Cr's are Thinkerー深く、淀みへー
用事を済ませて、俺はリーシャたちの元に戻ってきたつもりになっていた。
しかし、リーシャとセシウがいたはずの席に二人の姿はなく、食べかけの料理だけがテーブルの上に残っている。
恐らくセシウが追加で注文したのだろう。積み上げられた皿の高さが一目で分かるほどに伸びている。
鶏がらベースのとろりとした赤黒い餡には挽肉や豆腐が絡みつき、ほくほくと湯気を立てていた。華国の麻婆豆腐と呼ばれる郷土料理だ。本場風らしく、表面が黒く染まるほどに大量の花椒が振りかけられている。
見るからに辛そうな外見をしてやがるな……。
とろみのついたスープが熱気を閉じ込めているため、余計に辛そうにも見える。
「しっかし、あいつらどこ行ったんだ?」
セシウが料理を食べかけたまま、どこかに行くというのは、正直あまり考えられない。あいつは食べ物を粗末にするようなことは絶対にしないはずだ。それが出来たての料理ならば尚更おかしい。
嫌な予感が背筋を滑り落ちる。不安を払拭するように、俺は周囲を見回す。
溢れ返るような数の人が休みなく行き交う街並み。俺は見慣れた紅い髪を必死に探す。
頼むから、言伝もなしにどこかへ行ってしまっただけであってくれ。リーシャに急かされ、食事の途中で連れ出されていたのなら、それでいい。何も文句はない。
だが、俺は同時に最悪の事態も考えてしまっていた。
セシウは確かに強いが、もし単独で《魔族》の奇襲を受けたのなら、勝てる見込みは薄い。リーシャという一般人を庇いながらならば尚更だ。
俺はすっかり気を抜いていたが、俺たちを追って《魔族》がこの街に潜んでいる可能性は十二分にある。あいつらの恐ろしいところは力以上に、姿形が人間と変わらないという点だ。
その気になれば人々の行き交う場所に平然と溶け込むことができてしまう。
プラナがその気になれば、《魔族》の気配はある程度捉えられるが、あいつらが力を抑え、本気で潜行してしまえば、察知することも難しい。あの村でのトリエラがいい例だろう。
予測できなかったというのもあるのだろうが、プラナは実際に相対したトリエラを《魔族》と見抜けなかった。
一人で《魔族》を相手取ったセシウが勝てる見込みは皆無に等しい。
……頼むから、そうであってはくれないでくれ。
ふと人混みの中に揺れる紅い髪が見えた。見つけてしまえば、何とも分かりやすい。人混みから頭一つ飛び出している。
よかった、と思った瞬間、違和感に気付く。
セシウは確かに女性にしては背が高い部類に入るが、それでも女性の中での話だ。こんな人混みの中で頭が飛び出るほどの長身ではない。
違和感の正体にすぐ気付く。セシウは大男の肩に担がれていた。
もう片方の肩にも細身の影。見間違えるはずのない橙の髪。リーシャだ。
大男はのんびりと通りの中心を進んでいく。あまりにも堂々としすぎて、行き交う人々は驚きながらも拐かしている最中だとは思い至らずに通り過ぎてしまう。
そうだ、二人が今、攫われようとしている。
弾かれるように俺は走り出していた。
のんびりと街を散策する人々の間を強引に割り入って進む。
批難の目と、罵声を浴びるが構わず突き進む。人の波を掻き分け、謝罪もせずに進んでいく。
走ろうとしても走れず、歯痒さに苛立つ。人の海に足を取られて、満足に距離も詰められない。
向こうの体は巌のようにでかい。恐らくは、多くが山岳に住まうハルケスト族由来の大柄な体躯だ。二メートルを超える巨体は遠巻きにも目立つし、自然と人も避けていく。勝手に道が開くのだから、向こうの方が有利に決まっている。
それでも何とか人の間を縫って進んでいくが、男は狭い路地に悠然とした足取りで這入っていく。脇道に入るために曲がった男の横顔が見えた。巌のようの顔にはトライバル系の刺青。
まずいとも思ったが好機だ。路地に入れば人も少なくなり、俺が追いつきやすくなる。
見失わぬように大体の位置を把握し、俺も人の波を横断して手近の路地に入り込んでいく。
予想通り路地に人気はない。薄暗く湿った空気に満ちた路地には配管が張り巡らされた壁だけが続いていた。全力で走る。壁や配管を掴んで、失速をせず強引に曲がって、先程の男が這入っていた地点を目指して全力疾走する。
走りながらネクタイを緩め、首元のボタンを外す。なんで背広なんて着てきたんだ。動きにくいだけじゃねぇか。
革靴も走りにくさを助長する。普段着で来れば、こんな歯痒さは感じなかっただろう。
あんな恰幅のある大男、しかも両肩に人二人を抱えていれば、路地での動きも鈍る。この調子なら簡単に追いつけるだろう。
脳内に描き出したマップを元に、最短距離で予測地点を目指す。
細くくねった路地を何度も曲がり、俺は予測地点に到達する――が、いない。
人影一つない。
……振り切られたか?
肩で息をしながら周囲を見回すが、こんな狭い路地に隠れられる場所はない。
考えている暇はない。先程までの相手の進行方角に合わせて、俺は再び走り出す。
幸い、大男の入り込んだこの路地から続く道は、俺が通ってきた道以外は一つしかない。
擦れ違わなかったのなら、進む先は一つしかないだろう。息堰き駆ける。
あの巨体なら嫌でも目に付くはずだ。ここで振り切られても、探し出すことはできるかもしれない。しかし、それまでの間に、セシウやリーシャが無事であるとは限らない。
相手は、何らかの手でセシウを意識を奪えるほどの何かを持っている。それほどの奴が二人を攫って、何も危害を加えないという保証はない。
男の目的はなんだ。リーシャか、セシウか、どちらを狙っていた。
《魔族》に従っているのなら厄介だし、領主の娘を人質とするために拐かしたのなら、それはそれで十分すぎるほど最悪だ。
ここで奪還さねば、どちらにせよ最悪の事態になるのは分かりきっている。
思考を巡らせつつ走っていた俺は配管を掴んで、曲がり角を曲がりきり、そして踵で地面を削りながら急停止した。
続く道はなく、そこは袋小路になっていた。高い建造物に三方を囲まれ、隙間も、入り込めるような窓もない。
……先程の予測地点から、ここに来るまでは一本道だった。あの大男が通れるような隙間はなかったはずだ。
まさか進行方向が逆だったのか?
いや、それにしたって擦れ違わなかったのはおかしい。確かに脇道がいくつか存在したが、それほど多くはなく、あの巨体ならば嫌でも気付くはずだ。
荒い呼吸を繰り返しながら、呆然と袋小路を見つめる。浮いた汗が滴り、額を滑ってくる。シャツは胸に張り付き鬱陶しい。
……どこに行ったんだ。
違う、あいつらはどこに消えてしまった?
守るべき者を見失い、俺は途方に暮れて立ち尽くすしかない。
逸るばかりで、追い縋る手立てが俺の中には何一つなかった。