Princess of Bramble with Drab Mn—茨の姫と冴えない嘘—
ウェスターを流れるカリギュラ運河の広い河面を小さなボートが行く。船尾に立つ浅黒い肌の青年は帽子を被り、オール一つでボートを進めている。
ボートの中心に行儀良く座るのは年若い男女だった。物珍しげに周囲を見回している様子からするに観光客だろう。青年は二人に何事かを話しながら、ゆるやかに流れる河面をオールで押しのけて進んでいた。
オールに砕けた水が陽光を受けて、宝石のような煌めきを宿す。船首に取り付けられた鉄製の装飾もまた鈍い光を返していた。
太陽の光の真下に広がる河は、光の欠片をまぶしたように眩い。
曳舟道にも観光客が溢れ返っており、街を横断する運河と遊覧する小舟たちを眺めていた。カリギュラ運河はここから南下し、俺たちがいた技術マニアの伯爵がいるエルシアの横合いを抜けて、港町であるベイリックまで続いている。かつては近辺の流通を支える水路の一部であったが、数年前に《魔族》が動き出してからは配下である魔物たちも活発化して、ほとんど使われなくなってしまっている。
何巡も繰り返されている世界で何回も繰り返されていることだ。こうなってしまっては都市間の連絡もそのほとんどが死ぬ。
あとは多数の魔術師による強固な結界を頼りにした大規模隊商に任せるしかない。ヘスチナのような行商人は珍しく、空間拡張魔術を用いて大量の荷物を運ぶ武器商の傍らで各地に物資を送っている。俺の必死の攻撃を避けきったのは、その身一つで魔物が跋扈する地域を渡っているからこその身のこなし故だったわけだ。決して俺の武術が拙いせいではない。
世界の終末が近付くにつれて、人々の生き方は次第に息苦しいものになっていく。この隘路の先には行き止まりが待っていることを知りながらも、人々は今日もまた明るく生きている。まるで明日があることを信じ込もうとするかのように。
俺とリーシャは他の観光客がそうであるように、自分たちがただの観光客に成り上がった気になるように、欄干に手をかけ運河を眺めていた。
リーシャは風に流れる髪を耳にかけ、欄干の上に重ねた両手の甲に顎を載せている。俺はその隣で欄干に腰を預けていた。
俺もこいつも、明るく生きようとする人々とそう変わりはしない。
いつか来るものに目を逸らして、今だけを見ようとしていた。
「幼い頃の私は今日が誰がために賑わっているのか、全く分からなかったわ」
ぽつりとリーシャが言う。
周囲は喧噪に溢れていたが重なり合って判別もできない声は、ただの音でしかなく、くぐもって聞こえた。リーシャの小さな声だけが鮮やかだ。
「あの塔の居住区って屋敷のある階層が最上階なのよ。それより上は宗教的な階層らしくて、普段は立ち入ることもないの。私はある時の今日、その場所にいたわ。確か、七つのお祝いだったかしら。そこから私はこの祭りの景色を初めて見たのよ。変な話よね、私の誕生日を祝ってもらってるはずなのに」
俺は黙ってリーシャの追憶に耳を傾けていた。ただ運河を見つめ、それでも傍からは決して離れなかった。
「綺麗だったなぁ。鮮やかな飾りでめかし込んだ街並みには見惚れたわ。当時はあんまり街並みを見ることもなかったんだけど、それでもあの日だけは特別だと分かったの。父親によくあそこに行きたいとねだったものだわ。でも、父はいつも「危険だから行ってはいけない」の一点張りだったのも覚えてる」
あの過保護な父親だったらおかしくはないだろう。
侯爵は愛娘に危険が及ばぬためにあえてそう言ったのかもしれない。リーシャが貴族の息女である以上、よからぬことを考えている者は必ずいる。
貴族の血を絶やさぬためという考え以上に、一人娘の身を案じる想いがあったはずだ。
極端なまでにリーシャを民衆の前に出さないのも、そういった理由があるのかもしれない。ヘスチナは貴族たちのパーティーの席にも人脈を使って紛れ込むことがあるために知ってはいたが、民衆の多くはリーシャの外見をまともに覚えてなどいないようだ。
ただ、リーシャとパーティーで出会った貴族の言葉が人から人へ伝えられ、その美貌と尊大な性格だけが噂として広がり、広がりすぎてまことしやかに扱われるようになっただけなのだろう。
「その当時でさえ、あれが私の誕生祭であったことは知らなかったし、誕生日を父親以外に祝ってもらったことのなかった私は誕生日が他人に祝ってもらえるものだとも思ってなかったの。今思えば、本当世間知らずだったわ」
「知らなかったのを知ったのは、いつごろだったんだ?」
「いつだったかしらね。ふと、気付いたのよ。本当にふっとした瞬間に、それがそういうものであるって気付いたの」
漠然とした気付きの瞬間。人というのはある一瞬で、何かに思い至ることがある。
今までバラバラだったピースの継ぎ目が突然繋がることはよくあるだろう。
それは海の蒼さが空の蒼さを写し取ったものではないと気付くようなちょっとしたものだ。
俺だって自分の親が母しかいないということ、そして母親となってくれた女性が俺の本当の生みの親ではないという奇妙さをなんとはなしに知った。
しかし、その気付きから導かれる結論がどれほど残酷な真実へと少女を至らせたのか、考えてしまう。考えずにはいられない。
憧れ続けた、どんなに泳いでも決して届かない空のような場所が、本当は自分のためにあった。それを幼かったこいつは、どう感じたのだろう。
街を自由に出歩けるだけで随分とはしゃいでいるとは思った。いくらなんでも大袈裟だと思っていた。
しかし、こいつには今日この日この場所にいることこそが特別だったのだろう。それでも現実は残酷だ。こいつのちょっとした我が儘の全てを優しく抱き留めてはくれなかった。
こいつが、ただ一人の観光客としては街を歩けるということ自体が、そもそも救いであり、酷い仕打ちだ。誰もが祝うはずの者の顔も知らず、その者の苦悩も知らず、ただ自分たちだけが楽しんでいた。
贅沢な悩みだと、人は言うのだろうか。
生まれのいい貴族の娘の、我が儘な願いだとせせら笑うのだろうか。
多くの者はそうだろう。
だからこそ、リーシャは本当の願いを誰にも言わなかったのかもしれない。
あえて、いつの間にか押しつけられた茨姫としての尊大な自分の像に重ねた立ち振る舞いでひた隠していたのかもしれない。
「私はここにいないも同然なのよ。いや、私っていう人間は確かにここにいるけども、エルドアリシアという人物としては誰にも認識されていない。例え貴族のパーティーにいこうと、私がいるはずの場所にいるのは、茨姫といういつの間にか生まれてしまった、もう一人の私とも呼ぶべき何か。私という存在は屋敷の限られた人たちにしか知られていない。それはつまり、エルドアリシアという存在が存在しているのは、あの大きな屋敷一つということ。なんて小さな箱庭の世界なんでしょうね」
ここはリーシャにとって、異国も同然なのだ。
遠く離れた、たまたま同じ言語を話すだけの、文化も価値観も生き方も違う異国。誰も自分を知らず、誰にも関与せず、例え明日突然いなくなったとしても、何の弊害も生めない。
そんな人々が自分の誕生を言い訳に享楽を甘受している。
おかしな話だ。
考えれば考えるほどおかしな話だ。
「それで、お前はそんな自分のことなんかお構いなしに振る舞ってる自分の街を実際に歩いて、どう思ったんだ?」
俺の言葉に、リーシャは曖昧に笑う。
「どう、なのかしら。ずっと憧れていたから、すごく楽しいのは事実よ。でも同時に憎いとも思ったし、意味もなく寂しくもなった。さっきもそうだった」
さっきっていうのはリーシャが突然涙を流した時のことか。
目にゴミが入ったっていうのは誤魔化しでしかなかったわけだ。
こいつの心の内の歓びと哀しみ、慈しみと憎しみ、嫉妬と羨望、それらの感情がどれほど綯い交ぜになっているのか、俺には分からない。
「現実感はなくても、やっぱり私が過ごしているのはこの街だし、私が憧れた場所であることにも変わりはない。子供の時、初めてこの祭りの景色を見た頃から思い描いていたものに劣らない、素敵な場所だとも今日分かったわ。ただ――」
「ただ?」
「怖いわ」
リーシャは短く答えた。
あまりにも漠然としていて、俺には意味が捉えきれなかった。
「私には、この街に生きているという実感が全くと言っていいほどない。そして街の人たちは私を全く知らない。私個人の問題として、それは割り切るしかない。でも、イレイス侯爵家の息女であるエルドアリシアとしてはそうもいかない。私はイレイス侯爵家唯一の跡継ぎであり、いずれはこの街を治めなければならないのよ?」
そうか、ユグテンバーグ=イレイス侯爵の血縁は現在エルドアリシアただ一人。それ以外にイレイス家に連なる者はいない。今後もしユグテンバーグ侯爵が新しい女性を娶り、新たに子息を残すことがない限り、家を継ぐのはエルドアリシアになるだろう。
技術国家の多くと違い、魔術国家は魔術適性に関して女性の方が高い傾向にあることも由来し男女平等の風潮が色濃い。それでも政に関しては、男性が優先されてはいるが、女性を排斥しているわけではない。
自然な流れとして、何の問題も支障もなく、リーシャは家督を継ぐことになるだろう。
「愛着も抱けない、ただ憧れの対象でしかなかった街を統べて、私のことなんて全く知らなかった人たちのことを考えなければいけないことになる。いつか来る、そんな日のことを考えると、ね」
先程俺が感じたとおり、リーシャにとってやはりここは異国なのだ。少なくとも、自分が関わりを持たなかった世界であることは変わらない。
その街を背負う責務が、リーシャには待ち構えている。
自分の居場所も見出せない今のこいつにはあまりにも辛い現実だろう。
「お前はこの街を受け継ぐ決心が付かないのか?」
俺の問いにリーシャは曖昧に顔を歪める。哀しみと寂しさが綯い交ぜになった複雑な表情だ。
同じくその心も複雑なのだろう。
「分からない。私は昔からそういったことを教えられて生きてきたし、当然の流れだとして受け容れてきたつもり。でも不安がないわけではない。それでもその役目を放棄しようとも考えていない。思ってはいるけど、考えはしていない。今日ここに来て、やっぱり私はこの街が嫌とは言い切れない。こんなに楽しそうで、私は今ここにいれて幸せなんだもの」
たどたどしい言葉を連ね、矛盾する想いをリーシャが言語化していく。
河面を見つめていた顔が、ふと空を仰いだ。微かに水浅葱の目は潤んでいた。
「ああ、そうか。どうは言っても、あの七つのお祝いの日に、もう嫌いになれないほど、私はこの街を愛してしまっていたのね」
言葉にして、初めてリーシャは自身の心の奥底に埋もれてしまっていた想いを探り出したようだ。
いつかリーシャが自分の誕生日が誰かに祝われていたことに気付いたように、今またリーシャは一つの事実に気付いた。
しかし、その愛情は生まれ育った地への愛着ではなく、遠い地に馳せる羨望でしかない。長い時を過ごした家族への親愛ではなく、ただ遠くから見つめることしか出来ない焦がれるような恋慕。
一つの街を治めるのに必要なのは愛情なのか、恋心なのか、俺には分からない。
「リーシャ、お前はどうなりたい?」
「よき領主になりたい。この街の全てを愛せる領主に」
「エルドアリシアとしての理想はそうだろう。リーシャとしてはどうなりたいんだ?」
俺の問いかけにリーシャは少しの間考え込み、やがて唇を綻ばせた。
「本当は、よき領主になることで、街のみんなに私のことを知ってほしい。本当の意味でこの街の人々に誕生日を祝ってもらえるような領主として、みんなに愛されてみたい」
声は、少し湿っていた。
震える声を必死に押さえるように、リーシャは耳に流した髪を撫でつけ、浅い息を吐いて、もう一度空を見上げる。
「お前はどうなりたかった?」
「できれば、ただの一人の少女として、この街で暮らしたかった。茨姫が誰かなんて知らず、そんな苦悩も知らず、私が知り得た全てを知り及ぶことなく、私が一番羨んで止まず、それでも妬ましく思ってしまうような一人の少女としてこの祭りをただ楽しいものだと想いたかった」
結局はそれが答えだ。
この子が一目で惚れ込んだ祭りは、一人の少女のためにあるからこそ、その一人の少女にとっては決して届かないものになってしまった。リーシャはこの日この場所にいることを願わないでいられるような立場であったならば、この日を特別に思うこともなく楽しめはずだ。
皮肉な話だよな。
「こんな私の我が儘に巻き込んじゃって、本当にごめんなさい。貴方と一緒にいれて楽しかったわ。それに話を聞いてくれてありがとう。少しすっきりしたわ」
欄干に預けていた体を上げ、リーシャは俺へと向き直る。
目は赤らみ、頬も紅潮していた。それでも気丈に涙を見せようとはしなかった。
強い子なのだろう。この街を背負うことのできる決意があるのだろう。
だからこそ、俺はリーシャが愛おしいコワレモノに見えてしまった。
「ここまで話して、これ以上付き合ってもらうのは悪いわ。夢はそろそろ終わりにしましょう。最後まで勝手でごめんなさいね……」
リーシャはあえて強い口調で言って、この場を去ろうと薄い体を翻す。
俺は迷うこともなく、その手を握り締めて引き留めた。
この先どうするかとか、止めてどうなるとか、いつも俺を躊躇わせる現実的で臆病な部分が驚くほどに出てこなかった。
そうであるのが当然のように、俺は迷わなかった。
振り返ったリーシャが驚きに目を瞠っていたが、決して怒りの色はない。
「今日のお前はただ一人の少女だろ。少なくとも俺はお前に対してそう接してる。なら、そんな一人の少女が我が儘を言って何が悪いんだ?」
「言ってること滅茶苦茶よ?」
涙が零れそうな顔でリーシャは悪戯っぽく笑った。その不安定さが、また俺は愛おしかった。
「お前だって滅茶苦茶だろ? 醒めない夢はねぇが、夢を長引かせてもいいはずだ。今日くらいはな」
俺の破綻した論理に、しかしリーシャは無邪気に笑った。頬を滑る透明な滴など無視して、子供のような笑顔だった。
「もっと名残惜しくなるのに……貴方ってば酷い人ね」
きっとそうなんだろう。
今日という日が楽しければ楽しいほど、リーシャは明日からまた始まるエルドアリシアとしての日々に苦悩することになるだろう。
この辺が潮時だということは俺も分かっていた。
それでも、俺はリーシャといたかった。こいつにできる、できうる限りの何かをしてやりたかった。
これが同情なのか、愛情なのか、自分でもよく分かってはいない。
今日は本当に分からないことばかりだ。男と女なんていつだってそんなもんなんだろう。