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Alternative  作者: コヨミミライ
Is Cr Duty or Obligation?―善良のカタチ―
37/113

One Days Cs & Mn―とある昼下がり―

 今回は俺達と同じく《始原の箱庭(アペイロン)》に所属する創世種(エレメント)インジスの家で間借りさせてもらっているため、四人に各一部屋与えてもらっている。全く以て好待遇である。

 やっぱりクロームなんかと同室よりこっちの方がいいよな。一人でのんびり出来るって素敵。

 もともとインジスはここを拠点に活動し、仲間が来た際に部屋を貸し与えて、任務の手助けなり宿泊中の面倒を見るのが仕事の一環だ。そのせいなのかいろいろと気が利いて助かる。

 今回の用事ってのも、きっとなんか俺達に気を利かせてのことなのだろう。彼女なら容易に想像がつきそうなことではないか。

 階段を昇り、俺は自分に与えられた客室の扉をのんびりと開ける。

「やあ、おはよう」

「やっぱりいたか」

 ベッドに寝そべり、小説を読んでいた裸族がにこやかに笑い、俺へと手を振ってくる。

 なんとなく想像はついていたので、そんなに驚くことはなかった。

 敵地のど真ん中で堂々と本を読んでいたキュリーはむくりと起き上がると、薄い肩にかかった長い黒髪を払いくすりと笑う。

「なんだ、あまり驚かないのだな」

「なんとなく、そんな気はしてたからな」

「そうか、つまらんな」

 大して残念そうでもない口調で言って、キュリーは本にしおりを挟んで閉じた。

 相変わらずの全裸で目のやり場に困る。一応足はしっかり閉じてくれているためあまり見えないので、その点はちょっと助か……らない。逆にこれは危ない。見えるより見えない方がもっと危ない。

 こればっかりはいつになっても慣れそうにないな。

「いいのか? こんな敵の拠点に堂々と足を踏み入れて」

「なぁに、何もしなければ何も問題はない」

「まあ、ねぇだろうけどよ」

 危ないとは思うんだが……。

 まあ、見つかっても余裕で逃げ切りそうではあるか、こいつなら。

「で、何のようだ?」

 机から引き出した椅子をキュリーの方へ向けて座る。

「いや、たまたま近くを通りかかったので、少し顔でも見ていこうかと思っただけのことだ」

 対してキュリーは両手で抱き締めるように長く細い右足を引き寄せ、首を傾げるような仕草で傷一つない膝に頬を載せる。

 はらりはらりと黒髪の房が零れ落ち、シーツの上に放射状に広がっていく様さえも、どうしてか官能的だ。

「なんだそりゃ。なんとなくで敵地に忍び込むなよな」

「ふふふ、そう言うな」

 唇を窄めるようにして笑ったキュリーは、黒い瞳でじっとこちらを見つめてくる。まるで俺の表情から内面を読み取ろうとするかのような目だった。

 その視線の真っ直ぐさと心を覗かれているかのようなむず痒さにたじろぐ。

 切れ長でありながら丸みを帯びた目が瞬きをするたびに長い睫毛が揺れ、陽光を弾かせている。時折見せる目を伏せるような仕草さえもが扇情的に見えてくるから不思議だ。

 俺はその底の見えない瞳を見つめ続けられるほど純粋ではなく、かといって素直に視線を逸らせるほど素直でもなく、気分を紛らわせるようにキュリーの左目にある泣きぼくろを見つめていた。

 しばしの間を置いて、キュリーはふふふ、と穏やかに笑う。

「何故だろうか。うたてなまでに久しく思えててしまうな、お前とこうしているのは」

「久しいも何も、初めて会ってから一週間も経ってねぇだろ」

 確か初めて会ったのが三、四日ほど前だったはずだ。久しぶりなんて言葉が出ていい程の付き合いは今のところ、まだない。

 何気ない俺の一言に、キュリーの目が一瞬揺れたように見えた。けれど、それは本当に一瞬で、キュリーはすぐに唇を綻ばせる。

「言われてみれば、そうか。お前といるのは居心地がよくて、どうにも昔からなずさわっているかのようにのどまってしまう。これはいけないな」

「ああ、そうかい……」

 ……そう言われると、こっちは全然落ち着かないわけなんだが。美人に親しまれて嫌なことは何もない。

 ただでさえキュリーは俺の好みの外見と性格を兼ね備えた奴なのだ。そんな奴に、そこまで褒められると、こっちはもう変な気さえ起こしそうになる。

 居たたまれず目のやり場も定まらず、どうしていいのか分からなくなっている俺の落ち着かない様子に気付いたのか、キュリーは眉根を寄せて俺の顔を下から窺うように見つめてくる。

「どうした? そんなに難しい顔をして」

「いや、なんでもねぇよ。ちょっとばっかり考え事を、な」

 自分を誤魔化すように眼鏡を押し上げて、心を鎮めようと試みる。

「そうか、ならばいいのだがな」

 その一挙手一投足、ほんの些細な仕草にさえ視線を奪われてしまう。

 ふっとした瞬間に零れる表情の機微に、それこそ何かを一瞥するような視線の移動、微かに震える瞼、唇の形が変わる瞬間までも、何一つ逃さないように見てしまう。

 どういうわけか、俺はこいつの全てに惹き込まれている。

 不思議な感覚だった。

 恋慕だとか、好意だとか、そんな浮ついたもんじゃなくて、俺はただこいつの全てを記憶の頁に焼き付けなければいけないように思えるのだ。

 焦燥にも似た使命感。

 その感情の根源は俺にも分からない。

 キュリーは膝を抱える両腕に顔を埋めるようにして、ちらりと視線を窓枠に縁取られた風景画に流す。

 伏し目がちの黒い瞳は、どこか懐かしむように青い空と立ち並ぶ家々の上部を見つめた。

 流れていく雲は穏やかで、射し込む陽光は温かく、時の流れも緩慢にしてしまいそうなほどに全てがゆったりとしている。

 外から聞こえるくぐもった喧噪がまた耳に心地よかった。

「いい日和だな」

 額縁に囲われた、微睡みに誘うような春の青空を見つめたまま、キュリーがふと零す。

「ん、ああ」

 言われて視線を窓の外に戻し、俺は特に考え込むこともなく同意する。

「読書をするのには、ちょうどいい日柄だ」

「……そうかぁ?」

 天気がいいんだから外に行けばいいだろうに。俺も人のことは言えないわけだけどさ。

「天気なんか関係なく、お前はいつも読書日和っぽいんだけど」

「ふむ? それもそうだったな。私も随分と気が緩んでいるようだ」

 顔を綻ばせ、何がそんなに面白いのかキュリーはくすくすと笑う。

 さっきからなんで上機嫌なんだぁ?

 やたらどうでもいいことで笑ってやがる。

 今までは時間に猶予がなく、張り詰めていたせいで真面目だっただけで、こっちが素なのか?

 まあ、あの時も結構おどけるような言動があったし、それも不思議ではないことか……。

「あー、しかし、こんなにおいらかな日は、どこか小高い丘の木の下で、心癒される優しい物語を読みたくなる。木漏れ日を受けた頁は硝子を散らしたようで、文字がキラキラと輝きさぞ目細しいことだろう。そよ風に急かされながらのんびりと読み進めていくのは最高に贅沢なことだ。ひらりひらりと落ちてきた葉を栞代わりにして本を閉じ、物語の行方に想いを馳せながら昼食を摂るのもゆかしい。きっと胸が高鳴るはずだ。そうして、日が暮れるまで読み耽り、夕暮れの冷たい風に吹かれるまで時間を忘れてしまうのだろうな……それはきっといみじきものであろう」

 麗らかな陽光に目を細めるようにして、キュリーは謳うように語る。まるで想い人への気持ちを募らせるように、会える日を一日千秋の思いで待ち焦がれているような、そんな切なくも優しい顔をしていた。

 俺まで自然と唇が緩んでしまい、途端感化されてる自分が気恥ずかしくなる。

「お前、詩人だな」

 口を突いて出てきたのはそんな照れ隠しの嫌味だった。本当性格が歪んでる。

 だというのにキュリーは大して気分を害した様子もなく、ゆったりと俺に視線を移す。

「よく言われるよ。長く生きているせいなのか、はたまた生来の性質なのか、もう分からないがな」

 自嘲するわけでもなく、ただ穏やかにそんな自分の性質さえ愛おしむようにキュリーは微笑む。どこまでも人間的な表情と、人間らしくないセリフのアンバランスさに俺は少しばかり戸惑いかける。

「どうした? 難しい顔をして?」

 俺の様子がおかしかったのか、キュリーは眉を顰め俺の顔を覗き込んでくる。

「いや、なんでもない」

 平静を装うとしたが、気の利いた言い訳が咄嗟に出ず、どうにも歯切れの悪い言葉が出てしまった。そんな自分の情けなさに、また少し苛立った。

 キュリーも俺の曖昧な返答で納得するわけがなく、不審そうに俺を見ていた。それでも、それ以上追求してくることはなかった。

 ――長く生きている。

 何気ないキュリーのその言葉に、俺はどうしてか銃弾に貫かれたような衝撃を受けてしまっていた。こいつが倒すべき存在であるという、今まで色を失っていた事実が、キュリーの何気ない一言によって鮮明な色を取り戻し、俺の前に立ちはだかった。

 俺は、こいつが《魔族(アクチノイド)》だという事実をふと忘れてしまいそうになる。こいつは普通の人間よりもロマンチストで、その辺の人間よりも慈愛の心を湛え、また時にとても感傷的だ。感受性が強くありながら理知的で、すごく風雅な女性だと俺個人は思う。

 そこいらの人々よりも表情豊かで、この世界を慈しんでいるように見える。

 ……と、また人間のカテゴリに入れてしまった。

 俺はキュリーという存在を『人間』という種そのものと分けて考えるべきだ。『人々』なんていう大多数との比較で思考すべきではない。

 他の《魔族》に対してそうであるように、キュリーを人類種以外の生物として扱うことが正しい。

 そうであるはずなのに……。

 セシウを一人の女性としてではなく幼馴染みとして見るようにして、目の前にいる一人の心安らかな女性を人外として見なければならないっていうのは正直しんどい。嘘をつくことは得意だが、こうまであからさまにはっきりしてしまった感情を、無理矢理ねじ曲げるのは容易なもんじゃない。

 なんとか強引に折り曲げようとしても、必死にしならせたそれはほんの些細なことで元の形へと戻ろうとしてしまう。結局はずっとその繰り返しだ。

 どれだけ矯正を試みても、俺は自分を欺き切れていない。

 俺は背凭れに張り付いた身体を引き剥がし、膝に肘を載せて前のめりになる。両手を絡み合わせ、窓の外に目をやるキュリーへ目を向けた。

「なあ、お前って、マジに《魔族(アクチノイド)》なのか?」

 ぽろりと零れてしまったのは、逃げ道を求めるようなそんな問いかけだった。俺の言葉に、窓を眺めていたキュリーは目を瞠り、呆然とした様子でしばしこちらを凝視する。

 キュリーにしては珍しい表情だった。

「……どうしたんだ、突然?」

「あー、いや、なんでもねぇ、ちょっとした気の迷いみてぇなもんだ」

 ガリガリと頭皮に爪を立てて掻き毟り、俺は頭を振った。

 我ながららしくない質問だ。これほどまでに馬鹿馬鹿しい質問を真剣にしちまうってのは、ちょっと頂けない。

「ふふふ、お前からそんなことを訊ねられるとは少しばかりゆくりないことだな」

 板張りの床に視線を落とす俺にキュリーの言葉が降ってくる。絹のようなキュリーの素肌と滑らかなシーツが擦れ合う音が聞こえ、ふと鼻腔を甘い香りがくすぐった。

 そよ風に運ばれてきたように柔らかで微かで、それでいて落ち着く香りに、俺はなんとなく顔を上げる。

 視界に入ったのは間近に迫ったキュリーの顔。

 キュリーはベッドの端に腰掛け、俺と同じような格好で向かい合っていた。

 キュリーは俺の目の前で、くすくすと唇の端を吊り上げ、悪戯っぽく笑う。うっとりと細められた目は妖艶で、今にも絡め取られてしまいそうな恐怖に背筋がびくびくと震えた。

「私は、そんなに《魔族(アクチノイド)》らしくないのだろうか?」

 薄い唇が発音の一つひとつを確かめるように、ゆっくりと、蠢くように形を変えていく。その唇から漏れる湿った呼気の気配にさえ意識が奪われそうになる。

「どうだろうな? ただ俺は未だにお前が《魔族(アクチノイド)》らしいことをした場面に遭遇していない。それは確かだろう」

「お前の中で《魔族(アクチノイド)》らしい行為というのは一体どういうものなのだ? 法に逆らうということか? 諸人を殺めるということか? お前達勇者一行に楯突くということか? それとも《魔族(アクチノイド)》として生きているというそれ自体か?」

「今、あんまりそういう難しいことを言わないでくれるか。自分でもおかしな質問をしたってのは分かるよ」

 なんとなく取り繕うように言い返してみたが。そんな程度の低い誤魔化しでキュリーを出し抜けるわけがなかった。こいつは聡明だ。下手な小細工を弄したところで通用しない。

「お前は面白い奴だよ、ガンマ」

「皮肉はよしてくれ」

 俺ほどつまらない人間などそうはいまい。

 主義も主張もなく、夢や目的、野望さえ抱かず、ただ漫然と流れに身を任せて生きている人間だ。ちょっと運良く勇者の物語に関われているに過ぎず、中身には取り立てて面白い要素があるわけでもない。

 そんな面白味のなさを自覚してしまっているからこそ、せめてそれをひた隠しにしようと知恵や教養を身に付けて、それっぽく振る舞っているだけだ。

 だというのにキュリーは唇を窄めるようにして、また笑った。

「皮肉などではない。私は本当にお前を気に入っているよ。お前の問いかけは面白い。そうだな、確かに世間一般から見て、私は些か《魔族(アクチノイド)》らしからぬかもしれない。仲間内からもよく言われているよ」

 こいつも自分のそういうところはしっかりと分かっているんだな。

 まあ、特に驚くほどのことでもないといえばそうだが。

「結局のところ、《魔族(アクチノイド)》などというのは括りにしか過ぎない。人類種を超越した存在などと謳われたこともかつてはあったが、所詮私達は元々が人の身だ。魚はいつまで経っても魚でしかなく、鳥の生き方はできない。性質が変わったところで、本質がそこに追従して滑らかに変化し適応できるわけでもない。根っこの部分はその個人のままなのだ」

 キュリーは広げた自分の掌に視線を落とし、自らを嘲るように笑う。

 その表情は痛みに堪えるようで、あまりにも切なそうで、俺は返すべき言葉を考える余裕さえなかった。

「畢竟、私達《魔族(アクチノイド)》というのは集団、コミュニティにしか過ぎぬものだ。人類という種族の中にある一つの括り、分類でしかない」

「そうは言ったところでお前は《魔族(アクチノイド)》なんだろう。お前の価値観や言動はあまりにもその集団から逸脱しているように見えるんだが?」

「ふふっ、集団の中にいる者が皆、同じ意志を共有している、なんてことが現実に有るわけがなかろう?」

 両手を大仰に広げて、わざとらしい口調でキュリーは問いかけてくる。そんなこと考えるまでもないと、いかにも言いたげな顔だ。

「お前もそうじゃないか」

 ぴっとキュリーは俺を指差す。鼻先に突き付けられたほっそりとした指は簡単に手折れそうで、砂糖菓子のような爪も繊細な印象を覚えた。

「勇者一行の一員として寝食と苦楽を共にし、同じ目的のために協力し合っている。しかし、根っこの価値観はそれぞれに異なるのではないか?」

 ……そう言われてしまうと言い返しようがないな。

 俺達四人は世界を救う、終末を回避するという規模のでかい目的があるから、まだ足並みが揃いやすいだけであって、実際その結論に至るまでの経緯は人それぞれだ。

 とりあえず世界が終わって困るのはみんな一緒だから、協力できているにすぎない。これがもっと規模の小さい問題だったら、俺とクロームは早い段階で決裂していたことだろう。

 俺もクロームも終末を回避したいっていう目的は同じだが、その内側は大分かけ離れたものに思える。

「そう言っても俺達の目的とお前達の目的は本質が違うだろう。俺達が世界を救うのは半ば強制的な命令であって、生存本能でもある。だが、お前達は自発的に、世界を滅ぼすために終末龍を復活させようとしている。俺達はある意味受動的であって、お前達のは能動的。そうせざるを得ないからそうするしかない俺達だったら、多少の意見の食い違いは看過できるもんかもしれねぇが、そうじゃないだろう? そうしたいと思った者同士がそうしてるのに、その中で明らかに価値観が逸れている奴がいるのはおかしい」

 なんとか頭を捻って、俺は反論を絞り出した。キュリーは俺が話している間、ずっと目を真っ直ぐに見つめ、話に耳を傾けていた。

 こいつのこういう、話の際に割り込んでこないところは結構気に入っている。落ち着いてじっくり話し込むことが出来て助かる。

 キュリーはふむと頷き、僅かに視線を逸らし考え始める。或いは俺の言葉を脳内で反芻しているのかもしれない。

「確かにそうか。そうなると、やはりおかしいのは私か」

 くすりと自嘲するわけでもなく、楽しむようにキュリーは唇を綻ばせる。その表情と言葉が噛み合わなくて、余計に俺の胸がざわついた。

「お前はおかしくなんかねぇよ。まともな奴だ。そんなお前が《魔族(アクチノイド)》側にいるってのがおかしいんだよ。そうじゃなかったらお前はいい奴だろう」

「残念ながらな、私は《魔族(アクチノイド)》なのだよ。ガンマ」

「……お前はなんで《魔族(アクチノイド)》に加担する?」

「その質問はおかしい。私が《魔族(アクチノイド)》に加担するわけではない。私がそれなのだから」

「じゃあ、なんで、お前は《魔族(アクチノイド)》なんだ?」

 意味のないやり取りだということは分かっている。

 こんな質問には何も意味がない。

 それでも、俺は何かに縋るように、砂漠に落ちた指輪を探すように、必死に問いを続けていた。

 意固地になった子供となんら変わらない。

 だけどキュリーはそんな俺を蔑むこともなく、ただ投げかけられた質問に答え続けた。

 でもその問いに至って、一度キュリーは黙り込んだ。答えず、しばし俺を見つめ、やがてゆっくりと息を吐き出す。

 そして、挑むような顔つきで俺を直視した。

「ガンマ、お前は私を《魔族(アクチノイド)》だと思えないか?」

「……お前がもっと分かりやすい悪女だったなら、話は早かった」

 顔を手で押さえ、俺はぼそりと呟いた。

 突き詰めてしまえば俺はそうなのだ。

 こいつを倒すべき敵として見れていない。見ることができない。どんなに頑張っても一人の人間として見ていた。一人の人間であってほしいと願っている自分さえいた。

 馬鹿らしい話だ。

「今ここでお前と交われば、悪女らしくなるかな?」

「よせよ。茶化すな」

「愛のないまぐわいは嫌いなのか?」

「俺は美人ならみんな愛している。お前も美人だ。美女だ。でも、お前とそういうのってのは、なんか違う」

 美人と一夜を共にするのは嫌いじゃない。一晩だけの関係にも別に抵抗はない。むしろ後腐れがなく気楽だし、好んでもいる。

 ただキュリーが相手というのは、何かこうしっくりこない。それは何か、自分の中で違和感があった。おかしな感覚だ。

「俺はお前が《魔族(アクチノイド)》だっていうことが納得できねぇんだ。村一つ消えることを躊躇った奴が、なんで世界を滅ぼそうとするってんだ」

 理解できるわけがない。

 こいつはあの村を救うために出来る限りの助力を俺達にしてくれた。あの村の人々の死を、悼んでくれた。何もかも投げ出したくなった俺を叱咤してくれた。

 そんな奴が世界を滅ぼさんとする、人類種の敵だということが認められなかった。

 キュリーの唇からほっそりとした息が漏れる音を聞く。

「――ガンマ」

 柔らかな声で、キュリーは俺の名を呼んだ。その声に顎を引かれるように俺は顔を上げる。

 キュリーは微かに目を細め、唇を引き結んでいた。見られているこっちが辛くなってしまうほどに優しい、瞳だった。

 キュリーはゆっくりと微笑み、静かに口を開く。

「私は、きっとお前が思っているようなモノではない」

 ゆったりとした口調に反して、その言葉は躊躇しているかのような言い淀みがあった。

 言葉を一つひとつ選び、選び抜いた言葉を口にするのにも抵抗があるような、そんな不確かな口調だ。

「私は人間というものを愛している。それでもそれは違う。私もまた人を殺めた。数え切れないほどに。私もまた村を町を滅ぼした。途方もないほどに」

 当然だと思えるその事実が、俺の胸にまた突き刺さる。目の前にいるこいつがどんなに慈愛深く微笑もうと、こいつは終末龍の復活に加担してきた。

 彼らが呼び寄せた厄災の権化が招いた惨劇と悲劇の総量は、最早数さえも知れない。その罪は、こいつにもあるのだ。

 分かりきっていることなのに、どうしてかそれがとても認めたくないものに思えてしまう。俺はどうかしているんだろう。

 そんな苦痛など知ってか知らずか、キュリーは笑みを絶やさない。

「お前は私をイイ奴だ、と称してくれるが、それは私が《魔族(アクチノイド)》だからなのだろう。《魔族(アクチノイド)》という物差しで計れば、確かに私は幾許か善良になるのかもしれない。でもそうではない。人間の物差しで計れば、私は考えるまでもなく悪人だ。それを忘れるな」

 たった今まで忘れていた、目を逸らし続けていた事実が再び眼前に提示される。

 こいつは人殺しなのだ。俺はあの村を地獄に変えたトリエラを嫌悪し、憎悪し、激怒し、あらゆる手を尽くし、最大の苦しみを与えながら殺してやりたいと思った。

 その感情を、本来なら俺はキュリーにも向けるべきなのだ。

 膨大な命を奪ったキュリーに対し、トリエラに向けた感情と同じモノを向けるのが正しい形だ。

 だっていうのに俺は、こいつが殺戮者だと再認識してなお、そう思えないでいる。

 イカれてるのは俺なのだろうか。

 それともこいつが悪人であるという決定的な瞬間を目撃していないから現実として認識できずにいるのだろうか。

 キュリーは窓の外に再び視線を向ける。ここではないどこかへ思いを馳せるように遠い目をして、口ずさむように言葉を紡ぎ出す。

「終末の龍が現れる以前、まだ絶望を知らず、人々が傅いてきた八百万の栄華が四方に広がる、まほろばがあった時分。俗人が一巡目の時代と称するその五百余年、彼らは徒人であった。ただの秀でた魔術師だった。諸人よりも魔術師の才に恵まれていただけに過ぎなかった」

 文献に記された文字の羅列をなぞるように語られる彼らとは一体、誰を指しているのだろうか。キュリーは一体、幾つの時を跨いだ過去を見ているのだろうか。

 二十余年程度しか生きていない俺に、そんなことを推し量れるわけがない。

百歳(モモトセ)を生きることもなく朽ち果て、肉叢と成り果てる、常世の理に縛られた現し身であったはずなのだ。しかし、彼らは空蝉の摂理を、道理を、戒律を毀った。輪廻の輪より外れ、魂極ることもなき永久の命を得た。退屈な命だ」

「永遠の命、か」

 こいつの外見年齢は、俺とそう変わらない。少し達観気味ではあるがごく普通の年若い女性に見える。だが、実際は俺達よりも遙かに長い年月を生きているはずだ。

 生命力も身体能力も人間の括りには収まらず、その意識や価値観も俺達のようなただの人間には到達できない場所にある。

 要はそれが《魔族(アクチノイド)》というものなのだ。

 どこまでも人間と違わぬ外見を持ちながら、決定的に人間とは異なる存在。人類の限界点を超越し、人の身では辿り着くことの出来ない場所まで行き着いてしまった者達。

「私達の身体を流れる血は紅い。お前と寸分違わぬ鮮やかな紅だ。刃に触れれば血が流れ、傷を負えば痛みを感じる。血を流しすぎれば死ぬだろう。心臓を貫かれれば、死が確定する。しかし、私達の命は永遠だ。決して老いることもなく、衰えることもなく、致命傷を負うことがなければ生き続けることができるだろう。また、実際に生きてきた」

 キュリーは窓に向かって左手を翳しながら言葉を続ける。その白く細い手の内側では、俺達と同じ色をした血潮が滾っているのだろう。その色を再確認するように、キュリーは左手を太陽に透かし、指の隙間から弾ける陽光に目を細めていた。

 流れる血の色は同じであれどキュリーは、《魔族(アクチノイド)》は、人の括りから大きく外れすぎている。

「私達の思考は、まともな人の身であった頃からそう変わってなどいない。いないはずだ。精々日付の感覚が狂ってきたことくらいではないだろうか? 飲食(オンジキ)を摂り、十分な栄養と水分を得なければ、当然のように飢え渇きもする。寝ぬならば、疲労も蓄積する。暑さには汗を流し、寒さには凍えもする。悲しい物語を読めば悲しい気持ちにもなる。面白いものを見れば愉快な気分にもなる」

 それだけを聞けば《魔族(アクチノイド)》という存在は普遍的な人間のように思える。思ってしまいそうになる。

 だが、それがなんだというのか。

 無慈悲に処女を強姦し痛めつけるのも、無惨に誠実な若者をずたずたに斬り裂くのも、無情に人の良心へ付け入り詐術へ陥れるのも、全て俺達と同じ人間なのだ。

 そんな人間らしさが善良へ直結するわけではない。

 いや、むしろ、人間とは人間であるからこそ悪性なのだろう。

「私達は人間としての条件を満たしているはずなのだ。それでも私達は《魔族(アクチノイド)》とされ、君達は人間とされる。そうである以上、やはり私はお前達とは違う生き物なのだろう。違う物差しで計るべき存在として区別されているのだろう。私はお前と違い、お前は私と違う」

 俺はその意見を反論できない。

 もしかすればただ一言、それは違うと、それでもお前は悪い奴ではないと、言えばいいのかもしれない。それでも、俺の口はたったそれだけの言葉を放つことを頑なに拒んだ。

 ただ一言否定すれば、また何か違うかもしれないというのに、俺にはその勇気がなかった。

「お前は私を《魔族(アクチノイド)》として認識すべきだ。また、私を善人などと思うな。私は咎人だ。この世界を滅ぼそうとする者達の仲間だ。変な思い入れをすることもない」

 それが出来たら苦労などしない。何度もこいつを《魔族(アクチノイド)》だと認識しようと努め、それでもこいつを善良な人間と見てしまうから、俺はこんなにも懊悩しているのだ。

 キュリーの自分自身を蔑むような言葉が辛かった。どういうわけか俺自身が誹られるよりも胸に突き刺さった。

 自分のことをどれだけ愚弄されようと、大して傷付くこともないというのに。何故、今俺はこんなにも苦しいのだろうか。

「お前は私を情報を得るための道具として割り切り、有効に利用すればいい。それだけでいい」

 ……普段の俺はそう考えただろう。

 使える情報源として、耳に心地良い言葉を並べ、信頼させることで巧く利用しようとしたはずだ。

 心の中を凍てつかせ、表面上では人当たりのいい笑みを浮かべ、うんざりするほどの嘘を吐き続けることだってできた。

 なのに、キュリーに対して俺はどういうわけか入れ込み、距離感をまともに捉えることさえできていない。

 会って間もない敵対者に、何故俺はこんなにも親しみを覚えているのか。

 自分でもよく分からない。

「お前は、一体何で、俺に協力をした? いや、関わりを持とうとしたんだ?」

 こいつが本当に根っからの悪人で、正真正銘世界を滅ぼそうとしている人類種の敵――《魔族(アクチノイド)》であるというのなら、何故あの時、村を救う手助けをしようとしたんだ。

 本当に世界を滅ぼしたいのなら、あの時俺達に協力をする意味なんてどこにもないはずだろう。

 そして何故、こいつはここで、俺に懇切丁寧に忠告をしているのだ。

 何もかもが噛み合わない。

 俺の苦々しく絞り出された問いかけに、キュリーはただ静かに頬を綻ばせた。

「どうしてなんだろうな。私に聞かれても困る」

「じゃあ、お前以外の誰に聞けばいいんだよ? お前がどっちの側に立ってるのか分からない以上、俺はどうしていいか分からないんだよ」

 キュリーとの向き合い方が分からないこの状況で、俺はこいつから得た情報を利用するべきではない。

 そうなれば俺とキュリーがこうやって交流している意味もない。

 元々そういうことから始まった関係だ。さらに突き詰めれば、村を救うための協力関係であったのだから、その目的が果たされなかった以上、今も交流が続いていること自体そもそもおかしいのだ。

「随分と深刻な顔じゃないか」

 ふとキュリーは俺に顔を寄せてくる。一拍のうちに素早く近付かれ、俺は思わず息を呑んだ。

 目と目が、鼻先の触れ合いそうな距離で交差する。僅かに潤んだ瞳が孕む淫靡さに辟易とし、身体が強ばってしまう。

 深い瞳だった。ずっと見つめていたくなるような、それでいて見つめ返されるのが恐ろしくなるような、不思議な魅力と危険を内包した、透き通った目。

 微かに震える睫毛にさえも魅せられる。

 まるでキュリーの身体のあらゆる場所と俺の目が張り詰めた糸で繋がれているかのように、俺はこいつが身動ぎ一つするたびに視線を持っていかれてしまう。

「ふふふ、お前は真面目な奴だな」

 唇から零れた息からは微かに甘い匂いがした。ここに来る前に何か、菓子でも食ってきたのだろうか。

「うるせぇ。かなり不真面目なただのつまらないダメ男だ」

「そこまで開き直られると清々しいものだな」

 こいつには物事の本質を見通す能力があると思ったのだが、俺のことを面白いだの真面目だのと言う辺り、男を見る目はないのかもしれない。

 泣きぼくろを持つ美女の宿命って奴なのかね。

「ふふ、今日は珍しく煙草臭くないのではないか?」

「あー、吸える場所が限られてるからな。ここじゃ部屋ぐらいでしか吸えねぇんだ」

 この家には喫煙者が俺以外にいないため、どうにも肩身が狭い。リビングではもちろんのように煙草を吸わせてもらえないし、それ以外の場所も基本的に全面禁煙だ。外に出ても、喫煙所はそれほど多くない。喫茶店にも終日禁煙とされているところが多いし、吸う場所を探すだけでも結構な手間だ。

 自然とこの街に来てからの喫煙回数は減っている。

「もしかしてお前も煙草の臭い苦手だったか?」

「いや、普段は何とも思わない。でも、そうだな。お前から感じる煙草の香りは、あまり嫌いじゃない」

 ……それはどういう嫌味なんだろうか。

 俺の吸ってる煙草は、そんなに女性受けするものではないんだがな。

 キュリーの好みは共感できそうで、よく分からない。

「嫌ならそう言えよ? 一緒にいる時は控えるぞ?」

「ほら、そういうところが真面目だ」

 ころころと鈴を転がすような愛らしい笑声を上げ、キュリーは悪戯っぽく目を輝かせる。

「別に真面目ってわけじゃ……」

「お前は自分が思っている以上に他人想いの善良な人間だよ」

「……《魔族(アクチノイド)》も視力って落ちるのか?」

「いや、並みの人間より遙かにいいはずだが?」

 なるほど、頭の方に異常があるわけか。

 そっちの方が大問題だな。

 キュリーはそっと俺から顔を放し、ベッドに再び腰を落ち着かせる。

「お前はもう少し自分に目を向けるべきだな。他人を見るのには優れているが、どうにも自分のことを過小評価しがちではないか?」

「んなことねぇよ。俺の俺に対する評価は間違っていない。お前の評価がおかしいんだよ」

 ふむ、とキュリーは眉根を寄せて少し難しい顔をする。

「自分に向けられた感情がよく見えていないというのもまた欠点、か」

「は?」

「いや、なんでもない」

 口元を緩め、キュリーは立ち上がる。長い髪がふわりと広がり、甘い香りを振り撒いた。

「さて、ついつい話し込んでしまったな。私も、そろそろ行くとするか」

「もう行くのか?」

「仮にも敵地、だからな。そう長居するべきでもないだろう?」

 そもそも敵地で、その敵の一人と談笑してる時点で、十分すぎるほどおかしいんだがな。

 その反論は今更過ぎるものだと気付いて、飲み込んだ。

「帰る時にも見つかるなよ?」

「あはは、私を誰だと思っているんだ?」

「……誰、なんだろうな」

魔族(アクチノイド)》だと答えれば話は早いんだろうが、そう答えるのは憚られた。また一人の人間と口にしてしまえば、キュリーにまた笑われそうでもあった。

 結果として、出てきたのはそんな曖昧な答え。

 これもこれで、十分バカにされそうな答えだったと言った後に気付く。どうにも最近、迂闊な発言が多い。

「忠告はしたぞ。後はお前の自由だ。好きにするがいい」

「……そうだな」

 随分、重い忠告を受けてしまったものだ。

 ここまで話したわけだし、結論は出さなきゃならない、か。

 俺のはっきりとしない返事に苛立ちを見せるようなこともなく、キュリーは微かに含み笑いをし、部屋の窓を開け放った。冷たいそよ風が部屋に吹き込み、いつの間にか部屋に溜まっていた重い空気が抜けていくような気がした。

 それでも足下にはまだ重苦しい空気が沈殿したままだ。泥のような重苦しさが足首に絡みつき、立ち上がることさえ億劫になる。

 いや……そんなのはただの言い訳か。

 キュリーは窓枠に手をかけ、ちらりと俺の方に顔を向けてきた。

「ガンマ、どうしていいのか分からない、とお前は言ったな」

「分かってる。自分の発言の愚かさは自覚している。頼むからもう蒸し返すな」

 今回のキュリーとの談話では、何かと失言をしてしまった。もうあまり掘り返してほしくない。

 自分の存在価値がいよいよなくなっていく気がする。

「そうじゃない。別にそれを責めるつもりはない。私としては面白い話が出来た、と思っている。楽しかったよ」

「そういうフォローは求めてない」

 俺は右手で頭をかきむしり、投げ槍に返答を投げつける。

 その優しさが余計惨めになるんだよ。

「ふふふ、相変わらずだな。殊勝なのか、謙虚なのか、はたまたそれ以外なのか。まあ、突き詰めるまでもないか」

「さっきも言っただろう。これは正確な評価だ。間違ってなんていねぇ。お前の評価がおかしいって言っただろう」

 俺に大した価値なんてない。突き詰めれば、何か一つ二つはあるのかもしれないが、それは代替可能なありふれた価値だろう。

 クロームやセシウ、プラナとは違う。キュリーとも違う。

 代替がいくらでもある凡人でしかないんだ、俺は。

「可愛い奴だな、お前は」

「はぁ?」

 やっぱりこいつはどっかおかしいんじゃないだろうか。

 何なら目と頭、両方おかしくても、全然驚かない。

魔族(アクチノイド)》ほどにもなると、見える世界が全然違うんだろうな。

 どうかしてる。

「まあ、なんだろうな。お前はどうしていいのか分からないと言ったがな、それは私だって同じさ」

「嘘言え。お前はしっかりした奴だろ。出来ることだって多いはずだ。何かを成し遂げる力がお前にはある」

 曲がりなりにも世界を終末へと導くことのできる力は持っている。人類を相手取ってさえ生き残れっていることが実力の高さを証明している。、こいつにできないことなんて数少ないだろう。

 俺なんかよりもずっとずっと、できることは多い。

 だというのに、キュリーは俺の意見が不服なのか、まるで子供のように唇を尖らせ、いじけてみせる。

 大人びた顔つきにその表情はいささか不釣り合いで、またとても新鮮なものに思えた。

「そんなことはないぞ。私にだってできないことは数多ある」

「服を着ることとか?」

「はぐらかすんじゃない」

 やんわりとした口調で、戯れる子供を窘めるようにキュリーは俺の言葉を払う。

「それに、力があっても、それだけではどうしようもないことというものが、世の中にはごまんとある。どうしていいのか分からず、思い悩むことだってあるさ。誰だって、どうしていいのか分からず、それでも懸命に生きているものなんだ。だからあまり一人で背負い込まないことだ。出来ないことの数を数えても意味はない。できることの数を数えていけばいいんだ」

 にっこりと眩しいほどの笑顔をキュリーは俺に見せつける。

 窓枠の向こうに映る青い空と白い雲にも負けぬ、麗らかな表情に屈託はなく、そよ風のように爽やかだった。

 足に絡みついていた泥のような空気さえ消え失せるような感覚。ふわりと身体が軽くなるような錯覚に、俺は目眩さえ感じていた。

「では、私は行くぞ。また余暇があれば話し相手にでもなってくれ」

 言い終えると同時にキュリーの身体が音もなく跳ね、ムダ一つない芸術のような肢体が開け放たれた窓へと吸い込まれた。猫のようにしなやかな動きで、キュリーの身体は窓枠の上方へと消えていく。翻った黒髪もすぐに窓枠の外側へと引き上がり見えなくなった。

 残ったのは、キュリーの纏っていた甘い香りと、心地よい静謐だけ。それもすぐに開け放たれた窓から這入ってきたそよ風によって払拭されていく。

 消えてしまう残滓に幾許かの未練を覚えつつ、俺はゆっくりと重い腰を上げた。

「全く……窓くらい閉めていけっつぅんだよ……」

 呟きながら窓辺に歩み寄り、窓のサッシへ手をかける。締めようとした手がふと止まり、俺はなんとなく窓から身を乗り出して、屋根へと目をやった。

 そこにはもう黒い髪も、白い裸身もない。すでにどこかへ行ってしまったのだろう。

 相変わらず、自由そうな奴である。

 あいつは今まさに俺の頬を撫でたそよ風のように悠然としながら颯爽で、また空を流れていく雲のように気ままな奴だと思っていた。

 あんな風に生きられたら、何物にも縛られず、己が思うままに歩むことができたのなら、どれだけ清々しいのだろうか、と思いを馳せたりもした。

 だけど、あいつは違うという。

 キュリーもまた、俺と同じようにどうしていいのか分からないことがあるという。思い悩むことだってあるという。あいつにできないことなんて、俺には到底想像がつかない。

 どんな状況を想定しても、俺が今まで直面してきた乗り越えられない壁さえも、あいつにかかれば易々と飛び越えてしまえそうだ。そんなヴィジョンしか浮かばない。

 俺は窓から身を乗り出したまま、フリースのポケットから煙草を取り出し、口に咥える。風に消されないように手で覆ったライターを擦り、勢いよく燃え上がった火で煙草の先を煽った。

 吐き出した煙は、風に攫われ、散り散りになって消えていく。

 休みなくはためいて鬱陶しい前髪を左手で押さえ付け、俺は空へと視線を投じる。

 結局、俺とあいつが同じことで思い悩んだとしても、その姿勢は大きく異なっているんだろう。

 俺はすぐに諦め、投げ出し、できなかったことを悔やむしかない。いつまでも引き摺る続けてばかりだ。

 対してキュリーは自分の苦悩を表に出すこともなく、毅然と立ちはだかった壁へと臨んでいるのだろう。だから惑わないし、迷わない。

 要は逃げるか、戦うかの違いだ。

 クロームは俺を人生が寄り道ばかりの男だと称した。でも実際は違う。飛び越えることも、乗り越えることも、壊すこともできない困難を避けて生きていくしかなかっただけのことなのだ。

 だから、俺はいつまでも道を踏み外したまま。

 我ながら情けない話だな。

 紫煙と共にため息を吐き出す。

「キュリー……」

 どんなにお前が言葉を重ねようと、やっぱり俺はお前を悪人として見ることができそうにない。

 分かっていた。俺は心のどこかで、あいつに憧れていることを。

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