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Alternative  作者: コヨミミライ
1Cr Drudgery―白黒徒花―
28/113

#A757A8 Th―群咲の魔女―

     〆


 ……ここはどこだろうか?

 靄のかかった頭で考えてみる。

 なんかこんな状況がほんの少し前にもあった気がする。

 まずは重い瞼を持ち上げてみる。紫と青と橙が混ざり合った空が見えた。あまりにも綺麗で一瞬、空かどうかも分からなかったけど、漂う雲と視界の端に映る山の稜線でなんとかそれを空だと認識できた。

 空気は冷たい。なんだかすごく寒い。

 背中には硬い感触、枕かなんか敷いてあるのか、後頭部には柔らかい感触がある。

 体を動かそうとしたが少し指先に意識をやっただけで酷い痛みが逆流してきた。

 ……あー、なんだこりゃ……。

 それになんかやたら空腹感がある。

 どういうことだ……?

 そうやって事実を一つずつ蒐集していくにつれて、ここに至るまでの経緯が引き出されてくる。

 あー、そうか。そうだったな。

 あまりはっきりとした形で思い出したくなく、ぼやかした形に留めようとする。

 そうは言っても、しっかり思い出してしまうわけだけどさ。

 村人達の死に顔が去来する。

 あの少女のことも、看板娘のこともしっかり思い出してしまう。

 こういう時、自分がバカだったらよかったのになぁ、とか思うよな。

 ……最後、カルフォルに斬られた傷を思い出す。我ながらあれは重傷だった。右の拳なんて真っ二つだったしなぁ。

 なんで生きてんだろ、俺。

 正直死んだと思ってたんだけど。

 ……とりあえずこの頭に敷いてあるものはなんだろう?

 以前と同じであるならば、セシウの膝枕か……。いやでも感触が……つぅかあんま覚えてないけど。

 面倒くさいので、痛みに軋む体を強引に起こすことにする。

「うっ……イデデデ」

 全身がやたらめったら痛い。少し動かすたびに痛みが脳みそに突き刺さる。

 ちょっと無茶しすぎたかな……。

 あーもうクソ……ホント不便……。

 ちゃんと鍛えるべきかなぁ、俺……。

 鍛えないと今後さらに辛いことがありそうだわ。

 うん、そうだな、これからたまに筋トレしよう。そうしよう。セシウとかクロームみたいにとかじゃなくて、一般人がする筋トレのちょっと上くらいの筋トレしよう。決めた。今決めた。

 そんなどうでもいいこと考えて気を紛らわせながら起き上がる。すかさず後ろを確認すると、畳まれた服が置かれていた。

 ああ、俺の上着だ、これ。今日着てなかった奴。

「なんだ……セシウじゃねぇのか……」

 ん……?

 言ってすぐ、目を瞠ってしまう。

 俺は何を言っているんだ? まるでセシウの膝枕がよかったような口振りじゃねぇか。

 ないないないないないないない。

 うん、ない。

 あいつの太股硬いし。筋肉で。

 あ、ごめん、柔らかかった。正直いい高さだった。悔しいことに。

 まあ、だからといってセシウの膝枕がいいわけじゃない。そんな誰がゴリラの膝枕で喜ぶっていうんだよ、アホらしい。

「あ、ガンマ? 起きた?」

「はいぃ! 起きましたぁ!」

 じーっと頭の下に敷かれていた上着を見つめていると、突然後ろから声をかけられ、俺は上擦った声で返事をしてしまう。背筋もぴーんと張って、地面と垂直の背中である。さらには変に全身が緊張したために痛みが頭に雪崩れ込んできて、変な風に身悶えてしまう。

「――イッテー!」

「……何やってんの。頭打っておかしくした?」

「う……うるせぇよ……」

 一応怪我人だっていうのにぞんざいな言葉をかけてくるセシウを、俺は恨めしそうに睨み付ける。

 て、あれ?

 セシウは妙な物を手に持ち、肩へ載せていることに気付き、俺は首を傾げる。

「なんだそれ?」

「あー、スコップ」

「そりゃ分かるわ」

 俺は何? バカになったと思われてるの?

 どんなに酷い頭の打ち方をしても、セシウよりバカになることはないと思うんだけどな。

 言ったら、怪我の具合が医療的に一段階ランクアップしそうなので、言うことはやめておこう。

「何に使ってたんだよ?」

「あー……ちょっと、ほら、今、ここいないじゃん? ……葬る人が、さ?」

 ぎこちなく、なるべく言葉を選んで、セシウが説明をする。

 ああ、そうか……。もう誰も生きてないんだもんな。このままじゃ野ざらしになっちまうよな、あいつら。

 それで埋めてたわけか……。

「スコップは、ちょっと、その辺漁って、ね。クロームと私でやってるんだけど、やっぱり、大変だね。もう、朝だし」

 つまりはそんだけの数の人間が死んだってことか。

 こいつらも律儀なもんだよな。

 魂がトリエラの手にある以上、亡骸を弔ったところで彼らが報われるわけでもないというのに。結局、そこからさえ、俺達は村人を救えなかったわけだ。

 罪滅ぼしにも何にもならないことだ、こんなの。

 それでも、クロームとセシウはやらざるを得ないと思うだろうし、その気持ちはよく分かる。収まりが悪ぃだろ、あんだけよくしてくれた奴が野ざらしのままなんてさ。

「ん? そういや、プラナは?」

「まだ休んでる。ほら、あんたの傷、無理して治したから」

 ん……?

 そう言われて、俺は自分の身体を見下ろす。よくよく見てみれば着ていたはずの開襟シャツはどこへやら、俺は素肌にジャケットを羽織っただけの状態だった。

 胸元と脇腹には包帯ががっつりと巻かれてやがる。

 ……完全に治ってはいないんだろうが、それにしたってあれだけの致命傷をよく治しきったもんだ。何よりも右の拳が完全に接着されている。目を凝らせば僅かに傷跡も見えるが、ほとんど治っている。

 動かすと激痛を感じるけど、それにしたって信じられないほどの回復だ。

 確か、手の甲がぱっくり割れてたからな、俺。まあ、抜き身の剣を殴ればそうもなるだろうよ。

「大丈夫だったのかよ?」

 俺の問いかけに、セシウは腰に手を当て、やれやれとため息を吐き出す。

「あのね、大丈夫じゃないから休んでるの。あんたと一緒。あんたもしっかり休みなさい。私、やっておくから」

 そう言うが、セシウだって全身傷だらけだった。剥き出しの白い腕には細かい切り傷が目に付くし、さんざん殴ったせいなのか拳にも擦り傷が見える。服もぼろぼろで、顔は土に汚れきっているし、肉体的な疲労も相当なもんだろう。それで休みなくこの時間まで肉体労働を続けていた。とても大丈夫とは思えない。

 いくら体力バカでも、こいつの体力は無尽蔵ではないんだから……。

「俺もやるよ」

「はぁ? あんた、死にかけだったのよ? しかも一晩で二回目の! 何考えてんの? 普通一日に二回も死にかける? そして生き返る? 信じらんない! 本当信じらんない!」

 う……そういえば確かに……。

 精神面でめっちゃプラナの優しさに癒されてきたが、肉体面でもかなりプラナに助けられたな、今回……。

 間違いなくプラナがいなかったら死んでた場面ばっかりだ。

 ホント、よく生きてるよな、俺……。

 なんで俺は生き残れて、あいつらは死んじまったんだろうな……。

 俺の表情が僅かに翳ったのを見て、セシウが急に申し訳なさそうに目を逸らす。

「と、とにかく、あんたはまだ休んでて。下手にやられても仕事増えるし。今はちゃんと休んでおいて。これから何があるか分からないし」

「そういうお前はどうなんだよ?」

「わ、私はほら……た、体力バカだし!」

 と、セシウは小さくガッツポーズを取りながら笑ってみせるけど、その虚勢はあまりにも脆いものだった。口調はわざとらしいし、挙動は大袈裟だし、笑みも引き攣ってるし、やっとの笑顔もすぐに翳ってしまう。

「あのな、俺が心配してんのはな、精神的な話。相当堪えたんじゃねぇのか? お前こそ、無理すんな。しっかり休め」

 多分、俺達四人の中で一番繊細なのはセシウだ。プラナも確かに繊細そうではあるが、あいつは妙に達観したところがあって、結構物怖じをしないタイプである。基本的に冷静で、またある意味冷徹なほどに合理的で論理的な奴でもある。対してセシウは精神的にまだ未熟なところが多い。

 今回のことでそれが浮き彫りになったように思える。

 次から次へと休む間もなく、加減もなく、遠慮なんてもんも一切なくこいつの狭かった世界に押し込まれた数え切れないほどの惨劇。それは間違いなくこいつの心に大きな傷を膿んだはずだ。

 一つひとつでさえ十分すぎるほどの悲劇だったというのに、それを心の中で処理しきる前に新たな悲劇がこいつの前で繰り広げられた。

 あまりにも酷な話だ。

 その上、根本的な解決さえできず、誰一人助けることができず、敵を倒すこともできなかった。ボロボロの心にのしかかった無力感は、あまりにも大きすぎるものだ。

 だからまあ、俺もたまには、兄貴分として心配してやろうと思ったわけである。

 セシウはしゅんと俯き、俺の顔を見ようとしない。スコップを持った手を力なく足らし、その先端が足下の瓦礫を叩いた。

 ……それがそのまま、答えとして十分なものだった。

「ガンマ……ちょっと、その……となり、すわっていい……?」

「ん? ああ、どうぞ?」

 質問とは全く異なる回答に困惑しながらも俺はそれを承諾した。セシウは瓦礫の山にスコップを立てかけると、とぼとぼと俯き加減のまま近づき、俺の隣ですとんと腰を下ろした。

 抱え込んだ膝の上に額を当て、そのまま黙り込む。冷たいそよ風が吹き抜け、セシウのポニーテールの先端をほんの少しだけ揺らす。

 ……どうするべきなんだ、こういう時?

 なんかよく分からんけどいたたまれなさを覚えて、俺は自分の周囲に目を向ける。

 よくよく見てみりゃ、村の跡形っていうのは惨憺たるものだった。

 ほぼ全ての建物は焼失し、煉瓦造りの家などは瓦解し瓦礫の山と成り果てている。僅かな焼け跡と、地面から生えるように突き刺さり積み上げられた外壁だけが、名残として残っている。道らしき物にはいくつもの鮮血がぶちまけられ、肉片のようなものや内臓が平然と散乱している。

 亡骸はある程度片付けられているが、それでも残骸は確かに残っていた。

 村の端から端までが隅々まで見えてしまう。ありふれていた木々ももう見えず、村の向こう側の山の麓まで一望できてしまう。

 ……無常ってのは、こういうことをいうのかね? あれ、無情か、この場合は。

 もうなんか自分の心中にある感情を分別することも面倒臭くなってきたなぁ……。

「ねえ、ガンマ……」

「ん?」

 ふとくぐもった声が聞こえて、俺は意識を隣で小さくなってるセシウへと戻した。

「なんだ?」

「なんで……この村だったんだろうね……」

 その問いに、俺は胸が締め付けられた。

 本当、どうしてなんだろう。

 よりにもよって、この村が、この村の人達が、こんな目に遭わなければならなかったんだろうか。

 奴らの考えていることを理解するつもりはないけど、それでも得心のいく理由がほしかった。例えそこにどんな理由があろうとも、俺達はあいつらを赦せないんだろうが。

「どうしてなんだろうな……」

 何にせよ、あの惨劇の一夜は、俺達の中でそれぞれの形で特別な意味を持った。一瞬たりともあの悲劇を忘れることはないだろう。

 いつまでも胸に刻まれ、そして俺達を苛む。

 忘れてはいけない。この場所にあったはずの村に生きていた人々の無念を。

 そしてムダにしてはいけない。勇者一行として、俺達は同じ悲劇を繰り返してはいけない。

「ごめんね……こんなこと聞いても困らせるだけだよね」

「いや、いいよ。今は、いいよ」

 こいつの問いかけを俺は責められない。それでこいつが少しでも落ち着けるんなら、それでいい。

「みんな、いい人達だったよね」

「ああ」

 俺は静かにそれを肯定した。

「みんな、幸せそうだったよね」

「ああ」

「みんな、楽しそうだったよね」

「ああ」

 セシウの声が次第に震えてきていることを感じ取ってなお、俺は変わらない声で肯定する。

「みんな、優しかったよね」

「ああ」

「みんな、私達にとってもよくしてくれたよね……」

「ああ」

「みんな……みんな……」

 そこでセシウは言葉に詰まり、より一層額を自分の膝に押しつけた。前髪がくしゃくしゃになり、肩は静かに震えている。

 潜めたような洟を啜る音が聞こえた。

 ……俺はかけるべき言葉が見つからず、静かに、ただ黙って、その肩に手を添えるだけしかできない。何もできなくて、それでも何かしたくて、どうしようもないもどかしさを埋めるように、ただそれだけを行った。

 こういう時に限って、気の利いた言葉一つかけられない、自分の軽薄な人柄が嫌になる。

 しばらく、セシウの声を潜めて泣く音を聞いていた。たまに漏れる、不意に漏れてしまった引き攣った声と、しゃくり上げる声が、また俺を苛んだ。

 声を殺さずに泣いてもいい、と言いたかったが、そこまで踏み込む勇気さえ今の俺にはなかった。

 自身の無力を思い知らされたのはセシウだけじゃない。俺もクロームもプラナもきっと同じだ。

 だから、目の前にいる妹分一人、助けることを躊躇ってしまう。

 情けない話だ。

 世界の命運を背負っている勇者一行が肉親のような存在一人、救済できないなんてな……。

 ごめんな、リサ……。

 俺は兄のように俺を慕ってくれた、本当の妹のようだった頃のその子にそっと謝っていた。今ではもう使うことのない名前だけど、その頃の名前は未だに忘れていない。

「がん、ま……」

「どうした?」

 頼りない、湿りきった声で弱々しく名前を呼ばれて、俺は思わず肩から手を離してしまう。

「あり、がと……」

「べ、別に何もしてねぇよ」

 何もできやしない。

 今こいつを助ける何かを一つとてすることができない。

 感謝されたところで胸が痛むだけだった。

「ううん……がん、ま……わたしのこと……た、たすけて、くれたでしょ……?」

 セシウがしゃくりを上げる。

 ああ……そのことか……。

「別に、あれは……」

「にかい……たすけて、くれた……」

 あー、二回もそういや助けたのか……?

 一回目は魔導陣を破壊する時。本当に形振り構わず助けに行った気がしないでもない。あんま思い出すと気恥ずかしいので、思い出さないようにしておこう。

 それで二回目は、多分、あれだよな。カルフォルに殴りかかった時だ。

 あれはもう本当に何も考えてなかったな、うん。

 だっせぇたらありゃしねぇって話だけど。

「ごめんね、わたしのせいで……がんま、すごいけが、した……。ありがとう……」

「い、いや……まあ、ど、いたまして……」

 面と向かってお礼を言われると、これまた恥ずかしさが出てきて、俺はぽりぽりと頬をかきながら、たどたどしくそんな言葉を返す。

 なんかこれじゃあ、俺、セシウをめっちゃ大事にしてるみてぇじゃん?

 セシウを助けるために二回も大怪我負うなんてさ……ねぇ?

 そういうのはちょっと、こう……なんか、ほら、なぁ……。

 何がなんなんだよ……はっきりしろ、俺……。

「がんま……が、いなかったら……きっと、わたし、ひどいめにあってたし……」

「ま、まあ……あれは当然のことっつぅか……」

「あんま……むちゃ、しない、で……」

「…………」

 う……うーむ……。

 こう真っ向から心配されると、むず痒いな。

 あー、もうなんだろうな、これ。

 思考が纏まらねぇなぁ。

 不測の事態ってのが続きすぎなんだよ。脳みそが休まらねぇ。

「へんじ」

「あ?」

「返事は!」

「あ、え……あ、はい……気を付けます」

 急かされて、俺は上擦った声で慌てて答える。

「分かったなら……いい」

 膝に押し当てた額を上げることもなく、セシウは小さな声でそう言う。それ以上、セシウは何かを言うこともなく、ただじっと俺の隣に座り続けていた。

 しばらく、そうしていた。

 俺はかけるべき言葉が見つからず、ただそこに座り続けていた。本当はまだ体中が痛いので寝転がりたかったのだが、何だかそうするわけにもいかない雰囲気だよなぁ……。

 どうにも間が持たないので、俺は尻ポケットから煙草の箱を取り出す。

「…………」

 ソフトパックのため酷い有様だった。なんせあんだけ派手に動き回って、汗はジーンズ越しに滲み、さんざん転げ回ったわけだし、寝転がっている間はずっと下敷きにしていたんだ。

 箱はべっちゃりと潰れて、ぼろぼろだ。摘み上げた煙草も酷いものだ。よれよれになって、詰められた葉もいくらか落ちてしまっている。

 あー、なんか、最近、こういう煙草ばっか吸ってる気がすんな……。

 まあ、しょうがねぇけどさ……。

 俺はオイルライターの火で咥えた煙草の先端を炙る。風が中途半端に吹いてるせいで、どうにも火を点けづらい。

 手で風から火を守って、なんとか煙草に火を灯した俺は、手首のスナップだけでオイルライターの蓋を閉じ、俺は煙草を咥えたまま口の隙間から紫煙を吐き出す。

 煙は風に攫われ、あっという間に散り散りに消え去ってしまう。

 なんか、久々に煙草を吸った気がする。慣れ親しんだ味がどうにも懐かしく思えて、習慣の味わいが目に染みた。

 生きてるのだと痛感する。

 あの非日常の一夜は明けたのだと、ようやく理解できた気がする。

 もう何もかもが変わってしまったけれど。

 村は消え去り、村人も死に絶え、俺達の心にも深い傷跡が残った。

 それでも俺達は生きているんだ。

 生きて、こうして、途方もない悲しみと悔しさを噛み締めている。どんなに辛くても、それは事実だ。

 ぼんやりと考えながら煙草を吸っていると、セシウが顔を上げた。もう三分の二ほど、煙草が灰となった頃のことだった。

「ねえ、ガンマ」

「今度はなんだよ」

 セシウは俺のことを見ようとはせず、俺達の前に漠然と広がる風景を眺めていた。夜の気配を追い払い、一面に広がった青空と青い葉を茂らせた木々に覆われた山を見つめ、セシウは洟を啜る。

 まだ目は赤く、頬には涙の筋が残ってしまっているけれど、それでもセシウはセシウなりに平静を取り戻そうとしているらしい。

「あの子、ガンマのことが……」

「んあ?」

 どの子のことだろうか?

 自分から話を振っておきながら、セシウはしばらく何も言わずに遠くを眺めていた。俺は急かすこともせず、煙草を地面に押しつけ火を揉み消した。もういいや、このまま吸い殻捨てちまえ。

 軽く投げた吸い殻が放物線を描き、瓦礫の中に落ちていくのを見送る。その頃に、ようやくセシウはふるふると首を振った。

「やっぱなんでもない」

 言って、セシウはよっと素早く立ち上がる。

 すっくと、まるで飛び上がるような立ち方だ。身軽だなぁ、こいつは本当。

 でも、なんか声はすっきりしてるな。少しは心持ちが軽くなったのかもしれない。

 もちろん消化しきれるような問題ではないし、まだこいつの中にも蟠っているものがあるだろう。それでも、割り切ってやっていくしかないんだよな、俺達は。

 仮にも勇者一行なわけだしさ。

「私、そろそろ戻るね。全部クロームにやらせるわけにはいかないしさ」

 跳ねるように駆けて、セシウは瓦礫に立てかけていたスコップを手に取り、肩へと引っかける。振り返ったセシウは、もう爽やかな笑みを浮かべていた。

 涙でボロボロになった頬には涙の跡が刻まれたままで、目もうっすらと赤いままだけど、それでも笑顔に翳りはなかった。

 その湿り気のある健気な笑顔は、なんかこう、不意打ちでくるとなんか、不意に顔が熱くなるな……。

 頬が紅潮してそうで、俺はぎこちなくセシウから顔を逸らしてしまう。

 クソ……なんでよりにもよってゴリムスなんぞに……。

「ん? どしたの? ガンマ?」

「うっせ。おら、さっさと行け。むさ苦しいんだよ」

 そっぽを向いたまま、俺はしっしと手でセシウを追い払おうとする。

「むー……相変わらずムカつく奴だな……」

「そりゃどうも。お前も相変わらずがさつですよ」

「それ今関係ないだろ」

「うるせぇ、お前ほどの生粋のゴリラは呼吸さえパワフルなんだよ」

「ゴリラでさえないのに生粋って一体……」

「お前がゴリラ以上にゴリラってこったな」

 きっと今頃セシウは頬を膨らましてるんだろうな。ちょっと今は直視できねぇけどな。あいつがどうこうじゃなくて、俺の頬が赤い可能性がある以上、それを見られるわけにはいかないのである。

 セシウには悪いが、早々に立ち去ってもらわないとな。

「ま、そんだけ嫌味が言えるんならもう大丈夫そうだな。気が向いたら手伝ってね」

「あーはいはい。脳筋族二人に比べりゃ全然役には立たないだろうが、それでも心優しくひたむきな俺はお前らのことを思い遣って、真面目にお手伝いしてやるよ」

 ぺらぺらと中身のないことを言ってると、セシウにため息をつかれた。まあ、呆れられるだろうさ。

「お前、頭と舌の回転だけはすごいよな……」

「本当はこれが普通なんです。脳みそが筋肉の奴と比べられても一般人のお脳ミソに失礼です」

「あー、あんたホント疲れる。私行くかんね」

「行け行け。とっとと行け。ジャングルに帰れ」

「はいはい、分かりましたよ。行きます、行きますとも」

 ぶつぶつと悪態をつきながらセシウは立ち去っていく。その背中をちらりと一瞥して、俺はぽりぽりと頬をかいた。

 ……ふーむ、後々怖いな、これ。まあ、殴られないように細心の注意は払っておくとしよう……。

 あー、頭働いてねぇな、俺。

 思考とか予測とか、全然できてねぇや。

 ……こういう時は頭を使わなくていい肉体労働が一番だよな。

 そうしよう。

 まだまだ痛む身体を少々強引に立ち上がらせ、俺は周囲を見回す。スコップが地面に並べられているのをすぐに見つけ、俺はその場へととぼとぼと歩いて行く。

 なんか右足だけやたら痛むな。一歩踏み出す毎に膝がずきずきと痛みを訴えてくる。

 やっぱ無理しすぎたなぁ、いろいろ。

 柄じゃないことばっかしてしまった気がする。そりゃあ、セシウも心配することだろう。

 今後は、あまり無理しないようにしねぇとな。

 そんなことを考えながら、俺はスコップを拾い上げ、セシウが向かった方向とは真逆の方角へと歩き始める。朝陽に背を向け、右足を引き摺るようにして進む。

 今は一人で何も考えずにいたかった。

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