Mn's Night : after―策月一夜の痕―
「民よ! 我が街エルシアに住まう誇り高き人々よ!」
真昼の噴水広場に設えられた演説台に立ったジゼリオス卿の声が響き渡る。
人集りの一番後ろに立っているというのに、張り上げた声は体の奥底にまで届いていた。拡声器を用いているわけでもねぇのによ。
やっぱり声の通りが違うな。
伯爵の顔は統率者のものとなっていた。この切り替えの早さも、指導者の素質だ。
民衆は言葉もなく、真摯に伯爵を注視していた。
街で伯爵と会った時のような軽々しさはなく、指導者を前にした者たちの顔をしている。民衆の心さえ切り替えさせるか。
末恐ろしいおっさんだ。
「すでに聞き及んでいるであろうが、この街にもついに彼の逆賊《魔族》の邪悪なる手が伸ばされた!《魔族》は傲慢にもこのクルジス・ジゼリオスの命を狙い、我々の街に踏み入ったのだ!」
ジゼリオス卿の声に聴衆が微かにざわめいた。
「だが私は今もこうして純然と生きているッ! 邪悪なる《魔族》は非力な私一人も殺すことさえ出来ず、恐れをなして逃げ出したのだっ!
何故ならば、この街には人類種の天敵たる《魔族》でさえ太刀打ちのできない、人類種の救世主がいたからだっ!」
ジゼリオス卿は演説台の上、自分の脇に控えていたクロームを指し示す。
普段の身軽な軽装ではなく煌びやかな衣装を纏ったクロームが前に出て、聴衆を見渡した。
「その男の名前はクロームッ! 勇者クロームだッ! 親愛なるエルシアの民衆ならば、この輝かしき音節を知らぬ者はおるまいッ! 始まりの巫女たる、偉大なる教皇猊下ハーヴェスターシャ様が撰定なされた人類の希望がこの街にいたのだッ!
勇敢なる勇者クロームは私を守り、襲いかかった《魔族》をその神の加護灼たかな聖剣で斬り伏せたッ!《魔族》どもは神に選ばれし勇者の力に恐れをなし、怯懦に駆られて敗走したのだッ!
その目に焼き付けたまえ! 彼の勇者の御姿をッ! そう遠くない未来、救世を成し遂げる者の姿だッ! 我々は、これより生み出され、そして幾千幾万の時を経てなお語り継がれるであろう伝説の生き証人となるであろうッ!
私はこの双つの眼で彼の勇姿をしかと見たっ! そして確信したッ! 勇者クロームを前に《魔族》など恐るるに足らぬっ!
私は《魔族》と対峙した彼の姿に、我が街の英雄たるアソスの再来を見たッ!」
ジゼリオスが広場の中心にある噴水の上で、高らかに剣を掲げる騎士の石像を指し示した。
「この街に英雄は再来したのだッ! 英雄アソスがそうであったように、勇者クロームはその力で《魔族》を退けたッ!《魔族》の邪悪なる腕は二度と我々に伸ばされることもないだろうッ!
栄光あるエルシアの民たちよ! 聞こえぬかっ! 目前にまで迫った、五百年の壁を超えた先の世界の音色がッ! 終末龍の足音などもう聞こえはせぬ! あるのは膨大なる、無限の未来だけだッ!
私は聞いたぞッ!
貴方方にも聞こえたはずだッ!」
聴衆から声が上がる。
伯爵の声を飲み込むような、歓声が上がった。それは間違いなく肯定だった。
「そうだッ!
もう終末を恐れる必要などないッ!
我々はこれより訪れる膨大な未来のために生きていこうではないかッ!
勇者クロームによって世界は永遠の栄華を約束されたッ!
人々よ、歓喜せよッ!
我々が未来の音色を聞き続ける限り、終末は訪れぬと知るのだッ!
そして今この時、英雄となるであろう者の声を聞くがいいッ!」
ジゼリオス卿は言い放ち、一歩後ろへと身を引く。代わりにクロームがさらに前へと踏み出し、聴衆をもう一度ゆっくりと見渡す。
先程までの人々の歓声がふっと静まり返った。誰もが勇者の立ち姿を凝視し、その言葉を待っている。
人々の視線を一身に受けながらもクロームは取り乱すこともない。人の群れの向こう側にいるあいつの銀の瞳が一瞬、俺を見たように感じた。
クロームが口を開く。
「民衆よッ! 私がクロームだッ! この世界を救済する者だッ!」
クロームの声もまた俺までしっかり届いてくる。普段は口数が少ないというのに、こういうこともできるからすげぇよな。
原稿を準備した甲斐がある。
「唯一神アカシャの聖剣たるデュランダルに選ばれし者ッ!
《魔族》はこの剣の前に抗うこともできずに敗れたッ!
何故ならば魔の者が笑う道理などこの世に存在し得ないのだからッ! この美しき世界をお創りになられた唯一神アカシャが、彼らの存在を認めるわけがないッ!
終末龍とてまた同じだッ!
神は世界が永遠であるべきだと望んでいるッ!
唯一神アカシャの加護は我々にあるッ!
終末に怯え、日々を過ごすことをやめようではないかッ!
顔を上げたまえッ!
燦然と輝く希望の光が貴方たちを照らし出すはずだッ!
立ち向かおうッ! 毅然と対峙するのだッ!
そして拳を突き上げろッ!」
クロームが拳を振り上げる。
民衆もまた従うように拳を上げた。
「天空すら衝く貴方たちのその手の中に人類の明日は握られているッ!
《魔族》に蹂躙させなどしないッ!
掴み取った未来を決して離さず立ち向かおうではないかっ!
立ち向かえッ! 明日への咆哮を上げろッ!」
人々の歓声が身体に打ち付けられる。
クロームは剣を抜き、天に掲げる。向かい合う英雄アソスの石像がそうであるように。
現在の勇者と、過去の英雄が時を超えて対峙していた。
「未来は我々の手にッ!」
街中の人々が一体となる。老若男女関係なく、体の奥底から声を張り上げていた。
響き渡る鬨の声。
世界が決起し、明日への希望に色めくのを俺は確かに感じていた。
「それにしても素晴らしい演説だったわね」
暗い室内、魔導陣の上に映し出されたヒュドラの幻は穏やかに笑う。相変わらず声は淡々としているが、少しだけ明るくなっているようにも思えた。
「聴いていたのか?」
「ええ、インジスに頼んでね、映像を送ってもらっていたの」
ヒュドラは傍らに佇むインジスを一瞥する。
「そりゃまたわざわざ」
向かい合うようにソファに座った俺は肩を竦める。
忙しいと言っているが、何かと時間を割いてくれているな。
「あの原稿、書いたのは貴方なのでしょう?」
「ん? ああ、よくお分かりで」
「彼が自分を賛美するような言葉を自発的に言えるとは思えないもの」
「よくお分かりで」
もう一度重ねて言っておく。
「演説台にクロームだけを立たせることを選んだのも貴方ね。あれで人々の羨望はクローム一人に集約された。四人分の戦果は民衆にとって彼一人が挙げた戦果も同然。さらにその街の人々で知らぬ者のいない英雄の石像の前を舞台にしたのも貴方でしょう? なかなかお上手ね」
なんでもお見通しか。
こいつ相手に隠し事はできそうにない。
「貴方が民衆に思い込ませた筋書きに従って、私もスピーチの原稿の用意をしておくわ。今度は事前に話してほしいけれど」
「そうしてもらえると助かります。すみませんね、勝手をしてしまい」
「構わないわ。それ相応に悪くない手のようだし、ね」
言いながらヒュドラは肩に載せた手の平ほどの大きさの仔竜の小さな頭を指先で撫でる。
もしこれで下手な手段だったら説教を食らっていたことだろう。今後は少し気を付けておくか。
「まあ、今回は何から何まで貴方のお陰で助かったわ。大手柄よ、ガンマ」
「よしてください。クロームたちの実力があったから、実行できた計画です」
分不相応な褒め言葉を受け取れない俺に、ヒュドラは少し意外そうに唇を窄めた。
「あら、自分の成果であることをそれほど否定しないのね」
「はい?」
「分からないならいいわ。そう、この一件で変わったのは何も、民衆だけではない、ということかしらね」
意味が分からず首を傾げる俺に、ヒュドラはそれ以上の説明をしてこない。自己完結したようだ。勝手に完結されてもこっちは収まりが悪いわけだが。
こうなったヒュドラはどれだけ訊ねても答えてくれないので、ムダな追求はやめておこう。
「クロームと貴方からの報告も聞いたことですし、そうね、今度はセシウを呼んできてもらえるかしら?」
「はい、わかりました。しかし、一人一人の報告をお聞きになるなんて、今日は幾分かゆとりがあるんですか?」
「そんなわけないでしょう。いつもと変わらず忙しいわ。強引に時間を空けてもらっているだけのこと。この後が大変なのよ」
相当仕事が溜まっているんだろう。珍しくヒュドラの顔が暗い。眉間に刻まれる皺も深く、幼い外見には不釣り合いなほどに疲れきっていた。
この世界唯一の三百年休みもなく働いている者のみが手に入れた疲労である。俺たちの感じている疲れとは年季が違う。
「まあ、それだけ私も貴方たちを重要視しているということよ。これからも励んで頂戴」
クロームを勇者として撰定し、あいつが世界を救うと宣言したのはヒュドラだ。そりゃ動向が気になるだろう。
《始原の箱庭》そのものの存続もかかっているからな。
「ああ、分かっているよ」
言いながら俺は立ち上がる。
そのまま部屋を出ようと思うが、ふと思い当たることがあって立ち止まり、振り返った。
「そういえば、ヒュドラ。一つ聞きたいことがあるんだが、いいか?」
「あら? 何かしら?」
ヒュドラが愛らしく小首を傾げてみせる。額にかかる短い浅葱色の髪が揺れた。その動作だけだと変に外見年齢相応だから困る。
「お前は幾星霜の時を生きているんだろう」
「どうしたの? 今更そんなことを」
ずっと引っかかっていることがあった。その疑問に対する答えを持ち得るのは俺が知る限り、ヒュドラだけだ。
本当はこういうこと聞くもんじゃねぇんだけど、せめて一人くらいの意見は聞いておきたかった。
「永遠にも思える人生で、お前の価値観に変化はあったのか?」
俺の問いに、さすがのヒュドラも真意を掴みあぐねたのだろう。
指先を唇の下に指を宛て、んーと小さく唸る。
「そうねぇ、私はそもそも死という概念と無縁だから何とも言えないわ。それにあの人が私を創った時、私はすでにこの容姿外見で知識も十分に与えられていた。元々があの人の半身として創造されたわけだし」
そういうものだったのか。創世の時代の裏話を、神話の登場人物に語り聞かされるというのは不思議な感覚だ。
ていうか唯一神を「あの人」と呼んじゃう辺りすごいだよな。この前なんて「うちの旦那」とか言ってたし。
分かっちゃいるけど、んー……。
「ただ、そうね。やっぱり永遠の命を持つ私の価値観と、有限の命を持つ者の価値観とでは、根本的に大きな溝があるような気はするわ。元来長命であるエルフ族や竜族と話した時も、やっぱり誤差を感じたもの。永遠と有限ではあっても尺度が違う感想だけど、それでも構わないかしら?」
「んー、まあ、構わないですよ。少し聞いてみたいんだ」
「そう? では、遠慮なく。んー、言葉では言い表しづらいのだけれど、やはり命が有限な者の生き方は、私から見れば生き急いでいるように見えるわ。それはまあ、百年程度もそれほど大した時間には感じない私から見れば、誰だってそうなのでしょうけどね。また、私より他人と関係を築くことに積極的かしら」
「ということは猊下自身は他人と関係性を築くことがお嫌いで?」
俺の問いに、ヒュドラの表情が少し曇る。
憂いを帯びた瞳で、物憂げなため息を吐き出した。
ヒュドラらしからぬしおらしい態度だ。
「そうね。嫌いというわけではないけれど、あまり気が進まないわ。私とどれだけ親しくなっても、百年もしないうちにお別れですもの」
それもそうだったか。
人より永い命とは、それだけ多くの別離を体験することも意味している。
先程ヒュドラも言っていたが、ヒュドラにとっては百年だって短い時間だ。どれだけ親しい者であれ、その短い時間でいなくなってしまう。
数多くの出会いがあれ、その一つひとつは全てが唯一の出会いなのだ。
穴埋めできるものではない。
「それはやはり長命である者の宿命なのでしょうね。エルフ族や竜族は同胞たちも同じだけの時間を生きるから、それほど感じないのでしょうけれど、やはり人という短命種の中にあるのなら嫌でも感じることよ。魔術師の中にも人よりほんの少し長く生きる者がいるけれど、彼らも同じように感じているはず」
「それでは猊下は、もう特定の人物を気にかけることはないのでしょうか?」
「そうでもないわ。今でもやはり気が合う人物というのはいるものよ。結局人間が合うか合わないかに生きた歳月は関係ないのかもしれない。本当に相性の問題。魂の形はどれだけ生きても変わらないもの。それが組み合わさるかどうか、なのでしょうね」
「魂に変化はない、ですか」
「ええ、ないわよ。根源にあるものですもの。成長とは時節によって、その魂に付着した霜のようなものよ。経験や歳月で変わるものは霜の部分だけ」
やはりそういうものなのかね。
幾星霜を生きたヒュドラが言うのだから、そうなのだろう。
俺とキュリーも、魂の相性がいいのかもしれない。
「それでも、気が合う者と親しくなることに気後れも感じるわ。気が合えば合うほどに、ね。いっそ親しくならなければ、とも思ってしまう。また、別れに関する悲しみが薄れていく自分が嫌になったりもするわね。やがてはその自己嫌悪さえ薄れていく。そんな自分を見たくないから、長命なる者は皆孤高に生きようとするのでしょう。一人で生きていけるからではなく、独りで生きていかなければ耐えられないから、人への親愛と慈愛を忘れないために、人々と己を切り離して生きていくことを選ぶのよ」
それは膨大な時を生きる者にしか分からない苦悩。
どれだけ言葉を尽くして説明されようと、本当の痛みは俺たちに理解できないのだろう。
脳裏を過ぎるのはキュリーの微笑み。
永き時を生きようと瑞々しい感性を持っているあいつも、どこかが麻痺しているのだろうか。
感情は摩耗していっているのだろうか。
人と関わることを恐れているのだろうか。
もし、そうだとして、何故キュリーは俺と関わりを持ったのだろうか。
疑問は尽きない。
「貴方の質問に答えるならば、私個人は変わったと答えるわ。でも変わらないものもある。そして先程も言ったけれど、そんな時節の流れ程度で変わるものはただの霜でしかないわ。変わらないものは魂の中で最も強い部分なのだと私は思う。そうして、表層に現れるその変わらないものこそがその人を最も象徴するものだとも思う。人は生きている限り変わり続ける。短かろうと、長かろうと、変わり続ける以上はそこに大した差異もない。大事なのは変わらないもの。それがある限り、その人はその人であり続けるわ。貴方にだってあるでしょう? 貴方自身が貴方を決定付ける、変わらない貴方らしさが」
……俺らしさか。
まあ確かに思い当たるものはいくつかある。
俺がこれまでに得た知識は霜かもしれないが、気になったことは納得がいくまで調べて、自らの知識として蓄えないと気が済まない性分は恐らく俺の魂の形の一部だろう。
他にもそれらしいものは確かに俺の中にある。
クロームやセシウ、プラナにだってもちろんある。
キュリーにだってきっとそういったものがあるはずだ。短い付き合いだから、俺には霜と魂の形の区別がまだつかないけれど、もっと時間を共有すれば見えてくるはずだ。
俺は一体何を恐れていたんだろうか。
キュリーが長い時の中で少しずつ変化しているのだとしても、俺が知っているキュリーは今のキュリーだ。俺は今のキュリーが気に入っているのだ。かつてがどうであったか、なんていうのは何も関係のないことじゃないか。
まだ《魔族》と人間という深い溝はあるが、それでもそのどうしようもない境界線と対峙する決心がついた。
「猊下、貴重な言葉を有難うございます」
俺は最大限の敬意を払って、深々とヒュドラに頭を下げる。ヒュドラは気にした様子もなく、ただ片手を挙げた。
「いいのよ。亀の甲より年の功、とは確か東洋の諺だったかしら。たまには迷える子羊を導くのも悪くないわ」
「有難うございます」
最後にもう一度粛々と頭を下げて、俺は部屋を後にする。
キュリー、俺は真正面からお前に向き合おう。
その決心がついた。
俺はまだお前に言葉を尽くしていない。別離も決別も対立も、それからで遅くはないだろう。