One Days Cs & Mn―とある昼下がり―
「ん? 遅かったな」
ダイニングキッチンで卵を溶いていた俺は、声をかけられて振り返る。廊下に面する入り口にかけられた仕切り用の紗幕の隙間から、クロームが顔を出していた。
いつもは後ろで纏めている銀髪を垂らし、タートルネックのティーシャツを着たその姿はおおよそ勇者の出で立ちとは思えない。ただ面貌だけはやたら整っており、その美しさだけでこいつは十分目立つだろう。
オシャレって服装よりもまず顔なんだなぁ、とか思っちゃったりして。
泣きたくなりますね。
「ああ、ちょっと寄り道してたせいでな」
「寄り道、な。人生自体が輪廻転生の寄り道のようなお前が、これ以上どこに寄り道するというんだ?」
紗幕を腕で退けて、キッチンに入ってきたクロームの嫌味に俺は顔を引き攣らせる。
「うるせぇよ。お前みたいに敷かれた線路を走るように真っ直ぐ生きるつもりはねぇよ。寄り道した方が面白いだろうが」
「寄り道ばかりで進むべき道さえ見失っていそうなお前に言われても、同意はしかねるな」
クロームは中央に置かれた食卓へ身体を傾け、横目で俺を見てくる。
「うるせぇっつぅの」
そういう地味に否定できないこと言うのやめてくれませんかね。今は勇者一行の仲間として真っ当に世界を救う使命に従事しているんですからさ。
俺は若干気分を落ち込ませながらも、ボウルを調理台の上に置き、冷蔵庫へと向かう。
「で? 何を作っているんだ?」
「ん? フレンチトースト。ちっと小腹空いてな」
カリーヌやらセシウやらが何かと食ってたせいで、俺の職務放棄気味の胃袋までもが仕事を始めやがったのである。まあ、戦いばかりで死と隣り合わせの旅をやってんだ。一歩間違えれば胃が懲戒免職処分を受けかねない。人工臓器に入れ替わるという更迭処分かもしれねぇが。
まあ、臓器もあるうちに使い倒しておいた方がいいかもしれねぇわけだし。
……あー、下半身使っておきてぇ。
「お前は一体どこに向かおうとしてるんだ? これはかなり本気な質問なんだが」
「は? なんだよ、急に」
訊ね返しながら俺は冷蔵庫のドアを開ける。頬を撫でる冷気が心地よく、しばらく顔を突っ込んでいたくなる欲求をなんとか抑え込む。
白い靄がかかった冷蔵庫の中には食材がぎっしりと詰まっていた。ふむ、結構いい食材が揃ってるみてぇだな。使い慣れていないために少し戸惑いつつも、扉側の棚から牛乳パックを見つけ素早く取り出す。
「インテリ系だの何だの言って、今度はエプロンをつけてキッチンで自らの軽食を拵える。お前の方向性がよく分からん」
ドアを足で閉めて、そそくさと調理台へと戻る俺の背中にクロームが言葉を投げてくる。随分と緩やかな弧を描く、呆れきった声だった。
「知らないのか? 家庭的な男は最近モテるんだぜ」
「お前は本当、どこへ行きたいんだ……」
「いいじゃねぇかよ、モテる努力をすんのは大事だぞ?」
言いながら、俺は卵の入ったボウルに牛乳と砂糖を加えていく。目分量ではあるが、まあ、自分の分だしいいだろう。
ボウルから上がってくる甘い匂いがさらに胃袋を疼かせる。ふむ、自分で料理するとこれがキツいんだよな。食欲が増して、食うのがだんだん面倒になってくる。
まあとりあえずよく混ぜよう。そうしなきゃいつまで経ってもありつけない。
俺の背後からクロームのため息が聞こえてくる。
「そんなもんに興味はない」
そら、お前は何もしなくたって歩いてるだけで女の子に声かけられそうだしな。まあ、そういうものにもクロームは興味なさそうだけど。
一途ですこと、本当に。
「出来て困るもんじゃあねぇだろ。料理もよ。男は料理をしない、なんてのは古い考えだぜ」
「別にそういうことを言いたいわけではないが……。第一、料理のできる男が女性に好かれるということ自体おかしな話だろう。今でも、家事を女性が行うのは比較的ポピュラーな話だ。差別とかそういうわけではなく、基本としての形がそれだろう」
「んー……まあ、そうだな」
確かに基本としてはそこだよな。やっぱり料理ができる女ってのはそれだけでポイントが高いし、家事全般を卒なくこなせる女性にはときめいたりもする。
男はやっぱり男に生まれたからには稼ぎに出て、家族を養いたいとも思うし、家事をしてもらえると助かるよな。ていうかしてもらわないと俺達が困るわけで。
もちろん相手も働きたいっていうんなら止めはしないし、家事も出来る限り手伝いたいとは思うけどさ。
「そうだろう?」
「そうだなぁ、確かにそうだ」
「対して、お前の言う、そのなんだ? 家事ができる男を好く女性というのはどうだ? もう初めから男に家事全部任せようとか思っていそうじゃないか? そんな者達にちやほやされて何が楽しい」
「……あー、その考え方もあるわなぁ」
ちょっと目から鱗。
まあ、別に全員がそうってわけではないんだろうけどさ。そういう女性も中にはいんだろうなぁ。
一夜限りの付き合いばっかりだったから、全然気付かなかった。
「あ、でもよ。でもよだぜ?」
「なんだ?」
「例えば、プラナが激戦で体力を消耗して、疲れ切っているとします。仮に、だぞ? そん時大抵体力余ってんのは俺とクロームじゃん?」
「セシウもだろう。むしろお前は余ってない」
うぐ……! 体力バカを勘定に入れ忘れていた。自分の体力のなさも。
「ま、まあ、もしも、だ! そういう時に全力を尽くしてくれたプラナに感謝と労いの意を込めて、料理とか振る舞ってやれたらいいとか思わないか?」
「何故そこでプラナの名前が出る」
「え……あ……いや……なんとなく……」
お前の周りの親しい女性つったら、プラナぐらいしかいねぇからに決まってんだろうが、バーカバーカ。
なんですか、もしかしてそこまで鈍いんですか、クロームさん。うわー、マジー? ありえないんですけど。
……クソが。
クロームは腕を組んだまま、首を傾げて僅かに唸る。実際にそういう状況になった時のことを考えているようだ。
「まあ……そうだな。料理を振る舞えればいいだろうな。いい労いになりそうでもある」
「だろう? ほら、あっても困らないだろう」
「ふむ……まあ、そうなんだがな」
それでもクロームは納得がいかない様子だ。
「何でそんなに不服そうなんだよ?」
調理台を見回しつつ、俺はクロームへと訊ねる。
あっらぁ、シナモンもナツメグがどこにあるのか分からねぇ。そもそもあるのかないのかも分からねぇ。
まあ、自分のだしいいか。
「いや、まあ、ちょっとな」
「料理苦手だったりするわけ」
「…………」
返事がない。
……え?
なんとなく言っただけなのに予想外の反応に思わず振り向いてしまう。クロームは難しい顔で眉間に皺を寄せている。
「……何? マジで苦手なの?」
「……まあ……な」
「練習すりゃ誰だって出来るだろ? 食えないもの入れない限り、メニュー通り作るだけである程度食えるものになんだろ?」
まあ、焦がしたりすれば食えないだろうが。
「サラダを……」
「あん?」
「サラダを、作ろうと思ったんだ」
「お、おう……」
クロームは天井を見上げ、かつて自分の未熟さ故に死なせてしまった戦友に想いを馳せるような遠い目をする。憂いを帯びた横顔は見ているだけでも痛々しく、凄惨な過去を三つくらい背負っていそうだ。
今、料理の話してるんだよな?
「しかし、刃物を持って、何かを切っているとな、全部細切れにしたくなるんだ。本能的に。しかも相手は逃げも隠れもしない上に、目の前で寝そべっているんだぞ? 切るしかないだろ? 切るだろ? 限界まで斬るだろ? そんなことをしていたら、いつの間にか、食材の原型が完全に消え失せていた……」
…………。
俺は何も言わなかった。
クロームもそれ以上、何も言わなかった。
一つだけ、分かることがある。
こいつはどうしようもないバカだ。
返す刀に敵を斬り刻むのってこいつの本能だったんだなぁ。
「まあ、得手不得手ってあるよな、人間」
「生きることが不得手なお前に言われると身に沁みるな」
「励ましてやってんだから、真面目に受け止めろよ……」
しかもまた微妙に否定できないポイント突いてきやがるし。
それにしても完璧超人と思われたクロームにも、やっぱり苦手なもんってのがあんだな。滅多に得られない情報を入手できたわ。今後有効活用していくとしよう。
一通り牛乳と卵と砂糖を混ぜ合わせた俺は、あらかじめ用意しておいたパンを混合液に浸す作業に入る。
片手でパンを浸しながら、フライパンを火にかけ始めると、どたどたと階段を誰かが駆け下りてくる音が聞こえてきた。
「あれ? なんか美味しそうな匂いする?」
落ち着きない足取りでやってきたセシウは廊下からキッチンへと駆け込んでくるなり、欲望に正直なことを言ってくる。
こいつ、まだ食う気かよ……。
「お! ガンマがなんか作ってる!? なんだこれ!? つぅかエプロン似合わねぇ! 奇跡的に似合わねぇ!」
「入ってくるなりうるせぇんだよ! オメェは! ちったぁ黙ってらんねぇのかよ!」
「ねぇねぇ? 何作ってるの? つぅか何? 家庭的な俺アピール? 誰に? 誰に? 眼鏡も似合ってない上に、眼鏡とエプロンの組み合わせも似合ってないんだけど? どうすんの? あんたどうしたいの?」
後ろから俺の首に腕を回し、セシウは身体を密着させてくる。
「抱き付くんじゃねぇよ!」
胸が当たってんだよ。
肩口からボウルに浸されたパンを見て、セシウは鼻先をくんくんと動かす。
「おー、フレンチトースト? 食わせろ」
「うっせぇなぁ……。つぅか俺んだよ。やらん」
「えー、ケッチィなぁ」
「お前もう十分食っただろ」
これ以上食ってどうすんだよ。
こいつの胃袋、本当どうなってんだ?
「セシウ、室内では帽子を取れ」
「あー、これ、あれなの。今日寝癖酷くてさ……。ちょっと頭が大惨事なの」
「焼け野原なのか」
「うっせ! お前が将来禿げろ!」
クロームとセシウの会話に嫌味を挟み込んでやると、セシウは離れ際に俺の背中を軽く叩いていきやがった。
はっはっは、セシウはやんちゃだなぁ! くたばれ。
「髪くらい朝整えられるだろう」
「長いといろいろ大変なんだよー……」
しっかりと内側まで浸し終えたパンを油を敷いたフライパンに載せつつ、二人の話に耳を傾ける。
「きちんと管理できないのなら切ってしまえばいいだろう」
「うわ、そう言っちゃいますか」
「プラナを見習え」
ノロケやがった、こいつ。
「そりゃまあ、プラナは私が起きる前に髪整え終わってるっぽいけどさ……つぅかプラナ、フード被ってるから意味ないじゃん?」
「見えないところまで気を配る。それが大事なのだろう。気の緩みは死にも繋がる。常に気を引き締めていろ」
「大体、お前、なんで髪伸ばしてんだ? 昔は短かったじゃねぇかよ」
フライ返しでパンの端を捲り上げ、焼き加減を確認しつつ俺はセシウになんとなく問いかける。考えてみりゃ、別に髪伸ばす必要なんてこいつにはないよな。
「い、いや……ほ、ほら、女の子にはいろいろあるわけでさ!」
「女の子、ねぇ」
どこにいるんだか……。
「何? 文句ある?」
「いや、まあ、別に」
後ろから低い声で脅され、俺は振り返らずに両手を挙げて降伏の意を示す。
「別にお前が髪を伸ばすことに文句は言わない。ただ、身なりは整えていろ。身なりが乱れれば、心も乱れる。心と体は一体だ。まだここでは人々に気付かれていないようだが、我々は勇者一行だ。粗相のない言動を意識しろ」
相変わらずお堅いクロームの発言に俺の肩まで強ばってくる。つぅかなんでこいつらキッチンで話してんだよ。リビングにでも行ってろよ。鬱陶しいな。
「はいはーい、クロームさん。ここに粗相の塊がいるんだけど、いかがいたしましょうか?」
おい、それは誰のことだ?
俺か? 俺なのか?
そういうことなのか?
「あまり関わらないようにしろ。人前では他人のフリをし、いないものとして扱うように心がけるといいだろう。発言は全て無視して構わない」
……うわぁ、勇者様が手酷いな。
何か反論しても俺の心が傷付くだけにしか思えないので、悔しさをぐっと堪えて、焼き上がったフレンチトーストをフライ返しで掬い、手に取った皿へと載せる。
うっし、完成。
調理台の一番上の段の引き出しに敷き詰められた食器類の中からナイフとフォークを取り出す。
お、磨き抜かれてくすみ一つない銀食器だ。さすがに管理が行き届いてるじゃねぇか。スプーンの皿部分を覗き込んでみると、俺の顔が逆さまになって鮮明に映っている。
まるで鏡じゃねぇか。
古来から銀食器の輝きで家の程度が分かると言われているが、ここまで来ると神経質と区別がつかんな。まあ、実際そんなに大差もねぇしな。
俺はフォークで柔らかなフレンチトーストを押さえ、ナイフで四等分に切り分けていく。
「お、出来たの? ちょーだい」
声を弾ませて、俺の脇から顔を覗き込んでくるセシウに肩を竦める。
「お前さっき食ったろ」
「えー! それとこれは別でしょー」
「いや、同じだから。完全に同じ食い物だから。胃に入ることに変わりはねぇから」
こいつ本当、何でも食おうとしやがって。
子供の頃なんてこいつ、とりあえず手に持ったもん口に運んでたからな。積み木やらパズルやら木の棒やら石やら。食えないものと食えるものは判別はつくようになっても、本質は全然変わっていないようだ。
ホント、昔から何も変わってない……。
…………。
「ちょっとお前、口開けろ」
「ん?」
言われてセシウは何の躊躇いもなく口を開ける。バカだな、こいつ、バカだ。うん、バカだ。
俺はフレンチトーストの一切れにフォークをぶっ刺し、それをセシウの大きく開いた口にぶち込んだ。
「もがっ」
突然口に物を突っ込まれたセシウは戸惑ったような声を上げるが、舌に広がる甘味を感じたのか、味わうように咀嚼し始めた。
バカな上に単純だな、こいつ。
「ふむふむ……」
しっかりと味わってでもいるのか、眉根を寄せてセシウは難しい顔で口をもがもがと動かしている。
味わって食う分にはいいんだけどさ。
何もそんな真面目にならなくても。
セシウは丹念に噛み砕いたパンを嚥下し、にっこりと満面の笑顔を俺に向ける。
「上出来っす」
「お、おう」
ぐっと親指を突き立ててくるセシウに、俺は気圧され気味に頷くしかない。
高評価なのはいいんだが、こいつに一切れやるならもっとちゃんと作っておくべきだったな。自分用は手を抜くが、他人に食わせるなら凝ったものを作りたいのだ。
結構美食家の節があるセシウから高評価を頂けたことは素直に嬉しいが。
「お前が満足するとは。この茶髪眼鏡にも取り柄というものがあったんだな」
「お前はいちいちうるせぇな」
相変わらず腕を組んで、食卓に寄りかかったまま微動だにしないクロームが余計な言葉を付け足してきやがる。最近思うんだが、こいつはマジで俺が嫌いなのかもしれない。
男に好かれても困るが。
「まあ、ガンマは結構料理得意だよ? 子供の頃から家事の手伝いしてたし」
あー、まあ、確かにな。義母の家事の手伝いも普通にしてたし、誰かに振る舞うこともよくしてたし。
セシウの家に行った時も結構やってたしな。なんたってセシウが手伝うといろいろ物が壊れたりするから。
「この眼鏡にそんな甲斐性が? あー、その頃は本体の眼鏡を付けていなかったから、方向性が決まってなかったのか」
「うるせぇっつぅの」
「いや、ガンマは今も彷徨ってるじゃん?」
「……それもそうか」
「だぁっ! おめぇら褒めるのか貶すのかはっきりしろよ」
なんで俺ばっか、こんな酷い言われようなわけ……。
完全にこの扱いが定着してしまっていることが憎い。それを払拭できない、常日頃の己の立ち振る舞いも憎い。
要するに自業自得なわけだが。
「いや、すまんな。たまには褒めてやろうと思うのだが、如何せん褒める場所がないんだ。お前には。いや、もしかすると俺が未熟だからなのかもしれない。本当にすまないな。俺程度の人間ではお前を褒めることはできないんだ。本当に申し訳ないと思っている」
「神妙な顔で淡々と謝るんじゃねぇよ……! 本当にそう思えてきて、死にたくなりそうだからやめろ」
「なんだ、ならなかったのか。残念だ」
うわぁ、蹴り飛ばしたい。
蹴り飛ばしたいけど蹴り飛ばそうとしたら、俺が組み伏せられるよな、絶対。多分気付いた頃にはフローリングの床とキスしてる感じ。
クロームに喧嘩売っても負けるのは目に見えてるし、舌戦を挑んだところでクロームは基本的に弱みが少ないのですぐにこっちが息切れすることになる。
クソ、よく出来た奴じゃねぇか、クソ……ちくしょう……クソ……。
ここに長時間いると、俺が生きる目的を失うな。
「……俺は部屋に戻るぞ」
「ああ、勝手にしろ」
クロームは相変わらず微動だにせず、俺に視線だけを向けてそう言う。
透かしてやがって。しかもそれが似合っちまうこいつの容姿の端麗さが腹立つね、全く。
俺は右手にフレンチトーストの載った皿を、左手にフォークを持ち、足早にキッチンを後にする。紗幕を左手でどけて、廊下へと出ようとした瞬間、白い何かがキッチンへと飛び込んできた。
「おっとと」
正面衝突しそうになった寸前、紙一重で俺は右側へくるりと回転しながら避けて、突然飛び込んできたそれをやり過ごす。
俺の横を駆け抜け、キッチンへと息急きやってきたのは見慣れた灰色のローブだった。一五〇センチあるかないかも分からない矮躯には大きすぎるローブの裾は相変わらず引きずられており、ここまで走ってきただけで肩が大きく上下していた。
唇から上が隠れるほど目深にフードを被り、純白の髪を顔の両側に一房ずつ垂らした少女は荒い呼吸を繰り返す。
相変わらず体力ねぇな、こいつ。
まさかプラナが駆け込んでくるとは思っていなかったクロームとセシウも呆けた顔をしている。まず、プラナが日常で走ったことに対して二人は驚いてるんだろうな。
「はぁはぁ……あ、あの……はぁはぁ……す、みません……えっと……あの……」
プラナ、息が荒れすぎて全然まともに喋れていない。
ぶかぶかの袖から零れる繊手を膝に置いて、プラナは俯いたまま顔を上げようとしない。
……大丈夫か?
「プラナ、大丈夫?」
さすがに心配になったのか、セシウがプラナへ寄り添うようにしゃがみ込み、小さな背中をさすってやる。
「あ、ありがとうございます……」
ある程度呼吸が整ってきたのか、プラナはまだ荒い息でそれでもはっきりとお礼を述べて顔を上げる。
「お前まで落ち着きがないとは珍しいな。何かあったのか?」
「え、ええ……少しばかり……」
クロームの問いに静かでありながらそわそわとした声で答え、プラナはくるりと俺の方へ振り返った。
フードの端から覗く血のように紅い右目が俺をじっと見上げてくる。
何? 俺に用があるのか?
「あ、あの……ガンマ……魔術書を買ってきていただき、ありがとうございました」
「ん……あ、ああ。どう、イタマシテ」
わざわざそんなことを言いに来たのか?
いや、そんなわきゃねぇよな。それだけならこんな急いでやってくるわけがないだろう。
「それで、ですね、ガンマ……。あの魔術書を買ってきた場所を私に教えてはくれないでしょうか?」
「は? 別にいいけど。なんでまた……」
「あの本に染み込んだ魔力の残滓がヤッバい上質なんですよ! 残留魔力の質から察するにかなりの玄人が経営しているはずです! 見に行きたいじゃないですか!」
「お……おう……」
爪先立ちになってまで迫ってくるプラナに俺は辟易するしかない。ヤバい。プラナが俗っぽい言葉遣いしてる。これは感情の振り幅が大きい証拠だ。
何も問題ないけどまずい……。
俺は未だにこれがプラナの素なのか、それともテンションが上がりすぎて言葉遣いがおかしくなっているだけなのか判断できていない。する気もない。したくない。
仮に前者だとしたら、俺の心のオアシス新話が泡沫のように消え入ってしまうのだから。
分からない方がいい。
世の中、何でも白黒はっきりつけた方がいいってわけじゃない。むしろ結論を出さず、保留にし続けることの方が大事だろう。
まあ、個人的な見解でしかないけどさ。これが正しいかどうかってのも、保留ってことで。
「あのお店ってそんなにすごかったんだ……寂れてるように見えたけど」
プラナの後ろでセシウは唸りを上げる。納得いかないんだろうな。俺もいかない。あいつが凄腕の魔術師とか絶対に認めない。あの灰被りはただの性格破綻者だろ。
「寂れてたのか?」
「ていうか、すごく不気味な外装だった」
「なんでお前達はそんな店に入ろうと思ったんだ?」
クロームは仏頂面のまま、俺へと目を向けてくる。疑問に思うのも無理はないだろうな。あの店、どう考えても普通じゃなかったし。
「いやぁ、なんか、掘り出し物とかありそうな雰囲気だったもんでさ」
その場の勢いでなんとなく、という理由はクロームに通用しないので、その次くらいにあったかもしれない理由を口にしてみる。クロームはため息を吐き出し、肩を竦め、終いには大仰に頭を振りやがった。
仏頂面で身振り手振りも少ないクロームにしては全身全霊の感情表現だ。
なんでこんな時ばっかり。
「お前はそうやって他人が行きそうにない場所に行って、他の奴らとは違う自分というものを演出したがるな。馬鹿らしい話だ」
「いいだろ、頼まれたモン全部そこで揃ったんだから……」
ちょっと本人でさえそんな気持ちはないとしっかり否定できないことをずばりと言い当てるのやめてくれませんか。
どんどん自分がクズに思えてくるんですけど。
「それで、あの、ガンマ……連れてっていただけないでしょうか? ダメなら教えてくださるだけでも構いませんので……」
プラナは怖ず怖ずと上目遣いで俺を見つめ、唇を尖らせながら訊いてくる。フードの端から見える紅い右目は潤んでおり、その愛らしさにちょっとときめく。
うわー、やっばいいな。堪らないな、これ。
プラナだけが俺の癒しだわ。
こんな風にお願いされたら、断るわけにはいかないだろう。むしろ男気を見せてやりたいところじゃないか。
本人さえよければ、了承の上であるならば、夜の男気も解き放ちたいくらいである。
「全然オッケー! むしろ今すぐにでもいいぜ!」 俺はぐっと親指を天に突き立て、歯を見せて爽やかに笑ってみせる。脳内補正が入ると、さらに白い歯がきらりと輝いていることだろう。
これこそイケメンにのみ許された微笑。しかも普段は面倒そうな顔をし、ここぞという時に爽やかすぎる微笑を発動させることで、不意を打たれた女性は一瞬で俺の虜になる、はずである。
マジ必殺の一撃。俺ってば罪な男だぜ……。
「別にどこへ行くのにも口出しはしないが、今はまだ行くなよ。インジスが戻ったら、ヒュドラと連絡を取るのだからな」
「うぐ……」
「分かっておりますよ、クローム。一段落ついてからにいたします」
横槍を入れてくるクロームに多少の苛立ちを覚えるが、寛大な俺は決して怒らない。別に怒らせるのが怖いわけじゃない。
対してプラナは満面の笑みでクロームの言葉に頷いているけど、別にクロームが好きなわけじゃない。そういうことにしておこう。そうじゃないと心が折れる。この子は元からすごく聞き分けのいい、いい子なのだ。いい子なんだ。
こいつが言ってることも間違いじゃないし、実際。別にクロームが怖いわけじゃない。
「それで、そのインジスは今どこに行ってんだよ?」
「用事だ、用事」
鬱陶しそうにクロームは答え、ようやく組んでいた腕を下ろし、テーブルから腰を持ち上げた。あれ、やっぱりこいつ俺に対する扱い雑じゃね?
「用事、ねぇ」
俺はずっと手に載せいてた皿をテーブルに置き、トーストを一切れ摘み上げる。
卵と牛乳の混合液をしっかり吸って、てらてらとパンの表面が光っていた。我ながら結構いい出来だと思う。
俺はパンを口に運び、ふやけたパンとそこに染み込んだ甘味を味わう。このパンの耳が歯ごたえあるのに柔らかいのがいいんだよな。
俺はテーブルに背を向け、プラナへと向き直る。
「まあ、インジスが来て、やることが終わって時間があったら今日中に行くとするか。もし時間がなかったら明日以降に」
俺の言葉にプラナは素直に頷きにっこりと笑う。
「はい、分かりました。よろしくお願いします、ガンマ」
なんて純粋無垢で眩しい笑みなんだろう。汚れきった俺の心も洗われていくな。
やっぱ無愛想な野郎と野蛮人の脳筋族よりも、心優しい美少女の顔を見ながら飯を食う方がいいな。こんなつまんない料理でも美味しく感じられるわ。
「つっても、あの店、実際そんな大したことないと思うんだがな……店主とか結構嫌な奴だったぞ?」
「あはは、魔術関連のお店っていうのは大抵そういうものですよ。一般人が軽い気持ちで立ち寄るのを防いでいるんです。魔術に関わるモノには危険なモノも多いですからね」
「へぇ、そういうもんなのか」
まあ、確かに結構ヤバそうなもんはあったよな。
カリーヌも一歩間違えると帰ってこれないとか言ってたし。
あの外装にもそういう理由があったわけか。確かに理に適ってるのかもな。
「じゃあ、店主が感じ悪いのも?」
「ああ……実は、大抵の魔術師は感じが悪いです」
……は?
ちょっと一瞬、思考が停止する。
な、なんだって?
「魔術師は基本的に変わり者ばかりなんです。他人のことを考えないとか、自分勝手とか、そういうのは結構ありふれた話でして、むしろ魔術師は自分のことしか考えていない自分勝手な人、という認識で大体合っているくらいです」
「じゃあ、何か? あの店の魔術師が、自分勝手でマイペースで失礼極まりなくて他人をバカにしてるのも、魔術師的には普通なのか!?」
信じられず、まくし立てるように問いかける俺にプラナは辟易としつつも苦笑しながら頷く。
「魔術師は徹底した個人主義の人が多いんですよ。だからあまり群れないし、群れる必要性も感じないんです。そういうのもあって、他人には結構冷たい人が多いですね」
な、なんてことだ……。
俺が今まで遭遇してきた魔術師は数えるほどしかないなかったけど、大半はいい奴だったが……。
本当片手で事足りる人数しか会っていないし、一番印象に残ってるのが故郷である村に住んでた魔術師とプラナくらいだ。
本来の魔術師はああいうもんなのかよ……。
俺はそっとプラナの両肩に手を置いた。
「うちの魔術師が……お前でよかったよ……」
今、心から切にそう思う。
あんな灰被りみたいな奴と一緒だったら俺の心が保たないというものだ。こんな清廉潔白で優しい魔術師がいてくれてよかった。
俺、絶対プラナがいなかったら禿げてたもん。
「魔術師ってみんな性格悪いのかー」
「ふむ、プラナはもともとよく出来た子だったからな」
背後で外野がぶつぶつと感想を漏らしてる。
「ほう? なかなか美味いな」
「でしょー、料理は上手いんだからあいつ」
「なるほどな、これは認めざるを得ないな。しかし魔術師の性格が悪いというのは初耳だな」
「ねぇ、プラナ以外とはまともに会わないしねぇ」
……おい、ちょっと待て。
嫌な予感がして俺は振り返る。
背後には腕を組んだクロームと、椅子に腰掛けたセシウの姿があった。
テーブルに置かれた皿にはフレンチトーストが一切れだけ残っていた。
算数の時間だ。
始めにパンが四切れありました。一切れをセシウさんが食べました。次にガンマくん自身が食べました。パンはあと何切れあるでしょうか?
答えは二切れのはずだ。
「一個足りねぇ!」
「なかなかに美味かったぞ」
腕を組んだクロームはしれっと答える。
「なんでお前さらっと食ってんだよ!」
「いや、置いてあるからもういらないのかと」
クロームは何食わぬ顔で言う。
あれ、そうなの? そういうルールだったっけ? 俺の知ってる奴とちっがーう。
「許可くらい取れよ」
「いいだろ、減るものじゃなかろう」
「減ってんだよ! 物理的に! 計算できねぇのか! あと一つじゃねぇか!」
「馬鹿者、もともとパンは一つだろ。四等分にしたところで、一枚分の質量しかない。一口囓ったところで、パンは一枚だ。それと同じだ。そら見ろ、パンは一つのままではないか」
「屁理屈こねんじゃねぇよ! 俺のだからこれ!」
「胃袋に入れば全部同じだろう!」
「入る胃袋が違ぇんだよ! 俺の胃袋じゃねぇだろ!」
何こいつ、話通じない……!
悪びれもしねぇしよ。
俺になんか恨みでもあるわけ……?
「まあまあ、ガンマ、細かいこと気にしないで」
さすがに自分の作った自分の食事を奪われて怒り気味の俺を宥めようと、セシウが割って入ってくる。
「細かくねぇよ! 四分の一は細かくねぇよ! 俺まだ一切れしか食ってねぇぞ!」
「そうか、一切れしか食べていないか。俺も一切れしか食べていない。セシウも一切れしか食べていない。よかったな、平等だ」
「いやいやいやいやいや! その理屈おかしいから!」
なんでお前は得意気に胸張ってんの!?
え!? これって俺が間違ってるの!?
「というわけでプラナも食べるか?」
クロームはフォークを残り一切れのフレンチトーストに突き刺し、プラナへと向ける。
「ちょーっと待てー!? なんでお前が言うの!?」
「俺もお前もセシウも食べたのにプラナにだけやらないというのは可哀想だろう。四人はいつも平等だ」
「わぁ! すっごい素敵! じゃねぇんだよ! お前、いつもさんざん俺を見下しておいてこんな時ばっかり……!」
絶対納得いかないんですけど……。
頭をかきむしって怒りを露わにする俺など涼しい顔で無視して、クロームはフォークに突き刺したトーストをさらにプラナへ近づけて食べることを促す。
「あ、あの、食べてしまっていいのでしょうか?」
「構わん、大丈夫だ」
なぁんでクロームくんが許可するのかなぁ……!
もうなんかいろいろ理解が追いつかない。
「いや、でも……」
「ガンマが先程、いつも全力を尽くしてくれている人には感謝と労いの意を込めて、料理とか振る舞ってやりたい、と言っていた。だから大丈夫だ」
うわぁ! 俺のセリフほとんどそのまま流用したぁ!
なんでそんなことばっかり覚えてるのぉ!?
「俺もセシウもプラナも食べて大丈夫だ。ただし、ガンマ、お前には少し審議がいる」
「俺ェ! それ作ったの俺ェッ!」
「……まあ、今回は買い出しに行ってくれたことだしよしとしようか」
なんでお前が中心になってんだろうか。
作ったの俺なのに。しかも俺はいつも全力で頑張ってない、とか思われてたのか。
ちょっと、これは、ショックだぞ……。
なんていうすごく、全否定されたような気分に陥る。
「あ、本当だ、美味しいですねー」
「でしょでしょ? ガンマ、料理だけは上手いんだよ、料理だけは」
「あとは逃げることくらいだろう」
などと口々に言いたいこと言っているお三方。
なんでかセシウが得意気なのはどうでもいいが、もうプラナが喜んでくれたから、それでよしとしようかな……。
ただし、クローム、テメェはダメな。
結局、俺が作ったのに俺は一切れしか食えてねぇじゃん。
「もういいわ、俺、部屋戻るわ」
「うむ美味かったぞ」
「ごっそさーん!」
「ガンマ、ご馳走様でした」
それぞれにそれぞれの見送り方をされつつ、俺は静かにダイニングキッチンを出て行く。
……まあ、美味かったなら、よかったかな。
それならもっとこう凝ったものを作りたかった気もするが……。