Running Mn―潜行奔走―
〆
カルフォルたちの撤退を見届けた後、急いで屋敷に戻ってきた俺が見たのは、プラナを抱きかかえたクロームの姿だった。
抱えられたプラナは目を閉じ、力なくクロームの腕に身を預けている。力なく垂らされた細い腕から、意識を失っていることはすぐに分かった。
「何があった?」
「分からない。突然倒れてしまった。インジスが言うにはただ意識を失っているだけとのことだが」
答えるクロームの顔は険しい。
プラナが心配でもあるし、またあの幕引きに納得もしていないせいだろう。
俺たちは確かに勝利した。あのカルフォルに敗北宣言をさせたのだ。それは間違いなく勝利だ。
それでもクロームにとっての純粋な勝利ではないのだろう。
クロームの目が苦しげなプラナの顔に向けられる。
「プラナにはいろいろと無理を強いてしまった。その疲れが今になってきたのかもしれない」
こいつなりにプラナのことが心配で仕方ないのだろう。
プラナは俺たちの中では唯一の魔術師。そのため、魔術に関わる場所ではどうしてもプラナに負担が集中する。
いつもプラナには助けられてばかりだ。
「さっきのあの妙な魔術も関係あるのか?」
気になって、俺は問いかける。
プラナがあんな力を使うことは計画になかった。それどころか、あの瞬間まで、俺はプラナにあんな力があることすら知らなかったのだ。
クロームなら何か知っているかもしれないとも思ったが、クロームは険しい顔のまま首を横に振った。
「……分からない。俺もプラナがあのような力を持っていることは知らなかった」
「そうか。お前でも知らなかったか」
何故今まであれほどの力を隠していたのか、プラナの真意は不明だ。あの力を用いれば、先の村を救う手立てがあったのではないか、とも考えてしまう。
プラナのことだ。隠すだけの理由はあるだろう。
しかし、だからといって避けるわけにもいかないことだ。
……考えなければいけないことはまだ多いな。
「とりあえずプラナを寝かせてくる」
「あ、ああ、そうだな」
つい思考に没頭してしまっていた。
俺は頭をかき、クロームの行く先を開ける。プラナを抱え、俺とすれ違うクローム。その横顔は未だに渋いものだった。
「クローム」
「なんだ?」
「今回、俺たちは《魔族》に勝った。それは確かなことだからな」
振り返ったクロームは俺の言葉に、少しだけ唇を綻ばせた。久々にこいつの笑みが俺に向けられた気がする。
「分かっている。先程は少し焦りすぎていた。俺はそんな自分の未熟さに呆れているだけだ。今すぐにカルフォルを倒すことができないことは俺も弁えている。今上げられるだけの最高の戦果を俺たちは上げた」
……なんだ。だからそんな気難しい顔をしていたのか。
こんな時でも勝利の余韻に浸らず、己を洗練することに邁進するクロームの精神力には本当頭が上がらないな。
クロームは少し考えるように視線を上に向け、やがて背を向けて歩き出す。
「お前も、この勝利を齎したのがお前自身であることを忘れるなよ。それもまた確かなことだ」
背を向け、歩みながら、クロームはさらりと俺に賛辞をくれた。
意表をつかれて、少し呆けてしまう。
「お、おう……」
それ以上何かを言うこともなく、クロームは廊下の奥底に溜め込まれた宵闇へと消えていった。
全く……どうにも調子が狂うな。
肩にかけていたライフルを下ろし、ため息を吐き出す。
それでもクロームからの賛辞に悪い気はしなかった。以前のような居心地の悪さもない。
すんなりと受け入れられるような感触。
我ながら不思議なものだった。
うっかり緩みそうになる頬を必死に押さえつけて、俺は伯爵たちのいる部屋へと向かう。
廊下の奥底の扉から通じる伯爵の部屋は一面が焼け焦げ、壁紙は爛れ落ち、調度品も全て跡形もなく燃え尽きてしまっていた。
その中央に伯爵とインジスは立ち、何事か話し込んでいる。
「ご無事なようで何よりです。伯爵」
俺が声をかけると、伯爵とインジスがこちらに目を向ける。
途端に険しかった二人の表情が穏やかになった。
「おお、ガンマ。戻ってきたか」
「貴方も無事なようでよかったわ、ガンマ」
大袈裟に迎えてくる伯爵と、これまた大袈裟に安心するインジスについ苦笑してしまう。
「そりゃ、俺は一番安全圏にいましたからね」
「何を言っているの。貴方いてこその結果でしょう」
うふふ、などとインジスはさも可笑しそうに笑う。謙遜と取られたようだ。
「全く、お前は大したものだ。あの時計台から狙い撃ったそうじゃないか。一体どこでそんな技を身につけたんだ?」
「ああ、まあ、昔ほんの少しだけ教えを受けまして」
まだ《創世種》に迎え入れられ、ガンマという新たに与えられた名前に馴染んですらいなかった頃の話だ。
あんまり話しても面白いものでもないし、思い出に浸るつもりもないので、深くは考えないでおきたい。
伯爵はまだ浅い皺を深めるような笑顔を俺に見せる。
「ほんの少し教わった程度であの距離から当てられるものか。素晴らしい腕前だ。時代が時代なら、それだけで世界に名を馳せられもしただろう」
「は、はあ……」
まあ、あれが通用したのは本当に運がよかったからなんだけどな。
プラナに弾丸への施術を頼み、障壁結界への貫通力を高めてもらい、その上で電撃による手傷を負わせ、恐らくはアメリスにとっての切り札であろう剣を抜く瞬間の隙を狙ったことで初めて成立する手法だ。
普通に長距離から不意をついて撃ち抜いたとしても、あれほどの効果はない。
そういった意味では前準備が必要な割には、結果が見合わないものである。
今回は巧く使えそうだから採用したが、今後も使っていけるかと言えばそうでもない。
普通の人間には通用するだろうが、《魔族》にはな……。
「しかし、一時はどうなるかと思いましたよ。正直死んだな、って思いました」
「貴方の計画に従って死んだら、枕元に立つつもりだったから安心して頂戴な」
どこか淫靡に、インジスはくすりと笑う。
こんな素敵な女性が寝込みに化けて現れたら、死者などということはどうでもよくなり、諸手を挙げて喜んでしまいそうだとも思ったが、言わないでおく。当たり前だ。
「実際、インジスの結界はあいつに指摘された通り、火に対する耐性が弱いだろ? ある程度とはいえ、耐えられる結界を用意できるだけの時間はどこにあったんだ?」
だからこそ、俺たちはインジスたちが死んだものだと思い込んで行動していた。それは《魔族》たちの裏をかくことともなったわけだが。
……それが疑問でならなかった。
「ちょうど今、そのことに関して話していたの」
インジスは曖昧に笑い、伯爵に目を向ける。
伯爵の手にはボロボロに焼け爛れた布のようなものがあった。焦げて炭化したそれは、何か動物の皮のようにも見える。
「無毛竜の皮よ。これが私たちを守ってくれた。ほんの僅かな時間だったけれど、これが私たちを生かしてくれたの」
無毛竜……?
「確か、生まれた時から強固な結界に包まれている竜だったか?」
「そうよ、さすがガンマね。なんでも知っていてすごいわ」
「なんでもじゃないさ。偶然、つい最近聞いただけだ」
確かあれは灰被りの店でのことだ。プラナと灰被り店主にさんざん語り聞かされた。
まさかこんなすぐに知識が役立つとは思わなかったよ。
微笑んだインジスの顔がまたすぐに曇りを帯びる。
「でも、無毛竜の皮だけでは結界の効果は得られないはずなのよ。魔力を通して、ようやく一時的に効果を再現できるだけ。それもそれほど長い時間ではないはず」
なるほどな。
おかしな話だ。
伯爵に魔術の素養はない。それは本人も認めている。
またこの屋敷には魔術的なものが全くと言っていいほど存在しない。これに関してもプラナが毒づいていたので間違いないだろう。
なら、どうしてこの屋敷にこのような代物があり、そしてまた一時的とはいえ結界の力を有していたのか。
俺とインジスが伯爵を見る。
ジゼリオス卿は変わり果ててしまった竜の皮を惜しむように握り締めていた。
「これは俺の知り合いの魔術師が先日俺にくれたものだ。最初はあいつなりの悪戯かとも思ったが……」
「その竜皮は私たちを包み込むようにして守ってくれた。きっと領主様の身に危険が迫った時に発動するようにプログラミングがなされていたはずです。元より領主様を守るために渡したものかと思います」
俺の頭の中で何かが繋がる。
灰被りの店に初めて訪れた時、俺たちは踏み入ってすぐに、不気味な弾力のある柔らかい床の感触に背筋を凍りつかせた。
最後に訪れた時、伯爵の想いが拒絶され、追い立てられた際、玄関口の床は俺たちを責めるように軋んでいた。
そして伯爵は無毛竜の皮を知り合いの魔術師からもらったという。しかも結界の持続時間を考えればつい最近のことだ。
ジゼリオス卿は手の中に残った皮の残骸をただ見つめていた。信じ難いことなのだろう。しかし、俺たちの中にある要素が示すものはそういうことだった。
驚きに言葉を失っている伯爵に、事情を知らないインジスは優しく笑いかける。
「無毛竜の皮はとても高価で希少なものです。魔術師にとっては垂涎の品でしょう。そんなものにわざわざ魔力を込め、領主様に送った。きっと、その人は、領主様をよほど大切に思っているのでしょう。何かしらの蒐集癖を持つ魔術師という人種が、人に物を送る、ということ自体、特別なことなのですから」
インジスの言葉は、俺たちにとって信じられない可能性をより強めた。
認めがたいが、やはりそうとしか考えられない。
どれだけ揃った要素を見つめ考えても、それ以外の可能性はなかった。
あの灰被りは、サニディンは、伯爵を想って、その身を守るためにこれを送ったのだろう。決して手切れの品などではなかった。
拒絶などとは遥か遠い場所にある感情を込めた贈り物だった。
ジゼリオス卿は痛みに堪えるように顔を歪め、焼け焦げた皮をより一層強く握り締める。炭化した皮は簡単に崩れてしまいそうでありながら、それでも決して壊れはしない。
「……サニィ」
掠れた声で、ジゼリオス卿は想い人の名前を呼んだ。
あいつが本当はどう思っていたのかは分からない。
それでも、あいつがジゼリオス卿を守ったのは確かなことだった。
今はそれだけでも十分すぎるものではないかと、俺には思えた。