#A757A8 Th―群咲の魔女―
〆
吸い殻を集めたような重苦しく、汚れきった雲に覆われた低い空の下に生まれて、とこしえの闇の沼の底には荒廃した景色が広がっていた。
恐らく民家であったであろう建物はそのほとんどが崩壊し、瓦礫の山と成り果てている。木々は朽ち果て、草花は枯れ、大地は腐敗しきっていた。
ほんの数時間前には緑豊かな村があったとは思えない惨状だ。
そして、数百年先の未来でもこの場所が元の姿を取り戻すことは不可能なのだろう。
道端には身体の一部分を欠損した人の亡骸が当然のように転がっている。最早、死体を視界に入れない方法は目を閉じること以外にないだろう。それほどまでに死が溢れかえっていた。
地面には血が染みつき、肉片や骨も至る所に散乱している。
見飽きるほどの死。
慢性的な刺激は脳の感覚を麻痺させ、理性を変容させる。
凄惨な亡骸を目にしても心が痛まないようになってくる。
人はそれを狂う、というらしい。
狂わなければ、異常になってしまわなければ、自身の心が保たない場所というものが、この世界にはある。現実を直視することをやめれば、ひとときでも異常な価値観に身を委ね、世界を曲解しなければ心が壊れてしまう。
理性の混濁とは、心を守るための防衛本能なのだろう。
建物のいくつかは炎に包まれ、こんな退廃した闇を照らす数少ない灯りとなっていた。焼けた屍肉の臭いが鼻をつく。炎の燃え盛る音に混じって、木材の弾ける音が耳を叩く。
老人も若者も、少女も少年も、青年も娘も、老婆も老翁も何もかもが死に果てた。惨たらしく殺され、屍肉を喰らわれ、死んでいった。
最早生きている者なんてどこにもいない。世界の終末を顕現させたような惨状の中、ただ一つ息をするものがあった。
長い黒髪を揺らし、その人影は死体の傍らにしゃがみ込んだ。
燃え盛る炎に照らされた細い肢体は何にも包まれておらず、魅惑的な肉体を夜気に晒している。理想的な丸みを帯びた肉体から、人影が女性であることは明白であった。
橙色の柔らかな明かりに照らされたハリのある絹のような素肌は深い陰影を作り、官能的な魅力を醸し出していた。
彼女は両腕を千切り取られ、心臓を抉られた老翁の亡骸を見つめ、柳眉を下げた。悲しみを湛えた目を細め、深い皺の刻まれ弛んだ頬にそっと手を当てる。
触れた頬は冷たかったのだろう。
「すまない。私は望んでいなかったという言い逃れはしない。救おうとしたなどという偽善も言わない。私は両方の意味で無関係ではない。私は貴方達を皆殺しにしようとした当事者であり、また貴方達を救おうとして救えなかった失敗者だ。どちらの意味においても、貴方達に許される存在ではない。恨んでくれ。出来る限り深く呪ってくれ。叶うならば私だけを」
自分に言い聞かせるように言葉を紡ぎ、彼女――キュリーは絶望に見開かれたままの老人の瞼を優しい手つきで下ろした。
その言葉を聞くことのできる存在はもうこの場所には存在せず、またその想いを受け取れる心もこの場所にはない。
例えキュリーの言葉が、想いが、誰かに向けられたものであっても、それが届かない以上、結局独り言でしかないのだ。
「弔うことはしない。できない。私にはその権利がない。貴方達の死を悔やみ、哀れみ、悼むことのできない私がするべきことではない。寒いだろうが、今は耐えてくれ」
独り言にしかなれない言葉に想いを詰め、それでもキュリーは語りかける。無論、届かないことなど知っての行動だろう。
死に溢れかえるこの場所で、彼女はいくつもの亡骸に同様の施しを与えただろうか。否、これは施しなどではなく、弔いでもなく、ただ処しているだけにすぎない。
ある状況に於いて、それに応じた行動を取っているだけに過ぎない。
意味も価値も、彼女自身が造り完結させるしかない。
「随分と暇そうじゃあないか、キュリー」
キュリーが一頻り黙祷を捧げ、立ち上がった時、背後から声が投げられる。特に予想外の出来事でもなかったらしく、キュリーは肩を震わせることも動揺することもなかった。
「暇ではない。死者の数を把握しているだけだ」
振り返らずに答えるキュリーに、はんっと誰かが笑う。年若い女性の声音だった。僅かにハスキーがかかったキュリーの声に比べると遙かに透き通っており、声の高さもあってか幼ささえ感じさせる天使のような声だった。反面、口調は男勝りというよりも男が話しているようなものである。
「骸を数えても眠くなるだけだろう。それになんら意味もありゃしない」
「情報は何にも勝る宝だ。いつどこで、如何なる情報が必要になるのか分からないものだ」
憐憫一つ抱いていないと思われる背後の声に、キュリーは眉根を寄せため息を吐き出す。その声は淡々としており、先程までの傷ましさはどこにもない。
「へぇ、そんなら俺ぁ、最後に『る』が付く言葉を暗記することにするかね」
「はぁ?」
「『はぁ?』じゃあないんだよ、『はぁ』じゃ。分かるだろ? しりとりだよ、トリィとした時に勝てるようにな」
「何を下らないことを……」
キュリーは肩を竦めて、もう一度ため息を吐き出す。最早慣れているような対応だった。
「ちなみに『る』で始まる言葉よりも『む』で始まる言葉の方が百ほど少ないぞ」
「あん? マジかよ。俺が今必死に覚えてる途中だっていうのに。そういうのはもっと早く言いやがれよ!」
きっと今頃、声の主はキュリーの背後で頭を掻き毟っているのだろう。まるで日常と何も変わらないような素振りで。
戯れるようなことを言いながら、決して振り返らないキュリーの目は鋭いものであった。
「私がかつて使っていた辞書によると『る』で終わる言葉は一万を越えるが、『ぬ』で終わる言葉は三千ばかり。どちらも同様の音で始まる言葉よりも多いのだから、『ぬ』で終わる言葉を全て覚えた方が賢明だ。トリィがこの世には存在しない新世代の言語を習得しない限り負けることはないだろう」
「ふぅむ……なるほどな。さすがは言霊の魔術師といったところか?」
「この程度で褒められるほど浅い名ではない」
肩を竦め、キュリーはぽりぽりと指先で頭をかく。どうにも調子の狂う相手だ。
真面目に会話をするのが時間の無駄であることは、随分と昔に理解していた。
適当な受け答えをしている方が遙かに楽である。
「それにしても、トリィの召喚獣の姿が見えないな。珍しく大人しい」
「いや、そういうわけではない。ただ単に致命傷を受けてエーテルに戻っただけの話だ」
「致命傷? 全てか? 人間風情にそんなことができるとは思えねぇが……」
考え込むように唸りを上げる背後の女性の声に、キュリーはくすりと笑った。
「なぁに、驚くことはない。勇者一行の仕業だよ」
「勇者――ああ、クローム、か。ふむ、クローム、懐かしい名前じゃあないか、へぇ」
特に驚いた様子もなく、声の主はくすくすと笑う。尊大にその存在を一笑に付する不遜さに、キュリーの唇の両端も吊り上がった。
背後の人物の顔も想像するのは容易いことだ。クロームが話題に上がった時、彼女が見せる顔は決まって嘲り混じりの見下すような笑みだった。今もきっと変わらないだろう。
「今はおそらくトリィと交戦中かぁ? 余興にはちょうどよさそうだな、俺にとっても、トリィにとっても、な」
鈴を転がすような愛らしい笑声を漏らすが、反して語調は冷たく、また不敵なものであった。勇者の力など大したことはない、とすでに結論づけたものの声だ。
しかしそれは無謀でも傲慢でもなく、事実に裏付けられたことなのだろう。万に一つも、勇者は自分には勝てないと、矜持や自尊心を廃した論理的思考の末に結論づけたが故の大胆不敵さだ。
食えない相手である。
「クローム達はベラクレートの屋敷に向かったはずだ。そこにトリエラもいるはず。間違いなくすでに交戦中だろう」
「ベラクレート……んー? 誰だぁ、そいつぁ?」
「私達のパトロンだろう」
呆れまじりに笑いながらキュリーは付け足すが、それでも彼女は思い出せないらしく未だに唸っている。どうやら完全に忘れてしまっているようだ。
興味がないものに対しては一切の関心を寄せない。それは、そういうものであった。
「忘れたのか? あの肥えた豚だ」
「……えーと……あー、はいはい。あの豚か、思い出したような気がしないでもないな」
特に悪びれた様子もなく、彼女はうんうんなどと満足気に言っている。きっと腕を組んで、頻りに頷いているのだろう。そんなところもキュリーには安易に想像できているようだ。
長い付き合いなのだから。
「全く……そんな調子で大丈夫なのか? 交渉事に於いてはお前よりもトリィの方が適任だな」
「まぁな。だからこそぉ、トリィに一切を任せているわけであるんだがな。ま、どの道思い出す必要もない。遅かれ早かれ今夜には過去の人。いや、もう過去形で語っていいかもしれんなぁ」
「それは、どういう意味だ?」
彼女の言葉に不穏なものを感じ顔を上げたキュリーの目は鋭いものであった。
氷のように冷たい眼だ。
「他に養われる、役に立たない家畜の末路というのは決まっているだろうに。殺処分、だよ」
大方の予想はついていたらしく、キュリーは大して取り乱す様子もなく、凍てついた表情のままだ。眉一つ動かさず、その事実を受け止めている。
彼女は彼女で別にそれを誇るわけでもなく、当然のように罪悪感さえ抱いていないだろう。
これもまた分かりきっていたことといえる。
「さて、と……俺も少しばかり暇を潰すとしようか」
「行くのか?」
「勇者の力、どれだけのものなのか気になるだろ? 遊び相手にもならないようなら適当に潰せばいい」
実力を見てみたいと言いながらも、彼女は決して自分が負けるわけはないと思っているようだ。いや、結論付けている。
キュリーも特にそれを咎めるつもりはなかった。その考えを否定することはできないのだから。
「死体を数え終わったらお前も来い。まあ、数えきれる数だったら、だけどな」
そう言って彼女は自身の発言に笑いながら歩き出す。キュリーは彼女を呼び止めるようなことはせず、ただ黙したまま足下に転がった老人の死体を眺めていた。
「ウラヌス、置いていくぞ」
先を行く彼女が振り返らずに呼びかける。その声にキュリーは初めて振り返り、存在を見つけるなり訝しげに眉を顰めた。
分かりやすいほどに不快そうな顔だ。
諫めるように睥睨し、キュリーは敵意の籠もった盛大なため息を吐き出す。
「なんだ、お前。いつからいた」
投げつけられたのは、笑ってしまいそうなほどにぞんざいな言葉だった。