Ac‘s Ephemeral Party―夜宴―
〆
とある山の奥底、木々に紛れるように佇む、人々から忘れ去られた廃城の一室に、彼らはいた。
夜の闇を燭台に灯された火で紛らわし、広い部屋の一箇所に彼らは集っている。
部屋の中心にはテーブルがあり、その上にはチェス盤がある。すでにゲームは始まっており、本来は綺麗に整列している駒が、盤上に点在していた。テーブルの横には白と黒の駒が無造作に置かれている。
チェス盤を挟んだテーブルの向かいには、燃え盛る炎のような金色の髪にサファイアのような美しい蒼い瞳を湛えた青年の姿がある。彼は腕を組んで尊大な態度で豪奢な椅子に腰掛けていた。
見下すように盤面を俯瞰し、時折品定めをするように顎先に指を引っかけている。
端整な顔立ちに白いワイシャツ、黒いスラックス、黒いベストという出で立ちは、まさに好青年のそれであり、きっちりと締められたネクタイからは生真面目ささえ感じさせた。しかし両耳にピアスをぶら下げ、今まさに不敵に微笑んでいる彼は、とても誠実な人物には見えず、寧ろ傲岸不遜な策略家の顔をしている。
さらにその足下には朝焼けを思わせる紫苑の髪をシュシュで後頭部に纏め上げた令嬢の姿があった。飾り気一つないリトルブラックドレスを纏った少女は無骨で冷たい床に膝をつき、男の足にしなだれかかるようにして膝に顔を載せていた。僅かに潤んだ濃緑の瞳は青年の顔に注がれ、頬は紅潮し、濡れた唇からは上気した吐息が漏れる。甘えるように男の足へ頬擦りをするたびにはだけた胸元からは小振りな胸と桜色の乳首が垣間見えていた。
青年は気まぐれに少女の小さな頭を撫で、そのたびに少女は幸福に頬を綻ばせ、純真な乙女のように頬を赤らめる。
何とも歪な光景だ。
青年が指先をくいっと動かすと、それに呼応するように盤上の黒珊瑚の駒が動いた。そのすぐ後に、象牙の駒が動き、黒の兵士を盤上から押し退けた。倒れた兵士は盤上を転がり、滑るようにして落ちて、テーブルを転がる。
それを見て、男に侍る少女は不安そうに男の顔を見上げた。肘まで届く黒い手袋を嵌めた両手をちょこんと太股に載せて、上を向くその仕草はまるで飼い主のご機嫌を伺う飼い犬のようでさえある。
「カルフォル様? 駒を取られてしまいましたわよ?」
「なぁに、気にすることはないさ、トリィ。犠牲のない戦などないのだからな」
カルフォルと呼ばれた男はトリエラの頭をそっと優しく撫でて、髪をくしゃくしゃにしながら、空いた手を虚空で踊らせる。再び、駒は誰に触れられることもなく勝手に動き出す。
何も不思議なことはない。魔術を使えば、この程度のことは造作もないものである。驚くにも足りない。
カルフォルはテーブルに置かれたワイングラスに手を伸ばし、注がれた赤ワインに鼻梁の高い鼻をそっと近づける。葡萄酒の芳醇な香りをたっぷりと吸い込み、カルフォルは満足気に笑んだ。
「いい夜だ。葡萄酒の味わいがよい日はよい夜だと決まっている。素晴らしき夜の大気とは清澄だ。同様に濁りのない悪徳もまた清澄である。そうであるべきだ。そうでなくてはならない」
謳うように呟き、カルフォルはワインを口に含み、その味わいを堪能する。膝の上に顎を載せたトリエラは、その優雅な挙動にただ見惚れていた。
その間にも駒は勝手に動き続け、駒を取り合っていく。勝手というのは語弊があるかもしれない。駒は全て指し手の意志の下で動いている。何一つ例外はなく、全ては指し手の采配だ。
ただ、駒を手に取り目的の位置へ進める、というその当然の過程を飛ばしているだけに過ぎない。
魔術とは技術なのだ。言うならば、人間が今までやっていたことを代行する機器なのだ。歩くという過程を省略するために列車は生まれ、火を熾すという過程を省略するためにライターが生まれた。
新たに開発された技術の利便性と効率性が高ければ、そちら側が重宝されるのはごく当然のことだ。
「お前は相も変わらず詩人だな、カルフォル」
横合いから投じられた皮肉に、カルフォルはワイングラスを揺らしながら声の方へ悠然と視線を向ける。石造りの壁には一人の女性が凭れかかっていた。
彼女の両脇の壁の上方には台座が取り付けられており、枝付き燭台が載せられている。燭台と燭台の狭間、蝋燭の揺らめく炎に照らされた彼女には深い陰が蟠っていた。橙の仄かな光に照らされた部分は極端に明るく、それ以外の場所は奈落のようにどす黒い。それが彼女の妖艶な肉体を浮き彫りにしていた。
たわわに実った乳房はその肌の白さもあってマシュマロのようで、くびれた腰は中心に走るラインが肉感的である。臀部も膨らみ、締まりのある瑞々しいそれはまるで白桃のようでさえあった。太股の肉付きはよく細すぎず太すぎない、絶妙な太さを持っており、下に行くほどに細くなっていく。脹ら脛の膨らみは弾力を備えておりそうで、触れればしっかりと押し返してきそうだ。足首は紐で結んだように締まり、その一連の脚線美はそれだけで見る者を魅了することだろう。
おおよそ芸術の域にまで達していると思われる裸身を惜し気もなく晒し、彼女は冷たい石の壁に背中を預けて腕を組んでいる。
艶やかな長い黒髪は膝まで届き、丁寧に梳ったように真っ直ぐだ。目鼻立ちのはっきりとした顔を曇らせ、彼女――キュリーはカルフォルを鋭い目で見つめていた。
カルフォルはキュリーの裸身に興味を示すこともなく、苦笑混じりに肩を竦める。
「詩情を持ち合わせているのはお前とて同じだろう? キュリー」
「貴様と私のそれを同様に扱うな。どういうわけか気分が悪い」
キュリーはそっとため息を吐き出し、少しばかり顔を伏せる。その棘のある態度にカルフォルは一切の不快を示すことがない。
反応したのはトリエラだった。トリエラは親の仇でも見るかのような、深い憎悪を宿した濃緑の双眸をキュリーへと向ける。
「キュリー? 何か不満があるのなら言ったらどう? 私のカルフォル様に一体何を言いたいのかしら?」
「お前のカルフォルではない。お前がカルフォルの所有物なのだろう」
キュリーの素っ気ない嫌味にトリエラは唇を噛み、呪うようにキュリーを睥睨する。そんなことなど気にもせず、キュリーは虚空に視線を投じていた。
今にもキュリーへ飛び掛かっていきそうなトリエラの頭にそっと手を置き、カルフォルはワイングラスを傾け、咽喉へと鮮血のように紅い液体を流し込む。
「キュリーよ、お前の言いたいことは大体分かる。勇者『様』のことだろう」
カルフォルの言葉にキュリーは目を細める。
「勇者一行は今も漂白の旅を続けている。あのまま野放しにしておいていいのか?」
「別に、あの者達が何かをしたところで程度は知れておろう。計画に差し支えもない。あやつらが何をしたところで、そこには何の価値もない」
「数ならずの抵抗であれば、あらまほしい事だがな。彼奴らにゆくりなき手を打たれ、全てが泡沫と消えてからでは遅いぞ」
「ふむ、まあ、つまらない連中ではなさそうだがな」
その間にも盤上で駒は動き回り、黒珊瑚の騎兵が象牙の陣地へと踏み込む。魔術によって、机の脇に並べられた女王と騎兵が一瞬で入れ替わった。
トリエラの髪の毛をくしゃくしゃにして、カルフォルは少し思案に耽るように顎先へ指を引っかける。そこに煩悶はなく、ただ愉悦だけがあった。
「連中にどうこうできるとは思えんが、確かに余興を楽しむのも悪くはない。程度によれば、よい酒が味わえるかもしれんな」
目を細め、カルフォルはこめかみを指先でとんとんと叩く。出来るだけ面白いものにするためにどうするべきかを考えているらしい。
それは構想が軌道に乗り、自分の才能に酔いしれる演出家の顔であった。
「アメリスでも差し向けてやろうか。面白いことになりそうだ」
「それは素敵ですわ。カルフォル様。楽しみですわね」
カルフォルの提案にトリエラが弾んだ声で賛同する。甘えるように頬を擦りつけてくるトリエラの頭を慣れた手つきで撫で、カルフォルはキュリーへと視線を向ける。トリエラに反して、キュリーだけは複雑な面持ちであった。
「あの悍馬に任せるのか? あまり事を荒立てると、今後の謀に支障が出るのではないのか?」
「なぁに、手綱をしっかりと握ってやれば何も問題はない。然るべき者が握れば、な。そうだろ? ウラヌス」
緻密な計画があってのことなのか、それともその場の思いつきでしかないのか、カルフォルの言動からは読み取れない。おそらくどちらであっても、カルフォルにとっては大して重要ではないのだろう。
キュリーは腕を組み直し、ため息を吐き出す。
「それで御しきれるのなら十全だ。しかし下手を打てば、ただではすまぬぞ」
諫めるようなキュリーの口調に対して、カルフォルは鷹揚に、大仰に手を広げて鼻を鳴らす。
「なぁに、これは闘争だ。言うならば世界との戦争だ。犠牲なき解決の手立てが失われた今、我々とて犠牲なき勝利を得られるわけがない。生きとし生ける全ては一切の例外なく、区別もなく、いずれは肉叢よ。そうであろう? ウラヌス」
「傲慢だな。輩を猶予うこともなく死地へ遣わすか」
「キュリーよ、思い違いはよせ。俺は朋友を喪う覚悟をしている。だが、朋友が亡くなっていいと思ったことは一遍もない。また貴様らとて、死を覚悟をして俺の下にはいるが、死のうと思ったことはないはずだ。つまり、それはそういうことで、そういうものなのだ。なぁ、トリエラ」
「そうですわね、カルフォル様。私はいつまでもカルフォル様に付き従いますわ。煉獄の窯の底まで、お供いたします」
甘えきったトリエラの頭を満足気に撫で、カルフォルはキュリーへと視線を戻す。
「それに、なんだ? それくらいでなければ面白くはない。もし、これでアメリスに他愛もなく屈するのであれば、それはその程度の者だったというだけのことだ。クロームくんには早々に退場していただけばいい。もしもの時は、まあ、もしもの時なりに、もしもの策を取ればいいだけのことだ」
結局、カルフォルの計画はそこに行き着く。
彼にとってそれが愉悦であれば最早それでいいのだ。問題なのはその愉悦の程度であって、それ以外の意味は副産物でしかない。
カルフォルという男は楽しむための謀略に長じた享楽的な策士なのだ。それは次々に新たな遊びを思いつく子供と同じ本質である。
「トリエラ、アメリスに伝えてこい。勇者にちょっかいをかけてこい、とな」
「はい、カルフォル様」
顔を上げたトリエラはにっこりと微笑み、次の瞬間には跡形も残さずその姿が消失する。自身の存在そのものを粒子レベルに分解し、トリエラはどこかへと消えていく。それを見送ることもせず、カルフォルはワインを煽り、息を漏らす。
「ご希望通り、対処はしたぞ。これで満足であろう、キュリー?」
「まあ、貴様ならそんなことだろうとは、なんとはなしに思っていたがな。万事は、全て己の掌の上にあるとでも思っているのか?」
責めるような口調でありながら、キュリーの口元には微笑があった。十年来の友人の変わらぬ欠点に懐かしさを感じているような穏やかな笑みだ。
「思っている? 違うな。万事は全て俺の掌の上にある。いや、手の内にあるさ」
くつくつとカルフォルは咽喉の奥で笑う。傲慢に、不遜に、尊大に、この世の支配者とでも言いたげに高らかに笑う。
「まあ、いいさ。お前はそういう奴だ。私もそろそろ失礼するとしよう。いい時間だ」
組んでいた腕を下ろし、キュリーは壁から背を離す。
「一杯やっていかないのか? いい葡萄酒だぞ?」
「貴様との酒は飲み飽きた。それに眠い。帰って寝ぬとするさ」
キュリーは誘いを突き放すように断るが、カルフォルは特に気にした様子もなく、自分のワイングラスに葡萄酒を注いでいく。
カルフォルには似つかわしくない、穏やかな微笑が唇にはあった。
部屋から去る間際、キュリーは扉の隙間から室内を覗き込んでくる。黒い髪が撫で肩からしゃらしゃらと零れ落ちた。
「お前達もあまり遅くまで起きているのではないぞ?」
「ああ、ほどほどにしておこう」
カルフォルは盤面を注視したまま、ワイングラスを振って曖昧な返答だけをする。キュリーもちゃんと聞き入られることがないことは分かっていたらしく、それ以上何かをいうこともなく部屋を後にしたようだ。
その後カルフォルは無言のまま盤面を見つめ、顎に指をかけて僅かに唸った。
ワインを口の中に流し込み、口の中で転がしながら、盤上の駒の一つひとつを鑑賞するように眺めていく。
そうしてカルフォルは背凭れに深々と凭れかかり、ため息を吐き出した。
「これは、チェックメイトというわけ、か」
首肯すると、カルフォルは大きくため息を吐き出し、頭をぼりぼりと掻いた。
「ふむ、やはり貴様には負けるか。あと一局だけお相手願おうか」