Unwelcome Cr—招かれざる言葉—
足下に広がるのは雲の海。
どこまでも広大な海の隙間から見えるのは大草原。塔の周囲に広がる街並みは、ここからではあまりにも小さく、視界に収めることは叶わなかった。
灯台の元は暗く、また近くにあるものほど視認できないものだ。
ただ流れすぎていく雲を海と言うのならば、塔の街並みの端で張り出したそれは岬と呼んでしまってもいいのかもしれない。
こんな高所にある石造りの建造物の上だというのに、居住区から離れた先には緑が茂っていた。足下に広がる瑞々しい草たちはそよ風に波打っている。地上にいる時と何も変わらない、沿岸部のような光景だった。
その岬の先端には色づいた花々に囲まれたベンチが設えられていた。
居住区に背を向け、白い海に臨むベンチで揺れる、左右で結い分けた橙色の髪。俺はその背中に静かに近づく。
「ここにいたのか」
「あら、どうしたの」
不意をついたというのに、リーシャ――エルドアリシアは特に驚いた様子もなく、どこか億劫そうなほど緩慢に俺を顧みた。
先程まで、あんなに尊大に、強い意志に輝いていた瞳も眠たげに伏せられ、声にも覇気がなかった。
「まさかあんたが来るとはね。よくここが分かったものだわ」
言葉こそ偉そうだが、どうにも弱々しい。
「使用人に聞いたんだよ。屋敷にいないならここにいるって」
「あー、そういうことね。納得」
そっと目を閉じて笑い、エルドアリシアはまた雲海に向き直った。
やはり様子がおかしかい。どうにもつっかかりがない。
会って数時間だが、おかしいことは分かる。それでも会って数時間じゃどうしてそうなったのかは分からない。
気がかりで探し出したのはいいものの、だからといって何かができるわけではなかった。
「私に一体何の用事? もう用件は済んだのでしょう?」
振り返らずに、エルドアリシアが静かな声で言う。
「その様子だと分かってるみたいだな」
「そうね」
その声は自嘲に湿っていた。
「あの人は、結婚の申し出を断ったのでしょう?」
「……ああ」
躊躇しながらも答える。
正直意外だった。地位と権力、そして際限ない金であらゆるものをほしいがままにしていると伝え聞く茨姫のことだ。縁談を断れば怒り狂うのだと考えていた。少なくともプライドを傷つけられ、激情を露わにすると予想していた。
なのに現実はどうだろうか。
今まで耳にしていた茨姫という名前とは明らかに異なる佇まい。そこに刺々しさはなく、ただ途方に暮れる少女の姿がそこにはあった。
「分かってはいたけれど、ダメね。それでも、と最後に足掻いてはみたけど、あの人はそうよね」
一体、エルドアリシアとあのおっさんはどういう関係で知り合ったんだろうか。
どうしてこいつはあんな変人に結婚を申し出たのか。
それは俺の知り及ぶところではない。また踏み入っていい領域でもないのだろう。
「エルドアリシア――」
「その名前で呼ばないで。リーシャでいいわよ。今更畏まられるのもいや」
「そうか? ならお言葉に甘えさせてもらうか。今更呼び方変えるのは俺だって落ち着かないしな」
それはセシウの時に十分苦労した。
あいつが昔の名前を捨ててセシウとなった時、お互い新しい名前に馴染めず、距離感さえ分からなくなった。ああいうのはもうごめんだ。
「隣座ってもいいか?」
「よくてよ」
落ち込んでもなお気品よくリーシャは応じる。
許可をもらい、俺はそっと隣に腰を下ろした。
「とある森のドアーフ族に伝わる、次の日幸運になれるおまじないって知ってるか」
「何それ。本当に幸せになれるの?」
「その日さんざん酷い目に遭って、次の日を相対的に幸せに感じるっていう奴なんだけど」
「さすがドアーフね」
異種族を人類と平等に扱うことを推奨する権利団体に聞かれたら、袋叩きに合うこと間違いなしの会話だった。
「昔、セシウたちと宿に泊まった時に時間を持て余して、俺が買ってきたトランプで遊ぼうということになったんだけどな、カードを切ろうと言ったらクロームが剣を抜いてきた」
「ふふ、勇者なのに」
リーシャが俺の隣でくすりと笑う。
「子供の時待たせるようなことがあった時でもセシウは文句一つ言わず待っててくれた」
「あら、落ち着きがなさそうなのに、意外ね」
「裏を見ろ、と両面に書いた紙を渡しておくと一時間くらいは保つんだ」
「あはは、何それ」
「ちなみに今でも十五分は通じる」
「あはは、すごいわね、あの子」
「クロームはいつも日記をつけているんだが、日記の中での一人称が僕だったりする」
「えー、本当に? 勇者ひどいわ、勇者なのに」
声を上げて、リーシャは楽しそうに笑う。
「ついでと言っちゃなんだがプラナは昔、魔導具の精製で小遣い稼ぎをしていたらしいんだが、ある日飛び込みで短期間の内に魔導具を数千も納品しなければならない仕事が来たそうだ。急ピッチのためということもあって、クライアントも欠陥は一割までなら大丈夫です、と言ったらしい。その時プラナは至極真面目な顔をして、こう答えた。分かりました、では欠陥品用の設計図もお願いします、ってな」
リーシャが今度はくすくすと控えめに笑った。
その横顔が少しだけ柔らかくなったのを見て、俺は背凭れに体を預ける。
「あんたって本当にお喋りなのね」
一頻り笑ったリーシャが俺と同じように凭れ架かり、ふっとそんなことを言う。
「俺のくだらない話でよければ、今晩家に帰らなくてもいい程度には保たせられますとも? お嬢様」
「頼もしいわね。でも大丈夫よ。ちゃんと帰るわ」
「それは何より。お前のお父様とだけ話を続けていたら、うちのクロームが明日辺り舌と表情筋を筋肉痛にしちまいそうなんだ」
「お父様喋るの大好きだから。それも次々話すから、大変なのよ」
娘から見てもそうらしい。
ああいう商売の傾向した人間は自分の土俵に持ち込むのがやたら上手いから、余計に疲れるのだ。
自分が明るくない分野の話を聞けるのは有り難いが、それも続くと疲れるわけだ。聞き手に回ってる時の方が、考えることは多い。
「ま、その疲れもここからの景色を前にしたらちゃちなもんだな」
「いい眺めでしょう? 私のお気に入りなの。嫌なことがあったりしたら、いつもここに来るのよ」
眼前に広がる雲の海。岬の尖端は艦首にも似て、空を行く船のような気分さえ覚える。
確かに、こんな現実離れした景色を見ていたら、大抵の悩みは吹き飛びそうだ。
俺は息を吐き出し、じっと前方を見つめる。
風が少し強くなった。雲の流れが速くなっていく。
「今すぐ無理に向き合うことはねぇさ。ここには娯楽だってたくさんあるだろ? そういうのに触れて、馬鹿みたいにはしゃいで、忘れててもいいんだぞ?」
「それができたらよかったのだけれどね」
「ていうと?」
「お父様は過保護なのよ。滅多なことがない限り、下には行けないわ。この近辺で何かをしようにも、ね。みんな私を知っているから、変に畏まられるし、お父様に取り入ろうとする人ばかり近づいてくるから、却って面倒なの」
「だから、今日も下であんなにはしゃいでたわけか」
今なら納得がいく。
お忍びでの散策。人並みでいられる限られた時間。
侯爵の息女ではなく、ただ一人の少女としての買い物。そんな些細なものが、こいつにとっては特別だったんだろう。
「悪いことしちまったな」
「いいわよ。あんたたちとの時間も悪くなかったわ。あんたは私の正体を知りながら、普通に接してくれてたわけでしょう? いい夢を見れた」
「大したことはしてねぇよ」
本当に大したことはない。
ただ、こいつと変わらずに接し、また俺たちはいつも通りに過ごしていただけだ。
そんなものさえ、こいつにとってはいい夢だったわけか。
知らなかったとはいえ、勝手なことをしてしまった。
「あーあ、失恋かー。ほしいものは何でも手に入れる茨姫の名に傷がつくなー」
大きく伸びをして、わざとらしいほど大仰にリーシャは言う。
それはリーシャにとっての強がりであり、虚勢であり、そんなことを言えるくらいには本調子へもどってきているということなのだろう。
今はそう思うしかない。
「あんたも大変ね。わざわざ私なんかのアフターケアなんてしゃしゃり出てさ」
言いながらリーシャはしなやかな足を振って立ち上がる。短いスカートから伸びた、その脚線美に恥ずかしながら魅せられる。
顔だけじゃない。リーシャは体のあらゆる部位が芸術品だった。
性的魅力溢れる体に視線を惹かれそうになるスケベな自分を組み伏せて、俺をハードボイルドに苦笑いする。
「別に。困ってる女性を見た時、笑顔にしてやるのは男の義務だからな」
「人の体をじろじろ見るのも男の義務なのかしら?」
気付かれていたか。
もともとその美貌で持て囃されているリーシャは、男のそういった部分にも敏感なのかもしれない。
「ま、いいわ。和ませてくれたお礼ってことにしておいてあげる。あんたたちに対する意趣晴らしも思いついたしね?」
「は?」
とんでもないことを口にしたように思えるリーシャの顔は嫌な予感がするほどに晴れやかだった。
「というわけで、結婚を断られた私のために、一日私とデートしなさいな」
次の日の朝、突然使用人に呼び出された俺たち四人に対してリーシャはそう言い放った。
足を組み、ふんぞり返り、頬杖をついて尊大を体現するかの如く椅子に腰掛けたリーシャは艶然と微笑んだ。
「……は?」
「リーシャは今、傷心の身です。デートなら父である私だって喜んで受けたいところなんだが――まあ、リーシャが言うなら仕方がないことです。もし都合がよろしければ、明日より始まるリーシャの誕生祭でデートのお相手をしていただきたいのです。一日だけ、エスコートしてくれれば諦めがつく、娘は言っています。いや、勇者様たちは多忙な身ですから、無理に、とは言いませんが」
リーシャの隣には本音丸出しで苦笑いをするイレイス卿。本当は一日だけでも愛娘をデートに行かせたくないのだろう。
対してリーシャはにやにやとしながら、立ち尽くす俺たちを眺めていた。昨日言っていた意趣晴らしとはこれのことだったわけだ。
全くあくどいことをしやがる。
「要は明日の祭りでの護衛、ということか」
「言ってしまえばそういうことでしょうかね?」
クロームとプラナが言う。まあ、風情なく言っちまえばそんなもんだし、色ぼけた感じに言えば一日彼氏みたいなもんか。
「いいんじゃない? それだけで許してもらえるなら願ったり叶ったりじゃん? アタシもお祭り見ていきたいし」
今日も変わらずお気楽なセシウの意見も今回ばかりは賛成だ。それで諦めがつくのならいいだろうし、何よりリーシャからすれば街に出る口実にもなるわけか。
楽しいことをして忘れろ、と言ったのは俺だし、否定もできないな。
「いいじゃねぇか、クローム。一日女性と行動を供にするだけだ。いい気分転換にもなるだろ?」
「え? 何を言っているの?」
俺の言葉に何故かリーシャが首を傾げる。
……はい?
嫌な予感がした。
「えーと、今のはどういうことでしょうか?」
「どういうことってそのまんまの意味よ? デートの相手はあんたよ」
…………。
全員が硬直した。クロームも、セシウも、プラナも、イレイス卿も、俺も、時が止まったように凍り付いていた。
ただ一人、リーシャだけが俺を見つめ、にっこりと年相応に微笑んだ。
「よろしくお願いするわ、ガンマ」
……俺はまだ、夢の中にいるのかもしれない。
いや、そうだ。そうに違いない。
頼む、目覚めろ、俺の意識……!