Mn's Night : after―策月一夜の痕―
子供の遊び相手をセシウは喜んで引き受けてくれた。むしろ呼ばれて、子供たちと会うなり意気投合して、遊びに出かけてしまった。
あいつの子供との相性のよさは抜群だなぁ、などとしみじみ思ってしまう。
あれもあれで、一種の才能だと思うね。俺やクロームじゃ、あそこまで子供と馴染むのは無理だろう。プラナも体力的に無理そうだし。
いい意味で子供のままでいられるあいつのことは正直羨ましくも思う。
そして、できれば、あいつらと一緒に遊んでいたかった、と今では思ったりもするわけで。
目前に建つ、悪趣味な魔導具店を見ると余計に。
「なんとなく分かってたけど、またここですか」
げんなりとした俺の言葉に、ジゼリオス卿は苦笑を漏らす。
「なんだその言い様は。まるで責めるようだな」
「いや、まあ、ダメとは言いませんがね」
「なんだ歯切れが悪いぞ? 言いたいことがあるのなら言えばいいだろう?」
「はあ、じゃあ、言いますがね……性懲りもなくまたここですか。この前こっぴどくフラれたんだから、いい加減諦めて、どこぞのご息女と結婚なさってはどうです?」
俺の正直な意見にジゼリオス卿は弱々しく笑う。
「これは思った以上に手厳しいな」
言いつつも、伯爵の目は入店を拒むようにケバケバしい建物へと向けられる。
その横顔は真剣だった。
「しかし、少なくとも、礼は言わねばなるまいよ」
「…………」
昨夜の死闘、最後の最後、伯爵を守りきったのは、あの灰被りの魔術師が仕込んだ無毛竜の皮だった。
あの皮が、《魔族》の劫火より、伯爵やインジスを守り抜いてくれた。あいつの仕込みがなければ、俺たちは《魔族》に大敗を喫していたことだろう。
そう考えると、灰被りは俺たちにとっても恩人といえる存在だった。
手切れの品として渡された無毛竜の皮。どうしてその絶縁の象徴に、あんな小細工をしたのか、その真意は推測しかできない。
どんな思惑があれ、あいつが俺たちを救ったのは変えようのない事実だった。
「行くとしよう」
「この前も思いましたが、俺がいちゃ邪魔なんじゃないですか?」
先を行こうとするジゼリオス卿の背中に問いかける。
恐らく、お礼などと言って、本当はもう一度結婚を申し込もうという魂胆だろう。見え透いている。
なんとも女々しいな、とも思うが、それに加えて邪魔なんじゃねぇかなぁかな、俺。
俺なんてこれ以上ないくらいの部外者だろう。あまりいる意味を感じられない。
別に、付き合うのが面倒くさくなったわけではない。断じて。多分。
「何を言っている。お前に見届けてほしいから連れてきたんだろう」
「はぁ……」
面倒くせぇ……いや、なんでもない。
店内に入ると、相も変わらずお菓子を頬張っていた灰被りが顔を上げた。来店者が俺たちだと分かるなり、面倒そうにため息を吐き出し、ぼりぼりと頭を掻き始める。
この店において、俺たちを快く受け入れてくれるのはドアのみだった。
「なんだ、死に損ないども。わざわざ死にに来たのか」
出会い頭の一言から、灰被りの言葉は悪意に満ちていた。ユーモラスで許されるものにも限度があるわけで、それはあまりにも冗句というものから外れた文言だ。
一瞬でも感謝しようと思った俺を殴りたいね。やっぱりなんかの手違いだろう。あれは 。
「無事、生き延びることができたよ。サニィのお陰でな」
ジゼリオス卿はしかし、嬉々とした顔で告げる。反比例するように、灰被りの顔はだんだん不快感を呈す。
いつも気怠るそうなこいつが、ここまで不快感を露にするのも珍しいように思えた。
いや、普段のこいつが分かるくらい、ここに頻繁に訪れている事実に、またも眩暈を覚えてしまいそうだ。
「その呼び方やめろ。それにあたいは何にもしちゃいない」
「いいや、お前が俺を助けてくれた。お前からの品がなければ、俺は死んでいたよ」
その言葉に、灰被りが少しだけ俯いたような気がした。
弱ったような、困ったような、一瞬何かを躊躇うような表情が垣間見えたように思える。
「……何かの勘違いさね。あたいは、あんたにもう二度とここに来ないように、ってあれを渡したはずなんだが」
「手切れの品は燃え尽きた。なら、手切れ自体も炭になっただろう」
「上手いこと言ったつもりっぽいけど、そんな上手い話はないっしゃな」
さも呆れたように大きく肩を竦め、灰被りは椅子の上で体を前後に揺らす。いや、椅子ごと揺れているようだ。木製の前肢と後肢が交互に床を叩く音が、リズムもなく繰り返される。
ジゼリオス卿は少し困ったように頭をかき、しばらく黙り込み、そうして結局口を開いた。
「しかしサニィ」
愛称で呼ばれた瞬間、灰被りの眉根が寄せられた。
分かりきっていたことだが、相当愛称で呼ばれるのが嫌らしい。
まあ、似合いはしねぇからな、サニィだなんて。
「お前は俺を助けてくれた。それは事実だろう。例え、それがお前の意図しないものであったとしても、その事実は変わらない。だから俺はお前に感謝を告げにきた」
灰被りが天井を仰ぎ、嘆息する。喘ぐような、掠れたため息だった。
吐き出そうとすることさえ、覚束ないようにも思え、どうにも違和感を覚える。
ジゼリオス卿は、そんな灰被りの態度に引き下がろうとすることはなく、さらに一歩踏み出した。
「俺は諦める気はないぞ。サニィ、俺はお前を愛している」
「その名で呼ぶんじゃないよ」
吐き捨て、細い手で灰被りは目元を覆った。
相当参ってる様子だ。
そりゃこんなに言い寄られたら、気が滅入ってもおかしくはないだろ。灰被りを気の毒とは思わんが、ジゼリオス卿のしぶとさは相当なもんだ。
「あんたはつくづくお人好しだわ。あたいの悪意とか、そういうもんを考えず、いい方にばっか考えちまう」
「お前が俺に対して、悪意を以て接してきたことなんて一度もないだろう?」
さも当然のようにジゼリオス卿は言う。
このおっさんは、この店の奇妙な空気を吸いすぎて、とうとう頭がおかしくなってるんじゃなかろうか。
もしそうだとしても、驚かないね。むしろ合点がいくってくらいだ。
灰被りは、低い天井を仰ぎ、小さく息を吐いた。
嘆くようではなく、ただそっと、気分を落ち着けるような呼吸だ。
ほっそりとした白い咽喉が幽かに蠕動する。
「あんたはあたいがこの街に流れ着いた時にも、身元を教えようとしなかったあたいを訝ることもせず、この店を構えさせてくれもしたわな。問い質すこともせず、何の根拠もなしにあたいを信じやがって。人がいいにもほどがあるってもんだ」
「事実、お前はそれなりにこの街で上手くやっているだろう? 何も間違ってなどいなかった」
「そりゃあ、まあ、そうさねぇ……そういうことになるかもしれないけどさ」
「ならよいのではないか?」
言葉を濁す灰被りに、伯爵はさらに迫る。心なしか、灰被りの反論が弱まっている気がする。
「……あんたのそういうところが、あたいはダメなんだよ」
「俺の一体何が不満だ?」
「あんたといると、自分が幸せになれるんじゃないかって、そんな幻想を見ちまう。惑っちまうんだよ」
不意に漏れた言葉に、伯爵の背中がぴくりと動いた。
伯爵にとっても、俺にとっても予想外の言葉。途端に静まり返った店内、店の奥の獣の唸りだけがやけに響いた。
灰被りはジゼリオス卿から身を逸らすように、陳列棚へ目を向け、もう一度深呼吸をする。
「前にもちょろっと話しちまった気がするけどさ、あたいは昔、ちっとした国の魔術兵器開発室の主任だった。技術国との国境の小競り合いが絶えない、廃れた場所だったよ。戦場で指揮を執ったこともある」
「サニィ……」
「あたいは昔、それなりに名の知れた魔術師だって話も、確かあんたにはしたな。そういうわけでさ、あたいは自分の才能を故郷のために使おうって考えたわけさね。それが、その国だったっていう話な。今になってみりゃ、そりゃあ単なる思い上がりだったわけで、善意とか、愛国心とか、そういうのがあったわけじゃ全然なかったんよ」
突然の追憶。言葉を挟もうとすることも伯爵は止め、ただ店の奥を見つめ続ける灰被りを見つめている。
俯いた灰被りの顔は、俺からではよく見えない。背中を向けたままの伯爵が、どんな表情でいるのかも分からない。
「奇才だの、何だのって持て囃されて、あたいは調子に乗っていたんだろうな。特に深く考えることもなく、あたいが本腰を入れて取り掛かれば、万事は全て上手くいくと思っちまってたんだ」
結晶の魔術師――サニディン・アノーソクレース。
なんてことはない。その気になって調べてみれば、情報なんてぼろぼろ出てきやがった。
かつて、ヘカテー魔術学院を主席で卒業した奇才。一代で現在の結晶魔術の骨子理論を構築し、発展させた結晶魔術の育ての親にして、最高峰の使い手。
奇天烈な人格や、独特の価値観、何より倫理観の欠如から危険視されながらも、その将来を多くの魔術師から嘱望されていた魔術師。その才能を多くの者が渇望したにも関わらず、卒業後間もなく忽然と姿を消し、今となっても行方が杳として知れぬ、魔術学界が喪った偉大なる探求の鍵。
プラナという、サニディン以上の天才が現れたことで今は落ち着いているが、それまでは多くの魔術師が血眼になって行方を追っていたらしい。
魔術学界を混乱の渦に陥れた張本人が、まさかこんな場所で細々と魔導具店を経営しているとは、誰も夢にさえ見ないことだろう。
そしてこいつがどんな道を歩んできたのか――俺は知らない。
あのヒュドラでさえ、こいつの行方は分かっていなかった。
俺と伯爵は今、その断片に触れてしまっている。
「あたいの作った兵器は軍民問わず、多くの人間を殺した。あたいの指揮で敵は死に、また部下も死んだ。そりゃもうたくさん、ね。あたいの構築した魔術は多くの人を最初は救ったが、やがては犯罪者どもにいいように使われていたよ。あたいの思い上がりで、あたいは若いもんをたくさん殺しちまった。あたいみたいな奴を師匠と呼んで、慕った奴らもあたいのために、と言って死んでいったよ」
サニディンの身体が大きく揺れる。とん、と爪先が床を叩く音がする。
頭の位置が低くなったサニディンを見て、椅子から下りたのだということを理解した。
思えば、俺の前で、サニディンが椅子から下りたのは始めてのことだ。
「結局あたいの故郷は、技術国と争うことはなくなったさね。でも、それは別に平和になったわけじゃない。あたいが作った魔術と兵器で、内紛が起こって、それどころじゃなくなっただけのこと。あたいが好きだった町並みも、あたいがよく忍び込んだ隠れ家も、あたいが育った家も、家族も、村も、全部あたいの魔術が台無しにしちまった」
サニディンはどこか覚束ない足取りで、魔術杖を片手にカウンターから出てくる。薄暗い店内で、棚に並べられた魔導具を手慰みのように指先で撫でる灰被りの白い手だけが、やけに鮮明だった。
普段は眠たげな目は、普段とは異なる感慨によって伏せられているように思えてならない。
あまりにも秀でた才能を持ってしまったが故の悲劇。守るための力によって、守るべきものを失ってしまった者の成れの果て。
そんな魔術師を、俺はもう一人知っていた。
「あたいは別に天才でも、なんでもなかった。いや、魔術に関しての才はあったんだろう、実際。それを否定するわけにはいかないんだと思う。でも、あたいにはそれ以外の才能がなかった。他の人が普通にできることもあたいにはできやしない。自分が作ったもんが、その後どういう風に使われるか、なんてことも考えてなかった。考える能力すらない。ただ、作れるから、という理由だけで、あたいは多くの人を不幸に陥れるとんでもないもんを作っちまってたんだ」
杖をついて、灰被りが少しずつ俺たちに歩み寄る。
ふらりふらりとした、頼りない歩き方。右手の杖と左足で支えた右足を、振り子のように前へ出していた。
違和感が、晴れる。理解してしまった。
こいつの右足は義足だった。
「あたいのような奴が幸せになっちゃいけないし、幸せになるべきじゃない。本当は誰かの優しさに触れることだって許されるべきじゃないんだよ、あたいは」
「……サニィ」
掠れた声でジゼリオス卿は名前を呼んだ。
「だからあたいはあんたにその名前で呼ばれるのも嫌なんだ。そんなさぞあったかそうな名前で呼ばれていい人間じゃない。その名前で呼ばれるたびに、今までしでかしてきた全てが白日の下に晒されそうで、あたいは怖いんだ」
「俺はそういうつもりでお前を、そう呼んでいたわけではない」
「そんなことは分かりきってるんだよ。あんたはいい奴だ。本当のところ、感謝だってしている。あんたみたいなよくできた領主はそうそういないだろうさ。あたいはそう思う」
「ならば……」
「だからこそ、あたいが深く関わることで、あんたの築いてきたもんを台無しにしちまうのが嫌なんだよ、あたいはさ」
強い薬品の臭いが見せる幻覚か。店内に充満する、成分も分からぬ黄土色の霧に霞んでそう見えたのか。はたまたただの錯覚なのか。
俺には、魔術師の目が潤んでいるように見えていた。
「本当は分かっちゃいんのさ。あんたと深く関わるべきじゃない、と思うなら、この街から離れればいいって」
俺には、魔術師の声が震えているように聴こえていた。
「なのに、どうしてなんだかな。あたいは、どうしても、ここから離れたくないんだ。まだあんたといたいって思ってしまうんだ。こんなこと甘えだって分かっちゃいるのに」
「サニィ、お前は」
「あんたと一緒になれたらさぞ幸せなんだろう。そう思ってるよ。でも今はまだ、だめなんだ。そんなことを考えちまうと、夜毎今まであたいが壊してきたもんがあたいを罵る夢を見ちまう。まだ、それを受け入れられないんだ……どうしても……だから」
魔術師の手がふと上げられ、ほんの少しだけ、掠れるようにジゼリオス卿の手の甲を撫でた。
あまりにも不器用で、たどたどしく、怯えるような触れ合い。
「今は、これが精一杯なんだ。まだ時間が、ほしいんだ、あたいは……」
引き戻そうとしたその細い手を、今度はジゼリオス卿が掴み取った。驚きに、灰被りの目が震える。息を呑み、目を瞠る灰被りをジゼリオス卿は半ば強引に引き寄せた。
灰被りのぼさぼさの頭が、そっと伯爵の身体に当たる。
「ゆっくりでいいさ。少しずつ、受け入れていけばいい。それまで、俺は、お前を待っているさ」
穏やかでありながら、それでも力強く、ジゼリオス卿は灰被りに言った。強引に引き寄せられたはずの華奢な身体は抵抗することもなく、そっとその身体に身を寄せている。
「あたいのしでかしたことを教えても、まだそんなこと言うってのかい、あんたは」
「当たり前だ。お前がしでかしてきたことは、確かに間違いだったんだろう。だが、今のお前は、その過ちを繰り返さないために生きている。俺は、自らの過ちの重さを知る者を謗ろうとは思わない」
「……とんだお人好しだよ、あんたは、ホント」
灰被りの声は、心なしか瑞々しいものに思えた。
……その背中から視線を逸らし、俺はそっと引き下がる。
ここまで見届ければ十分なはずだ。これ以上、俺が一緒にいる必要はないだろう。
多分、伯爵が俺に教えたかったことは、ここまでであるはずなのだから。
ここにこれ以上、俺がいては邪魔になってしまうだろう。
物音を立てないように、俺はそっと店を後にした。