Princess of Bramble with Drab Mn—茨の姫と冴えない嘘—
遮るものが何もない高所に建つ屋敷には、朝日も容赦なく入り込んできやがる。普段よりもほんの少しだけ近くから降り注ぐ陽光は、なんだかいつもよりも眩しくさえ思えた。
その光に寝ぼけ眼を細めながら、俺は部屋の真ん中に立たされていた。
「ほら、ネクタイ曲がってる」
俺の前に立ったセシウが、丁寧な手つきで俺のネクタイの位置を正す。まだ意識が覚醒しきっていない俺は、そんなセシウをなんとなく眺めていた。
「……なんでお前起きてんの」
俺以外は別に寝てていい時間だ。
まだ稜線の向こうから朝日が顔を出し始めたばかりの時間に、なんでセシウは俺の身なりを整えているんだか。
「ガンマ一人じゃ寝坊しそうだったから。ほら、ハンカチ入れて」
手渡されたハンカチを素直にポケットに入れる。
セシウも先程まで寝ていたので、いつもは結い上げた髪は下ろしたまま、パジャマ姿で俺の身支度を手伝っていた。
「別に寝坊しねぇよ」
「そういう割には全然目が覚めてないみたいだけど? ほら、もう一回顔洗ってくる」
「へーへー」
実際、今の自分の状態を鑑みると、セシウの予想は当たっていたのかもしれない。それにしたって、セシウがクロームよりも早い時間に起きるってのはある種の奇跡だとは思うね。
何がこいつをそうさせるんだか。
顔をしっかりと洗い、準備を整えてるうちに自然と目が覚めた。
歯を磨き、髪を整え、髭を剃り、洗面台の鏡に映った自分を改めて見る。
どこにでもいる、黒色のスーツを着た男性の姿がそこにはあった。
細いブラックストライプが入った赤地のシャツに、ダークブルーのネクタイの巻き方はエルドリッジ・ノット。
まさか俺がスーツを着ることになるとは……。
これまでも正装をする機会は何度かあったが、この旅の最中に着ることになるのは予想外だった。
「ガンマー、準備できたー?」
「おーう」
部屋からのセシウの声に応じる。
最後に前髪を指で摘まみ微調整し、指についた整髪剤を洗い流す。
洗面所を出ると、そこにはセシウが立っていた。
「…………」
セシウは何も言わずにじっと俺の顔を見つめてくる。
しばしの間。いたたまれなくなってきた。
「セシウ?」
「あっ……う、うん! 準備万端だね!」
呼びかけると我に返り、セシウは俺に親指を突き立ててくる。
どういうわけかその頬はうっすらと桃色になっているように見えた。
……なぁんか昨日から様子おかしいよな。
「変じゃねぇか?」
「大丈夫だよ。いつもの格好より全然いいかな」
いや、それじゃねぇんだけど。とはいえ勘違いを指摘するのも悪い気がした。
「なんだそりゃ、いつもはイケてねぇみてぇじゃんか」
「はいはい」
せっかくの気遣いをさらっと流したセシウはキッチンへと歩いていく。
普段は結われている紅い髪の毛先がふわりと揺れる。背中全体を覆うような、長く女性らしい髪だ。
なんだよ、ノリが悪ぃな。
「まだ時間あるでしょ? 珈琲淹れようか?」
キッチンからセシウの声。
「あー、頼む。まだちっと眠い」
ソファに腰掛けながら応じると、セシウの笑い声が部屋に転がってきた。
なんだ、これ。普通に仕事する男性の朝だな。
だとしたらセシウはどこに位置するんだろうか。
そんなことをふと考えてしまった。
陽は平原の向こうの稜線を離れた。
出発の時間だ。
「じゃ、アタシたちは後で出るから」
「おう」
部屋の出口で、セシウが俺を見送ってくれる。
「二人っきりだからってリーシャさんに変なことしないように」
「しねぇよ。そこまで節操がねぇわけじゃない」
腰に手を当てたセシウに釘を刺され、両手を挙げて答える。
今の今までそれを全く考えてなかった。俺は無実です。ちょっといいなって思っても無実です。
革靴に汚れがないことを今一度確かめ、懐に収まった銃も確認し、今一度セシウと向き合う。
セシウは今も寝間着のままで、俺はきっちりとした正装。そのアンバランスさが、なんだか少しこそばゆいように思えた。
「……いってくる。お前らも楽しめよ」
ふと口を衝いてそんな言葉が転がり出る。
セシウは俺に対して柔らかく微笑み、小さく手を振ってきた。
「うん、いってらっしゃい。気を付けてね」
そっと背中を押す、その声が、どうしてか胸に沁みた。
悪い気はしない。いつもと同じだというのに、何故今日だけはその言葉が特別に聞こえるのか。
どうしても分からなかった。
それでも、そう思うのが悪いことではない気がした。
誕生祭の中心は下界ではあるが、塔の居住区もまた華やかに飾り付けされ、賑わっている。
一部、中流階級を標的とした、変わった出店が並ぶ通りもあり、金に余裕のある紳士淑女の皆様が品良く祭りを楽しんでいた。人混みの中には、ちらほら見知った貴族の顔をあるような気がする。
こういうイベントで活気づいた街は人の流入が多く、軽犯罪の温床となりやすい。変に下へ降りて、金品を盗まれる危険を冒すより、安全圏で祭りの気配だけを味わいたいのかもしれない。
それでもやはり下界にまで降りて、祭りを楽しみたい人は多くいるようで、ゴンドラの駅は数え切れない人々でごった返していた。
「何これ、何よこれ、何なのこれ」
淡いピンクのふんわりとしたワンピースにカーディガンを羽織ったリーシャは、あまりの人の数にげんなりとしていた。
右肩に流された巻き髪がそよ風に膨らみ、甘い匂いが鼻腔をくすぐる。先日のカジュアルなお忍びの服装に反する、しとやかな服装は真新しい。
「まあ、祭事だからな。そりゃあ混み合うわ」
人混みを眺めつつ、俺は気楽に言う。こうなることは分かっていて、少し早めに出てきたはずなんだが、どうにも考えは甘かったようだ。
ゴンドラは通常よりも細かいダイヤで動いているようだが、それでも乗員数には限りがある。この調子だと、下に降りるまでもう少しかかるだろう。
「それにしたって混みすぎよ。何、この街の人はみんな暇なの?」
「自分の領民に対して酷い言い方だな、お前」
それに混んでいる原因もお前の誕生日じゃねぇか。
時間が惜しいのだろう。リーシャは何度も腕時計を確認し、落ち着かない様子で手提げのバッグの持ち手を指の腹で弄っていた。
「ん? ていうか、お前なら順番無視して乗れるんじゃねぇか?」
当たり前のことに気付く。
こいつがちょっと駅員に声をかければ、すぐに最優先で乗せてくれそうだ。
何もここで行儀良く順番を待ち続けることもないのではないだろうか。
俺の問いかけに、リーシャは唇を尖らせ、上目遣いで俺を睨んでくる。
「いやよ。それじゃあ意味がないわ」
そこで俺は気付く。
こいつは今日一日、本当に一人のただの少女でありたいのだと。
思わず、口許が緩みそうになるのを、俺は何とか抑える。
「じゃあ、何か買ってきてやるよ。この調子だと大分待つことになりそうだしな」
「それなら私も行くわよ?」
「いいんだよ。リーシャは並んどいてくれよ」
後ろを見ると、すでに長い列ができあがっていた。俺たちは早く来た分、かなりマシなようだ。
ここからまた最後尾に並び直すのは流石に避けたい。
リーシャは納得がいかないようで眉根を寄せ、批難するように俺を見つめてくる。
「接待してもらうために、あんたを選んだわけじゃないんだけれど」
どうやらリーシャは、自分が貴族の娘だから気を遣われてると思っているらしい。本当にどうあっても、普通のデートがしたいんだろうな。
細かいとも思ったが、そこまで徹底しようとするからこそ、本気さも伝わってくる。
俺は胸に手を当て、穏やかに微笑んでみせた。
「美しい女性に尽くすのは、男の義務の一つなのですよ。お嬢様」
そう言って粛々と一礼してみせると、リーシャが悪戯っぽく笑みを宿していた。
「デートの時、出来るだけ一緒にいたいって願うのは、女性の権利ではなくて?」
いじらしい言い方に、少しどきりとする。
俺ってば単純。男は大概単純な気もする。
こう言われると、俺は返す言葉がないし、何か言葉を返してしまうほど野暮にもなれなかった。
「じゃあ、下に行ったら、どこかよさそうな場所を探して、食事にするか」
俺の答えに気をよくしたのか、リーシャは大輪の花が咲くような笑顔を向けてくる。
普段の尊大な態度とは正反対の少女らしい笑顔に、また胸がどきりとしてた。
ヤバい。俺のギャップに対する弱さが露呈する。あとシチュエーションにも弱い。美人にも弱い。
ていうか大体弱い。
「そうね。うちの使用人に聞いたんだけど、毎年人気のお店があるそうよ。そこに行ってみましょう」
そう語るリーシャの横顔は本当に楽しそうで、はしゃぐ姿は一人の年頃の少女そのものだ。
俺はすでにこいつとのデートを受けてよかったとさえ思っていたし、選んでもらえたことが光栄でさえあった。
街の広場には樹脂製のテーブルと椅子が並び、人々の休憩所となっていた。その三方を囲むように出店が並び、多くの人々はそこで買った食事を摂っている。出店が並ばない場所には代わりに舞台が設置され、今も女性の歌手が歌っているところだった。
幾人か耳を傾けている者もいたが、ほとんどは聞き流し、のんびりと食事をしている。
俺とリーシャも安物のテーブルを挟んで席に座り、アルダーの民族料理をそれぞれに食していた。
薄切りの牛肉や、マッシュルーム、たまねぎをバターで炒めたものに、粒マスタードやサワークリームを絡め、塩やこしょうで味を調えたものをパスタの上に盛った料理だ。
柔らかい肉は歯触りがよく、特有のしつこさもない。こんな早い時間から重いもんを喰わせるのかとも思ったが、これならば胃がもたれることもなさそうだ。
「これは確かに美味しいな」
「そうね。あとで、あの子にはお礼を言わないといけないわね」
素直な感想にくすくすとリーシャは笑う。民族料理特有の素朴な味わいにご機嫌なようだ。
俺自身も割と気に入ったので、味を覚えて、セシウたちに作ってやりたい。
今のうちに分かる限り、材料を書き留めておくか。
自分の雑な字をリーシャに見せたくはないので、見えないように手帳を持ち、書き記していく。
「何してるの?」
「いや、今度自分で作ってみようと思ってな」
「作るって、これを?」
リーシャは自分の手元のアルダー料理を一瞥する。
「そのまま再現するのは難しいが、まあ大体の感じを真似るのはできるだろ」
「できるの?」
「できねぇの?」
……二人の間に何とも言えない沈黙がやってくる。
あれ、もしかしておかしいのって俺の方?
不用意な発言だったかと思い、場を誤魔化す言葉を必死に考えていると、リーシャがぷっと小さく吹き出した。
「あんたってすごいんだか、すごくないんだか、よく分からないわね」
「なんだそりゃ」
「いや、なんとなくそんな感じがして、ね。でもすごいわ。いろんなことができるのは確かでしょ?」
「そうでもねぇよ」
リーシャの素直な賛辞に、俺はつい言葉を濁してしまう。
先の街での一件で、多少は勇者一行においての役目は受け容れることができつつあるが、それでもまだ感覚的に慣れていない部分もある。
習慣となってしまった、逃げの言葉はまだ抜けていなかった。
「前の体術だってすごかったじゃない。男どもを簡単に倒しちゃって」
ああ、そういえば、リーシャと出会うきっかけはあれだったか。
つい二日前のことだっていうのに、なんだか懐かしいな。ここに来てからも、いろんなことがあったからか。
本当行く先々で平穏には終わらないのが俺たちの旅の常だ。
「まあ、一応はそういうことの多い立場だからな。そうは言っても、クロームやセシウには負けるよ」
「そうなの? あの人はともかく、セシウも?」
不思議そうにリーシャは首を傾げる。セシウの外見からは、確かに分からないだろう。
「あいつは強いぞ? 身体能力だけならクロームより上だ」
「へぇ、なんだか意外ね。全然そうは見えないわ」
「そりゃあな」
俺だってそうは見えない。それでもあいつはあんなナリで《魔族》と拳でやり合っている。その力の大部分は竜革のグローブやスニーカーに付与した地の魔術による強化ではあるが、それでも最前線で最も敵に近づき、最も危険を冒して戦っているのはあいつ自身だ。
その決意の強さには俺でも驚かされている。
「ま、それでも別にあんたがすごくないってわけでもないしょ?」
リーシャは牛肉を刺したフォークでパスタを絡め取りながら、話題を最初の部分に戻してくる。遠ざけたはずなのに、リーシャは忘れていなかったようだ。
「すごくねぇだろ、どう考えたって」
一度否定してしまったので、今更素直に賛辞を受け取るのも情けなく、同じような返しをしてしまう。俺のプライドってば末端価格でも最安値。
「確かにあんたの周りの人は輪に輪をかけてすごいかもしれないけれど、あんただって私から見たら、すごいの内に入るわよ」
言って、リーシャは肩に流した髪を手で押さえつつ、フォークに巻いたパスタを口に運ぶ。少しだけ大きめに口を開けて、フォークを咥える仕草はどこか艶めかしくさえあった。
以前見た食事の時は、もっと丁寧で上品な食べ方だった気がするが、恐らくはこちらの方が素なのだろう。それでも優雅さを欠片も損なわない辺り、美人は得だ。
「買いかぶりすぎだろ」
俺のさらなる否定に、パスタを嚥下したリーシャは曖昧に笑う。いや、呆れ混じりと表現すべきか。
「あんたからどうかじゃなくて、私からの感想よ。それに……」
リーシャは目を伏して、残り少なくなったパスタをフォークでつつく。
「なんだかんだ格好よかったわよ」
小さな声で、リーシャは言う。
舞台上の女性の歌声に消えてしまいそうなほどにほっそりとした声だったのに、俺の耳へはしっかり届いた。
「…………」
「ちょっと、黙らないでよ」
少しばかり頬を赤らめて、リーシャは批難するように上目遣いで俺を見てくる。
面食らって、咄嗟に言葉が出るわけないだろ、馬鹿。
俺はため息を吐き出して、手帳へ材料と味のざっくりとした感じを書き留める作業を再開させる。
「お前は、そう思った相手を金で雇ったのか」
「うるさいわね! 別にいいじゃない! 事実危ない目に遭ったんだからいいじゃない!」
フォークを持った手でリーシャはだんとテーブルを叩く。突然の騒音に周囲のテーブルについていた客が批難や驚き、好奇の目を向けてくる。
つい大声を出してしまったリーシャは愛想笑いを浮かべて、周囲の視線へ曖昧に頭を下げてから俺を睨め付けてきた。
「笑ったり、怒ったり、大忙しだな」
俺は口許を覆うように頬杖をかいて、ペンを走らせ続ける。
「誰のせいだと思ってんのよ」
「自業自得だろ」
言い返すと、リーシャが机の下から足を蹴ってくる。足が長いことで。
つぅか痛ぇ、痛ぇ。案外蹴る力が強い。
それでも俺はメモを続けていた。もう粗方の書き出しも終わったというのに、ずっとペンを走らせ続けている。
顔を上げるわけにはいかなかった。恐らく俺の頬もまた、リーシャと同じような状況だったから。
なんだ、これ。本当に恋人同士のデートみてぇじゃんか。