Dispatched Am―放たれた刺客―
〆
人々は宵闇を恐れるように光を作り、生み出し、増やし、並べ、揃え、奉る。
また、まるでそれが称号であるかのように自身の巣を大きく造り上げ、己の豊かさを誇示しようとする。
どちらも人間という種族だけが持つ習性だ。
根源的な恐怖からの逃避、俗世的な虚栄心による誇示。二つの要素が絡み合い、人間という種族が払拭しようとした宵闇はより濃くなっていく。
だからこそ、人間は宵闇を追い出した巣穴に籠もり、夜をやり過ごす。しかし、眠りにつく時は暗闇を好む。おかしな生物だ。欠陥品だからだろう。
そのようにして闇を追い出そうとするからこそ、光の隙間に生まれた闇は深く濃く、己達の命に関わる悪徳と悪行を巣くわせてしまうのだ。
人目に触れぬ闇は、それだけで悪を生む。
何千回、世界を繰り返しても、それは変わらない法則だ。
今宵、闇に溶け合ってしまいそうなほどに黒い長髪を靡かせ、路地裏を歩く彼女もまた例外ではない。
夜を束ねたような黒髪は艶やかで、彼女が歩く度に、そよ風を孕みふわりと背中で広がる。深い闇を思わす髪に反して、一糸纏わぬ裸身は月の光を湛えたように白い。
人間離れした美貌を持つ彼女は、紛れもなくキュリーだった。
およそ人が通る場所とは思えない狭い路地裏を進む、その絶世の美女の顔は冴えない。何かを思い詰めたように唇を引き結び、向かう先をじっと睨み付けていた。
常日頃日が当たっているかも怪しい場所だ。空気は濁り、生ゴミの異臭も漂っている。汚れた空気が肺を満たすような感覚が不快感を煽る。
居心地のいい場所とは誰も言わないだろう。しかしだからこそ、好都合な場所でもあった。
迷うこともなく入り組んだ路地裏を進んでいたキュリーはふと立ち止まり、建物と建物の間を覗き見む。
「よう、キュリー」
建物の間に生まれた狭隘な峡谷に、その男はいた。建物の壁に背を預け、向かいの壁に片足を引っかけ、人相の悪い青年は腕を組んでいた。
左は長髪、右は短髪という左右非対称の髪型、刺青とボディピアスに溢れた身体――奇抜で攻撃的なその出で立ちはアメリスのそれだった。
アメリスの奥、影に紛れるように立ったトリエラは不機嫌そうな顔で煙管を咥え、紫煙を燻らせている。
二人の姿を確認し、キュリーは僅かに唇を綻ばせる。
「二人とも随分と居心地がよさそうではないか」
「嫌味を言いに来たのでしたら帰って下さって結構ですよ、キュリー。諧謔欲しさに集まったわけではないでしょう」
キュリーに視線を向けることなく、トリエラは苦々しく吐き捨てる。その顔は明らかに苛立っていた。
「悪ィな、キュリー。お嬢ちゃんは待ち合わせ場所がお気に召さなかったよゥだぜ?」
「ふふ、それは私も同意見だ。髪に臭いがつく。手短に済ませて帰りたいところであろう、互にな」
キュリーも髪に臭いが染み込むことは避けたいところのようだ。
この場所の空気は停滞し、澱みきっている。長居をしたがる者はいないはずだ。
「ンで、来たのはキュリー、お前だけなのか?」
アメリスの問いに、キュリーは何も言わず上方を指差した。その細い指先が指し示すところへ目を向け、アメリスは小さく鼻を鳴らす。
「ハン、まァた傍観者気取りかァ、ウラヌス」
「アメリス、ウラヌス様はカルフォル様の眼としてここへ来ています。貴方がとやかく意見する権利はありませんよ」
背後から釘を刺され、アメリスは不機嫌そうに顔を歪めて、あからさまに舌打ちをする。
「へェへェ、分かってますよ。ウラヌス様はカルフォル様と同等だと思えだろ。じャア、ホラ、トリエラ、あいつにも尻尾振ってこいよ。なんならケツを振ったっていいんだぜェ?」
「くだらない文句に時間を費やしている暇はないんですよ、アメリス」
アメリスの下卑た挑発に動揺することもなく、トリエラは毅然とあしらう。そんな二人の様子を見て、キュリーは微かに唇を綻ばせる。
「お前よりもトリエラの方が大人だな」
「るッせェなァ! いンだよ、別に!」
「そうですわ、アメリスが子供すぎるだけですわ。そんなことを言っては、あまりにもアメリスが哀れです」」
ムキになって噛み付かんばかりに怒鳴るアメリスの後ろで皮肉を口にするトリエラに、いよいよキュリーは耐えきれず吹き出してしまう。
「あっはっは! そうだな。確かにそうだ。あまりにもアメリスに酷であったな」
「笑ッてンじャねェよ!」
外見が子供のトリエラに言葉で負けて悔しさと恥ずかしさもあるのだろう。アメリスは顔を真っ赤にして、薄い腹を押さえて笑うキュリーに対し、必死に喚いている。
しかし、そんなことで動じるほどの普通な神経を二人は持ち合わせていなかった。
「それでトリエラ、今回は一体どうして、私を呼んだんだ?」
「はい。今回の作戦で少しばかり助力を願おうと思いまして」
トリエラは煙管から紫煙を吸い込み、そっと瑞々しい唇の隙間から空に吐き出した。
揺らめきながら空を昇る煙は、建物と建物の谷を抜けるよりも先に霧散してしまう。
トリエラの言葉にキュリーは眉根を顰める。
「助力?」
思いも寄らぬ言葉だった。
「はい。ある場所に人払いの結界を」
「人払い?」
さらに予想外の言葉が来て、いよいよキュリーは腕を組んで首を傾げた。
「その手の結界はお前でも仕込めるだろう」
「私よりも貴女の結界の方が確かでしょう。そこは私も理解しています。その分私は他の場所に注力します。私は空間遮断は得意ですが、意識に作用させる結界はあまり得意ではありませんしね」
「ふむ、お前がそう言うなら、別に構わないが……」
正直、キュリーからしても意外だったのだろう。
彼女はトリエラに嫌われている自覚があった。その相手から協力を求められるとは考えていなかったはずだ。
それだけトリエラが、カルフォルから与えられた仕事の完遂を尊んでいるということなのだろう。
「現に私の意識結界は、勇者一行の白魔女に破られています。一度破られた結界を同じ相手に扱うのは得策ではないでしょう」
トリエラの顔に不満の色は見えない。
彼女にとって最優先すべき事項は目的の達成であり、そのためならば私情を一切挟まないのかもしれない。
トリエラの考えを聞き、キュリーは頤に指をかけ、微かに唸る。
「まあ、そうだな。私が意識結界のみに集中すれば、プラナにも破られない結果を編むことは可能だ。しかし相手は《創世種》。魔術に対する抵抗力が強すぎる。意識結界程度で気を逸らせるとは思えないが」
「その点に関しては問題ありません。勇者一行を遠ざけることが目的ではないのです。ただ、勇者一行との戦いの場に邪魔が入らないようにしてくだされば構いません」
「そういう意味での人払いか」
キュリーは、腕を組んで壁に寄りかかったままのアメリスに目を向ける。
「そうゆうこッたよ。キュリー。折角勇者一行とやり合えるんだ。邪魔は少ねェ方がいいだろ。無関係の連中を斬ッたとこで面白くもねェしな」
言って、アメリスは軽快に笑う。
今から勇者一行との戦いが楽しみで仕方ないようだ。
戦いに飢えた人間はそれだけで末期的だ。
一通りの要求を聞いたキュリーはそっと息を吐き出し、細い腰に片手を当てた。
「なるほど。話は分かった。意識結界の方は私が準備をしよう。例え結界内で建物が木っ端微塵に吹き飛んだところで、外の者には何も起きていないと認識させられる程度のものは拵えておく。ただし、結界を展開した時点でその内部にいる者に関してはお前達で対処しろ。いいな」
「ハッ、上等上等」
唇の右端を吊り上げ、獰猛に笑ったアメリスは背中を壁から離す。細い長身がゆらりと幽鬼のように揺れた。
「ンジャ、話が纏まッたところで、俺は行くぜ? 俺には俺なりにやることもあンでね」
背中を向けたアメリスはトリエラの脇を抜け、手を振りながらゆらゆらとした足取りで深い闇の底へと歩んでいく。
「ああ。夜道には気を付けろよ」
キュリーが投じた皮肉にアメリスは振り返らず、それでも微かに笑った。
「ハハハッ、夜道は俺に気を付けるモンだッつゥの」
嘲るように言い残し、アメリスはくつくつと笑いながら宵闇に溶け入った。
その細い背中が完全に消え失せ、彼の纏う鋭利な気配もなくなったのを確かめた途端、トリエラは大きなため息を吐き出し、倒れ込むように壁へ凭れかかった。
「全く……あの男といると、気が気じゃないわ……」
脱力しきったトリエラに、キュリーは唇を綻ばせる。
「そうか、そういえばお前はあいつが苦手だったな」
「ええ。どうにも。傍にいられると落ち着きませんわ。何を考えているのかよく分からなくて」
アメリスが消えていった闇に視線を投じ、トリエラは自分を落ち着かせるように煙管を咥える。
「私達の中で、何を考えているのか推し量れるのはお前くらいのものだろう」
「キュリー。一応言っておきますが、私は貴女のことが嫌いですよ」
キュリーの言い方が気に入らなかったのだろう。トリエラはキュリーをきつく睨み付けた。
対してキュリーはトリエラの反応に不快感も示さず、穏やかに微笑んでいる。
アメリスは苦手で、キュリーは嫌い。その違いはあまりにも大きい。トリエラもそれを分かった上で言葉を選んだのだろう。
「ふふ、私はお前を嫌っているわけではないのだがな」
「貴女の含むものがありそうな言動は気に障ります」
煙管に詰まった吸い殻を地面に落とし、トリエラは指先でくるりと回す。
どうあってもトリエラは、キュリーと相容れるつもりがないようだった。これには流石のキュリーも諦観を抱かずにはいられない様子だ。
「そうは言うが、トリエラ。お前はカルフォルの考えだって分かりきっているわけではないだろう」
「貴女のそういった、カルフォル様のことを私より理解しているとでも言いたげな態度が余計に苛立たせるのです」
トリエラの濃緑の目には黒い感情が炎となって灯っていた。トリエラが強情であることをキュリーは知っている。これから、どれだけ言葉を尽くそうと、トリエラはキュリーに心を開くことなどないのだろう。
キュリーは薄い肩を大仰に竦めた。
「そういうつもりで言ったわけではないのだが――お前はカルフォルの考えが分からないまま、何故あそこまでカルフォルに尽くせる? 一体何がお前をそうさせる?」
トリエラは眉を顰め、訝しむようにキュリーを睨んだ。真意が分からず困惑しているようにも見えた。
「今更、なんでそんなことを聞くのでしょうか?」
「いや、少し気になっただけさ。お前とはそういったことを話したこともなかったからな」
トリエラは《魔族》において新参の部類だった。古参であるキュリーとはあまり話す機会もない。顔を合わせることがあっても、トリエラはカルフォルと共にいることが多かったため尚更だ。
「私は……」
キュリーの言い分に納得のいかないものを感じつつも、トリエラは自分がカルフォルに付き従う理由を考え始める。
「私はカルフォル様の目的と主義、また理想は分かっているつもりです。ですが、あのお方の心中については分かりません。私を信頼しているのか、それとも使い勝手のいい駒として重宝しているだけにしかすぎないのか、ということさえ」
トリエラは頬を夜空へと向かせる。
建物と建物に狭められた空には月があった。
まるで盗み見るように、覗き込むように、全てを見通すかのように。それでも月の光は柔らかく、少女の顔を淡く照らし出す。
「それでも私は、あのお方の全てを受け容れ、あの方が望むことの全てを推敲します。例えそれがどんなに醜悪なものであれ、私はそれに応じます」
トリエラの濃緑の瞳は一体今何を見ているのか。
ここではないどこか、遠い場所を見つめているように思えた。
カルフォルに想いを馳せていたのかもしれない。遠き日の思い出を追憶していたのかもしれない。
トリエラはキュリーへと顔を向ける。その双眸は力強く、揺るがない意志に燃えていた。
「あのお方は、私をこの世界で最も醜悪な場所から掬い出して下さった。だから、私はあのお方のために、どんな地獄へでも飛び込みます。あのお方がどんな本心を包み隠していようと、私を掬ってくれたことは事実なんですから」
故に全てを受け容れる。
例え利用されているだけだったとしても、彼に報いるためならばそれさえも良しとするという覚悟。
あまりの強すぎる、真っ直ぐな決意にキュウーは微かに目を瞠る。
彼女にしては珍しい動揺だった。
「そうか。トリエラ、お前のことを少し分かった気がするよ、私は」
「嫌味ですか、それは?」
今にも魔術を放ちそうなほどに殺気立ったトリエラにキュリーは苦笑する。
「違うよ。ただ、そうだな。お前は案外、カルフォルの本質を一番理解できているのかもしれない」
キュリーはそっとトリエラに歩み寄り、その頭にぽんと優しく手を置いた。
予想外の行為に、トリエラは円らな瞳を大きく見開いてしまう。
「トリエラ、お前は大した奴だよ」
「な……なんですか、いきなり……!」
顔を赤くさせたトリエラは頭を撫でてくる手から逃れようと頭を振るが、キュリーの手はその小さな頭から決して離れない。
「ふふふ、頑張れよ。カルフォルの期待に応えるために」
「そ、そんなの当たり前のことです! いいから離して下さいっ!」
何とかキュリーの手首を掴んで、撫でるのをやめさせようとするが、キュリーに諦める気配はなく、ただ穏やかに笑っていた。
トリエラのたどたどしい抵抗の声だけが、宵闇に浸透していく。
謀略は少しずつ廻り始めていた。