One Days Cs & Mn―とある昼下がり―
石畳の敷き詰められた街道を、セシウと共に歩いて行く。幅の広い道の両脇には店が建ち並び、行き交う人々は遊楽を興じている。
穏やかな日常だ。
ありふれた都市の有り様だ。
出身が辺鄙な村のためか、こういうところに来ると祭りか何かでもあるんだろうか、などと疑問を抱いていた時分があったことを思い出し、少しだけ可笑しくなる。それまで俺は村を囲む森より外には出たことがなかったからな。それに今後も出ていくはないと思っていた。あの村で生き、あの村で成長し、あの村でそこそこに結婚して、そこそこに子供作って、あの村で育て、あの村で適度な具合に死ぬつもりだったんだが。
そんな俺が今ではこうやって根無し草の旅をしている。しかもセシウまで一緒だ。どうにも不思議な話だよな、ホント。
「今回はなんかのんびりできるね」
隣を軽快な足取りで歩くセシウが、首の後ろに回した左腕を右手で引っ張って軽いストレッチをしながら、ぽつりと漏らす。そういえば今日は街の人達に持て囃されることもなく、比較的穏やかといえば穏やかだな。いつもなら盛大に歓迎されたり、感謝されたり、激励されたりと、騒がしいというのに。
「まあ、今回はこっそり来たからな。クロームもあんま表出歩いてねぇし」
「あー、クロームいないと分からないもんねぇ」
あはは、とセシウは笑いながら、同様のストレッチを右腕でもする。まあ、癖みたいなもんだな、これは。
クロームが人前に出れば、あっという間に知れ渡るんだろうな。クロームの顔は世界中に知られているし。まあ、俺達もそこそこ知れているはずなんだが、やっぱり民衆の関心はクロームに集中している。おまけの俺達の顔なんてあんまり見ないだろうし、覚えようとも思わないだろう。
助かるような、悲しいような、なんとも複雑な心境だ。俺もセシウも持て囃されるのには慣れてないし、これでいいのかもしんねぇけどな。
「こうやってのんびりできるのは久々だし、悪くはないよね」
今度は伸ばした左腕に右腕を引っかけて胸元に引き寄せるようにして、肩の筋肉の解していきながら、セシウは嫌味もなく屈託のない笑みを見せる。
そうやってるところは本当に少年みたいなんだよな、こいつ。長い髪をハンチングにしまい込んでいるせいで余計。
「まあ、だなぁ。やっぱこう、いろいろとよくしてもらえんのはいいけど、疲れるんだよな、あれ」
今まで行った先々での歓迎っぷりを思い出すと少しげっそりするような気がする。セシウは同様に右肩を解しながら、苦笑を漏らす。
「なんかねぇ。ああやって尊敬とか期待とかの視線を向けられちゃうとさ、こっちもドジしたりとかしたくないし、格好いいとこ見せたくなるし、なんかこう、気疲れするよね」
それはあるよな。
俺達の一挙手一投足が勇者一行そのものの評価に繋がるわけなんだしな。勇者の威信を損なうような真似はできない。そう思うとどうしても肩に力が入っちまう。
正直、窮屈ですらある。
でもそれを表に出すことはできない。俺達は常に勇者一行の名に恥じぬ振る舞いをしなければならない。
その点クロームは楽だよな。年中無休であいつは性格が英雄らしい。本当、なるべくしてなった男だよ。
「あれだよな、書店とか行っても、エロ本とか買いづらいんだよな」
「つぅか買うなよ。そもそも私に賛同求めんなよ」
「あ……ワリ……」
うっかりくだらないことを言ってしまった。そりゃセシウに分かるはずがねぇよな……。
迂闊迂闊……完全に気が抜けてるぜ。
「じゃあ、あれだ……漫画とか買うつもりで行ったのに、こう変に注目されて、漫画を買うに買えず、買わないで出て行くわけにもいかないっつぅ状況ねぇ?」
「あー、それは……まあ……たまに……」
やっぱりあるよな。俺もエロ本買えないもん。
あと風俗店とか娼館にもいけねぇよな。寂しいぜ、全く……。
英雄だからこそ色を好めぬこんな世の中、マジ残酷。
「あれすっごく困るよねぇ……。普通に私は料理の本買いたいのにさ、なんか買ったらすごい変な目で見られそうじゃん? 仕方なく小説買ったけど、読まない読まない……」
「お前、もういい年なんだし、いい加減小説も読めよ」
「やだ。眠くなる」
このお子ちゃまが。
こいつは昔から本を読むくらいなら外で走り回る性格だからな……。あの頃はそれでもよかったが、流石にこの歳になってもそのまんまってのはどうかと思うんだよな。
ちょっと幼馴染みとしても心配です。
「なんかさ、こう、小難しくない奴ないの? 読んでて面白い奴」
……いや、小説はよっぽどの駄作じゃねぇ限り読んでて面白いだろ……。
「んー……そう言われてもな……」
なんかあったっけなぁ……。
集めていた本は大抵が俺の手から離れてしまったからな。こいつが読んでも理解できて、かつ話が面白い小説っていうとかなり限られてくるよな。
児童向けの小説の方がいいのかね。
「少し考えてみるわ。後で書店も寄るか」
「お、いいねぇ」
俺の提案にセシウは歯を見せて男前としか思えないような笑顔を向けてくる。胸がでかくなけりゃ完全にイケメンだ、これ。
……つぅかちょっと待て……。
なんで俺、こいつとこんなに和やかに話してんだよ。なんか普通に仲良しこよしみてぇじゃねぇかよ。
何故俺がセシウなんか和気藹々としたムードを醸し出さにゃあならんのだ……。
「ん? ガンマどうしたの?」
「な、なんでもねぇ……」
慌てて上擦り気味の声で否定して、俺は引き攣った笑みを返す。どう考えても不自然なんだが今はそんなことどうでもいい。
なんだこれ、なんだよこれ、なんじゃこりゃ。
こう、ほら、あれだ。もっと俺とこいつの関係は殺伐としていたはず。なんだ、ほら、俺がちょっとくだらない冗談とか言ったらセシウに一蹴されて、俺がセシウのこと女らしくないって弄って、俺が殴られかける。これが世界のあるべき姿のはずだ。そうに決まっている。
だというのに、これはなんだ?
なんでこんなに仲良しこよしっぽいんだよ……。
冗談じゃねぇぞ……!?
「あ、ガンマ、魔導具店あったよー」
「ん!? な、なんだって?」
声をかけられて立ち止まると、隣にいたはずのセシウはいつの間にか少し後ろで立ち止まっていた。
いかん、すっかりぼーっとしていた。
セシウは「ん」と道の脇を指差す。煉瓦造りの建物が整列する中、明らかに異質なものがあった。
それは二階建ての普通の住宅を改装したものなのだろう。壁面全体には漆黒のスタッコが上塗りされており、暖色系で構成される建物群の中では禍々しいほど異様に存在を主張していた。その上壁面には不気味な化け物、悪魔的な生物の姿が彫り込まれ、奇怪な魔導陣や呪文まで刻まれている。
あからさまに、仰々しいほどに危険なムードを漂わせる建物だな、おい……。
窓にかかる唐草格子の装飾も歪だし、屋根にかかった看板は赤茶色に原色の緑色の縁取りがされており、そこに記された『Serinorithos』という店名と思しき文字は金色の縁取りをされた青紫色、おおよそ人を招く気などないように思える毒々しい色使いだ。鮮やかな色のせいで目に悪そうだ。しかも薔薇の茨を模したと思われる黒金の装飾が看板の周りには絡みついている。
ここまで来ると悪意があるとしか思えない。
しかも入り口を思われる両開きの扉の前にかけられた、不快感を催すピンク色の幕にはよく分からない紋章らしきものが黒糸と金糸で刺繍がなされている。これが入店を歓迎しているものに思える奴はいないだろう。いたとしたらそいつはきっと色盲だ。
入り口の脇には青銅で造られたガーゴイルの置物。首には『Anozkto(OPEN)』と書かれた小さな看板がぶら下がっている。俺個人の推測が確かなら、あの裏には『Haptein(CLOSE)』と書かれていることだろう。
なんて邪悪でおぞましい建物なんだ? しかもこんな不気味な外観をしているくせに、建物は周囲の建物よりも幾分か立派な造りと来てやがる。
金持ちの道楽か? どっかの酔狂か?
セシウと並んで、呆然と建物を見上げる。
「……なんだよこれ」
「見るからに魔導具店でしょ、これは。ガンマにはベーカリーショップに見える? そんなら眼科行った方がいいよ、なるべくでっかいところね」
「うっせぇな。見りゃ分かることを得意気に言うんじゃねぇよ。バカさ際立つぞ」
「なんだとー」
ぶんっと振るわれたセシウの拳を、手慣れた動作で視線を建物から逸らすこともなく紙一重で避けきって、俺は僅かにずれた眼鏡を押し上げる。
『Serinorithos』――長月石ねぇ。
随分と洒落た店名ではあるが、こんな見た目じゃ来る客も来ねぇだろう。
「どうする? 入る?」
セシウの問いに、俺は店を見つめたまましばし考える。
んー、こんな閑古鳥が鳴いているのが必然と思えるような店に入っていいものなのだろうか? なんかすんげぇ品揃え悪そうだよな。
いや、でも、こういうところに案外、掘り出し物という奴はあったりするんだが、そもそも掘り出し物は魔術に対する造詣が深い奴にしか分からない。素人目で業物だと分かるもんは掘り出し物と言えないのである。
しかし、ここにもしかしたらプラナが求める物が置いてあるのかもしれない。
「とりあえず見るだけ見ておくか……」
ここに全部揃ってれば、それで買い物は手短に済むのである。寄っておく価値はあるだろう。
俺は歩を進め、歪な建物へと近付く。両開きの扉の片方に手をかけ、ゆっくりと押し開けようとした時、セシウがごくりと固唾を飲んだ。
「入るなり罠が発動しそうだよね」
「何バカなこと言ってやがる」
笑えない冗句に眉根を寄せながら、俺はゆっくりと扉の取っ手を回し、扉を押し込んだ。
ギィ、と古びた蝶番が悲鳴を上げる。扉を開けた先には暗い闇が広がり、中を見渡すことさえできない。そう思った矢先に、部屋の奥から何か白い物がぼんやりと浮かび上がった。
お、灯りか。
白い何かがどんどん近付いてくる。すげぇ勢いだな、おい。
誰かいるのか?
途端、俺はそれが何なのか理解した。
真っ白な楕円形のそれには二つの大きな穴が空いていた。中心にも同様に少し歪な形の穴。さらにその下には細かい四角形が二列に並び揃っている。
……わぁお、綺麗な髑髏。
「いぎゃぁっ!」
鼻先にまで迫った頭蓋骨とキスを交わしそうになった瞬間、俺は即座に身を左側に傾けた。顔のすぐ横を頭蓋骨が通り抜けていく。
「おっと」
背後でセシウのそんな軽い声が聞こえる。俺が前に立っているから見えなかったはずだというのに、セシウは難なく飛来してきた頭蓋骨を掬うように捕まえ、くるりと身体を回転させ勢いを殺した。
全く……嫌になる反射神経ですね……。
「全く、これくらいで何驚いてるの、ガンマさん?」
手首のスナップだけで頭蓋骨を上方に投げてはキャッチ、投げてはキャッチを繰り返しながら、セシウが悪戯っぽく目を細めて笑う。
「う、うるせぇ……驚いてなんかねぇやい」
「いぎゃぁっ、とか言ってやしたぜ? 随分と可愛らしい声で鳴くじゃねぇか。ええ?」
「お前今、官能小説の、美少女を今まさに犯そうとしている強姦魔みてぇな口調になってんぞ?」
「うっさいわ」
後ろから投げられた髑髏をこれまた身体を右に傾けて避ける。こいつの行動は単純だからいくらでも予測して避けられるんだけどな。
店の奥から飛んできた頭蓋骨が再び、店内の闇の奥へと消えていく。
それを二人揃って見送った後に、セシウが俺へと顔だけを向ける。眉根を寄せて、少々困り顔だ。
「……で? 入るの?」
「……ここまで来て引き下がれるか。店の奴に文句も言ってやる。最悪難癖つけて、なんか一品タダでもらって帰る」
「かえるのにかわない、と」
「全然上手くねぇ」
「さいですか」
セシウも入魂のネタというわけではなかったらしく、特に不平も不満も言ってこない。まだまだ芸が甘いぜ。
と、思ったけど、俺も大して上手いこと思いつかなかった。もういいや。何もかもなかったことにしよう。
はい、リフレーッシュ。
はい、オッケー。
「行くぞ」
何事もなかったかのように――いや、実際何事もなかった、俺の脳内でも――ただし洒落っ気もクソもねぇ髑髏の嫌がらせはしっかりと胸に刻み込み、俺はずかずかと店内に歩を進めていく。
薄暗い店内に入って、まず最初に感じたのは不快な臭いだった。腐臭にも似た、刺激的な臭いが充満してやがる……。
少し遅れて入ってきたセシウも嗅覚の鋭さが仇となり、うっと僅かに呻いている。
「なにこれ……はなまがりそう……」
「い、いいから行くぞ……」
店の天井は低く、頼りになるとは思えないランタンが慰め程度にぶら下がっている。いくつも等間隔に並んではいるものの、その間隔は離れすぎている。商品をしっかり客の目に触れさせるつもりはないらしい。
しかも微かに紫色の煙が常に漂っている。一体どこから漂ってきているのかは知らんが、これもまたとんでもない悪臭である。なんならこの臭さをしっかりと表現してやりたいところだが、臭すぎて解析する気すら起きない。酷い臭いだ。とりあえず酷い臭いだ。肥溜めに落ちた時の悪臭と同等だ。
動物が檻の中で暴れる音がうざったい。しかも一匹二匹じゃねぇ。何十匹もの獣が店内のどこかで暴れ、檻を揺らしている音だ。これは。
最早重なり合って一つ一つを聞き分けることもできない動物の鳴き声が煩わしい。一体、どんな獰猛な生き物を取り扱ってんだ。
さらに一歩踏み出すと、ぬかぬかとした感触が靴越しに伝わってくる。足下に目を凝らすと、そこにはカーペットらしき何かが敷いてあった。
……なんだ、これ?
動物の皮か? それにしたって体毛がほとんどない。カバの表皮みてぇだ。ぶよぶよとした弾力に不快感を催す。
……人皮?
ま、まさかな……。
あまりビビっていてもしょうがないので、覚悟を決めてしっかりと歩き出す。
店内には無数の棚が並んでいる。俺とセシウは入り口から真っ直ぐ伸びる、狭い通路を突き進んでいく。
両隣には魔術関連の何に使うのかも分からない商品が並んでいる。
瓶詰めされた目玉や、干からびた動物の手、ホルマリン漬けにされた脳みそ、猛禽類のものと思われる爪、何かの植物の根っこ、鳥の羽根、ゴキブリの卵を詰めた牛乳瓶まである。何か変な商品を見つける度に、背後でセシウが短い悲鳴を漏らす。
いつの間にか俺のフリースの裾をしっかりと掴み、随分と距離を詰めているのか、たまに背中に柔らかいものが触れてくる。
ああ、胸だ。こりゃ、胸だ。
感触だけは素晴らしい。ゴリムスじゃなけりゃもっとよかった。
ふと、何も詰まっていないように思える空っぽの瓶が視界に入る。なんだ? 瓶だけでも売ってるのか? とも思ったが、そんな生やさしいことはなかった。
貼り付けられたラベルには『猫の足音』なんて書かれてやがる。
……え、えー?
しかもその隣の棚にある空っぽの瓶には『魚の吐息』なんてものもあるし、なんなら『鳥の唾液』もある。こっちはちゃんと濁った液体が詰まっている。
他にも『熊の神経』やら『女の顎髭』なるものもあった。神経らしきものと、毛らしきものが入ってはいるが、本当にそういうものであるのかは全く分からない。用途も分からない。
……魔術師っていつも何やってんの?
こんなもん使って何するの?
「なんつぅ素敵空間だ……」
「生きて帰れる気がしない」
背後でセシウが震えた声で呟く。おいおい、今まで数多くの魔物と戦ってきた戦士が、こんな場所で弱音吐くなよ……。
俺まで怖くなってくるじゃねぇか。
真っ直ぐ、ゲテモノ揃いの棚と棚の間を進んでいくと、奥に微かな光が見えた。仄かな橙色の光が揺れている。恐らくは火。俺はその明かりを目指してさらに歩調を早めていく。
視界の両端には干からびたヤモリに蠅の複眼の詰め合わせ、サラマンダーの尻尾、竜の甲殻、ミミズの目、梟の羽音などなどが映り込むが、この際気にしないことにしよう。
足早に進み続け、不気味でしかない棚の峡谷を俺とセシウは突き抜ける。
ついに俺達は灯りの元へと到達を果たした。気分はまるで前人未踏の密林を切り拓き、古代文明の遺跡まで辿り着いた探検家のそれだ。
店の最奥にはカウンターと思しき物があった。台の上には蝋燭が一つ、頭蓋骨の上に載っかっている。
カウンターの奥にはこれまたゲテモノを詰めた瓶が所狭しと置かれている。そのカウンターに、椅子へ横柄に腰掛け本を読む影が一つ。
狭いカウンターと棚の間で横向きに座ったそいつは口に煎餅を咥え、眠たげな目で分厚い本に目を落としていた。
フードのついた漆黒のローブを纏ったそいつの髪は、灰を被ったような色をしており、寝癖を放置しているのかぐしゃぐしゃだ。俺達に気付くこともなく、退屈そうな表情で煎餅を咥えた口をもごもごと動かしている。こんな暗い場所にいるせいか、そいつの肌は真っ白で生気がない。まるで病人のようだ血色の悪さだ。
女、か?
いや、顔見てみりゃどう見ても女だ。
「……おい」
「んあ?」
俺が低い声で呼びかけると、そいつは垂れ気味のおっとりとした目を俺達に向け、のほほんとした声を漏らす。
「なんだ、今日は客が多いな。一日に三人も来るなんて。しかも実体のある方だ」
実体のある方ってなんだよ……。
そいつはのんびりとした、子供のような声で呟き、口に咥えっ放しだった煎餅をローブの袖に埋もれた右手で掴み、端の方を僅かにへし折った。バリボリと煎餅を噛み砕きながら、灰被りは俺とセシウを死んだ魚のような目で見上げる。
「…………」
「…………」
「…………」
耳が痛くなるほどの沈黙、獣の鳴き声と檻を揺する音だけが煩わしい。それと先程以上に刺激臭が酷い。
灰被りは一頻り噛み砕いた煎餅を飲み込み、視線を俺へと戻した。
「……そんなに見つめるな、恥ずかしいだろ?」
抑揚のない平坦な声で、特に恥ずかしがった素振りもなく、灰被りは無感動にだらだらとそんなことを言い出した。
「……は?」
俺の恫喝するような声に大したリアクションをするわけでもなく、そいつはカウンターに置いてあった湯飲みを手に取り、ずずぅと中に注がれたお茶を啜る。そうしてまた本に目を戻してしまう。
……なんだ、こいつ?
「全く……客かと思えばバカップルか。冷やかしはごめんだ」
「違ぇよ!」
「外観があれだから勘違いする奴がたまにいるんだが、ここはラブホじゃないんだ。帰ってくれ。あ、ごめん、帰れ。さっさと、な」
俺の否定が聞こえていないのか、聞こえないフリをしているのか知らんが、灰被りは相変わらずおっとりとした声で無気力に話を続けていく。
なんだこのとてつもないマイペースは……。
「だから違うっつってんだろうが……」
「あー? そう? ふーん? 生鮮食品は取り扱ってるけど、食えないぞ。食ったら死ぬ。前一人死んだ。あれ? 五人だっけ? まあ、いいや。そんで一回業務停止命令受けた時はさすがのあたいも死ぬかと思ったね。なんでバカが数人死んだくらいで、あたいが死にかけなきゃならんのかね。全く世の中どうかしてるな。全く度し難い」
度し難いのはお前の価値観だよ……。
何こいつ、すんげぇ疲れる……。
俺の右手が僅かに空を彷徨い、ヒップホルスターに突っ込んだ銃へと伸びていく。銃を掴み取ろうとした瞬間、手首をセシウに掴み取られた。
「ガンマ、落ち着いて」
潜めた声でセシウが俺を諭そうとする。
「放せ、セシウ……まともに会話してもダメだ、こいつは……」
「気持ちは分かるけど……」
セシウも俺と同じ心境なのかもしれない。でもここで止めに入る辺り、まだセシウの方が常識的な判断か。実際に言葉を交わしていないから、冷静でいられるのかもしれない。
本を読みながら、お茶を啜り、灰被りは俺達を一瞥する。
「なんだ、まだいたのか。ここはラブホじゃないんだ。交尾はよそでやってくれ。ここ以外だったら、道端でやっても何も文句ないからさ。とりあえずバカップルとか死ねばいいのに。そう思わないか、バカップル」
「だから違うっつぅの……!」
とか俺が反論しているというのに、灰被りは煎餅ばりぼり食ってやがる。
クソ……一発二発ぶち込んでやりてぇ……。
今にも殴りかかりそうになっている俺をセシウが手で制し、前へと歩み出る。
「あの、ちょっといいっすか……?」
「ちょっといいんじゃないすかね」
なんで口調が同調してんだよ……。返事はするものの灰被りは未だに本を読み続けている。つぅか煎餅の食べこぼしがぼろぼろとローブに包まれた太股に落ちてるんだけど、気にしないのか? 気にしてないんでしょうね……。
「私達、魔術師の友達に頼まれて、ここに来たんですけど……」
「ふーん? そうなの? へぇ」
返事の適当さから興味のなさが窺えるな……。少しセシウの肩が強ばった気もするがすぐに力が抜ける。きっと苛立ちに耐えてるんだろうなぁ……。
灰被りは煎餅を食べ終え、カウンターの上の袋に手を突っ込み、新しい煎餅を口に咥える。今度は海苔が巻いてある。
「それで……あのー……ちょっと買い物していっていいですか?」
「んなのあたいに聞くなよ。買いたきゃ買ってけよ。それと前置き長い」
……見てても腹立つなこれ……。
「それであのー……本とかってどこに置いてありますかね……?」
セシウの声が微かに震えている。間違いなく怒りに震えている。
セシウさんマジぱねぇっす……!
よくそこまで言われて殴らないもんだ……。
あんたすげぇよ。
「本? 本なら二階。階段あっち」
分厚い本の頁を捲りながら、目を向けることもなく灰被りは店の隅の方を指差す。
ここからじゃ暗くて階段なんて見えないが、とりあえず行ってみるしかねぇか……。
「ありがとうございます」
「申し訳御座いません、だ。無知で申し訳御座いません、と言え」
セシウの左腕が静かに持ち上がる。
……うわー、ちょ、うわー……。
セシウさんが怒っちまったぞ、この灰被り。セシウさん怒らしたらどうなるか分かってるのか? お前の頭がその煎餅みたいに木っ端微塵になっちまうんだぞ? セシウさん鬼パネェ。
セシウさんに対していい気になってっと、マジ痛い目遭うからな。
あれ、俺まるで噛ませ犬の舎弟みてぇ……。
しかしセシウは振り上げかけた左腕をそっと下ろし、わなわなと肩を震わせたまま緩慢な動作で頭を下げる。
「む……無知で申し訳御座いません……」
あんた……最高にいい奴だよ……。
出来る限り穏便に済ませようとするセシウのその背中に、俺は心の中で敬礼をするしかなかった。
正直、ちょっと見直した。
反して、灰被りは一拍遅れてセシウに顔を向け、眠たげに欠伸をし何度か瞬きをした後、首を傾げた。
「ん? いつまでここにいるんだ? あたいの読書の邪魔だからさっさと行け。さっさと行って、さっさとあたいに金寄越して、さっさと帰れ……あー、ごめん、出て行け」
……一発二発ぐらいなら赦されないかな、これ……?
どこまでもマイペースな灰被りのだらしない女に、本気でそんなことを考え始めてしまった。
検討しておこう。