#A757A8 Th―群咲の魔女―
ホール全体に響き渡った轟音が耳を劈き、飛んできた礫が俺の頬を掠める。クロームの避けた怪物の拳が、大理石の床へと叩きつけられた音だった。
人間の頭と同程度の大きさを持つ拳は大理石を薄氷のように粉砕している。
化け物染みた怪力だな……。まあ、化け物なんだろうけどな。
豚の怪物は緩慢な動作で床にめり込んだ拳を持ち上げ、俺達の姿を目で追う。
素早い身のこなしで怪物の視界外に回り込んだクロームが横合いから右手に握った細身の銀剣で斬りかかる。的確に敵の死角を突いた攻撃だ。
しかし、その斬撃は直前に上げられた怪物の腕によって防がれてしまう。
まぐれか、とも一瞬思ったが違う。的確にあいつは反応してきた。よりにもよってクロームの神速の太刀に対してだ。
細身の剣が大木の幹のように太い上腕へと深々と沈み込む。そのまま動かない……。
さらに踏み込むことも、引き返すこともせず、クロームは斬りかかった姿勢のまま停滞していた。表情からは考えを窺い知ることはできない。
腕を深々と裂かれて尚、怪物は痛みに呻くこともせず、斬られた腕の先で拳を握り締めている。
……まさか、筋肉で固定してるとでもいうのか? 馬鹿げてるにも程があんだろう……。
危機を察し、俺はクロームの元へと駆けながら、怪物へと銃弾を放つ。三度の銃声、銃口から飛び出た弾丸は螺旋を描きながら怪物へと突き進み――表皮に弾かれた。
なんだそりゃ……!? どんだけ硬ぇんだよ……。
のろのろとした動作で、怪物はクロームへと顔を向け、空いている右腕を振り上げる。まずいぞ……あそこからじゃ逃げようがない……。
クロームは左手の鋸状の大剣を振り上げ、怪物の腕を叩き斬ろうとするが、その刀身を持ち上げられていた怪物の右手が掴み取る。巨大な掌は力強く刀身を握り締め、細かい歯が肌に食い込み、血液が刀身を伝い落ちた。それでも怪物は力を緩めず、刀身に整列した歯はより一層掌に食い込んでいく。
細身の剣を右腕に固定され、鋸状の大剣を左手で掴まれ、クロームの武器は全て封じられてしまった。
いや……まだだ……!
「小賢しい真似を……!《旧い剣》ッ!」
クロームの呼び声に応えるように、二人の頭上で閃光が幾重にも弾ける。瞬きの間に無数の剣が上空に再現され、銀の雨となって怪物へと降り注いだ。
クロームは両手を塞がれただけじゃ止まらない。その手にデュランダルが握られている以上、こいつの目の届く場所は全てが殺傷圏内だ。
動きを止めたつもりで、動きを止められていたのは怪物の方だってこったな。
「群咲け」
そう思った矢先、穏やかな羽ばたきと共に無数の蝶の群れが鱗粉を撒き散らしながら、怪物の頭上へとどこからともなく寄ってくる。
紫蝶の群れは接吻でも交わすかのように、降り注ぐ剣の切っ先に触れ合い、次の瞬間さらなる光が瞬いた。
蝶と触れ合った剣はその全てが輝きと共に消失し、眩い白光と共に鳴り響いた甲高くも柔らかい音の残滓だけが虚しく尾を引く。
やった奴なんて分かりきっている。俺は踊り場にて、悠然と欄干に寄りかかっているトリエラの様子を窺う。
肝心なところで邪魔をするつもりかよ……。面倒くせぇ相手だな……。
あれじゃあ《旧い剣》は完全に封じられているも同然じゃねぇか。
さらに戦況は一転して、追い詰められているのはクロームの側へと戻ってしまった。
クソ……やべぇ……やべぇ……!
「クロームッ!」
叫んで、俺は走る速度を上げていく。
間に合えよ……間に合えよ……。
間に合ったところでどうすることもできねぇかもしれねぇが、まあ、そん時は一回くらい身代わりくらいにはなんだろう、きっと。
「ほう? これで捕らえたつもりか?」
対してクロームは焦るわけでもなく、唇の両端を吊り上げた。両眼をギラギラと輝かせ、犬歯を剥き出しにし、獰猛な笑みで怪物を真っ向から睨み付ける。
なんであいつはあんなに余裕そうに振る舞ってんだよ。どう見てもピンチだろうに……。
「愚かだな――剣だけが勇者とでも?」
クロームはゆっくりと頭を後ろに下げる。背中を引き絞られた弓のようになるまで反り返らせ、頭を引いて、頬はほぼ完全に上を向いてしまっているような状態だ。
おいおい、一体何のつもりだ……?
「勇者を見くびるなッ!」
途端に、クロームは反らせた背中を引き上げながら、勢いをつけて投石機の如く頭を前方へと突き出す。クロームの皺一つない雪原のような額と、怪物の分厚く弛んだ額がぶつかり合う。
ゴッという鈍く、尾も引かない音が地面を転がり、今度は怪物が呻きを漏らしながら後ろによろめく。頭蓋骨同士をぶつかり合わせられたことで、脳みそを激しく揺さぶられたんだろう。
怪物は低い呻きを上げて、倒れそうになる身体を支えようと数歩後ろに下がる。
怪物の力が緩み、腕の筋肉に固定されていたデュランダルが解き放たれ、クロームは未だに掴まれたままの大剣を強引に引き戻す。
肌に食い込んだ刀身の細かい歯が怪物の指の肉を削り落とし、筋肉繊維を引き千切っていく。湿りながらも鋭利な音を上げて、血液が吹き出す。引き抜かれていく大剣の歯には肉片がべったりとこびり付いていた。
怪物が肉体の一部を確かに欠損した痛みに絶叫する。指の肉は大きく削がれ、骨まで削りきられたのか、指先は僅かな肉と皮だけでぶら下がっているような状態だ。およそ、手としての機能を果たせないほどの重傷であろう。
大剣を振り抜いて、こびり付いた血肉を払ったクロームはさらに大剣を振り上げ、左の肩口に刀身を叩き込む。しかし切断には至らず、怪物の分厚い肉に刀身の根本部分がめり込んだだけだ。
「なるほどな……この剣の使い方、心得たぞ」
クロームは不敵に嗤い、僅かに腰を屈めると、剣を全身の力で地面と水平に引き抜いた。
再度の絶叫――ブチブチと筋肉繊維が千切られ、血飛沫の肉片が飛散し、ガリガリと骨を削ぎ落としていく。
振り抜かれた剣の切っ先からは鮮血が尾を引き、こびりついた肉片が虚空を舞う。
夥しい量の鮮血が怪物の肩から噴き出し、真紅の雨がクロームへと注がれていく。
艶やかな白銀の髪が血に染められ、頬が穢される。頭突きの際に割れた額から滴る自身の血液と絡み合い、細い顎先へと伝っていく。
痛みに呻く怪物の肩から溢れ出る血液は大理石の床に血溜まりを膿み出し、怪物が叩き割った擂り鉢状の亀裂へと染み入る。
大剣は硬い骨を強引に削ったがために刃毀れ――いや、歯毀れしており、最早ボロボロの状態だ。クロームは使い物にならなくなった大剣を未練もなく投げ捨て、両手でデュランダルを構え怪物へと突進していく。
後方に投げられた大剣は使用者の支配下から外れたために存在を保てなくなり、エーテルへと分解されていき光の粒子を撒き散らしながら消失を始める。
雪のように降る光の中をクロームは疾駆し、激痛に肩を押さえて荒い鼻息を漏らす怪物へと斬りかかる。
怪物も反応し、対処しようとするが、両腕がもうほとんど使い物にならない状況だ。大した抵抗もできず、ただ指が落ちかけた右腕を前に出すことしか出来ない。
それで、どうなるっていうんだ?
クロームの剣が閃きとなり、一瞬にして剣を振り抜いた。剣の今ある場所と、一拍前まであった場所――その直線上には怪物の太い腕があった。屈強な腕、一度は斬り落とし損ねた腕だ。
しかしその肘部分に紅い線が通っていく。神速の太刀筋に、行動の終端が生じた後に、行動の結果が生じる。取り残された結果が現在に追いついていく。刹那、鮮血が噴き出し、切断された腕が虚空に舞い上がる。
怪物が吠える。激痛に、怒りに、目を細め、唾液と鮮血を撒き散らし、怪物が使い物にならない両腕で暴れようとする。しかしその行動さえも、すでに結果に引き離されていた。
襲いかかろうとした人型はすでにそこにはなく、怪物の前には何もなく、おそらく瞋恚の炎を宿した双眸が見つめようとしたモノは、すでに遙か後ろで剣を納めていた。
観客である俺でさえ、その行動は見えず、結果はまだ追いついてさえいない。
「死に切れ。獣が」
腕から飛び散った鮮血が降り注ぐ中、さらなる鮮血が溢れ出した。
結果の到来だ。
怪物の全身に裂傷が走り、全身から真紅が噴出し、床を濡らし、中空へと舞い上がり、そうしてまた血溜まりへと落ち汚れきった波紋を広げる。
土砂降りの命。死という事実が降り注ぐ。
そうして怪物の上半身と下半身がズレる。まるで最初からそうであったかのように自然と結合が解かれる。左腕が落ちる。右肩が外れた。右の脚が緩む。左足首が残される。頭部が、胴体が、脚部が縦に真っ二つに別れを告げる。それだけじゃない。全身が部位毎に斬り分けられ、手という物体は、掌と指へ、脚という物体は太股、脹ら脛、足へ、さらに細分化されていき、そして名称もないただの肉片へと成り果てていく。
全ての名札が肉片へとすり替わる。
肉体は肉となり、体という概念は斬り捨てられ、倒れることもできず、怪物だった無数の物はただ床に広がる血溜まりへびちゃびちゃと落ちていった。
「亡骸を残す価値もない」
果たして、ベラクレート卿だった怪物は、怪物だった肉片となり、その面影は完全に消え失せた。
クロームは血に濡れた髪を振り、顔を滴り続ける血を服の袖で拭うと、ゆっくりと息を吐き出し俺に目を向けた。
「おい、そこの空気」
「なんだよ」
「返事をするということは認めたのだな」
「うるせぇよ!」
しまった。つい返事をしてしまった。
いや、自覚がないわけではないけどよ……。
悔しいけど、俺、マジで空気。ただ見てるだけだもんな。展開早すぎて解説とか、驚きの声を上げることさえできなかった。
「全く……まさか、元豚の、いや元人間に対してもお前が無力だとはな」
「しょうがねぇだろう。俺の銃は一般人用の武器なんだからよ。お前の剣とかとは違うんだよ」
俺の銃なんてちゃんとしたルートを使えば、いくらでも代わりを用意できちまうようなもんだ。世界に一つしかない伝説級の聖剣とは比べものにならない玩具である。
この銃はあくまで威嚇用。普通の生き物相手ならまだしも、魔物などに対してはほとんど無力だろうな。
「今の貴様、ベラクレート以下だぞ」
「うっ……そう言われると悔しいな……。いや、でも、あれをベラクレートと同じものとして扱うべきなのか?」
最早、完全に別物と考えるべきじゃないか?
力も、硬さも、全然違うだろうし。なんかもうベラクレートとして見ることは難しそうなんだが。
クロームは顎の先に引っかけて、少しばかり考えに耽る。
「……大きくて、のろまで、バカで、醜い……豚……。ベラクレート卿だ」
「……ああ、うん。まあ、ベラクレート卿だな……」
最初にこの屋敷に来た時には大層礼儀正しく話していたというのに、内心ではそんなことを思っていたのか……。
こいつは本当に顔に出ないから分かりづらいな……。
「まあ、いい。これで邪魔者はいなくなった。後は……」
クロームは鞘から剣を引き抜き、切っ先をホールの最奥へと突き付ける。その先には踊り場で欄干に腰を下ろして、足をふらふらと振っているトリエラの姿があった。
「貴様を斬り刻むだけだ」
トリエラは俺達を俯瞰しながら、煙管を指先でくるくると廻しながら、何か思案に耽っている。
「んー、こうも催し物を全てやり過ごされるとつまらないですわねぇ。勇者として、もう少しショーを盛り上げようという気概はないんですの?」
「何を言っているんだ? クライマックスはこれからだろう?」
にやりと、クロームは唇の両端を吊り上げる。誘われるように、トリエラも子供とは思えない不敵な笑みを顔全面に塗りたくった。
どこまでも歪で不気味な同調だ。
こっちの背中まで冷たくなってくるな……。
「分かっているじゃあありませんの。うふふ、さすが勇者様、エンターテイナーですわ」
どうにもご満悦らしく、トリエラは赤らめた頬に手を当てて、うっとりと微笑む。一体何にそんなにときめているのか解せない奴だ。
「それは――光栄だな!」
刹那、クロームは地面を蹴り疾駆していた。勇者は一陣の銀風となり、トリエラとの距離を瞬く間に縮めていく。俺もまたクロームの後に続くように走り出したが、クロームとの距離はどんどん引き離されていく。速すぎだろ、あいつ……。
トリエラの周囲には、クロームを迎え撃つように紫蝶の群れが湧き上がる。トリエラ自身もやり合う気満々らしく、何の躊躇いもなく踊り場からホールへと飛び降りた。
少女の細い肢体が大理石にふわりと降り立った頃には、クロームがもう目前にまで迫っている。
咆哮を上げ、クロームがトリエラへと飛ぶかかるようにして斬りかかった。
鋭利な金属音がホール全体に響き渡る。あまりにも鋭く冷たく荒々しい音だった。その音を俺が認識した頃にはクロームの体が宙を舞っていた。
クロームは空中で身を捩り、体勢を立て直し、四肢で地面を滑るようにして俺の前方に着地する。口に咥えていた剣を手に持ち直し、僅かに歯噛みしたかと思うと引き絞られた弓から放たれた矢のように、クロームは突撃を始めていた。
再度の金属音。今度はクロームが宙を舞うことはなく、金属同士を打ち合わせ火花を散らしている。斬り結んでる相手は本当にトリエラか?
さっきよりも激しい剣戟だぞ、音から察するに。
最早何合目かも分からない殺人器同士のぶつかり合い。一際強い音と共にクロームが弾き飛ばされ、すぐ側まで迫っていた俺の隣にゆっくりと着地する。
「そこまでだ。勇者くん」
聞き覚えのない声が高らかに言い放つ。ホールによく響く、言葉一つひとつがはっきりとした年若い男の声だ。
トリエラの前に、そいつは行く先を阻むように悠然と立っていた。背丈は高く、コートを羽織っているのか影の下方は広がっていてトリエラの姿がすっぽりと後ろに隠れてしまっている。左手には両刃の剣をぶら下げていた。
影はまるで馴染み深い帰路につくようなゆっくりとした足取りで、静かに歩き出す。こつこつ、と小気味のいい靴音を鳴らし、少しずつ俺達に迫ってきていた。
「貴様……何者だ……!」
突然の闖入者に、クロームは苛立った声で問いかける。しかしその答えは、尊大な哄笑だった。全てのものを虫のように見下す、傲慢な笑声だ。
「何者? あー、何者だと? 勇者たる者、倒すべき相手の顔くらい覚えていてはどうだ? これは傑作じゃないか、勇者くん」
近付くにつれ、影の全貌が明らかになってくる。最初に見えたのは金色の髪――ホールの隅で燃え上がる炎に照らされ、その髪自体が燃えているかのように揺らめいていた。肩に引っかけた紅い厚手のガウンには金糸で豪奢な刺繍が施され、盾を模した紋章が施されている。ガウンの縁にも細かい飾りがあり、一見して高級品と分かる豪華絢爛な衣装だ。
対して、内側に纏っているものは、黒いスラックスに、真っ白なワイシャツ、黒いベストと、ごくごくありふれた服装だ。ただしどれも高級品であることはよく分かる。
服装があまりにも一般的なために、左手で力なく持った剣はどう見ても不釣り合いだった。よく見れば、その剣は視界の不明瞭なここでも分かるほどに刃毀れをしたなまくらで、鈍色の剣身は炎に照らされても輝くことがない。
まるで数世紀前の遺物として掘り起こされたような剣だ。使い古され、剣としての役目を全く果たせないように思える。
露わになった顔立ちも端整で、サファイアのような蒼く透き通った瞳が真っ直ぐに俺達を見つめている。唇は嘲るような笑みで歪んでおり、常に人を見下しているのがよく分かる。
……整いすぎた顔立ち、傲慢な笑み、挑むように真っ直ぐ相手を見つめるサファイアの瞳――その顔立ちに、俺は見覚えがあった。その顔を、俺は写真で見たことがある。
写真の中のこいつは人混みの中を、今のように尊大な笑みを浮かべながら、悠然と人を避けることもなく歩いていた。
「カルフォル……」
俺は掠れた咽喉からその名前を絞り出す。確かめるように、その痕跡をなぞるように紡いだ。
俺の記憶から掘り出された名前を聞いて、そいつはにやりと不敵に嗤う。
「ほう。俺の名を呼ぶか。ただの阿呆でもないようだな。トリエラ、手は出すなよ」
否定はしない。どうやら間違いではないようだ。
こいつの顔はしっかりと記憶している。間違うはずもない。
その顔は世界中に知れ渡っている。覚えていない方がおかしいというものだ。
《魔族》の首魁――カルフォル。その悪名を知らぬ者はいないだろう。こいつこそが人類種を破滅に導こうとしている張本人であり、世界に対する反動家であるのだから。
こいつの悪行は数が知れない。きっと今までこいつがやってきた反社会的な行動を列挙すりゃその辺の百科事典を越える厚みになることだろう。
反動勢力の首魁が今、この場所にいる。俺達の目の前に。勇者の目の前に、倒すべき敵がいる。
ならば、取るべき行動は一つ。
最初に動き出したのはクロームだった。床を踏み締め、飛翔するようにカルフォルへと肉薄する。突然の接近から放たれる抜き打ちの斬撃。完全なる不意打ちであるはずのそれに対し、カルフォルは動じることもなく逆手に握ったなまくらの剣をゆっくりと構える。ただ腕を持ち上げたようなさりげない仕草、およそ力を込められていないだろう動作だ。剣もなまくらであり衝撃を受ければいとも容易く砕け散ってしまいそうなほどに脆弱だ。
だというのに、伝説の聖剣と錆びきった鈍剣はぶつかり合い、拮抗し、クロームの体が弾け飛んだ。
「クロームッ!」
叫び、俺はカルフォルへと引き金を引く。頭部に向かって放たれた銃弾を、カルフォルはふらりと少し身を傾けるだけで避ける。その表情は涼しげで、危機感など何もない。
矢継ぎ早にカルフォルへと発砲するが、その全てをカルフォルは最低限の動きで避けながら、俺へと歩み寄ってくる。
「他愛ないな。実に他愛ない。まるでそよ風だ」
胴体へと飛来する銃弾を容易く剣で叩き落とし、カルフォルは次の瞬間には俺の目の前へと急接近していた。
早い――!?
なんだよ今の踏み込みは……!?
クロームと同等……? いや、それ以上じゃねぇか……!
「《魔族》を見くびってもらっては困るぞ? 小僧。そんな玩具で、俺を殺せるとでも?」
にやりと嗤い、カルフォルはゆらりと剣を持ち上げる。
まずい……やられる……!
本能が察知する。殺される。
殺意などまるで籠もっていないようなこいつの悠然とした一挙手一投足を知覚する度に、死の気配が明瞭になっていく。
こいつは俺を殺そうとしている。
穏やかな動きのまま、尊大な笑みのまま、それでもなお俺を殺しにくる。
否が応でも殺される。
吹き抜けたそよ風に全身を細切れにされるような幻覚。それは間違いなく事実なんだろう。
それでも俺はせめて死から逃れようと、後ろへと飛び下がる。意味なんてない。こんな行動すぐに詰め寄られておしまいだ。
カルフォルのなまくらが俺に向かってゆったりと振るわれ――横合いから飛び込んできた剣がカルフォルの剣を弾く。
手からは離れずとも、カルフォルの剣の軌道は逸れ、俺の前髪だけが掻っ攫われる。
「カルフォル様!」
トリエラの絹を裂くような叫び声が耳朶を叩く。次いで横殴りの剣の雨がカルフォルへと降り注いだ。カルフォルは数歩飛ぶような動きで下がり、剣の雨を避ける。俺の足下に無数の剣が突き刺さり、逃げたカルフォルを追って、後続の剣がカルフォルへと襲いかかった。
自身を正確に狙ってくる剣のみを弾き、弾ききれないものは避け、カルフォルはその全てを回避していく。
「ほう、《旧い剣》か。変わらんなぁ、勇者は」
剣を持っていない右手を前方に差し出し、カルフォルは囁くように言葉を紡ぐ。詠唱――? 魔術か……!?
魔導陣の組成を行わずして、カルフォルの周囲に不可視の結界が展開され、クロームの放った剣の雨全てを防ぎきる。
弾け飛んだ剣がエーテルとなって飛散し、さらに弾かれた剣がまたエーテルを散らし、光の粒子がカルフォルの姿を覆っていく。
「やったか……!」
「いや……まだだな……」
俺の隣にいつの間にか着地していたクロームが俺の希望的観測を即座に否定する。
まあ、分かりきってたことだけどさ……。
俺は今のうちに、まだ弾丸が残っている弾倉を破棄し、新しい弾倉をベレッタへと叩き込む。
「まあ、なんだ……さっきは助かったよ」
こいつの一撃がなかったら、俺は間違いなく死んでいただろう。悔しいけど命の恩人として感謝すべきだよな……。
「ふん、お前が生きようとしなければ、死んでいただけのことだ」
「……は?」
そういや、あの時飛んできた剣って、俺が下がる瞬間までいた場所だよな……。てことは、俺があの時下がらなかったら、間違いなく俺殺されてたよな……。
「……お前、俺を殺す気だったのかよ」
「知らんな」
いつもと変わらない仏頂面でふんと鼻を鳴らし、クロームは剣を構える。
「来るぞ」
戦闘の再開の気配を感じ取り、クロームが薄れていく光の粒子を睥睨する。あれでやられるような奴には思えない……。
ごくりと唾を飲み、俺は光の中からカルフォルの姿を見つけようと目を細める。
引き金にかけた指に力が籠もった。
来る……。いつ、来る?
「もう、来たぞ?」
背後から声が聞こえて、俺とクロームは振り返――クロームの姿が視界の端から消える。次の瞬間には俺の目の前にカルフォルの右手があった。
頭の五箇所に鈍い痛み、顔面には生暖かい感触……。
頭を掴まれたのだと理解するのにそう時間は要さなかった。掌が顔面に押しつけられ、頭にかけられた五指がめり込んでくる。
首が伸びるような感触。抵抗することもできず、足の裏が地面から離れた。
体を持ち上げられている……。誰に? 決まっている。カルフォルにだ。
「ハハハ! 他愛ない。他愛ない。児戯よ、児戯。実に張り合いのない余興よ。弱すぎるぞ。これで勇者一行? ハハハッ! 剪定の魔女も面白いおふざけをするものだなぁ」
上機嫌にカルフォルは高笑いを上げる。
クソ……! なんだよ、この実力の差は……!
どうしてこんなに届かない……!?
目の前に倒すべきがいるというのに、手も足も出ないなんてどういうことだ!?
馬鹿げてる……こんなの馬鹿げてるだろう……!
なんでだよ……! なんで何一つ及ばない……!
俺だけじゃない……クロームさえもが及ばない。
「カルフォルッ!」
クロームの声が耳を劈く。俺の体が、正確には俺を持ち上げているカルフォルの体が僅かに動き、金属同士がぶつかり合う激しい音が響き渡り、クロームの呻く声が聞こえた。
たったそれだけ、俺が僅かな揺れしか感知できないようなほんの少しの動きでカルフォルはクロームの一撃を受け止め、返した。
「弱い弱いッ! 弱すぎるなぁ! トリエラよ」
カルフォルの哄笑が耳に叩き込まれる。
クソが……クソが……!
あんな小娘一人にいいようにされて、今度は首魁の遊び相手にしかなれていない。
勇者一行じゃねぇのかよ……俺達は……。
どうして、こんなに勝てる気がしない……。
「カルフォル様? このような雑魚どもでは余興にもならないのではないでしょうか?」
「ふはは、そういうでない、トリエラよ。なかなかにいい見物だぞ? 泥臭く、地面を転がる、無力な勇者『様』というのはな。フッハハハッ!」
遊び相手以下だっていうのかよ、俺達は……。
悔しさに歯噛みし、俺は右腕をゆっくりと上げる。握ったベレッタに力を込める。
このまま、やられるだけでたまるかよ……。
引き金に指をかける。
目を覆われているため、何も見えないが、それでもこいつの胴体がある場所くらいならなんとなく分かる。
ここで目に見えた抵抗をすれば本気で俺を殺すかもしれない。それでもこのまま終わるわけにはいかねぇだろう……?
横っ腹に風穴開けてやる。
決意を込めて、俺は引き金を引き、至近距離からカルフォルの腹部に発砲する。
渇いた銃声がホールに反響した。そして尾を引く間もなく、甲高い金属音が突き刺さる。
……弾かれた……!
「しかし呆気ないなぁ、トリエラ。あまり楽しむこともできなかったのではないか?」
「そんなことありませんわ。ちょっとしたことで感情的になって、とても面白かったですわよ」
……おいおい……なんだよ、それ……。
俺のありったけの抵抗は、こいつらの雑談のネタにもならないっていうのかよ……?
ふざけんなよ……。まるで俺達が蚊帳の外じゃねぇか。
刹那、頭にあった圧迫感が消失する。支えを喪い、体がふわりとした浮遊感に襲われる。同時に脇腹に衝撃――胃袋にまで響く一撃に胃液が逆流し、吹っ飛んだ俺の体は地面をごろごろと転がった。
全身に熱量を持った痛みが宿り、食道を迫り上がってきた胃の内容物に頬が膨らむ。
抑えきらず、俺は大理石の床に嘔吐物をブチ撒ける。ぼろぼろと溢れ出てくる、消化途中の食い物ども。咽喉を通る固形物の感触が不快で、舌に触れる胃液の不味さに、また吐き気が襲ってくる。
最後には胃液だけがぽたぽたと口から垂れ、苦みに顔が歪む。
クソ……胃の中が空っぽだ……。
嘔吐に体力を消費して、体が重い……。頭にも靄がかかったようで、意識がはっきりとしていない……。
「お似合いじゃあないか、ええ? 身の程を弁えている」
ふざけんじゃねぇ……クソ……。
汚れた口元を服の袖で拭い、いつの間にか俺の目の前にきていたカルフォルを見上げる。地面に這いつくばった俺を、カルフォルは愉快そうに眺めていた。
「いい目だ。実にいい目だ。素晴らしい」
ふわりとカルフォルが左手に持った剣が浮き上がる。無論比喩だ。なまくらはカルフォルの手に握られたままだ。
「お前を殺せば、少しは面白くなるだろうかな?」
……ああ、そういうことかよ……。
ふざけやがって……。
カルフォルがそっと剣を振り抜こうとした刹那、視界の端から紅い突風が突き抜けた。
「うおらああああああああああ!」
体の芯から搾り出すような声を上げ真紅は、カルフォルへと突撃していた。革の手袋を嵌めた拳が剣とぶつかり合い、鬩ぎ合う。さらに左腕が下方から突き上げるようにカルフォルの脇腹へと襲いかかった。
カルフォルはゆったりと後ろに下がり、紙一重で拳を避ける。
さらに背後から銀の煌めき。カルフォルは即座に振り返り、斜め上から降下しながら斬りかかったクロームの剣戟をなまくらで弾き、回し蹴りをクロームに叩き込む。
さらに半回転した体をさらに半回転させながら、拳を振り抜いた体勢のままのセシウを剣で薙ぎ払う。体を限界まで反り返らせ、胴を狙った斬撃をくぐり抜けた。そのまま反り返った先の地面に手をつき、セシウは逆立ちするようにして、畳んだ脚を持ち上げ、勢いよく伸ばして蹴撃を放つ。そっと自身の身体の前に差し込んだ剣で蹴りを受け止める。靴の裏に刃が入り込んでいく。
セシウは地面についた腕をぐっと伸ばした勢いで頭と同じ高さまで飛び上がった。くるりと回ったセシウは上空に浮いた状態のまま体を捻り、カルフォルの涼しげな顔面に爪先をめり込ませようとするが、それも少し体を反らせることで躱される。
鼻先を岩をも砕くセシウの蹴りが通り過ぎても、カルフォルは一切表情を崩さない。
宙に浮いたままのセシウはそれ以上身動きを取ることができない。カルフォルの右手が拳となる。
「しまっ……!」
セシウが自分の失態を悔やむよりも早く、カルフォルの手が引き締まった体を殴り飛ばしていた。さらに背後からクロームが襲いかかるも、振るわれた剣をカルフォルは剣で受け止める。
さらなる一閃をカルフォルは飛び下がって避けきった。しかし空を裂いたクロームの肩口から銀が煌めき、精製された剣がカルフォルへと飛ぶ。
不意をつかれたはずのカルフォルは焦ることもなく紙一重で剣をやり過ごす。休みなく放たれるクロームの斬撃と、それに連動して放たれる《旧い剣》――その全てをカルフォルは必要最低限の動きだけで回避していくばかりだ。
「勇者勇者勇者、使い古された名前だ。風化したなぁ、勇者は」
「黙れッ!」
「ふははは! 黙らせてみるといいッ!」
横合いから突進してきたセシウの攻撃をまたもやカルフォルは避ける。拳を突き出したまま目の前を通り過ぎる隙だらけのセシウに対し、カルフォルは右脚を振り上げ、踵を晒された背中へと容赦なく叩き落とす。
「ガハッ!」
詰まった声が漏れ、セシウの体が反り返る。地面に倒れ込んだセシウの体が微かに震え、一拍置いて激しく咳き込んだ。さらにクロームが剣を振り抜いた刹那、飛来した剣をなまくらで弾き、隙だらけのクロームを蹴っ飛ばす。
吹っ飛んだクロームの体が大理石の床に叩きつけられ、ボールのように弾み、やがて地面を転がって静止する。
背中の痛みに呻きながら、何とか立ち上がろうとするセシウの背中をカルフォルは踏みつける。痛々しい悲鳴が俺達の耳を貫いた。その悲鳴の中で、カルフォルは高らかに笑い声を張り上げる。
「弱い弱い弱い! 実に弱い! どうしようもないほどに弱い。最早、文句のつけようのない弱さではないか! 素晴らしい弱さだ!」
ふざけんな……ふざけんな……ふざけんなっ!
こんなモン認められるか……!
俺は重い体をなんとか起こし、ふらつく足取りでなんとか立ち上がり、俺は手に収まった銃を握り締める。
「クソがぁっ!」
何が何でも……やってやる……!
「カルフォルッ!」
叫んだ。
叫んで注意を引こうとした。
しかしカルフォルは決して俺を見ようとしない。地面に倒れ込み、痛みに呻きながら立ち上がろうとするクロームだけを見ていた。
俺なんて眼中にないんだろう……。
それでもやってやる……!
やらなくてどうする……!
銃を撃つ。走りながら撃つ。
避けられた銃弾がカルフォルの前髪を裂くが、カルフォルは何も気にしてなどいない……。
さらに銃弾を放つが、カルフォルはほとんど身動きなどせず最低限の動きで避けきり、それでは避けれないものは剣で弾き返す。
大層余裕そうじゃねぇか……。
「うるさい虫だ」
呟き、カルフォルが剣を振り抜く。空を裂いた剣。それは単なる威嚇だと思った。
しかし、それが勘違いであることにすぐ気付くべきだった。
威嚇とは捕食者のすべき行動ではない。威嚇は喰われる側の抵抗だ。カルフォルが俺に対して威嚇をする意味など何一つない。
そして、何より、カルフォルは今初めて、剣を振り抜いた。何故、その事実に気付けなかったのか……。
いや、気付いた頃には、俺の胸元から鮮血が噴き出していた。
「ガッ!?」
「ガンマッ!」
斬られた……?
そんな馬鹿な……?
あいつの剣は俺に届いていなかったはずなのに……。
違う。届いてないのは剣身だけ。斬撃は確かに俺に届いていたのか……。
激痛に視界の端が紅く染まる。それがどうした……。
俺は倒れそうになる体をなんとか踏ん張って支え、止まってしまいそうになるのをなんとか食い止め、走り続ける。
カルフォルへと突撃していく。
さらにカルフォルが剣を振った。
激痛に襲われる。どこかで血が噴き出した。
胸元とあとどっかにできた裂傷が熱を孕み、溢れ出した血液が服を濡らし、体に張り付く。一歩踏み出す度にびちゃびちゃと大理石に何かが落ちていた。だからなんだってんだよ……。
紅く染まった視界でなお、カルフォルを中央に捉える。
カルフォルは実に愉快そうに笑い続けていた。その余裕な笑みを絶対に崩してやる。
「うおおおおおらああああぁぁぁぁぁ!」
セシウのように叫ぶ。全身から声を絞り出す。前のめりに倒れてしまいそうになる体を何とか支え、俺はカルフォルへと殴りかかる。
目の前に迫ったカルフォルが剣を構える。拳と剣がぶつかり合う。刃に拳が触れた。その先に起こりうる事実なんて分かりきっていた。
痛みが雷のように脳髄へと突き刺さる。意識が真っ白になる。真っ赤に? 真っ黒に? 何色に? もうなんでもいい。
手の甲にまで走った紅い裂け目を無視し、俺はさらに左の拳をカルフォルの胴体へと叩き込んだ。
渾身の、力を、込めて、カルフォルの、腹部を、抉る。
それが俺の中のイメージだった。
しかし、現実は違った。
俺の拳は確かにカルフォルへと触れた。
触れただけだった。
もう踏み込む余力なく、俺は前のめりに倒れながら、ただ拳をカルフォルの腹部に当てただけだった。
情けない一撃だった。
子供一人倒せないような拳だ。
あまりにも無力すぎる。
「……ふん、俺に触れるか」
何かがうるさい。ああ、俺の呼吸だ。荒れた息が耳障りだ。もう痛みはなかった。ただ全身に火傷しそうなほどの熱量がある。
何かが燃えているんじゃなかろうか?
視界は真っ赤に染まり、ぼやけて映っているのはカルフォルの靴だろうか……。てことはその下にあるのはセシウの体か……。
項垂れたまま頭を上げる気力もない。眼球も焦点を合わせることをサボってんだ……無理もねぇ。
突き出した拳に触れるカルフォルにほとんど寄りかかってる状態で、俺はまるで吊された人形のように全身から力が欠如していた。
「なんと、情けない、な」
くすりと頭上でカルフォルが笑った。笑われて当然だよな、こんな有様……。
ふと、拳にずっと当たっていた感触が消え失せる。支えを喪い、俺の体は一気に傾斜していく。
持ちこたえようとしても体に全然力が入らない。なんだこれ……。やけに頭がぐらぐらするな……。
もう、なんか、全身のありとあらゆる器官が活動を停止しているみてぇだ。
心臓の音だけがやたら耳障りである。
あー、やべぇ……倒れる……。
大理石に倒れ込む衝撃を覚悟する。何の意味もないけど、心構えだけは整える。
だっていうのに、俺の体は何か柔らかいクッションのようなものにそっと受け止められた。
なんだこれ……。
「トリィ、帰るぞ。余興はこの辺でいいだろう」
「あら? もうよろしいですの?」
「十全だ。悪くない。これはいい弱者だぞ、トリィ」
カルフォルの高笑いが聞こえる。聞こえる声は全てが水底から聞くように曖昧だが、それでもこいつの高笑いはやたらムカつくな……。
「待てっ!」
「勇者くん、勝ち目のない戦いを挑むのは勇敢なことではない。無謀だ。勇者とは勇敢でなければならない。仮にも勇者の肩書きを背負う以上、勇者くんも勇者となれるように精進し給え。フハハハハッ!」
……弁えてやがるな、本当。
悔しいが、あいつの言うことは正しい。
まさか敵から一番賢明な選択肢を提示されるとはな……。
「行くぞ、トリィ。目的は十分に達している。面白い余興にもなった。何一つ不足はない」
「はい、カルフォル様。帰って、ティータイムと致しましょう」
「ふむ、悪くないな」
声が遠ざかっていく。クロームも、今戦ったところで勝ち目がないことは分かっているのだろう。それ以上呼び止めることもせず、また金属音が聞こえない以上、斬りかかろうともしていないんだろう……。
「それでは勇者くん、そしてその仲間達よ。時が巡ればまた会おう。次までには殺し甲斐を身に付けておくんだな」
薄れいく意識、深い水底に落ちていく思惟。
俺は天井に空いた大穴から見える、上階の天井に描かれた女神を見つめていた。竪琴を持ち、穏やかに微笑む女神。こんな悲劇の夜にさえ女神は笑っていた。
俺達の苦悩も悔悟も悲哀も激情も、全てを見通してなお慈母的に笑っているようなそいつに意味のない苛立ちを抱いてしまう。
神よ、何故?
正義は分かりきっているのに。
勝利の女神はどうして彼方へ微笑む?