Unwelcome Cr—招かれざる言葉—
ホームを抜けて終着駅から出ると、そこには遙か高空のそれとは思えない街並みが広がる。いつもより近い空の下で繰り広げられる人々の営みは、しかし下界のそれと変わらないものだった。
地上の近代的な建物に比べるまでもなく古めかしい石造りの建物と行き交う人々。道の両脇には幌屋根の露店が連なっている。多くの店先では盛んに取引が行われ、街並み全体が活気に溢れていた。
空中の都市とは思えない、常と変わらぬ風景に少し肩透かしを食らった気分でさえあった。
そして俺の片手には何故か紙袋。リーシャの手には紙袋はない。狐に化かされた気分でさえあった。
そして紙袋に詰まっているのは大量の女物の衣服。断じて俺が着るわけではない。冤罪の要素という時限式の爆弾をとりつけられたような気分だ。
「本当に人が生活してるんだね。こんな高いところで」
俺の隣に立ったセシウが素直な述懐を吐露した。先を歩いていたリーシャが纏められた二つの髪を揺らしながら振り返り、何故か得意気に笑う。荷物持て。
「意外? この塔も立派な居住区なのよ。みんな地上よりは上流階級の人間だけれど。あの辺の露店はみんな商売をしに地上から来た人たち」
「住んでいる標高と地位は比例してんのか? あとなんで俺がお前の荷物持たされてんだ?」
なんとなくの予想を口にすると、リーシャが頷いた。
「ええ、そんなところよ、分かりやすいでしょう?」
後半の問いかけはなかったことになったらしい。標高が高いからかもしれない。そうに決まっている。
まあ、そうだろうな。そんなこったろうと思ったよ。ああ、思ったさ。分かりやすすぎる。
性別、人種、種族、生い立ち、地位を一つも問われず、全ての者が平等に成功の機会を与えられる可能性の街、か。クソッタレてやがる。
優れた土壌があれば、それらを喰らう奴らだって当然いる。分かりやすいほど単純で易しい世界の縮図だ。
「ここは塔の中腹でも下部に入るし、規制や検閲も緩いから、一番露店が多いかしらね。上は上で高級品や貴金属、珍品の取り扱いが多くなるけれど」
俺の内心の感情など知らず、リーシャは説明を続けていく。俺が持っているリーシャが買った衣服に関しては知っているはずなのにお構いなしだ。もしかしたら、半ば強引に持たせたからと言って、その認識が持続していて当然などという思い込みこそが過ちなのかもしれない。天才的な発見は常に当然のように佇立する固定概念が実は薄っぺらい紙に堅牢な城壁を描いただけのものだと気付いた時にこそあるものだ。俺もまた古典的な思考を捨て、常識に囚われないような思考を見出す時がきたのかもしれない。
そもそも報酬が割増しにしてくれると聞いた途端、掌を返し自主的に荷物を持った俺のこともまた忘れよう。
「金持ちほど妙な蒐集癖を持つ好事家というのは多いものだな。どこでも同じか」
辺りを眺めていたクロームがなんとはなしに言う。貴族と顔を合わせることが多いせいか、自然とそういうものを見てきたのかもしれない。
「それは違うだろ。よく分からないのに値が張る珍品の蒐集なんてもんができるのは、そもそも権力のある金持ちだけなんだよ」
「なるほどな。自分で集めた本にお前が未だに押し潰されていない道理はそれか」
クロームの皮肉に俺はげんなりする。
「誰のせいで、そうなってんのか分かってるか? 大飯喰らいの食費と、筋肉馬鹿が何かと買ってくる筋トレグッズ代と、剣しかまともな話し相手がいない寂しい剣士の手入れ用品代のせいで金は減る一方だし、お礼を一切受け取ろうとしない絶滅危惧種のお人好し野郎のせいで増える兆しすらありゃしねぇ」
基本的に俺以外の三人はどう頑張っても金がかかる。
クロームとセシウは大食いな上に、鍛錬のためになら金を惜しまない。
食費のかからないプラナだって、魔術周りでどうしても出費は避けられない。
「お前らがなんで今、片田舎のレストランで腹の出っ張ったおっさんにケツ引っぱたかれながら皿洗いしてないで済んでるか、分かるか? 俺の天才的なやり繰りのお陰だからな? ん? 今ふと気付いたんだけど俺たちにお金がない理由は全部クロームのことのような気がしてきたぞ。というわけでクロームは俺に感謝するべき」
俺の遠回しなようで露骨な嫌味にもクロームは動じず、何か感慨深げに天高くへ視線を投じた。
「この世界には、メガネ目クズ科ガンマ属という耳障りな与太話のような鳴き声を上げ、酸素を二酸化炭素に変えるくらいしか能のない生き物がいるらしい。メガネ目の動物の共通点である眼球保護膜を持つが、クズ科の例に漏れず見る者を無性にイライラさせるそうだ。もしかすると、お前の移動用の台座はそうなのかもしれない、と思い始めてから、俺は夜も眠れない」
「眼鏡は本体じゃねぇっつぅの!」
それと若干、俺の嫌味の性質を吸収しつつあるのがムカつく。このカリスマ野郎は案外飲み込みが早いのだ。ただ、余計なことを覚えるくらいならと、その記憶領域を剣術に当てているだけにすぎない。
人はそういうものを一般的にバカと呼ぶ。真実だ。
「かつてはマケドニア大陸広域に分布していたらしいがな。ヒト科の雌を見ると近づく習性を持ち、特徴である耳障りな三文小説のような鳴き声を延々と上げるそうだ。このうざさはまさにお前の台座のような気がする」
至極真面目な顔で、割と的確なことを言ってくる辺り憎い。
ていうかクロームさんって俺のことそういう風に見てたんですか。分かってはいたけど、俺の女好きキャラも随分と定着したもんだな。
感慨深いものさえあるのは何故だろうか。
「はいはーい、そこまで。続きは後にして頂戴」
俺とクロームの嫌味は、リーシャの手を打ち合わせる音で中止させられる。
互いに不完全燃焼ではあるが、ここで食い下がってもしょうがないだろう。
「全く、あんたたちはいつもそんなことしてるの?」
腰に手を当て、ため息交じりにリーシャは言う。相当呆れているようだ。
「あはは、基本的にはこんな感じですよ?」
しかもセシウまで余計なことを言っている。
「あんたたち、そんなんでよく一緒に旅なんかしてられるわね」
リーシャは眉根を寄せて、半ば困惑さえしていた。あらゆる世界の法則、原理、規律では説明のできない事態を目の当たりにし、その正体の検討さえつかない識者のように不可解そうな顔だ。
俺もそんな顔をしたくなる瞬間が数多くある。そしてどういうわけか、それはリーシャと全く同じ疑問を抱いた時であったりもする。
ホント、よくこいつとの共同生活が続いているなって頻繁に思う。そして俺の首もどうしてまだ胴体と涙の別れをしていないんだろうか。
ふと視線を向けると、プラナがじっと露店を見つめていた。口を小さく開けて、店先の商品を注視している。大人しいプラナにしては珍しく興味に表情を明るくしているということは、何か魔術に関わるものでもあるのだろう。
「さ、目的地はもっと上よ。くだらない口喧嘩なんてしないで、さっさと行きましょう」
リーシャの無遠慮な言葉に瞬間、プラナの顔が絶望色に塗り固められる。何もそこまでがっかりしなくても……。
こと魔術に関しては、まるで子供のような奴だな、本当。
少しは気を回してやるか。
「なぁ、プラナの奴、ちょっとここ見て回りたいみたいだぞ」と、親切な俺はクロームにこっそり耳打ちしてやる。あとで時間でも見つけて二人で買い物を楽しむといいだろう。さすがのクロームもそれくらいの気なら回してやるだろう。
それを聞いたクロームは静かにプラナの様子を窺う。そのままクロームは立ち止まり、体ごとプラナに向き直った。
「何? プラナ、何か見たいものがあるのか?」
「アホかっ!」
全員に聞こえる声で訊ねるデリカシー皆無のクロームに対して、自然と出た罵倒と共に俺は勢い余って石頭を叩いてしまう。ゴンと鈍い音がした。殴った俺の手だけが痛い。
重厚な振動音と共にじゃらじゃらと揺れ動いた鎖が音を鳴らし、どこかにあるであろう巨大な歯車が億劫そうな音を立てて回る。俺たちの立つ鋼鉄の床がゆっくりと上昇を始めると共に揺れて、踏みとどまろうと自然足の裏に力が入った。
鉄製の黒い格子の向こう側には今までいた階層や、城壁の向こうに広がる草原の果てにあったはずの山の稜線さえもが一望できる。商売に賑わう街を行き交う人々と風に波打つ緑海。
距離感の喪失は現実感さえ視界から乖離させる。あまりにも遠く離れすぎた眼下の光景は同じ時間軸に営まれているものとは到底思えない。
俺が世界から別れていくような感覚など知らず、昇降機は次第に速度と高度を上げていく。
「あんまり端にいると危ないわよ?」
昇降機の無味乾燥とした鋼鉄の床の縁から風景を眺めていた俺の背中にリーシャの言葉が投げられる。床の四方を囲むようにあるのは転落防止用の錆び付いた格子だけ。塔に沿うように設えてあるため、一方には石造りの壁もあるが、三方からは景色を一望できる。言い換えれば、何かの拍子に格子が壊れればそのまま真っ逆さま、ということだ。
「今まで事故があったことは?」
「囲いが取り付けられてからの転落はないわ。まあ、装置に巻き込まれた、とかっていう事故ならあるけど」
「なんだ、この格子は後付けなのかよ?」
「もともと塔が建てられた頃から、この昇降機はあったらしいわ。資材運搬用の設備だったのだけれどね。それが今でも名残として使われてるに過ぎないの。これは安全上の問題でね」
言って、リーシャはこんこんと格子を拳で叩いた。
「私が生まれるずっと前のことだからよく分からないけど、当時は塔をそのままの形で保全しようとする人たちも多かったらしくてね、かなり揉めたみたいで、内乱まがいなことにもなったとか」
……どこだって同じようなことをしてるもんだね。くだらない主義主張による不毛な争いとか。
一応歴史的価値も高い建物だし、恐らくはこの街の象徴、骨子と言ってもいい中枢だ。保全しようとする考えるのも分かるし、より確実なものにしようとする考えも分かる。
「ま、最近は目立った事故もないから安心していいわよ、よほど無茶しなければだけどね」
「そうだな。なら俺は大丈夫そうだな。俺は」
俺とリーシャは格子に張り付き、隙間から俯瞰風景を眺める三人を瞥見した。全員が全員、格子を引っ剥がしそうな勢いで格子に体を密着させている。プラナはともかく、クロームとセシウがその気になれば、こんなもの木の枝の如く簡単にへし折られるだろう。
ていうかクロームさん、あんたも随分舞い上がってますね。特に快哉を上げるわけでもないが、なんか背中からうきうきしたオーラが伝わってくる。
「どいつもこいつも、こんな高所からの景観には馴染みがないんだろうさ」
「あんたはどうなの? お澄まししてるみたいだけど、実際は気になってるんじゃないの?」
「そうでもないさ。物珍しいわけじゃあないが、多少は見慣れててね」
これほどの高所の経験はあまりないが、それでもこれ以上の絶景を俺は知っていた。
懐かしい、と振り返るほど昔のことではない。クロームたちと旅をする以前、俺が《創世種》に選ばれた間もなく、俺はこの世に表出した楽園のように美しい場所を見たのだ。
今でも目に浮かぶ光景。天国があるかどうかは知らないが、もし天国を思い浮かべろと言われれば、その妄想の雛形は間違いなくそれだ。
全てを漂白するような眩い陽射し。蒼天の鮮やかな色を宿した海はどこまでも透き通り、そしてどこまでも広がる。
青々と生い茂った植物たちは思うが儘に蔦と蔓を伸ばし、その合間に借りぐらしのように人々が息づく。若草は瑞々しく、色づいた宝石のようでさえあった。
翡翠と蒼玉を敷き詰めたような世界の狭間にある白い砂浜で見た景色。
忘れられない、楽園から落ちてきた一欠片のような世界。
今は喪われ、最果てのその涯に消えた、俺ではなく、ガンマとしての原風景。
往き過ぎたそれは、今もなお俺の胸へと残酷なほど鮮やかに去来する。
遠く想いを馳せる。或いは想いを遠くに馳せる、その随の内に重々しい音を立てて、昇降機が停止した。
上方への慣性が消え入らず、俺の体を揺らし、全てを払拭する。
熱い陽射しは、湿り気のない空気は、鼻を抜ける潮風は、母と呼ぶべき人の子守歌にも似た潮騒は、正に霧散した。
「さ、着いたわよ。さっさと行きましょう」
何の感慨もなくリーシャは言う。
感慨などあるはずもない。
俺が全て遠き楽園の面影に哀愁を抱いたところで世界は変わらず進んでいくのだ。
あの村が、惨劇の一夜の中であらゆる悲哀と憎悪と憤怒と絶望が溢れ、多くの心優しき人々が無残に殺し尽くされ、悲劇を語り継ぐ者さえ悲劇に臓物を喰らい尽くされたにも関わらず、同じ時間に別のどこかではそれ以上に多くの人が幸福と歓喜に笑い、この世で自分が一番不幸だと思い込んだ若者が世界に対しての愚痴を全くの別方向にぶつけていたように。
純真無垢な健気で素朴な少女が、この世全ての醜悪な感情を向けられたような汚辱と恥辱と屈辱を浴びせかけられながら、それでも汚れてなお美しく崇高なままに命を落とした後も、世界は何事もなく続いていくように。
世界を愛し、守ろうと思えたあの場所の全てが鮮血に塗れ、消え失せた後も、俺の生命がまだ続いているように。
時節は人の傷を癒したりしない。時間はそんなことなど構わず、ただ漠然と流れているだけなのだ。
「ガンマ? どうしたの?」
クロームたちは先に降りたようだ。
俺の異変に気付いたセシウだけが昇降機の中途半端な場所で立ち止まり、心配そうに俺を見つめていた。
息を吐き出し、肩の力を抜く。
膨れ上がる汚泥が煮立つような感情を器用に抑え、押し込んでいく。慣れた作業だ。
それで俺の手がどんなに痛もうが、もう苦痛には感じない。
俺は努めて気楽に笑い、肩を竦めてみせた。
「いんや、こんな風景くらいではしゃぐなんて、お前もまだお子ちゃまだなって思ってよ」
むっとセシウの顔が明らかに顰められる。
「悪かったなぁっ! もう! 心配して損した!」
結い上げた紅い髪を振って、俺に背を向けたセシウはそのまま昇降機を降りていく。
俺もその後に続いて、のんびりとした歩調で昇降機を降りた。
あと何回、俺はこうやって人の好意を、くだらないプライドのために傷つけるんだろう。
繰り返すたびに、他者へ縋ることができなくなっていく気がした。
きっとこのまま俺は、胸に溜め込んだ暗い感情を誰にも吐き出せずに、内側から蝕まれ心を濁らせていくのだろう。