Running Mn―潜行奔走―
魔導陣が煌く。
一つ二つではない。複数の魔導陣が同時に前後左右上下で輝き、魔術が発動する。
風の弾丸がアメリスの横合いを掠める。体を動かすのがあと一瞬遅ければ、眉間を撃ち抜かれていた。
氷の刃が足元に突き刺さる。あと少し動くのが遅ければ、心臓を串刺しにされていた。
取り囲むように炎が逆巻いた。障壁を展開しなければ、全身が炭となったいたことだろう。
放たれる魔術、そのどれもが確実にアメリスを仕留めようとしていた。
動きを制限させることや、無力することなどは一切考えていない。どの魔術も、直撃すれば確実に致命傷となる。
「クソがッ! 嬲り殺しがお好みかよッ!」
ひらりひらりと四方八方、否、それ以上の方位から襲いかかる魔術をやり過ごしながら、アメリスが喚く。
「嬲り殺されるまでの間、生きていられるのだから感謝してほしいくらいですよ、《魔族》」普段よりも低い声で、プラナは忌々しそうに吐き捨てる。「まあ、早めに死んでくれた方が、気分もいいんですけど。いえ、長々と痛めつけるのも気分がよろしいかもしれませんね」
プラナの声に容赦はない。
また嘘や冗談、洒落っ気の類も感じられない。
間違いなく本心からの発言なのだろう。
「マジうざッてェッ!」
四方から同時に迫る魔術を展開した障壁で弾く。障壁が崩壊していくことも意に介さず、アメリスは勇猛な足取りでセシウへと迫った。
「オイッ! まだ戦いは終わッてねェだろッ! ヤラせろッ!」
「うわ、まーだ向かってくるよっ!」
げんなりした顔で呟き、セシウは微かに身を引く。
「誰が歩いていいと行ったのですか?」
プラナの声が頭上より突き刺さる。同時に覆い被さるように魔術の大群がアメリスへと襲いかかった。
「ふッざけンなッつゥのッ!」
躱しきることは不可能と判断し、アメリスは結界を素早く展開する。降り注ぐ魔術の中に埋もれていくが。その全てを結界は弾いていた。
「セシウ! 今ですっ!」
プラナに呼びかけられ、セシウは弾かれるように動き出す。アメリスは魔術を防ぐことに集中している自身に攻撃を仕掛けてくることを予期し、身構える。
だが、予想していた衝撃はなく、セシウの影さえ視界に入らない。
結界の中、悠然と降り注ぐ魔術をやり過ごしながらアメリスは周囲を見渡す。絶え間無い魔術の隙間、屋敷の奥へと走っていくセシウの姿をアメリスは確かに認めた。
アメリスの目が見開かれる。
怒りに唇がわなわなと震えた。
紛れもない失望だった。
「テメェ! どこに行きやがるッ! 戦いはまだ終わッてねェだろッ! 逃げんなッ! 決着もつけずにどこ行くッてンだッ!」
遠くなっていくセシウが走りながらもアメリスを顧み、嘲るように笑った。中指を突き立て、挑発までしてくる。
「あんたとは違うって言ってんでしょ。同じ土俵で戦う義理なんかないねっ」
その言葉にアメリスの目が血走った。
「どこまで俺を虚仮にしやがンだッ! 赦さねェぞッ! ぜッてェ切り刻んで、晒しモンにしてやンぞッ!」
アメリスの叫びは絶え間無い魔術の音に呑み込まれセシウには届かない。そしてまた、魔術の爆風や瀑布、颶風に塗りつぶされ、セシウの姿も見えなくなってしまう。
アメリスをあれほどまでに昂らせた戦いは反転し、彼を怒りに震わせるものへと変貌していた。
ようやく魔術が止む。
どれだけ数を重ねようと、アメリスの結界に罅一つ入れられないような中位止まりの魔術ばかりだった。
アメリスは結界を解除し、周囲を見回した。魔導陣は消えている。当然のようにセシウの姿はない。それどころかプラナの姿さえもない。
全てが逃げた。
この闘争の舞台で死力を尽くし、果てることもなく、逃げたのだ。
彼らは穢した。戦いという尊き行為を。
アメリスは歯噛みする。
この夜、最高の戦いを味わえると思っていた。
互いに万全の状態で、命を賭した全力の戦いができるものだろうと待ち焦がれていたのだ。
しかし、現状はどうだ。
興は削がれるばかりではなかろうか。
アメリスはそれが何よりも許せなかった。
「クソが……ふざけるのも大概にしろよ……」
静かに歩を進め始める。
セシウが逃げたのは一階の奥だったはずだ。
あの魔術師も気に食わないが、まずは彼女との戦いに決着をつけることが先だと判断したらしい。
一階の奥へと続く扉を開けようとした瞬間、光が途絶えた。あれほど眩かった照明が切れ、屋敷全体に闇が満ちる。
「……今度はなんだ? どォゆゥ子供騙しだ?」
闇などアメリスには脅威にならない。闇夜でも感覚で分かる。
行く手を阻まれることはない。
アメリスは怖じけることもなく、扉に手をかけ、奥へと踏み入っていく。
力任せに開いた扉の向こうに広がっていたのは廊下。当然のように照明は落とされ、先には深い闇が蟠っている。
どうやら屋敷全体の灯りを消したようだ。
「意味ねェッつゥの……」
「無意味か、どうかは、今から分かることだぜ」
ふと聞こえた声に、アメリスは視線を巡らすが、人の気配は感じられない。
「その声、ガンマかッ!」
苛立った声でアメリスが吠える。
「おう、俺の声を覚えていたか。我ながら類稀なる美声の持ち主であることは分かっていたが、男に覚えられていても何一つ嬉しくないな」
声の出処は分からない。くぐもっているため、どこか室内に隠れているのかもしれない。
アメリスは意識を集中させ気配を探るが、突き止めることができない。
ここまで気配を断つことに長けた者ではなかったはずだ。
「くだらねェことを言ッてる暇があッたら出てこいッ! 正々堂々俺と戦えッ!」
「おいおい、見境無いにもほどがあんじゃねぇのか? 俺と戦ったところで、勝敗は見えてるだろ?」
「だッたら呆気なく殺されてろ」
「嫌だね、勝てない勝負はしないのが俺の主義でね」戯けるようにガンマの声は言う。しかし、その後の声は硬質だった。「だからさ、俺がお前の前に姿を現したら、それがどういう意味かは分かるだろ?」
「ナメたことヌカしてんじャねェぞッ!」
怒りのやりどころが分からず、アメリスは壁に拳を叩きつける。
重く鈍い音は、闇夜の蠢く屋敷の中を虚しく反響するばかりだ。
ここに長居しても意味はない。アメリスはガンマの声を無視して、先へと進み出す。
元より、あの男など斬る価値もない。
行く手で何かが煌く。途端にアメリスが身を反らすと、横合いを一振りの剣が駆け抜けた。
背後の扉に突き刺さった剣は即座にエーテルへと分解され消えていく。
間違いない。
《旧き剣》によって創造された剣であった。
アメリスの顔が愉悦に歪む。
「イィじャねェか。いやがるンだな……!」
アメリスはナイフを構え、走り出す。
静かに、だが確かに、その速度は増していく。まるで彼本人の高揚を示すように。
しかし闇を切り裂いて駆けつけた先に求めていた白銀の剣士の姿はなかった。
あったのは壁に仕掛けられた、一個の小細工。ボウガンのようなものだった。恐らくはこれを使って剣を飛ばしたのだろう。
「アー? なンだ? テメェらどいつもこいつも腑抜けちまッたのかァ?」
力任せにボウガンを叩き壊す。その瞬間、背後から轟音が響く。弾かれるように振り向くと、そこには扉を斬り裂き、部屋から飛び出すクロームの姿があった。
迫る美貌。銀色の髪が靡く。構えた剣が突き出される。
「ナッ!?」
両手のナイフで突き出された剣を挟んで受け止め、顔面を狙った切っ先を脇へと逸らす。アメリスの顔のすぐ隣で、三つの刃が火花を散らした。
「どうした? 随分苛立っているな? 何とも隙だらけの背中だったぞ?」
艶然と笑う美貌は月に照らされてより幻想的だ。銀色の瞳、銀色の髪、そして雪を思わせる白い肌。そのどれを取っても作り物染みた容貌の勇者がそこにはいた。
両手で柄を握り締め、剣を少しずつ横に動かしていく。アメリスもナイフで必死に止めようとするも、体勢が悪すぎた。この状態ではクロームの膂力に負ける。
「るッせェ……! さんざんナメた真似しやがッて! 恥はねェのかッ!」
「全く同意見だ。しかし、我々は勝つために戦っている。己の矜持のために、世界を滅ぼすつもりはない」
クロームがさらに力を込める。刃がじりじりとアメリスの顔に迫った。
「クソがッ!」
アメリスは必死の抵抗でクロームを蹴り飛ばす。しかしそれは予期していたことらしく、クロームは腹部への蹴りに合わせて飛び下がりダメージは最小限に抑えた。
「正々堂々真ッ向から来やがれつゥの!」
「戦場で隙だらけの背後を晒せば、首を掻っ攫われようと文句は言えまいよ」
「ふッざけ腐りやがッて!」
アメリスが床を蹴り、クロームへと迫る。二つのナイフを翳した剣でクロームが受け止めた。
二人の間で火花が散る。
怒りに燃えるアメリスと冷静に凪いだクロームの目が交差した。
「テメェらが腑抜けちャ俺が楽しめねェだろうが。もッと楽しませろッ!」
「貴様とはこれで三度目の手合わせになるわけだが、どうやら俺一人で貴様を殺すことは難しいようだ」
「アァン!?」
「俺たちは負ける戦いをするわけにはいかない。ならば、誇りを捨ててでも勝ちを掴むしかあるまい」
クロームは受け止めた剣を斜めに傾ける。鍔迫り合いに押し勝とうと力んでいたアメリスの二つのナイフが剣身を滑り、横へと流される。体勢を崩したアメリスの脇を抜けクロームが背後に回り込んだ。
咄嗟にアメリスは踏み込んだ足を支点に半回転するが、それよりもクロームの斬り込みが速い。
腹部を狙った一閃は確かにアメリスの体を疾った。
脇腹から鮮血が噴き出す。
「クソがッ!」
痛みに顔を歪めつつ、アメリスは飛び下がり、クロームとの間合いを広げる。
予想外の反撃であった。アメリスには見覚えのない技だ。反応が遅れた。
剣を振り、血糊を払ったクロームはアメリスを睨み、鼻を鳴らす。
「なるほど、東洋の技、悪くはない。あいつの知識も存外バカにはできないな」
アメリスは腹部を押さえ、クロームを睨み返す。
この程度の傷は大したものではない。掠り傷と言ってもいい。
内臓が溢れないように押さえていれば、魔力で十分治癒できる程度のものだ。
しかし、何よりこのような小細工によって手傷を負わされたことが屈辱だった。
「まだ一太刀ではないか。向かってこないのか?」
「るッせェッ!」
デュランダルに負わされた傷はそれだけで治癒が遅れる。それでもアメリスはクロームへと肉薄した。
片手で腹部を押さえたまま、右手のナイフをクロームへ振るう。細身の剣がナイフを弾き、即座に切り返す。軽やかに身体を運び、紙一重で白刃を避け、今度はアメリスが切り返す。
振り下ろされる一閃をクロームは掲げた剣で受け止める。
叩きつけるようなナイフの衝撃に、クロームの腕が軋む。左手を剣身に添え、力を加えてアメリスのナイフを押し返した。
さらに一閃。横薙ぎをナイフで受けるが、押し負けてナイフが弾け飛ぶ。
返す刀――翻った剣がアメリスの首を刎ねようと迫る。
神速の剣を避けきる余裕はない。また回避に即座に転じることができない体勢だ。
防ぐためのナイフもない。またクロームの斬撃を防ぎうるだけの結界や障壁を構築する時間もない。
絶体絶命の状態。しかし、その最中、一瞬の隙間にでも彼は活路を見出した。
アメリスは口を開き、眼前の剣に躊躇いなく食らいついた。
音速の刃をその類稀なる動体視力と怯懦なき心が捉え、芸術品のような細い剣身に牙を立てる。
顎に力を込めて歯が軋むほどの力で押さえつけようと、剣は止まらず、歯の間を滑る。口の両端に刃が食い込み、血が溢れた。それでもなお力を緩めず、口を斬り抜けられるよりも先にアメリスは剣を受け止めた。
剥き出しの歯の隙間から獣のように荒い息が漏れる。アメリスは深く裂けた口の端から血を流しながら、クロームを睥睨する。
頬まで裂けた口、剥き出しの牙、唸るような呼吸――獣だった。
クロームは素早く剣を引き抜き、応戦しようとするが、剣は抜けない。アメリスの牙が深く食い込み、押し込むことも引き抜くことも叶わない。
二人の視界の端で、宙に舞ったナイフが床に落ちた。
アメリスが喉の奥でくつくつと嗤う。
金色の眼が「捕まえた」と、勝ち誇るようであった。
「この程度でいい気になるなよ」
クロームの左手で光が瞬く。大気中のエーテルによって剣を創造し、アメリスの顔へと振り上げる。
アメリスの頭が僅かに傾ぎ、クロームの右腕が引かれる。
甲高い金属音が廊下に響く。
アメリスは噛み付いたままの聖剣デュランダルによって、クロームの剣を防いでいた。
アメリスの眼が嘲るように細められる。
創造したばかりの剣がエーテルに還る。光の粒子が仄かに照らしたクロームの顔は苦渋に歪んでいた。
「俺の剣に……気安く触れるなっ!」
クロームの右腕が力任せに引かれる。予想以上の力にアメリスの頭が引き寄せられ、足がもつれる。前のめりになったアメリスの腹部に蹴りが捩じ込まれる。
アメリスの口から呻きが漏れた。食らいついていた剣を離し、蹴り飛ばされたアメリスの身体が廊下の壁に叩きつけられる。
背中を強かに打ち付け、アメリスがくぐもった声を吐き出した。
「イィぜェ! そンぐらい暴れてくれなきャこッちも面白くねェ!」
アメリスが快哉を叫ぶ。背中を打ち付けたために息が詰まる。腹部には鋭い痛みと鈍い痛みが混在している。口の傷もやはり治癒が遅れている。
この痛みこそがまさに彼の望む戦いだ。
壁際に追い詰められ、座り込んだアメリスは、この状況下にあっても大胆不敵に笑っていた。
対するクロームはふと耳に手を当て、多少不機嫌そうに眉根を寄せる。
「剣士に背を向けさせるとは、この借りは高くつくぞ」
呟き、クロームが途端に身を翻す。
「アァ!?」
アメリスの眼が見開かれる。動揺する彼に一瞥を向けることもなく、クロームは白銀の髪を靡かせ、真っ直ぐに廊下の奥へと駆け去っていく。
闇の奥へ消えていくクロームを、アメリスは血走った目で凝視する。現実として目に焼き付けられる光景が信じられず、ただ睨むことしかできない。
「テメェまでもが逃げるッつゥのかッ! クロームッ!」
その叫びに応える者さえない。
戦うべき相手も逃走した。
逃げたのだ。戦いに生き、戦いに死ぬべき者が、敵に背を向け、逃げたのだ。
一度や二度ではない。待ち望んだ戦いは冒涜された。
最早これは血湧き肉躍る闘争などではない。アメリスは理解した。
そして確信したのだろう。
これが戦いでないというのなら、虐殺に興じるしかないのだと。