れる背景に変える調和は、しかし一人の来訪者によって崩壊させられる。
入り込んできたのは身につけたシルバーアクセサリーの群れを打ち合わせ騒音を立てながら歩く、悪相凶相の若い男だった。顔には下卑た笑いを貼り付け、剥き出しの腕は鍛えられ逞しい。
「言われた通り、あいつらを攫ってきたぜ?」
低く恫喝するような声で男は言う。
柔らかい短髪の道化師はゆったりと座る姿勢を崩さず、顔だけを男に向ける。
「思っていた以上に首尾よくいったようだな。よい、実によいぞ」
喉の奥でくつくつと笑う男は、若い男の言葉に答えるようで、どこか独り言めいていた。
「あんたが、ねじ伏せたうちの手下どもを連れて、俺のところに来た時は、とんでもねぇ変人が現れたと思ったが、あんたのお陰でうちの金になる女が手に入ったぜ。その点に関しては感謝する」
「何の巡りか、計らずして望むところが同じだったようだが、別段お前たちに助力するつもりなどはなかった。まあ、些か以上に手間が省け、順調に進んでいるのならば、何も問題などないのだろうな」
男には、目の前の超然とした道化師の言っていることの意味が捉えきれなかった。彼の前に姿を現した時からそうであった。意味を問うたところで理解できるような答えが返ってくることがないことを男はすでに分かっていたので、彼も彼の調子で話を続けることにする。
「あんたのくれたあれはいいもんだ。まさか本当に瞬間移動ができるなんてな。あんたみてぇなすげぇ魔術師がいたら、もう怖いものなしだぜ」
「魔術、か」
男の言葉の一部を復唱し、道化師は突然大層面白そうに唇を歪めて嗤った。
意味不明の笑声に男は戸惑う。
「あれは単なる紛い物だ。火と風の覇者と、水と土の奏者の力をくすねて編んだ、ただの模倣でしかない。歪んだ交配でひり出された故に多くを偽るが、奇形児故に何も成さない」
「魔術じゃねぇか、あれは?」
理解できた部分だけに、男は言葉を返す。
「神秘を実現したのではなく、神秘を人の理まで下ろしたものでしかない、というだけの話だ」
「兄貴っ!」
新たな闖入者が息堰き転がり込んでくる。断りもなしに駆け込んできたのは、傷と血に塗れた男だった。彼もまた若い。
無断で駆け込んで来た手下を咎めようとした男もよからぬものを感じ、彼の傍に駆け寄る。
「どうした!? 一体何があった!? 他の奴らはどうした!?」
「全員やられちまった……! 銀髪の男に全員やられたっ!」
荒い呼吸の間隙に、男は言葉を繋いでいく。
右腕はだらしなく垂れ下がり、足はがくがくと生まれたての子鹿のように震えている。顔面は打撲で腫れ、額からは血が伝っていた。その顔にはただ、ただ、恐怖がある。
「どういうことだ!? 一体どうしたってんだ!?」
「伝説の端役、か。随分と早いものだ。やはり素養はあったということか」
変わらず座す道化師は、またも意味の分からぬ言葉を紡ぐ。
悪相の男は振り返り、道化師を睨み付けた。
「どういうことだ? 何か知ってんのか?」
「何も知らぬが、何が起こるのかは分かる。万事は起こるべくして起こることなのだから当然、といえばまた当然」
言いつつ、男の手が煌めく。途端、白い手袋が嵌められた手はいつの間にか何かを持っていた。人差し指と中指の間に挟まれているのは、無数の長方形の紙切れ。表面には何か模様めいた文字が記されている。
男にはそれが何かは分からない。しかし、恐らくは自分たちを助けてくれるものであるのだと予想した。彼が与えてくれたものは、確かに二人の女性を誘拐することの手助けをしてくれていたのだから今回もそうだと信じていた。
「もうすぐ客人がここに来る。我々を楽しませてくれるであろう、楽しい楽しい道化師だ。丁重に迎えるために準備をしよう」
「それを使えばいいのか?」
「ああ。さすれば楽しいことになる。面白いものをより面白く」
喉の奥で道化師はまた嗤う。
底の見えない不吉な笑みだった。
「つまらぬものは、もう少し面白くせねばならぬだろう」
〆