Dispatched Am―放たれた刺客―
〆
「そう、イッテルビーは消滅したのね」
淡々とした口調で、その少女は言う。特に感慨もなく、平坦な声だった。
あどけなく愛らしい少女の声音が、事務的に無感動に言葉を紡いでいるのは何とも不思議で、どこまでも歪で、不安をかき立てる。
思い出したくもないことを無理矢理思い出し、最早口にもしたくない失態を語り、二度と触れたくはなかった悔悟と後悔、辛苦と苦渋に触れさせられ、俺達四人はすでに精神的に摩耗していた。誰一人、少女の事象を確定させてしまうような言葉に応えることができなかった。
遮光用の分厚いカーテンで窓は鎖され、灯りもない暗いリビングの中心――テーブルの上でその少女は俺達を見渡していた。
白いローブを纏ったその身体は僅かに透けており、向こう側の景色を見ることさえできる。しかし、存在が曖昧なわけではなく、うっすらと光を帯びているせいもあって、鮮明に姿形を捉えられる。やる気になれば毛穴も見れるし、服の材質だって調べられるだろう。
それでも少女に質量はなく、ここにはいない存在であった。
肩に触れない程度の長さでで切り揃えられた髪は浅葱色。涼しげな水のような色をしていた。。前髪は僅かに額にかかるほどの長さしかなく、晒された柔らかな額には左右対称の黒い紋章が刻まれている。まるで翼を広げた鳥のようであり、それでいて決して鳥ではなく、複雑に絡み合った線に鳥らしさはない。左右に広げられた爪牙にも似たそれが、鳥の翼を思わせているにすぎない。
顔立ちはまだ幼いが、円らな黒い瞳だけはやけに冷たく、感情というものが見つけられなかった。
足下には魔導陣が広がり、蛍の冷光を思わせる輝きを放っている。この魔導陣が、少女の姿を虚空に映し出していた。
術者はインジスだ。
別にインジスは世話や拠点の管理しかできないわけじゃない。補助専門とはいえインジス自身優れた魔術師でもある。
そしてこれはインジス固有の能力である。遠くの相手を映し出し、その相手と音や光を双方向で伝達し合うことができる。
少女の側からも、俺達の姿が見えていることだろう。
「今まで《始原の箱庭》が世界の救済の象徴として喧伝してきた勇者一行が、小規模とはいえ村一つ守れず消滅を許してしまった挙げ句、犯人である《魔族》を屠ることさえできなかった、ね」
それでも少女の声に感情はなく、淡々としている。その語調に反して、少女は肩に載せた手の平に収まる程度に小さな竜の子供を指先で撫でて可愛がっていた。
俺達は何も言い返せず、ただ黙り込んでいる。
先頭に立ったクロームは腕を組み、険しい顔つきで少女を見つめ、その隣にいるプラナはフードを引き下ろし、顔全体を隠していた。俺の隣のセシウも弱り切った顔で項垂れている。
俺も、まあ、こいつらと大差ない顔をしているんだろう。
「それどころか、村人を一人も救えず、まともに太刀打ちすることもできず、殺せたのは欲に目が眩んだ愚か者の成り果てである豚一匹。肝心の《魔族》には満足な手傷一つ与えられなかった――なんていうことでしょうね」
全員十分すぎるほどに理解していた。
全ては俺達の責任だ。俺達の無力が招いた結果だ。
王都から出立し、各地を巡り、ここに至るまでの三ヶ月、俺達の旅はほとんど順風満帆だった。四人でかかれば何でも好転していくとさえ思っていた。世界を終末から救うことだってできると信じて疑わなかった。
そんなのは慢心だった。
俺達の自信は一片も残らず、驕りだった。
目の前に立つ幼い少女――《始原の箱庭》の創始者にして当主であると同時に、自らも《創世種》の第一位に属するヒュドラも、俺達には失望しきっていることだろう。
そう、この小娘が俺達の主である。
世界の終末を回避するための組織《始原の箱庭》を統べる者なのだ。
選定の聖女とも賞されるこいつがクロームを勇者として選定した。
創世の時アカシャが創り出した最初の人類とも言われており、始まりの巫女ハーヴェスターシャとして崇め奉られる猊下殿でもある。
「クローム。この失態を一体どうしましょうね? 私はね、貴方達の活躍を聞けると思っていたのだけれど。貴方達の功績を王都の民に伝えれば、彼らはまだ絶望から逃れられる。翻って言えば、それがなければ彼らは絶望するの。そうなった時民衆は、世界を救うなんていう大嘘をついて多大なる支援を受けてきた《始原の箱庭》を、きっと人類史最大にして最悪の詐欺集団として断罪しようとするわ」
一巡目の時代、終末龍が出現し、世界を破壊し尽くして間もなく、ヒュドラは《始原の箱庭》を創設したらしい。各地にいる《創世種》としての力を受け継いだ戦士達を探させ、集結させてきた。
《創世種》の力さえあれば世界を救うことができる、と謳ってきたのだ。その結果は現状がそのまま答えだ。
今も終末龍は百年に一度顕現し、それまでの世界を完膚無きまでに崩壊させている。決定的な終末を避けられてはいるものの、そこまでしかできていないとも言える。
これまでの積み重ねで民衆は《始原の箱庭》への不信感を高めてきている。この事態を払拭するために、ヒュドラはクロームを勇者として選定し、勇者が世界を未来へと導くと宣言した。
ヒュドラ自身、苦肉の策だったことだろう。組織にももう後がないのだ。
ここで勇者一行が村一つ救えず、《魔族》に完膚無きまでに叩きのめされたと知られれば、民衆の怒りは爆発する。下手に希望を与え持ち上げていたのも相俟って、深い絶望に叩き落とされることだろう。
本来その怒りは《魔族》にこそぶつけられるべきであるのだろうが、民衆は《魔族》に挑むだけの力も勇気もない。ならば槍玉に上がるのは《始原の箱庭》だ。
「しかしヒュドラ様」
今までただ黙って話を聞いていたインジスが意を決したように口を開いた。
「クローム達を勇者一行として持て囃したのは私達《始原の箱庭》ではありませんか。彼に全ての責任を押しつけるのは――」
「――そうね。それは正しい意見だわ。インジス」
やはり抑揚のない声で、ヒュドラは頷く。肩に載せた竜の子供は後ろ脚でヒュドラのさらさらとした白い髪を引っ掻き遊んでいる。
「だからこそ問題なの。私が選定の聖女という肩書きを用いて、彼を選定し、未来を約束してしまった。だからこそ、後には引けないの」
「だからとはいえ……!」
「それに最終的に勇者として戦うことを選んだのは貴方でしょう? クローム? トネリコの樹に突き刺さった、創世の神アカシャの聖剣であるデュランダルを引き抜こうとした時に私は言ったはずよ。その剣をもし抜くことができたのなら、貴方は世界の命運を背負うことになる、と。二度と逃れることのできない運命に身を委ねることになる、とも言ったわ」
そうだ。アカシャの剣は選ばれた者にしか扱うことのできない聖剣である。その剣をトネリコから引き抜いた瞬間から、クロームは勇者となった。勇者という在り方以外を許されなくなった。
クロームは変わらず険しい顔のまま、ヒュドラを見つめている。一瞬たりとも瞳を逸らすこともなく。
「分かっている。全ては俺の責だ」
「そうよ。貴方は言ったわ。人々の命も、世界の可能性も、全てを背負うと。全てを背負い、必ずや世界を救済すると」
「片時も忘れたことはない。俺は勇者としての在り方を全うする。この世界に住む人々を必ずや救済する」
……俺は目を瞠っていた。
こいつの揺るがない信念に、驚愕さえ覚えている。
クロームだってあの村での惨劇を目の当たりにして絶望していると思っていた。勇者であり続けることに自信を失いかけているのでは、とさえ心配していたほどだ。
だっていうのに、こいつはこんなにも迷いなく、躊躇うこともなく、世界を救うと断言した。
一体、何がこいつをここまで支えているんだろうか。
ヒュドラは目を伏せ、ほんの少しだけ唇を綻ばせる。
「そう。貴方はもう逃げられない。貴方が勇者以外の在り方に縋ることは、世界が許さない。貴方は世界の全てを背負い、民衆からの期待を脆弱な人の身一つで受けなければならない。もちろん、彼らの絶望も怒りも、受け止めなければならない」
「分かっている。そんなことはデュランダルを引き抜くその時に決意していた」
その決意が一体どれほどまでに重い物なのか、俺は分からない。計り知ることさえできない。あまりにも途方がなく、あまりにも理外のものだ。
全てを背負い、全てを受け止める覚悟。それは怒濤の只中に身を投じるよりもずっと凄絶であろう。どこまでも無謀で、愚かな行為だと誰もが思うはずだ。
しかしこいつはそれを覚悟し、決意し、今もこうして勇者としてここにいる。
以前、セシウがクロームを剣のようだと言った。でもそれは違う。こいつはまさに剣なのだ。
どんな名工が鍛え上げた剣よりも強く、硬く、真っ直ぐな剣だ。
生き方も考え方も、精神も命の形も、全てが剣なんだろう。
生まれながらにして勇者となることを約束されたような奴だ。
「確かに決意した。それを忘れたとは言わん。なかったことにするつもりもない。ただな、ヒュドラよ。俺は、人々を絶望させようと毛頭も思っていない」
「あら、分かっているようね。そうでなくてはいけないものよ、勇者というものは」
続けられたクロームの言葉に俺達の視線は集中する。項垂れていたセシウも顔を上げ、プラナはフードの端から覗き見るようにクロームを見上げている。インジスもまた胸の前で自分の手を握り締め、クロームを見守っていた。
「俺が結果を出せばいいのだろう。イッテルビーの惨劇が霞むほどの、成果を出せば、それで民衆は絶望から逃れられるのだろう?」
力強く、決して震えることのないクロームの決意に、ヒュドラは満足気に唇の両端を上げる。
「分かっているじゃない」
挑むように上目遣いでクロームを見つめ、ヒュドラは肩の子竜の顎を指先で撫でた。
「次の演説までまだ猶予はあるわ。原稿にはスペースを空けておくから、次までに素晴らしい報告を用意しておくことね」
「猊下殿も、せいぜい俺を褒め称える文句を考えておくことだ。両手で数えられる程度では足らなくなるほどの成果を見せてやろう」
ヒュドラの発破に対して、クロームは大胆不敵に笑ってみせる。クロームにしては珍しい表情だ。
よくもまあアカシャ教会の最高位であるハーヴェスターシャ教皇に対して、そんな口をきけるものである。
まあ、俺達だってそんなに敬ったりはしてないけどさ。
ヒュドラは気分を害した様子もなく、むしろ楽しそうに笑んだままだ。
「威勢は十分、ね。それでは健闘を祈っているわ」
どこか挑発するように言い残したヒュドラの姿が歪み、掻き消えていく。駆動していた魔導陣も次第に光を失い、やがて円陣そのものが霧散する。
唯一の光源だった魔導陣がなくなり、リビングに深い闇が浸食し始める。光に慣れた目に、その闇はあまりにも暗すぎた。
僅かな沈黙の後、俺とセシウは同時に大きくため息を吐き出した。全身から一瞬にして力が抜け、強ばっていた肩ががくんと下がる。
そのまま俺もセシウも後ろのソファへ倒れ込むように腰を下ろした。
「き、緊張したぁ……」
「どっと疲れたわ……」
仮にも相手は猊下殿。やっぱり相対すると緊張するものがある。肩書きに弱い人間なのだからしょうがない。それにあの女は喰えない奴なのだ。
油断するとすぐにハメられてしまう。ふっとした一言につけ込まれたら、完全に向こうの独壇場となってしまうので気が抜けない。
そんな俺とセシウ、むしろ俺だけをクロームは冷たい目で見下ろしていた。
「情けない男だ。何を臆することがある」
「いや、ね。仮にも教皇であるお方に啖呵かけられるお前の方がおかしいんだよ。俺達庶民なんで」
俺だって故郷の村でだったら村長に馴れ馴れしく話しかけてたけど、それとこれは全然レベルが違う。
さすが世界を背負う勇者様。スケールが違うぜ。
「何を言っているんだ? どんな肩書きでも人は人だ」
「はぁ……」
いや、一応ヒュドラは世界の始まりから生きているはずなんだけどな。あんまり同じ括りにすべきじゃないと思います。
あいつは言葉通り生ける神話だ。謂わば神様と言ってもおかしくはないのだ。そんな奴を同じ人として扱うのは難しい。
「まあ、なんだ。お前もしっかり考えてたんだな」
「はぁ?」
右の眉を跳ね上げ、クロームはあからさまに訝しんでくる。
「は? え? お前、これからどうするか考えてんだろ? ヒュドラにあんな挑戦状叩きつけたんだからよ?」
「お前はバカなのか。いやすまん。分かりきったことを聞いてしまった。お前はバカだ。眼鏡はガンマでもつけてろ」
どうしよう。俺、ついに装備品になってしまった……。
ていうか、え……? どういうことだよ。
嫌な予感がしてきたぞ……?
「クローム……まさか?」
背後でプラナが不安そうにクロームを見上げる。そんな視線を知ってか知らずか、勇者様は偉そうに腕を組んでふんぞり返っていた。
「それを考えるのがお前の仕事だろうが。何を今更」
「…………」
…………。
嫌な世の中だぜ……。
何やら数話連続で新キャラ登場してるけど大丈夫なのかな、っていう