Princess of Bramble with Drab Mn—茨の姫と冴えない嘘—
〆
祭りに活気づく街中、クロームはため息を吐き出す。
樹脂製の椅子に座る目の前には樹脂製の丸いテーブル。その上には紙製のカップに注がれた冷たい珈琲。
テーブルの中心には小さな穴が空き、そこには金属製の棒が刺さっていた。空へ向く棒の先端には傘が広げられている。
パラソルの作り出す小さな日陰の下、クロームと向かいに座るプラナは寛いでいた。
喫茶店の軒先に広げられた野外席。クロームたちの周りには同じような席が並び、そして同じように人々が穏やかに賑わう街並みに触れながら、思い思いの時間を過ごしている。
クロームたちは野外席の最も隅の場所に腰を下ろしていた。
野外席に接する道では数え切れないほどの人々が行き交い、皆が笑顔を浮かべ、絶えず重なり合った老若男女の笑い声が聞こえてくる。露店の者たちも、それ自体を楽しむように観光客を呼び止める声を投げていく。
空を走るゴンドラも今日ばかりは煌びやかに飾り付けられ、天井には大量の風船が結ばれていた。地上からでは、ゴンドラを吊すあまりにも細い索条は見えない。そのため、ゴンドラはまるで風船の浮力によって飛んでいるようにさえ見えた。
穏やかな時間。この街にある一切が歓楽に満たされているような光景。平穏、幸福、その文字が示すそのものの世界だった。
それでもクロームの表情は優れない。
「…………」
ため息を吐き出し、鼻先にあり続ける違和感の正体を押し上げる。
向かいの席のプラナはそんなクロームを見て、苦笑いしていた。
「浮かない表情ですね」
「ひねりのない答えで悪いが、その通りだ」
「似合っていますよ?」
プラナの素直な感想。気遣いではないことは分かっていても、あまりいい気はしなかった。
「似合っているのも、それはそれで考え物だ」
「いいじゃないですか。いつもと雰囲気が変わって、新鮮です」
プラナが微笑んでくれることはクロームにとっても嬉しいが、それでも素直には喜べない。
「全く、これではどこぞの眼鏡と同じではないか」
言いながら、クロームは慣れない眼鏡をもう一度指の腹で押し上げた。
そう、高く細い鼻梁にあり続ける馴染みのない感触の正体は眼鏡。
クロームはノンフレームに銀の蔓の眼鏡をかけ、深めに灰色のハンチングを被っていた。
長い銀色の髪はハンチングの内側に押し込まれている。
「眼鏡というものに恨みはないが、どこかの眼鏡と同じ括りになることは納得がいかない。これをかけ続けろというのなら、俺は同じ括りにならないためにあいつを斬り殺さなければいけない気がする」
「まあまあ、抑えてください。帽子をただ被るよりも気付かれにくいとは思いますよ?」
言いつつ、プラナは紅い瞳を細める。フードから零れる白い髪はテーブルの端に入り込んだ陽光を受けて薄桃色に透けていた。まだ陽が昇りきっていないため、真上を向いたパラソルでは陽を遮りきれない。
「気付かれないだろうな。俺も鏡を見た時に一瞬鏡を見ている気がしなかった。あと、無性にあいつを殴りたくなった」
さらりと言うクロームに、プラナも曖昧に笑うしかない。
「慣れれば、案外いいものかもしれませんよ?」
「あり得ない話だが、もし俺がこれに気に入って眼鏡をかけ続けるようになれば、眼鏡が二人になる。はっきり言うぞ。明らかに情けない。あいつがいるから、余計に情けない」
クロームが本当に不本意であることをひしひしと感じ、プラナも苦笑するしかない。
紙製のカップの珈琲を口に含み、クロームは最早何度目か分からないため息を吐き出す。常々、ガンマのため息の多さが気になっていたクロームであるが、今だけはガンマを責められない。
眼鏡にため息を助長する効果があるとしか思えなかった。
「それで……」
クロームはもう一つの懸案事項を顧みる。彼の背中側、野外席の一群の外側、喫茶店の壁から向こう側をずっと覗き見続けている紅い後ろ姿に目をやった。
結い上げた紅い髪すら揺らさず、細い背中はずっと動かない。
ここまで動かない彼女は珍しい。
「セシウ、もういいのではないか?」
「しっ! 気付かれちゃうでしょ!」
クロームよりも大きな声で言って、セシウはすぐに壁の向こうの盗み見を再開する。
恐らく今ここでどれだけ話そうと、対象は気付かないだろう。ただ目を向けられれば、間違いなく気付かれるともクロームは思った。
セシウは必死に隠れているつもりだ。もちろん最初は壁の端から器用に、最低限の部分しか出していない。しかし、よほど対象のことが気になるらしく、少しずつ身を乗り出し、最終的には顔全部を壁から出していた。
すぐに気付いて、最初の位置に戻るが、また同じことを繰り返し続けている。
「二人は二人で楽しんでてもいいんだよ?」
ふと気になったのか、セシウが向き直って二人に言う。
「そういうわけにもいくまい」
「そうですよ。せっかくですし、三人で楽しみましょう?」
クロームとプラナは嫌な顔一つせずに答えてくれる。そんな二人の優しさにセシウは気恥ずかしそうに目を細めて、ほんの少しだけ微笑んだ。
「二人とも……」
クロームは思った。このまま祭りを楽しむ方向に頭を切り換えてくれないか、と。プラナも同じように思っていた。
二人の想いが通じたのか、セシウの体が壁から離れる。
そうしてセシウは口を開く。
「じゃあ、一緒に見る?」
笑顔の提案に、二人は思わず同時に項垂れてしまう。
遠回しな説得は、先程から続けていたが一度たりとも気付かれていない。今のように、火へ油を注ぐような結果にしか働いていなかった。
「……見ないの?」
「……分かった。見よう」
気乗りしないながらも、このまま放置するわけにもいかず、クロームが立ち上がってセシウへ歩み寄る。
そうして壁の端に背中を預け、そっとその向こうにあるものを窺う。
ここと同じような野外席があった。しかし三方は露店の列に囲まれ、残りの部分には簡易的な舞台が設置されている。
その露店の列と列の交差点、席を囲う四角形の角の部分に当たる通り道から、ガンマとリーシャの姿を目視できた。
短時間のうちに、よくこんな絶好の監視地点を見つけられたものだ。セシウの意外な才能かもしれない。
「どう?」
よほど気になるのか、セシウが問いかけてくる。
「……相変わらず苛立つ顔をしている。見慣れない服装のせいか、苛立ちが四割増しだ」
「苛立値増量中だね」
「…………」
こういう些細な言葉遊びの度、クロームは「ああ、こいつはやっぱりガンマの幼馴染みなのだな」と感慨に耽ってしまう。あの口だけが達者の眼鏡と二〇年近く一緒にいて、これだけ真っ直ぐに育っただけでも十全ではあるだろう。
「普通に食事をしているように見えますが?」
どうは言っても気になってはいたのか、いつの間にかプラナも一緒になってガンマの様子を見ていた。
「こっからじゃ何話してるの聞こえないからなぁ……」
そしてセシウも二人を注視する。上からクローム、セシウ、プラナ、それぞれの顔が縦一列に並んでいた。
風船にはしゃいでいた子供がそんな三人の背中を見つけてしまい、思わず立ち止まる。あまりにも異様な光景に子供は手に持っていた風船を手放してしまう。空へ昇っていく風船を追うこともなく、少年はずっと壁に張り付く、大の大人三人を見つめていた。
やがて気付いた母親が子供の目を覆うように隠し、逃げるようにその場から立ち去っていく。
そんなことになど気付かず、三人は変わらず二人の男女の食事を眺める。
「んー、なんとかして会話の内容分からないかなぁ。ガンマはヘタレだから行動には出さないけど、口だけは強気だから……」
「随分、知ってるな」
「う、うるさいなぁ!」
クロームの一言にセシウはムキになって言い返す。
「盗聴魔術ありますよ?」
「あるの!?」
「やめてやれ」
悪のりするプラナと、使ってもおかしくないセシウを言葉で制し、クロームはため息を吐き出す。
「大体、あいつはそこまで考え無しではあるまい。侯爵の息女に手を出すほど軽率ではないと思うが?」
「あれ、クロームがガンマ庇うんだ」
「……そういう損得勘定だけは上手い、狡賢い奴という話だ」
クロームは咳払い一つして言い直す。彼の下では、セシウとプラナが密かに視線を交わし、こっそりと笑い合う。
ガンマとリーシャは普通に向かい合って食事を続けている。途中でガンマが手帳を取り出し、何かを書き留め始めた。
「何をしているんだ、あいつは?」
「さあ、なんか気になることでもあったんじゃないかな」
「気になることがあると、あいつは手帳を出すのか」
「うん、ほんの少しのことでも、いつも書き留めてるよ。なんか、憶えておこうとすると、その分の脳のスペースをムダに使うからって」
「訳が分からない」
「クロームは、忘れたことすら忘れますからね」
渋い顔をするクロームに、プラナが入り込んでくる。
「そうなの?」
「この前も、ガンマとクロームで買い物に行った時、クロームに飲み物を頼んだのですが、買ってきてくれませんでしたし、その上一言もなかったですから」
「ああ、みんなが買ってきたの飲んでる中、プラナだけ水だった時?」
「ええ、それです。クロームは覚えていますか?」
「……そんなことがあったことすら覚えてない」
分かりきっていたこと故にプラナは小さく嘆息する。
「それで仕返しと思いまして、私もクロームに頼まれたものをわざと忘れた時があったんですよ。なのにクロームはやはり一言もなかったです」
「えー! 頼んだことも忘れてるの!?」
「そんなことあったか?」
「ありましたよ」
プラナの声は少しばかり呆れ混じりだった。
「あれ、ガンマ、ずっと手帳見てる? どうしたんだろう?」
セシウの言葉で全員が二人に視線を戻す。
ガンマは頬杖をかいて、ずっとペンを走らせていた。リーシャはリーシャで、急ぐように食事を摂っている。
先程まで休みなく話していたというのに、突然の変化だった。
クロームたちからはリーシャが背中しか見えず、ガンマも頬杖で口許を隠している。セシウとプラナは見えない故により気になり、二人の様子を凝視していたが、クロームだけは別のことを考えていた。
「……本当に俺は忘れてたのか?」
「しっ! 静かに!」
女性二人から同時に制止され、クロームは項垂れる。本当に覚えがなかった。覚えていないことを責められているのだから、当然といえば当然だ。
ふと、ガンマが椅子から腰を浮かせる。女性二人の目が途端に刃のように細められた。
テーブルに手をついて、ガンマが身を乗り出し、リーシャの顔に手を伸ばす。二人の顔が急速に近づく。リーシャは動かない。
ガンマの真剣な眼差しがリーシャの頭に重なって見えなくなる。
同時に、退屈そうに二人の姿を、その行動の意味も考えずに漫然と眺めていたクロームの下から、鈍い音が聞こえた。
見入っていたプラナの頭には何かが降りかかり、二人はそれぞれに視線を向けて、言葉を失う。
セシウの手が、指が、喫茶店の外壁に食い込んでいた。込められた力に指は白み、壁には亀裂が入っていた。
「い、今……」
握力だけで壁を破壊する少女の唇はわなわなと震えている。
クロームとプラナの顔も恐怖に震えている。
「が、ガンマ……い、今何した……?」
セシウの顔が二人を交互に見た。その顔を見てしまったクロームとプラナの顔は青ざめている。
この世で最も見てはいけないものを見てしまった心境だった。
〆