Cr's are Thinkerー深く、淀みへー
俺たちが祭りを散策しているうちに、いつの間にか昼食時となっていた。俺とリーシャは適当に見繕ったレストランの野外席で昼食を摂ることにした。
簡易性の椅子に二人で向かい合って腰掛ける。リーシャの手前にはボローニャ風のミートソースを絡めたパッパルデッレ。俺の前には、焼いた鶏肉を卵汁でとじたものを米飯の上に載せた丼。所謂親子丼という倭国料理。俺とリーシャの間にはハーブで丸々蒸した、鮮やかな赤いロブスターが皿の上で鎮座している。琥珀色の表面を光らせる鶏肉の甘辛煮と、細切りにした馬鈴薯とコンビーフを炒めて絡めた料理が両隣に並んでいた。
俺とリーシャは目の前に広がる料理を見つめ、黙り込んでいる。
「頼みすぎたか」
「誰が見ても」
「案外行けるかもしれないぞ?」
「どう見ても多すぎるわよ」
つい、セシウやクロームがいる時の調子で頼みすぎてしまった。あいつらからしたらまだまだ腹八分目どころか、腹一分に達するかも怪しい量ではあるが、俺とリーシャにとってはとんでもない量だ。
食べれないわけではないが、腹が苦しくなるのは間違いないだろう。
「まあ、とりあえず食えるだけ食おうぜ。残ったのは俺が食うよ」
「あら、食が細そうに見えるんだけど、食べきれるのかしら?」
俺は箸を、リーシャはフォークとスプーンを手に取りながら言葉を交わす。リーシャは意外そうに俺を見ていた。
「これでも俺は男だ。それなりには食うさ」
「やっぱりそういうものなのかしらね」
変な納得の仕方をして、リーシャはパスタに手をつけ始める。
ソースと共に絡みついた挽肉を器用にフォークで丸め、口に運んでいく。
「ていうか、貴方の使っているそれは何?」
「これは箸だ。倭国で使われる食器だ。たった二本の棒で運ぶ、挟む、摘まむ、掴む、掬う、纏める、巻く、切る、割る、割く、押さえる、剥がす、外す、混ぜる、刺すなどの様々な機能を持つ、構造の単純さと機能性の比率が最も高い優れた道具だぞ」
俺はリーシャの前で箸を開閉してみせながらその素晴らしさを分かりやすく伝えてやるが、あまり理解できてはいないようだ。
「何それ、フォークとスプーンとナイフが一体になったようなもの?」
「それ以上だ」
俺は断言する。
それほどまでにこのツールはクールでスマートでファンタジーなのだ。俺はこの箸こそがあらゆる食器類の頂点に立つと信じて疑わない。
「いいか、このように鶏肉を掴むことは容易だ。さらにこれらの料理を切り分けることもでき、また繊細な料理を持ち上げることも容易い。この倭国の一般的な主食である米飯を食すのに最も適しているのもやはり倭国で生まれたこの箸だ」
俺はなんとも分かりやすく、箸の素晴らしさを実演してやってるのに、リーシャの顔は心底どうでもよさそうだ。むしろ呆れすら混じった目で、俺を静観していた。
「貴方が熱心な倭国好きであることは十分分かったわ」
言いながら、リーシャは手元の紙製のコップに注がれた水を飲む。
「でもその箸は二本の棒なのでしょう? むしろすごいのはそれをそんな風に扱える貴方ではないの?」
思いがけない言葉に俺は思わず次の言葉を見失ってしまう。
突然の事態に脳の処理が追いつかず、ようやく次の言葉が生成された。しかし脳から送信された言葉を音声化するのに口が戸惑う。
「お、お前、あいつらが気付かなかった点に気付く上に、そこにまで至るとはすげぇな」
「そうかしら? 普通にそれ使えるのすごいと思うわよ、私」
この前拉麺食ってる時でさえクロームたちは何も気にしていなかったっていうのに、よくそんなところにまで目が行くよな。
何より思わず褒められて、不意打ちに焦る。
「なんていうか、普通にみんな気付くと思うわよ? 今まで何も言われなかったなら、単に貴方に対してそんなに興味がなかっただけじゃないの?」
そしてさらに思わぬ不意打ちに俺は突っ伏してしまう。
まあ、そこまで気付けば、そこにも気付きますよねぇ普通。分かってはいたけど、気付かないふりをしていた俺の心中までは気付かなかったようですが。
「どうしたの?」
「どうもしねぇよ、いや、全然落ち込んでねぇし」
「落ち込んでるのね」
落ち込んじゃ悪いか、ちくしょう。
いつまでもくよくよしてたって、目の前の大量の料理はなくならないので、食事を再開することにする。
リーシャはリーシャで普段食べない料理が多いせいなのか、次々と料理を取り皿に取り分けていた。
「はい、どうぞ」
料理を綺麗に盛り付けた小皿をリーシャが俺に差し出してくれる。俺はあえて手短な礼を言って、皿を受け取るが、そのリーシャの細かな気遣いが無性に嬉しかった。
「ところで、どうするの?」
皿に触れた刹那、リーシャがふっと囁きかけてくる。
俺は何でもないように装いつつ、リーシャの肩口の向こうにいる監視者へ目を向けた。
遠く離れた建物の影からこちらをじっと見つめている影がある。赤い髪にサングラス、黒いスーツを着込んだ細身の誰かだった。
ここからでは性別が特定できないほどに離れているし、気配も消しているつもりらしいが、物陰から飛び出しすぎた頭と刺すような視線で嫌でも気付くというものだ。
「別に。放っておいてもいいんじゃねぇか?」
声は向こうまで聞こえないだろうが、念のためということで少しだけ音量を下げる。
「そうは言うけど、あのままにしておくのも、居心地が悪くないかしら?」
俺に釣られたのか、リーシャもまた声を小さくした。何故か頭まで下げてるのはどういう意味があるんだか。
却って怪しい気がする。
話しながらも俺とリーシャは普通を装うために食事を進めていく。
「まあ、それもそうか」
言いながらコンビーフと馬鈴薯の炒め物を口に運んでいく。塩やこしょうで簡単に味付けされた馬鈴薯の素朴な味わいに、コンビーフがいいアクセントになっていた。食感的にも慣れ親しんだ馬鈴薯に変化が加えられ、まばらになったコンビーフの歯触りが真新しい。
料理を味わう俺にリーシャもまた刺すような視線を向けてくる。二重になり、いたたまれなさは二乗だ。
「……分かったよ」
対処すればいいんだろ。
リーシャなりに引っかかる部分があるのは無理もない。
姫様を思う存分楽しませるためにも片付けておくとするか。
抜き足差し足忍び足、とはこれまた確か倭国の言葉だったか。
忍んで、抜き差しとは、これまた倭国も破廉恥なものである。
何を言っているんだ、俺は。きっと疲れている。または気が抜けている。恐らく後者だろう。そう分かるくらいには俺も楽しんでいた。
最早自分に言い訳も通用しない。リーシャに祭りを楽しんでもらおうという口実で、俺はリーシャと過ごすこの時間に幸せというものを感じていた。
あいつの見てくれがいいからなのか、はたまた安い同情から来る庇護欲なのか、それともただ純粋にこの時間が楽しいからなのかまでは判然としないが、それでも俺自身が楽しんでいるのは事実だ。
あいつに振る舞わされる今が悪くないものだった。
聡明でありながら、子供のように無邪気で、尊大なようで他人の心中を思い不安に駆られる、大人と子供の狭間に立つあいつの一挙手一投足、あらゆる言動に俺は魅せられていた。
あいつの些細な喜怒哀楽が魅力的に見えてならない。満面の笑みには屈託がなく、哀しみに濡れた横顔さえ胸を締め付ける。
多分、俺はあいつの人柄に惹かれてしまっているのだろう。
一日限りのデートのお相手だというのに、恋人ごっこには引っ張られたのは俺の方だった。
全くみっともない話だ。
それでも今から退くことなんてできない。ここまで来て踏みとどまったところで、妙な苦しみが胸に残るだけだろう。
そんなことを考えるよりも今はこの時間を楽しもう。そのためにもまずは姫様の命令を果たすとしよう。
リーシャから離れた俺は大きく迂回して、追跡者の隠れる物陰に回り込んでいた。どの道、監視してる奴はリーシャに何かをしようとしているわけではないことが分かっていたからこそ出来た遠回りの近道だ。
監視者がリーシャを見守ってくれるなんてのはおかしな話といえばそうだろう。
しかし、俺もリーシャも、追っ手の正体は分かっていた。
壁に張り付いて、必死にリーシャを見つめているスーツの背中を見ながら考える。
赤い髪は頭の下で緩く結われ、シャツの内側に突っ込まれていたが、本来は結い上げられていることを俺は知っている。胸は何かを巻いて潰しているというのも、本来の大きさを知っているからこそ分かることだ。残念ながらセシ――そいつの努力も空しく、胸はスーツの布地を押し上げて、とんでもない主張している。
ぼんきゅっぼんな美しい曲線美を描くボディラインは全然隠せてない。正直何度見ても魅力的な尻である。普段からタイトなジーンズでその尻の曲線美を無自覚に振りまいているが、メンズスーツでもまた違ったよさがあるな。
俺は尻フェチだ。胸も平等に愛しているが、胸は全世界の男性が愛している。クロームだってきっと愛してるはずだ。それと同等に尻が好きな時点で、最早それは尻好きと定義されて然るべきはずである。
そもそも、尻が好きだから、胸はそうでもない、というのは暴論だ。男は女性の体のあらゆる部位を愛してやまないはずだ。その中で特筆して好きというだけで、それ以外がどうでもいいというわけではない。俺たちは嫌いで語るのではなく、好きなもので溢れるほどの愛をぶつけ合わせるべきなのだ。
セシウの尻だって魅力的だし、リーシャのちょっと小振りな尻も魅力的だ。キュリーは、キュリーは、そう、もうすごい。いろいろすごすぎて全部すごい。
というわけで、俺は珍しく欲望に従って行動することにした。
無言でセシウ――あ、いや、その正体不明の追っ手に近付く。追っ手だからしょうがない。隠密行動は基本だ。追っ手ということは武器を持っている可能性もある。スーツを着た者の場合、懐は膨らみから気付かれてしまうので、多くの者たちはスラックスの後ろのポケットに武器を仕込む傾向がある、とたった今頭の中ででっち上げた。
つまり武器を探るために俺の手がそこへ伸びてもしょうがない。相手はメンズのスーツを着ているのだから、きっと男のはずだ。仕方ない仕方ない。
そのまま俺は黒いスラックスに包まれた尻をそっと、鷲掴みにする。
「ひっ!?」
引き攣った声、瞬きの間に赤い髪を振り乱して、そいつが振り返った。
サングラスから透けた目は見開かれている。あまりにも高速で体を反転させたために、眦に浮いていたのであろう涙が弾けて尾を曳き、水の弧を描いていた。
「よう、セシウ、どうしうあばっ!」
言い切る間もなく、全力の拳が俺の顔面へと飛来する。頬に拳がねじ込まれ、踏みとどまれなかった脚が地面とお別れした。視界に映る全てが攪拌機にかけられたようにごちゃ混ぜとなる。次の瞬間には背中に衝撃が走り、肺の空気が一気に押し出される。肺の中に空気はないのに、圧力がなくならず、さらに肺が押し潰されて息が詰まる。
揺さぶられる脳、揺らめく視界、靄がかかった意識の中、駆け寄ってくるスーツが見えた。
何事か叫んでいるようだがよく聞こえない。
あ、ダメだ。落ちていく意識を、掴み止めきれない……。
視界が急速に闇に覆われていく。