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Alternative  作者: コヨミミライ
Is Cr Duty or Obligation?―善良のカタチ―
68/113

Running Mn―潜行奔走―

 開け放たれた扉。

 弾かれるように反応したのはインジスだった。

 年若い使用人の娘が悲鳴を上げ、ジゼリオス卿が庇うように立ち、身構える。

 トリエラは暗闇に潜む三人の姿を視認し、艶然と微笑んだ。

「追い詰めましたわ」

「いいえ、追い詰められたのは貴女よ」

 インジスは気品よく笑い、肩にかかった髪を後ろへと流す。この状況に決して取り乱すこともなく、毅然とトリエラと対峙していた。

 その余裕のある笑みを見てなお、トリエラは勝ち誇ったように笑っている。

 不敵に笑む二人の淑女。

「第四十九位《幻像の元素エレメント》――貴女を私は識っている。貴女にこの場を切り抜ける力はないわ」

「あらあら、貴女と私は初対面のはず。以前のインジスが貴女と戦った記録もなかったはずですが」

「それでも私は識っている。貴女は彼らを守りきれない」

 前方に真っ直ぐに差し出されたトリエラの煙管が虚空に円を描く。軌跡には白い燐光が残り、空間に刻まれた円の内側には紋章が浮かび上がった。

 魔導陣が周囲の火の元素を高速で取り込み、紅い光を宿す。

「燃え尽きなさい」

 業火が溢れた。

 大気に食らいつき、燃え盛った炎が、インジスたちへと襲いかかる。

「させるものかッ!」

 トリエラの背後に迫るクロームが叫び、新たに剣を再生し投擲するが、紫蝶に阻まれ、トリエラには届かない。

 セシウも全力でトリエラとの距離を詰めているが、体中に傷を負った今、その動きには鈍さがあった。

 止めることもできず、業火はインジスとジゼリオス卿、そして使用人の娘を包み込む。

 扉の向こうの全てが炎に飲み込まれていく。容赦も慈悲もなく、炎はただそうあるべきだというように唸り、部屋を灰塵へと変える。

 橙の光がトリエラを照らし、真っ黒に染め上げた。

 ドレスの裾をふわりと広げ、振り返ったトリエラが目前にまで迫ったクロームとセシウを迎える。

 神速で距離を詰めたクロームの手が煌き、目にも止まらぬ疾風の一太刀を放った。トリエラは煙管の羅宇で容易く受け止め、二人の間で火花が散る。

「残念だったわね、勇者様。貴方はまた守れなかった!」

「黙れッ! ならば貴様の命で報いてもらうまでッ!」

 トリエラの背後で炎が唸る。まだ食い足りない、とでも主に訴え掛けるようであった。

 羅宇に力を込め、剣を弾き返したトリエラは、煙管を翻しくいっとクロームを指し示す。応じるようにトリエラの両脇、燃え盛る炎から伸びた紅い両腕がクロームへと襲いかかった。

 咄嗟に身を引いたクロームとトリエラの間に赤色透明の障壁が展開され、炎を受け止める。

 後方のプラナが展開したものだろう。

 下がったクロームは足が地に触れると同時に力強く踏み出し、神速の横薙ぎで障壁もろともトリエラを両断する。

 断ち切られ、組成式が欠損した障壁が紅い粒子へと返っていく。その向こうにトリエラの姿はない。

 逃げられた。

 クロームが振り返り際に剣を振るう。

 響き渡る金属音。トリエラが再び煙管で剣を受け止めていた。

 そのさらに背後には飛びかかるセシウ。

 空中で体を捻り、放たれた回転蹴りが空を裂く。

 トリエラはまたも空間を移動していた。

 申し合わせることもなくクロームが即応。宙に浮いたセシウの靴裏に添えるように剣を掲げる。セシウが剣を踏み締め、両足を畳むように屈んだ。

「征け、紅嵐(コウラン)

「駆けてみせるよ、どこまでも」

 クロームが剣を振り抜く。セシウが剣身を蹴飛ばす。

 二つの力によって弾丸のように放たれたセシウの先には再構成されて出現されたばかりのトリエラがいた。

 トリエラが目を瞠る。予想外の事態に対応が遅れる。

 咄嗟に魔導陣を展開し、火球を放つ。セシウの前面に障壁が展開され、正面からぶつかった火球がいとも容易く弾け飛んだ。

 火の残滓の舞う中、煙を引き裂き、咆哮を上げて現れたセシウの拳が振るわれる。

 鈍い音。確かな手応え。

 トリエラの体が弾け飛び、鞠のように跳ね、アメリスを包む紫蝶の群衆付近まで滑った。

 床に倒れ伏したトリエラが呻く。

「女子供に手を上げるのは主義じゃないんだけどね、あんたには容赦しないよ、アタシも」

 拳を打ち合わせ、セシウが言い放つ。

「ようやくあんたの顔に一発叩き込めた。これじゃまだ気が済まないけど」

 普段なら皮肉の一つでも返すはずのトリエラは頬を押さえて蹲ったまま、セシウは睥睨するだけで何も言い返してはこない。

 呻くような声を漏らし、体を震わせている。

 セシウの両隣にクロームとプラナが立ち、トリエラに視線を送る。

「傷を負う覚悟もなく戦場に立つからそうなるのだ」

 クロームが冷ややかに言い、剣をトリエラの眼前に突き付ける。短く引き攣った悲鳴が漏れた。

「さあ、お立ちなさい。トリエラ。貴女にはまだ借りがあります。華をつけて、兆倍にしてお返しいたしますわ」

 プラナが急かすように魔導杖の石突で床を叩いた。

 鈍く鋭い音。クロームとセシウでさえ靴越しに微かな震動を感じた。

 トリエラが深く息を吐き、ずるずると緩慢な動作で上体を起こす。寄り添うように蝶の群れがトリエラの小さな背中に集まり、背凭れとなっていた。

 深く呼吸をし、トリエラはそれでも毅然と三人を睨みつけ、笑う。

「ふふふ、貴方たちがここで私を倒そうと何も変わらない。もう伯爵は死んだ。貴方たちは守るべきものを守れなかった。私たちは目的を達成した。私たちの勝ちは揺るがない」

「確かに俺たちはまた犠牲を出してしまった。言い訳できるものではない。認めよう。どれだけ償っても償いきれるものではないが、《魔族アクチノイド》の首級二つを餞とさせてもらうぞ」

 クロームは決して動じることもなく、真っ直ぐとした声で応じる。対してトリエラは喉の奥で笑う。

「高々村一つ消えた程度で取り乱していた頃とは違いますわね。よくてよ、勇者様」

 トリエラの暗い目が、もう一度値踏みするように三人を眺めた。

 死を目前にした状況だというのに、勝ち誇るような笑みは消えない。

 事実、この戦いにおいてクロームたちは守るべきものを守れなかった。それは確かに敗北なのだ。

 ならば勝者は《魔族(アクチノイド)》だ。

 トリエラは自身の負け、自身の死に関心などなく、ただ《魔族(アクチノイド)》の勝利だけを見ていた。

「けれども、貴方たちの損害はそれだけではない。貴重な《創世種(エレメンツ)》――その一つを私たちは屠った。非戦闘員とはいえ痛手ですわよね?」

「あらあら、いつ私たちは死んだのでしょうね?」

 燃え盛り逆巻く火の向こうから、たおやかな声が響いた。未だに部屋を埋め尽くす炎の中で影が揺らめく。

 悠然と灼熱の海を進む者たちがいた。

 藍色の結界を纏ったインジスが部屋よりゆっくりと現れる。背後には気を失った使用人を抱きかかえたジゼリオス卿の姿もあった。

 三人とも煤に汚れ、服の端はところどころ焼け焦げているが、それでも健在であった。

 乱れた髪を手櫛で解すインジスは微笑み、ジゼリオス卿は鋭い目でトリエラを睨んでいる。

「そ……そんな……!」

 驚愕の声を漏らし、トリエラは部屋より現れた三人を凝視した。

 クロームたちにとってもこれは予想外の事態。クロームはインジスを顧みて肩を竦める。

「健在か、インジス」

「ええ、愛らしい使用人さんには傷一つつけていないわ」

 にっこりと微笑むインジスにクロームは渋い顔をする。無事を喜ぶ気持ちはあるが、今クロームが訊ねたのは少女の安否ではない。

 インジスの中での最優先事項は、クロームたちと異なるようであった。

「そんなはずはありません……! 貴女の結界は火に対して弱いはず……!」

「ふふ、守り(ガード)が固いのは、淑女(レディ)として当然のことではなくて? お嬢さん(リトルレディ)

「嘘はやめなさいっ! こんなことあるはずがないっ!」

 目の前の事実を信じられずトリエラが声を荒げる。

 煤に塗れて尚美しい貴婦人は変わらず穏やかだ。

「私といえども、それ相応の時間があれば、それなりには火に耐える結界を組めるの」

「その時間は与えなかったはずよッ!」

淑女レディたる者、声を荒げてはません。常に穏やかに、取り乱すことなく、楚々とあるべきよ」

 場違いなほどに慇懃で優雅なインジスに、トリエラの顔が屈辱に歪む。

 状況は反転した。

 インジスとジゼリオス卿の生存は《魔族(アクチノイド)》にとって敗北を意味している。

「ふざけないで……!」

 低く、絞り出すようにトリエラが呟く。

 刹那、トリエラの姿が消失した。

 クロームたちが背後を顧みる。

 空間を移動し、トリエラはインジスの目の前に再構築されていた。

「今度こそ消し炭にしてあげるわっ!」

 トリエラの手の中で炎が生じる。

 あまりにも近すぎる。インジスでは対応できない。

「やめろっ!」

 クロームが叫び、無数の剣を生み出す。剣は再生されると同時に矢の如く放たれた。

 それでも間に合わない。

 インジスとトリエラの距離があまりにも近すぎる。プラナの魔術でもこの短時間に彼女を止める魔術を拵えることは不可能だ。

 セシウが縋るようにプラナを見つめた時、ローブのフードを深く被った少女は静かに瞑目していた。

「――我が魂に刻まれし(イムプレカティオ)呪詛よ(サングィス)汝を解き放とうリベラティオ

 小さな唇の刻む、あまりにも小さな律動。血を溜めたような紅い瞳が見開かれる。

 聞き取ったのはセシウだけだっただろう。しかしセシウにもその言葉の意味は分からない。

 その瞬間、世界が静止した。

 否、誰もが静止したのだと思い込んだ。

「どういう、こと……?」

 トリエラが疑問の声を上げる。濃緑の瞳は、自身の放った炎の魔術を凝視していた。

 魔導陣から放たれた炎は、放たれた姿のまま凍りついたように止まっている。

 無軌道に揺らめくこともなく、大気を喰らうこともなく、そしてまた消え入ることもなく、まるで精巧に造られた模型のように停止していた。

 本来駆動を始めた魔導陣は燐光を散らしながら回転しているはずだというのに、その魔導陣すら動かない。弾けた燐光も虚空に止まっている。

 炎はインジスたちを焼くこともなく、ただそこにあった。

 目前に迫った炎に顔を橙色に染めながら、インジスも状況を把握できず困惑していた。

 またクロームも言葉を失っている。

旧き剣(アカシックブレイド)》によって形成した無数の剣たちは全て時が止まったように動かない。

 微動だにせず宙に留まっていた。

 これを世界の静止と言わずに何と表現すればいいのだろうか。

 トリエラは原因を探るように落ち着きなく周囲を見回し、やがて白金の魔術師を睨んだ。

「貴女なの!? 白魔女っ!」

 灰色のローブの奥底、血のように紅い瞳は闇夜の中で光を放っていた。

 挑むようにトリエラを見つめ、プラナは深く呼吸する。

焔よフラムマ翻れレフレクシオ

 プラナが平坦な声で聞き慣れない言語を紡ぐ。

 刹那、トリエラの放った炎が再び唸り、無軌道に揺らめく。息を吹き返したように動き出した炎がトリエラに襲いかかった。

 自身の魔術が突如として自らに迫り、トリエラは身を引きながら自身をエーテルに分解し、避けようとする。

「え……?」

 が、自身の体はその場に留まり続けていた。

 理解できず、それでも床を転がり、既の所でトリエラは炎を避ける。

「嘘……? どうして……?」

 動揺にトリエラの目が震える。

 状況を全く把握できず、混乱しきっていた。

 セシウもまた困惑したように、プラナを見つめる。

「プラナ……あなたがしているの……?」

 彼女は答えない。

 ただ赤く光る瞳でトリエラを睨み、深い呼吸を繰り返していた。

氷の刃よグラキエスランケア

 再びプラナが感情のない声で何かを呟く。

 途端に魔導陣を用いずに、周囲の風と水の元素が集約、氷の槍が生み出されていく。

 さらなる異常にトリエラは愕然とする。

「魔導陣を介さずに魔術を……? それにその言語は何だというの……? 貴女は一体何なのっ!」

 プラナの表情に変化はない。

 深く息を吐き、吸い、もう一度吐き出す。ただそれを繰り返す。

 紅い瞳はトリエラを見つめ続けていた。

射抜けインテルフィケレ

 淡々と言葉は刻まれ、氷の槍が一斉にトリエラへと襲いかかる。

 トリエラは反射的に障壁魔術を発動させようとするが、どれだけ頭で訴えようと魔導陣は形成されず、また元素を集める手応えもない。

 魔術が使えない。完全に魔術が封じられていた。

 トリエラの目前にはすでに氷の刃が迫っている。

 空間を移動し逃げることも、防ぐこともできない。打つ手がなかった。

「こんな、ところで……!」

 トリエラが死を覚悟した。

 その瞬間、トリエラの眼前に鈍色の光が走り、全ての氷が粉砕された。

 破片が飛び散る。無数の白銀の欠片の中、毛皮の外套の裾を翻し、その男は現れた。

 黒いベストに付着した氷の破片を片手で払い、彼は金色の髪をかき揚げた。

 右手に携えるは錆び付き刃毀れした、朽ち果ての細い剣。涼しげな碧眼は理知に輝き、口元には薄い笑み。

 クロームの目が細められる。

 セシウの顔が苦しげに歪む。

 インジスの顔からは穏やかな笑みが消失していた。

 使用人を抱えたジゼリオス卿の顔は険しく、眉間には深い皺が刻まれている。

「これはこれは、また面白いものだな」

 金髪の男は歌うように独白し、サファイアのような瞳をクロームへと向けた。

「なかなかによい余興だったではないか。勇者よ」

魔族アクチノイド》の首魁たるカルフォルはトリエラを庇うように立ち、残骸のような剣の切っ先をクロームへと向けて笑った。

 背後にインジス、前方にクロームとその仲間。只中に立ちながらも、その者は誰よりも絶対的であった。

 突如として現れたカルフォルに取り乱すこともなく、クロームは剣を握り締め、静かに彼と対峙していた。

 何も焦ることはなく、また考える余地もない。

 倒すべき敵の長を前にして、勇者が為すべきことはただ一つ。

 ただ斬るのみだ。

「まさかこのようなことになるとは俺も思ってはいなかった。まあ、よい酒の供とはなったがな」

 くすりとカルフォルは笑う。

 戦場にあるとは思えないほどの立ち姿。剣を構えることもなく、眼前の敵を注視することもない。

「貴様がどういう思惑で彼らを仕向けたのかは知らぬが、貴様の差し金はその有様だぞ?」

「この世の全ての出来事に思惑があるとは思わぬことだな、勇者。世界は貴様が予想するよりももっと単純だ」

 カルフォルの言葉を遮るように彼の横合いで窓が砕け散る。同時にカルフォルの右手が僅かに掠れる。

 遅れて届く銃声。

 ガンマの狙撃だ。

 しかしカルフォルに傷はない。

 クロームは理解する。あの一瞬で、弾丸を剣で弾いたのだと。

 視線を向けることもなく、彼は長距離からの銃弾に対応していた。

「貴様の手下どもが失敗したことに変わりはあるまい」

「手下などではない。朋友だ」

「戯言を。その朋友の尻拭いにわざわざやってきたわけか。ご苦労なことだ」

 クロームは剣を構えたまま、吐き捨てるように言う。

 心酔するカルフォルを愚弄され、トリエラが反論しようとするが、カルフォルはそれを手で制した。

「如何にも。今回は我々の負けだ。認めよう」

 言って、カルフォルは背後のジゼリオス卿に視線を向ける。インジスは身構えるが、カルフォルは彼女になど見向きもしていなかった。

「ジゼリオス卿。貴方の協力を得られなかったことは残念でならない。とはいえ、俺自らがどれだけ言葉を尽くそうと考えは変わらないのだろうな」

「今からお前がどれだけの甘言を嘯こうと俺の考えは変わらない。俺は人を統率する者だ。魔の者に隷属する者では断じてない」

魔族(アクチノイド)》の長を前にしているとは思えないほどに毅然な態度でジゼリオス卿は断言する。

 彼がその気になれば容易く殺されてしまうことは分かりきっていても、決して命乞いなどはしなかった。

 そんな伯爵の決意と言葉に、カルフォルは満足気に微笑んだ。

「貴方のそういった強さは敬服に値する。だからこそ、手を取り合えれば、とも思ったのだが。ふむ、貴方が俺たちに与した時点で、俺にとっての貴方の価値は損なわれる。なかなかどうして難しいものだな」

「俺たち人類に敵対する者とはいえ《魔族(アクチノイド)》の統率者。その言葉は有り難く受け取らせてもらおう」

 ジゼリオス卿の声に、普段の人あたりのよさはなく、人々を率いる厳格なる長の声だった。低く、体の芯を響かせる声を聞き、カルフォルは心底楽しそうだ。

「俺はますます貴方が気に入った。俺も敬意を表そう。俺たちは今回、貴方の協力を得ることに失敗した。今後、俺たちは貴方とその周辺に決して手を出さないと約束しよう。貴方の治めるこの街は、世界の終末のその時まで《魔族アクチノイド》に干渉されない」

 それは一切の穢れなき、敗北を認めるためだけの言葉だった。

 クロームでさえ言葉を失っていた。

 ただジゼリオス卿だけが厳かに頷く。

「確かに聞いたぞ。二言はないのだろうな?」

「俺は謂わば《魔族アクチノイド》の王――魔王だ。契約を違えることは決していない。その一点においては信用して頂きたい」

「しかしカルフォル様、それでは……!」

 カルフォルの背後でトリエラが悲痛な声を上げる。

魔族アクチノイド》の敗北を長が認めてしまえば、それは覆しようのない事実となる。今この瞬間、カルフォルが行えば、ジゼリオス卿を殺すことは簡単だ。

 まだ《魔族アクチノイド》には勝機がある。

 その機会すらカルフォルは棄てようとしていた。

 カルフォルは縋るようなトリエラを宥めるように頭を撫でて、優しく微笑んだ。

「状況をよく考えてみるといい。トリエラ。ジゼリオス卿は健在だ。お前とアメリスという戦力を投入しながら、健在なのだ。そしてお前たちは間違いなく倒される寸前。ここに俺が引きずり出された時点で俺たちは負けている」

「それでも、カルフォル様が剣を振るえば……!」

「この時代、前線で王が戦った時点で負けなのだよ」

 カルフォルはもう一度トリエラの小さな頭をくしゃりと撫で、視線をクロームへと戻した。

 剣を構えたままのクロームの眼光は鋭い。

「貴様が口約束を守り抜くとは到底思えない。ここで斬り伏せれば、そんなことを気にする必要もなくなる」

「勇者よ、勇むことは結構なことだと言えよう。その勇猛さ、敵としては実に心強い。しかしだな、貴様は今一度冷静になるといい。ここで俺に向かってきたところでお前たちに勝機はない。折角掴んだ勝利を投げ捨てるのか?」

 クロームは歯噛みする。

 確かに、以前の村での戦いを考えれば、クロームがカルフォルに勝てる要素など何一つなかった。

 彼我の実力の差は圧倒的だ。ほんの数日間の鍛錬で、カルフォルに追いついたなどという思い上がりはクローム自身でさえ抱けない。

「安心しろ。俺は今後二度と、この街に手は出さない。これは絶対的な契約だ」

「それを信じろというのか? 他でもない《魔族アクチノイド》の言葉を?」

「世界を滅ぼす、その言葉を嘘にしないため今日この時まで世界に挑み続けている男の言葉だ。これ以上信用に値するものはないと思うが?」

「貴様のその言葉は嘘になる。俺が嘘にする」

「それでよい」

 カルフォルは薄く笑み、朽ち果てた剣で空を裂いた。

「今一度宣言しよう。我々《魔族アクチノイド》はお前たち勇者一行の実力を前に撤退する。比類なき敗走を余儀なくされた。この戦い、お前たちの勝利だ」

 魔王は確かに敗北を認めた。

 それでもクロームは剣を構え続けている。背後のセシウも臨戦態勢を崩してはいない。

 緊迫した二人のインカムからノイズが流れ始める。

「二人とも、やめておけ。今回はこれで十分だ」

 ガンマの声であった。

「黙っていろ。今ここでこいつを倒さずにいて、何が勇者だ」

「勘違いするな。そいつは俺たちを今回見逃してくれるだけだ。今向かったところで徒に傷を負うだけだ」

「…………」

 クロームの視線が彷徨う。

 逡巡する勇者に、カルフォルは肩を竦めてみせた。

「俺としては、どこかに潜む策士の意見を聞き受けることを奨めよう。そやつの言葉に反論できないのなら、尚更そうだ」

「…………」

 刺し貫くような眼光のまま、クロームは深く息を吐き出し、やがてゆっくりと剣を鞘に納めた。

 カルフォルは優雅に頷く。

「結構だ、結構。トリエラ、アメリス、帰るぞ。いや、逃げるぞ」

「は、はい……」

 不承不承ながらもトリエラは応じる。カルフォルは悠然と歩を進め、クロームたちの立ちはだかる方へと進んでいく。

 刃のような銀の瞳を真正面から受けても、カルフォルが臆することはない。二人の距離が確実に縮まっていく。

 二人が間近に迫る。カルフォルは正面のクロームを避けるように動き、その脇を抜けていく。

魔族アクチノイド》の長が、勇者を避けて進むことを選んだ。クロームに道を空けさせようとしなかった。

 あまりにも微かな、敬意。

 クロームは背後を行くカルフォルを顧みることはなかった。

 そうしてプラナの脇を抜ける最中、カルフォルは魔術師に穏やかな笑みを向ける。

「白き魔女よ。お前にもなかなか楽しませてもらったよ」

「貴方から賛辞を受けるとは。身の毛がよだつほどの誉れです」

 未だ光を宿す紅い瞳は冷ややかだった。

 その力強い敵意に、カルフォルはやはり楽しそうに笑う。

「よいぞ、その憎しみ。得難いものだ。これからも楽しませてもらうとしよう」

 カルフォルはそのまま歩を進め、倒れ伏すアメリスを力任せに肩へ担ぎ上げる。筋肉質の長身を細身の身体で軽々と持ち上げ、カルフォルは去っていく。

「今度もまた俺を楽しませてくれたまえ、勇者諸君」

魔族アクチノイド》たちが去っていく。否、逃げていく。彼らは確かに敗走したのだ。

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