Crimson Sick Record―とある手記―
〆
エルシア領主クルジス・ジゼリオス伯爵。
魔術国家群の中枢ともいえるマケドニア皇国の只中にあって異端とされる技術系統者の貴族。同じような妄言を飾り付け、声高に叫ぶ程度の役目しか持たぬはずの、野望と利権という同じ宗教に飼われ、同じ仮面を揃えてつけた貴族という蝗たちとは一線を画した位置に、そうあるものとでも言いたげに腰を据えた統治者。
世襲と封建——腐敗しきった因習。近親相姦にも似たまぐわいの中でついに生まれてしまった奇形児。或いは一代限りの変異体。若しくは受け継がれる次代の先駆者。
やがては淘汰される運命にある、喪われることが決定づけられた明日への鍵。
その不確定要素の権化が誘ったかのように、選定の聖女、正しくは剪定の魔女の放った勇者一行と出会ってしまった。
貴族主義の奇形児、組織の延命のためのプロパガンダとして生まれた名ばかりの英雄。
いとも容易く地に墜ちてしまうであろう白い烏のような彼らは、しかしあの激戦の夜を生き残った。
一人の死者を出すこともなく、致命的な傷を負うこともなく、《魔族》に手傷を負わせ、真実勝利を手にした。
多くの者にとって想定外の事態。
この大番狂わせにある者は笑い、ある者は取り乱し、ある者はただ鎮座していた。
形ばかりであったはずの勇者の偉大なる功績。進撃への第一歩。百年の絶壁が崩壊する兆し。
すでにその割れ目から眩い光を見出した者がいたのかもしれない。
崩れた壁の先に広がる得体も知れぬ世界に戦慄した者もいたのかもしれない。
何の装置の断片かも分からぬ歯車は回り出していた。
これは奇跡ではない。偶然でもない。
純然たる勝利。純粋なる敗北。
二つの不確定要素は真実、《魔族》を退けた。
激戦の一夜は、そして世界に新たなる可能性さえも提示していた。
何度も繰り返した過ちの引き金に、またもや指がかかったのだ。
これを喜劇と言わず、何と呼ぶのか、私には分からない。
いずれにせよ、《魔族》撃退の報は世界に響き渡った。野に放たれた餓狼の群れのように奔走を始めていた。
それは反撃の狼煙か、本当の破綻の始まりなのか。
剪定の魔女すら分かってなどいないだろう。
勇者——仮初ではなく、真実勇者としての資質を持った彼は、この世界に何を——
〆
扉が開かれる。古びた紙を引っ掻いていたペンが止まった。
鎖され、光を排していた部屋。水が流れ落つるのと同じように、光は室内に流れ込んだ。
扉には誰かが立っていた。逆光に陰るほっそりとした影。光に透けた金色の髪がふわりと揺れる。
「そろそろ時間だ。次に行こう」
その影は女の声音で言う。
色あせた手帳を閉じる音さえも饐えていた。床の上を引き摺られる椅子の音も煩わしかった。
ほっそりとした金髪の女性は人のいなくなった部屋を一瞥し、感慨もなくドアを閉めた。黒いライダースのポケットに両手を突っ込み、彼女はゆったりと歩き出す。
蒼い炎の如きサファイアの瞳は、ただ、ただ前を見つめていた。