Running Mn―潜行奔走―
「お前たち、随分と早起きだな」
俺とセシウで早起きし、身支度をしていると、物音に気付いたのかクロームが起きた。
起きて間もないというのにクロームの目ははっきりとしており、ぼさぼさの髪には色気さえ感じている。いつも縛っている後ろ髪は解かれており、なんだか新鮮な感じ。
こいつ、いつも俺より早起きだからなかなか見る機会のない姿だった。
午前五時、まだ日も昇って間もない、薄暗い朝である。部屋を満たす空気には、夜の名残の冷たさが今も残っており肌寒い。
着替えを終え、必要なものをポケットに詰めていた俺とセシウは顔を見合わせた。
「ちょっと用事があってな。出かけてくる」
「そうか。ならばいい。あまり遅くはなるなよ」
言って、クロームは再び横になり、ずり落ちた白い掛布を適当に引っ張り上げた。
しっかり目覚めているようで割と寝ぼけているようだ。
隣のベッドのプラナはナイトキャップを目深に被り、静かすぎる寝息を立てていた。
そんな二人のベッドを見て、また顔を見合った俺とセシウは互いに笑い合った。
なんだか不思議なもんだ。いつも早寝早起きのこいつらよりも先に俺たちが起きて、出かけてる準備をしてるっていうのは。
今日のセシウは髪を結い上げずに、ニット帽子を被っていた。寝癖を整えることもあまりしなかったため、赤い髪は多少ぼさぼさでもある。
まだ早朝で少し冷え込んでいるということで俺が貸したジャケットを羽織り、ホットパンツに黒い編み上げブーツという出で立ちだ。ちなみにブーツやホットパンツ、パンキッシュな柄のシャツは以前インジスが買ったものだ。
完全にあの人の趣味全開なわけだが、それでも買ってもらったものなので着ないのも悪いと思ったんだろう。セシウらしい。
まあ、その服装に男物の黒いジャケットはよく合っていた。割と違和感もなく、むしろセシウに似合っていた。
「準備終わったか」
「うん、ばっちり」
いつもより洒落っ気のある服装のセシウがにっこりと笑い、親指を突き立ててくる。
「じゃ、行こっか」
「そうだな」
俺たちはまだ目覚めきらぬ街に静かな足取りで向かった。
最初に訪れたのは街の中心に位置する時計台だった。
随分と高い時計台で、街のどこにいても見えるほどだ。特定の時間になると鐘を鳴らし、住人たちに時間を告げている。
噴水広場の英雄像に並び、この街のシンボルともいえる時計台だ。
俺たちはその足元までやってきていた。常々でかいと思っていた時計台は、側に来るとより一層でかく、天に向かってまっすぐ伸びていく様は神を貫く槍のようでもあった。
ずっと見上げてると首が痛くなってくる。
「でけぇな」
「でぇっかいねぇ」
並んでポケットに手を突っ込み空を見上げる俺とセシウは、そんな子供のような感想を吐露し合う。
一緒に育ったせいか、こういうところ、割と似てるよな。
乳白色の幕のような朝霧に満たされた街。まだ人々の大半は寝静まっているようで、人の気配はほとんどない。朝の早い家庭の母親たちはすでに起きて、朝食の支度をしているようだが、外に出てくる気配はない。新聞配達の少年がたまに通りかかる程度だ。
日も昇りきらぬ今は空気も冷え切っていて、冬に逆戻りしたようでもあった。
「高さ、どんくらいだと思う?」
「アタシに聞くかね、それを」
「それもそうか」
「なんだろう。飲み込みがよすぎてムカつく」
だろうな。
「実際に上ってみねぇと分からねぇな、さすがに」
計算上、ある程度分かってはいても、やはり実際に見ないと落ち着かないものである。
その時になって、思いもよらぬ盲点があったら話にならないであろう。
「でも中に入るには鍵かかってるよ」
「鍵なんてのは人が入っていいものにしかかけられてねぇんだよ」
扉があるということは立ち入ってもなんとかなるってことだ。本当に人が入ってはいけない場所には扉なんてもの存在しない。
というわけで俺は、扉に歩み寄り、ポケットからちょっとした道具を取り出す。
久々ながらも体は覚えているようで、金具を差し込んでちょちょいっと弄ると、鍵はあっという間にかちゃりと音を立てて降参した。
どんな女も鍵も、俺様の技巧にかかればイチコロなのである。
得意気にセシウを顧みると、呆れ返ったように頭を抱えていた。
「あんた、そういうことばっかり身につけて……」
「すげぇだろ」
「すごいけど、素直には褒められない、かな。どこで身につけたの、そんなの」
「ティタンにちょいっと、な」
ちなみにティタンは俺たち同様《始原の箱庭》に所属する創世種の一人で、気が合う悪友でもある。何かと小狡い手なども知っている。俺がカードでのイカサマの方法を教えた際に、お礼として鍵開けのコツを教えてもらった。
俺の悪友代表であるティタンの名前が出たことで、セシウは嘆息する。
「全く、本当に二人揃って……」
こういう多少なりとも法に触れる行為をセシウは歓迎しない。そうは言っても、今回はそうしなければならない理由もある。やむを得ないことだ。事後承諾ではあるが、後々伯爵様に事情を説明しておくべきだろう。
まあ、今はとりあえず違法行為を甘んじて行うわけだが。
日が昇り始め、街も目覚めて活気づいてきた頃、インジスの家に二人で訪れた。
あらあらと優雅でのんびりとした笑顔で俺たちを迎えたインジスは、しかし俺を見て目を丸くした。
「あらら、どうしたの、ガンマ。そんなに疲れきった顔をして。まるでフルマラソンでも終えてきたかのようだわ」
頬に手を当てて驚く姿はまさに貴婦人。真の淑女はどんな時でも決して取り乱したりしないのだ。
「気にしないでくれ」
「そんな、汗だくじゃない。待ってて、今タオルを取ってくるわ」
「ああ、大丈夫」
緩く纏めた藍い髪を揺らしながら身を翻すインジスを素早く呼び止める。一度世話を焼かせることを許すとこの人は、いつまでも世話を焼き続けるのだ。いつもだったら、それでも一向に構わないし、むしろこちら側からお願いしたいわけだが、生憎今回は時間にあまり余裕がない。
「そこまで言うのなら、私も無理強いはできないけど」
とは言いつつ、インジスは世話をしたくてうずうずしているようだった。
真の淑女とはいかなる時でも優しいものなのである。
俺の世話をし損ねたインジスの目が、セシウへと向けられる。隣で黙り込んでいたのは、以前セクハラまがいのことを受けたせいなのだろうか。
「あら、セシウちゃん。今日は一段と可愛らしいわね」
「あ、インジスさん、お、おはようございます」
考えてみると、インジスの前でおどおどしてるのはいつものことだった。
俺から借りた上着のポケットに手を突っ込み、首だけを控えめに下げる仕草は思春期入りたての少年のようでもある。
「まあまあ、やっぱりセシウちゃんは髪を下げていた方が可愛いわ。せっかくの綺麗な髪なんだものね。それに私が買ってきた服を着てくれているのね、嬉しいわぁ」
ぱぁっと華が咲き誇るような満面の笑みを湛え、インジスはセシウを爪先から頭の先まで溜めつ眇めつ鑑賞していく。
もう笑顔を湛えるっていうか溢れ出していて、一面を花畑にしそうなほどの喜びようだ。
そりゃセシウもびくつくわけである。ここまで褒められたら誰だって辟易とするし、照れもする。基本照れ屋なセシウなら尚更である。
今も顔を真っ赤にして、口をぱくぱくとさせることしかできていない。最早謙遜の言葉を出す余裕もないようだ。
「うんうん、よく似合っているわ。素敵よ、セシウちゃん。とっても可愛い」
トドメの一言である。
何か言おうとしていたセシウは目を見開き、耳まで真っ赤にして、無言のままゆっくりと俯いてしまう。その上ポケットに手を突っ込んだまま、爪先を落ち着きなく動かし始める。ぶつぶつと何か呟いているようだが、隣に立ってる俺でさえ聞き取れない。
断片的に「いや、ほら、アタシは……」とか「そんな、かわいい、とかじゃなくて……」とかまでは聞き取れたがそれくらいである。
このまま放っておくとのぼせかねないので、話題を逸らしてやることにしよう。
「インジス、ちょっと急で悪いんだが、頼みたいことがあってな」
「あら、なぁに?」
「今からヒュドラと連絡を取りたいんだが」
インジスは心底意外そうに眉根を寄せた。
よほど予想外の申し出だったんだろう。
それでも今すぐ連絡を取る必要が俺にはあった。
太陽も随分と昇ってきた正午、俺とセシウは与えられた部屋を素通りし、伯爵の書斎へと来ていた。
二人揃って忙しない足取りで廊下を突き進み、ノックもそれなりに許可を受けるが先か入るが先か、それすら曖昧なほどに素早く部屋へと入り込んだ。
「伯爵、失礼します」
「おぅ、ガンマ、それにセシウくん。一体どうしたんだね」
昨日プロポーズを断られたとは思えないほど気さくに伯爵は俺たちを迎え入れた。
何やら作業中だったらしく、机があるにも関わらず部屋の真ん中にどっかりとあぐらをかいた伯爵は、何やら球状の機会を抱えていた。周囲に散乱するのはドライバーやスパナなどの工具類に、無数の細かいネジ、また金属製のパーツやコードの類もあった。
全体的に物が多いながらも片付いている部屋の中、伯爵を取り囲むように散らかった工具や部品類は、まるで伯爵の領域を表しているようだった。
俺たちが来ても作業を中断する気はないらしく、伯爵は球体にドライバーを突き立て、くるくると慣れた手つきで回していく。
「少し聞きたいことがありまして」
「ああ、なんでも聞くといい」
機械に目を落としたまま伯爵は言う。
どうやらよっぽど熱心なようだ。
「この屋敷の電力供給に関してなんですか?」
「は?」
伯爵は心底意外そうに顔を上げた。
片手に持っていたドライバーがぽろりと落ち、卵のように大事に抱えていた球状の機械を叩いた。
かーんという間抜けで甲高い音がやけに響いていく。
自分の荒れた呼吸が耳障りだった。
確かに高いと思っていたが、ここまで高いとは思ってはいなかった。
時計台内の壁に沿うように設えられた階段を登る足を止め、俺は煉瓦造りの壁に寄りかかり、ぜぇはぁと乱れ切った呼吸を整えるために深呼吸をする。さっきまであんなに寒かったというのに、今では体の芯が温まり、絶え間なく汗が垂れてくる。着ていたフリースはすでに脱ぎ、腕にかけていた。
吐く息が白く、自分の呼吸の荒さが視覚化されているような気がして嫌になる。
クソッ、なんだこれ……キッツ……。
「なぁにへばってんの。まだ半分も上ってないのに」
先を行くセシウがけろっとした顔で言う。
何それ、怖い。なんで汗ひとつかいてないんだろ、こいつ。
そもそもの体の作りと、体力が明らかに違っていた。
情けないが、前衛張ってるセシウに、後衛の俺がついていけるわけがなかったのである。
今どんくらい上ったんだろうか。
ふと天を見上げるが、頂点は随分とまあ遠いところにあった。むしろ遠すぎて、距離感が湧かない。
……マジかよ。
「どうする? 休む?」
セシウからそんなお情けまで頂戴する始末だ。なんともみっともない。男として立つ瀬がない。貧弱。女々しい男。
「だ、大丈夫だ。全然余裕……」
「そうは見えないけど……」
「行けるっつぅの」
もうこうなったら自棄である。俺は壁に預けていた背中を持ち上げ、震える足を叱咤して、階段を上り始める。
正直、足を上げるのも億劫だったが、そんなこと気にしている場合でもないのだ。
眼鏡が鬱陶しい。こんなのどうせ伊達だ。つけ続けたところで大した意味はない。乱暴に眼鏡を外し、襟に引っ掛けておく。
「あ、ガンマ。あんま無理しないでよっ」
「してねぇっつぅの!」
「なんならアタシが上って見てくるよ?」
「自分で見なきゃ意味ねぇのっ!」
完全にヤケクソであるが、その点に関しては事実である。
これは自分で確認しなければいけないことだ。