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Alternative  作者: コヨミミライ
1Cr Drudgery―白黒徒花―
25/113

#A757A8 Th―群咲の魔女―

 磔刑の少女。

 生まれたままの無垢な姿で吊された清らかな裸身であれば、それはある種の芸術のようにも見えるのかもしれない。

 そうだったらどれだけよかっただろうか。

 少女の身体は傷だらけで、どろどろとした粘液に塗れ、純潔はすでに奪われた。無垢なんかじゃなくて、ただ無惨でしかない。

 細すぎる身体には不釣り合いなほどに大きく膨らんだ腹部。その内に宿すものは一体なんなのだろうか?

 俺達は、見慣れた少女の変わり果てた姿に、ただ呆然としていた。

 殴打されたのか右の頬は腫れ、左目の上には瘤ができている。唇の端からは一筋の血が垂れていた。

 全身に切り傷や青痣も目立つ。

 ……なんで、どうして、こいつがここにいる?

 なんで、こいつがこんな目に遭っている?

 決まっている。全ては俺達のせいだ。

 俺達の失敗が招いた結果だ。

 目には光もなく、力なく項垂れている。

「勇者様? お気に入り頂けたでしょうか?」

 トリエラの愉悦に満ちた声が俺達の耳へと忍び込む。不快極まりない声に俺は歯噛みする。

 クソ……ふざけやがって……!

 きっとトリエラは俺達と看板娘が親しいことを知っていた。だからこそ見せしめとしてこいつを生け捕りにして、自分の魔物に陵辱させやがったんだ……。

 悪趣味にも程があんだろ……!

「素晴らしいでしょう? 魔物の卵をこの子の胎内に植え付けて差し上げたのよ? 卵はこの子から生命力を吸い上げて、急速に成長していくのよ?」

 トリエラは上機嫌に笑い声を上げる。無邪気な子供のような屈託のない笑い声だ。

 残虐な行為とはおよそ不釣り合いな振る舞いに、背筋がゾクリと鋭く震えた。

 一体、何が楽しくてそんなことをしてるっていうんだ……。

 狂ってやがる、何から何まで……。

「人非人が……! その愉悦に何の意味がある……!」

 クロームが憎悪を込めて毒づく。途端、クロームが上空に展開していた剣達が一斉に震え、トリエラへと放たれた。

 幾百もの銀の閃きがトリエラへと殺到する。それを目前にして尚、トリエラは不敵に微笑んでいた。

 左手で逃げようとするベラクレート卿の襟首を掴み強引に引き寄せ、右手を剣の群れへと掲げる。

「群咲け――紫蝶」

 短い言葉に呼応し、トリエラの足下から紫色の光がぶわりと湧き上がる。

 光? 違うな……あれは蝶か。

 この屋敷に下手人として引き渡された際、応接間にトリエラが現れた時のことを思い出す。やはりあれも、こいつの魔術の一種なのだろう。

 無数の蝶はトリエラの前面を覆うように集まり、羽ばたく度に紫光を放つ鱗粉をバラ撒いている。

 蝶の群れによって築かれた壁に、クロームの放った剣が豪雨のように突き刺さった。

 同時に光が弾ける。

 剣と蝶がぶつかり合う度に閃光が目に突き刺さり、眩い光は暗いエントランスホールを真っ白に染め上げる。

 あまりにも強すぎる光に俺達は目を覆い隠していた。直視していたら視覚が完全にイカれてしまいそうだ。

 目をぎゅっと瞼で覆い、手で光を遮ってもなお、目に襲いかかる光の圧力。網膜が焼かれるような苦しみ。

 放つべき剣も尽き果て、閃光が止むのを待って、俺達は目を開き、トリエラがいた場所へと目をやった。

「ふふふ、バカの一つ覚えのように、同じことばかり――冗長ね」

 今までと同様、やはりトリエラは艶然と微笑んでいた。どれだけ苛烈な攻撃を与えても尚、未だにあの女の身体に傷一つつけることさえできてなどいない。

 側にいるベラクレート卿も無傷だ。どうやら先程の蝶は本当に壁としての役割を果たしていたらしい。

 伝説級の剣を遮る蝶――もう意味が分からねぇな。

 何にしても確かにトリエラの言うとおりだった。これはあまりにも冗長だ。

 今ここでトリエラに対して、如何なるアクションを取っても無意味だ。対策を講じなければ、あの女の魔術を破ることは不可能だろう。

「何故このようなことをするっ!? 何の意味があって村を蹂躙するっ!? 答えろ!」

 クロームが怒鳴り声を上げる。ホール全体に声が響き渡り、残響だけが虚しく尾を引いた。

 トリエラはふふふと不敵に笑い、剣の雨を受けて壊れかけている欄干の肘をついて頬杖をかく。

「なぁぜ? なんの意味? あらあら、勇者様ともあろうお方がなんて愚かな問いをなさるのでしょうね。うふふ」

 柔らかい微笑みだというのに、どうしてか威圧感を覚える。こいつが纏っている雰囲気ってのはどこまでも異質だな……。

「簡単なことですわ。私は、私達は、ただ私達の望みを叶えるために行動し、私達という存在は私達のその行いによって定義される。私達はただ、私達の望みのままに、私達であり続け、私達は私達という概念を確固たるものにする。私達が私達である限り、私達は私達として行動し、私達の行い全てが私達として累積する。だから私達は私達を私達として私達の意志として続ける。ただ、それだけのこと」

「哲学の話はしてねぇんだ。なんでこの村を滅茶苦茶にした? 何が目的だ」

 付き合いきれねぇ。俺の投げた問いに、トリエラはため息を吐き出し、煙管を喫した。

「別に。この村がたまたまそこにあったからそうしただけよ。まあ、目的らしい目的といえば、単に材料調達とでも言うべきかしらね」

「材料?」

 プラナが眉根を寄せ訝しげにトリエラを睨む。それを蔑むようにトリエラはプラナを見下ろしていた。

「あらあら? 察しが悪いわね。魂の蒐集よ、分かるかしら? タマシイ」

 言って、トリエラは俺達に見えるように前方へ広げた左手を伸ばす。何もないはずの左手、いや事実何もなかったその掌に上に、柔らかな白い光が浮かび上がった。

 小さな、球状の光だ。

 真っ白な輝きは幻想的で、つい惹き込まれてしまいそうになる。目を離そうとしても離せない引力。どうしてもその光を見ていたくなる。

 この感覚はなんだ?

 あの光は何だ……?

「エーテル……?」

 クロームが小さく呟く。

「そう、エーテルよ。ただし超高濃度、超高純度の厳選されたエーテルの集合体、ね」

「そんな……! まさか、本当に……!」

 俺達の背後でプラナが引き攣った声を上げる。振り向けば、愕然と目を見開いたプラナが杖を握り締めていた。

「え? プラナ? どうしたの……?」

 心配そうに問いかけるセシウに、プラナは小さく頭を振った。

「信じられない……どうしてそんなことが……。あ、貴女は……! 貴様は、それで何をしようというの!?」

 プラナが珍しく声を張り上げる。プラナにしては随分と低い、恫喝するような声だった。赤い瞳はトリエラを容赦なく睨み付け、砕けてしまいそうな程に強く歯を噛み締めている。

 ここまでプラナが感情を露わにするのは滅多にないことだ。どんなに怒っても、普段は決して慇懃な態度を崩さないというのに。

 一体何がこいつをここまで昂ぶらせている?

「さっきから、何故なの、何なの、何の意味なの、と質問ばかりですわね。お馬鹿さんのお相手は疲れますわね、全く……」

「今すぐ解放しなさい! 自分がやっていることの意味が分からないわけではないでしょうっ! 貴様はどこまで人々の尊厳を踏み躙るつもりなの!」

 セシウの脇を抜け、勇ましい足取りでプラナは俺達の先頭へと歩み出る。いつもの穏やかなものではなく、どかどかとした乱暴な歩き方だ。

 杖を握り締める手にはずっと力が籠もっており、その背中は震えていた。

 きっと恐怖なんかじゃなくて怒りに震えてるんだろう。

「ね、ねえ、プラナ……? 一体、どういうことなの?」

「俺達にはよく分からない。説明してくれ」

 セシウとクロームの問いかけに勢いよく振り返ったプラナは二人に対して鋭い視線を向ける。今にも見た者を切り裂いてしまいそうなほどに鋭利な目だった。

 こんな威圧的な目もできたんだな……。

「あれは――魂そのものですよ」

 しかし零れ落ちた声は存外落ち着いたもので、弱々しい。低い声のままではあれど今にも消え入ってしまいそうなほどだ。

「奴はこの村の人々の魂を集めていたんです。それがどういう意味か分かりますか?」

 ……魂、だって?

 村人の魂があれだっていうのか?

 確かにエーテルは魂の元素とも言われているものだ。

 そんなの知識としては当然のことだったけど、魂という物質そのものをこうやって目の当たりにしても、なんか不思議な感じがする。

 実感が持てない。

 あれが魂っていうものなのか……?

 なんとなく魂っていうのは目に見えないものっていうイメージがあるせいなのかね。

 どうにも理解が追いつかない。

「そんなにヤバいのか?」

 俺はプラナに問いかける。ここまでプラナが取り乱すんだ。相当ヤバい代物に決まっているんだろうが、聞かずにはいられない。

 しかし俺の予想に反して、プラナは首を横に振った。

「……魂そのものに危険性はありません。非常に高濃度、高密度、高純度という点では優秀な材料と言えば材料ですが、それそのものに危険性はありません……ですが……」

「なんだよ?」

「魂が捕らえられているということがどういうことだか分かりますか? この村の人々は天に召されることもなく、死の苦しみから解放されることもなく、ずっと生き続けているんです。肉体は死んでも、魂はまだ苦痛と共に生きている。そういうことなんですよ……」

 ……そういうことか……。

 なるほどな……。

 肉体は死んだ。二度と生き返ることはない。

 本来なら魂もエーテルへと分解され、魂としての情報を失い、真っ新な状態となって生命の円環(キュベレイキクロス)へと還るはずだというのに、トリエラは魂が分解される前に回収し保存してしまっている。

 あそこにはまだ生命としての意識が宿っている。死ぬこともできず、苦痛から解放されることもない。

 ……容赦なく殺しておいて、楽になることも赦さないっていうのかよ……。

 瓦礫に埋もれ、俺達の前で死んでいったあの少女だって、未だ苦しみ続けている……。

 ふざけんなよ……クソ……。

「底の底まで腐りきった奴だな。最早かける情けも釣り合わん。貴様が息をしている。それ自体が私の信義に反する。貴様の凶行も生命も、ここで尽き果てろ」

「あぁら、勇ましいわね。でも、まだ余興は始まったばかりよ」

 くすりと笑い、トリエラは煙管の雁首で天井に吊るされた看板娘を指し示す。

 まだ意識は戻っていないようだ。身動ぎ一つしてなどいない。

「うふふ、純粋だった少女が穢れた様は美しい、そう思わないかしら?」

「テメェの趣味嗜好に興味はねぇよ、変態が」

 これまでにあいつがやってきた所業のせいもあって、俺の言葉からは飾りも冗句も一切なくなっていた。

 正直、こいつ相手に言葉を選ぶような気にはなれない。貶める言葉を考えるのも面倒だ。罵詈雑言を投げかけるよりも殴った方が早い。

 トリエラは気分を害した様子もなくくすくすと笑みを絶やさない。ご満悦かよ、この有様が。

「あらあら、残念ね。まあ、いいよしとしましょう。みんなでご覧になりましょうよ。感動的な、新たな生の誕生というものを」

「付き合いきれるか、下種の催しなどに」

 クロームが俺の脇を抜け、看板娘に向かって跳躍する。いや、それは最早飛翔と呼ぶべき動き。翼なくして、勇者は確かに羽ばたくように看板娘へと向かっていた。

 自身への危機を素早く察し、触手が動き出す。のろのろとした緩慢な動きで、粘液を滴らせ絡み合わせる様はなんとも不快だ。

 触手の表面の内、色素の薄い部分、おそらく裏側と思われる部分には吸盤らしきものがあり、その中心には小さな穴が空いている。どうやらあの部分から粘液は出ているようだ。

 その穴から本体の触手よりも細い、無数の触手が飛び出す。一つの穴から三つ、本体より細いといえど十分に太い触手だ。

「うえ……気持ち悪ッ!」

 俺の隣でセシウが一歩下がる。そういやこいつ、昔から虫とかそういうのダメだったよな。タコとかイカも苦手なくらいだし、こういうのはなおさら気持ち悪いだろうな。

 穴から出てきた触手は本体と違い動きが速く、クロームへと突進していく。

 最初の一本をクロームは容赦なく切り裂き、さらに二本三本と向かってくる触手を切断する。切った触手を蹴って、高度を維持し、迎撃しきれない突進も上手く躱し、即座に反撃に転じていく。とんでもねぇ芸当だな……。

 真っ正面から向かってくる触手を構えた剣で受け止め、綺麗に二枚におろし、矢継ぎ早に向かってくる触手を踏み台にしてさらに跳躍し、クロームは看板娘との距離を一気に詰める。それでもまだ少女には届かない。

 下方から密かに距離を詰めていた触手の群れが、クロームへと襲いかかる。

「クローム! 下だ!」

 俺の張り上げた声に気付いたクロームは足下に剣を精製し、即座に触手へと放つ。飛び上がるようにクロームへと突っ込んだ触手はその全てが剣に仕留められ、緑色の鮮血らしきものを振り撒きながら堕ちていく。

 さらにクロームは足下に剣を精製し、刀身を蹴ってさらに跳躍する。

 跳躍した先にさらなる剣を作り出し、もう一度跳躍。跳ぶ向きを僅かにずらし触手の攻撃をやり過ごし、脇を通り抜けていく触手を瞬きの間もなく輪切りにする。

 さらに新たな剣の足場を形成し、クロームは大きく飛び上がる。

 剣を逆手に持ち変え、両手で柄を握り締め、クロームは看板娘を捕らえる触手の本体へと急降下していく。

「うおおおおおおっ!」

 クロームが吠える。魂を震わせているかのような力強い咆哮と共に、勇者は触手本体へ深々と剣を突き立てながら着地する。

 奇声がホール全体に響き渡り、俺達の耳を劈く。触手の悲鳴か? どっから声出してやがんだよ、一体……。

 身体をくねらせのたうち回る触手の上で、クロームは振り落とされまいと突き刺した剣にしがみついている。右手で剣を握り締めたまま、左手をついと上げると、その手中に長大な片刃の剣が精製される。人の身の丈と同程度の刀身、両手で持つことを前提とした長い柄、刀身は女性の腰よりも幅がある。

 およそクロームの細腕では振るうことも困難に思える大剣だというのに、クロームは指先で弄ぶように平然とくるくると回してみせる。

 紙製だったら納得もいくが、どういうわけか鋼鉄でできています、はい。

 クロームは大剣を軽々と振り上げ、力の限り振り下ろす。足下を薙ぎ払うような斬撃、重量と腕力の重なった大剣の一撃は容易く触手を斬り落とす。

 さらなる奇声に俺達は耳を塞ぐ。それでも尚脳を揺さぶるような絶叫に俺は顔を顰める。

 騒がしいったらねぇよ、クソ……!

 暴れる触手を蹴って、剣を引き抜きながら飛翔したクロームは反撃とばかりに殺到する触手の群れを両手の剣で次々と切断していく。神速の太刀筋を誇る細身の銀剣と、圧倒的な攻撃力を誇る鈍色の大剣――その二つの剣を的確に使い分け、状況に対応するクロームの技術力には感服せざるを得ない。

 やっぱりあいつは戦いの天才なんだろうな。俺がどんなに努力したって追いつける気がしない。まあ、そんなのセシウやプラナを含めてそうなんだけどさ。同じことをセシウやプラナだって思っているんだろう。

 あいつの才能はそれくらい圧倒的だ。そんな化け物染みた才能を持ってる奴が血反吐を吐くような努力をしちまったら、そりゃ勝ち目なんてあるわけねぇよな。

 ヒュンと風を切り裂くような音だけを残し、細身の銀剣が軟体動物のように動き回り、触手をあっという間に切り刻む。

 ゴウッと風が唸るような音を轟かせ、鈍色の大剣が雷のように撃ち落とされ、触手が鮮血と肉片を弾けさせる。

 襲いかかる触手全てを切断し、破砕し、クロームは看板娘の目の前の太い触手へと着地する――はずだった。

 クロームの身体が突然バランスを崩し後ろへと傾く。粘液に足を滑らせたようだ。傾きかけた自分の身体を支えるために剣を触手へと突き立てようとするが、手首に細い触手が絡みつき締め上げられる。鈍色の大剣が手から離れ、円を描きながら落ちていく。

 抵抗する間もなく他の触手もクロームへと殺到し、手首を締め上げ、首に巻き付き、足を縛り付け、拘束していってしまう。

「クソッ!」

 隣でセシウが毒づいたかと思えば、次の瞬間には地を蹴って跳躍していた。まるで脚がバネでできているんじゃなかろうか、と思えるほどの跳躍力だ。

「おい! バカ! お前が行ってどうすんだ!」

「そう言われたって、黙って見過ごせるわけないじゃん!」

 迎えるようにセシウの跳んだ先へと立ちはだかる触手の群れがしなり、襲いかかってくる。セシウは先頭の触手を蹴って、さらに高度を上げていく。次から次へとやってくる触手を、申し合わせていたかのように足下へと追いやって、空を駆けるように突き進んでいく。それでもなお立ちはだかる触手へと、セシウは渾身の力で触手を叩き込む。

「砕け――えっ!?」

 セシウの豪腕は虚しく触手の上を滑る。

 当たり前だ。向こうは粘液が身体に纏わせている。クロームのような斬撃ならまだしも、セシウの打撃なんて通るはずもない。

 俺は手で目の周りを覆い、ため息を漏らす。

 あークソ……だから言ったのに……。

 指の隙間から様子を窺うと、セシウの身体もまたクローム同様拘束され、虚空に吊し上げられていた。

 セシウの剛力なら抜け出されるかも、と期待もしたが、暴れるたびにさらなる触手が絡みついて、余計に拘束を強めてしまっていた。

 ……まずいな……。

 うちの前衛が見事に封じられてしまった。

「が、ガンマ……これは、もしかして……まずいのではないでしょうか?」

「もしかしなくてもまずいだろ、おい」

 プラナが顔を引き攣らせている。この状況は本当にまずい。

 俺もプラナも前衛の活躍あってこその役回りだ。二人がいねぇんじゃ、まともに戦うことさえできねぇぞ。

「あらあら、勇者一行というのはこの程度の力なのかしら? 残ったのは、雑魚とお馬鹿さんだけじゃありませんの。うふふ、なんとも呆気ない」

 トリエラの上機嫌な声がホールに響き渡る。

 クソ、言い返しようがねぇ。

「何を偉そうに……!」

 プラナが杖を振るう。先端の宝玉が翡翠の輝きを放ち、記録された魔導陣を読み込み、風の元素を集約させて神速の太刀を触手の群れへと放つ。

 無数の鎌鼬が鋭利な音を鳴らしながら、触手どもを切り裂く寸前、紫色の蝶が数頭割り込んでくる。

「――群咲け」

 風の爪牙が蝶達を切り裂いた瞬間、眩い閃光が俺達の視界を覆う。光が止み、目を開けばそこには蝶も風もなく、ただ触手が先程と変わらない姿でそこにあった。

 先程、クロームが放った剣の雨を防いだのと同じものだろうか? だとすると、あの蝶に触れただけで攻撃は無力化されていることになる。

 邪魔くせぇな。

「ふふ、詠唱も行っていない魔術など大した脅威でもありませんわ」

「ふざけたことを抜かすなっ!」

 プラナが声を荒げ、さらに杖を振るう。杖から真紅の煌めきが迸り、火球が触手目がけて放たれる。矢継ぎ早に翡翠、真紅、真紅、翡翠、翡翠、真紅と宝玉の光が次々と転じていく。

 一心不乱に放たれた、無数の火と風の魔術。しかしその全てがどこからともなくふわりと現れた蝶によって阻まれ、閃光となって消えていく。

 ダメだ。

 プラナはここまでの間に魔術を使いすぎている。最早詠唱を行うほどの余裕もないし、その体力も残されていない。

 今のプラナではトリエラには勝てない。

 事実、今の魔術の連発は相当堪えたらしく、プラナは杖に寄りかかるようにして立っているような状態だ。息も荒れている。

 普段はこれくらいどうってこともないはずだというのに。それほど無理をしていたのだろう。

「もう終わり? 情けないわね」

 くすくすと笑うトリエラに応じるように、今までじっとしていた触手達が動き出す。鞭のようにしなり、俺達へと突っ込んでくる。

 逃げるか? いや、プラナを連れて逃げるのは不可能だ……。

「ざっけんじゃねぇよ!」

 つい毒づいてしまう。誰にというわけでもなくこの事態に。

 なんで俺がこんな役回りなんだよ!

 冗談じゃねぇ! よりによって俺かよ!

 一人残ったのがクロームやセシウだったら勝機もあっただろうに。俺が抵抗するなんて正気の沙汰ですらねぇよ!

 そうは言っても投げ出すわけにもいかず、俺は銃を構え、精一杯触手に対して迎撃を計る。

 がむしゃらに引き金を引き、銃弾を触手に向かって撃てども、効果なんて一切あったもんじゃねぇ。確かに銃弾は触手の表皮を穿ったが、怯ませることさえできない。

 真っ向から突っ込んでくる触手をどうすることもできず、俺は地面を転がるようにその場所から逃げる。

 条件反射のようなものだった。それが過ちだった。

「キャッ――」

 背後から短い悲鳴。

 迂闊――! 俺の後ろにはプラナがいたのだ。あの状態では大して逃げることもできずに触手に捕まってしまっただろう。振り返った頃にはすでにプラナは全身を触手に縛り上げられていた。

 俺は踵を返してプラナへと駆け寄ろうとするが、鎌首を擡げた触手が待ち構えていることに気付き即座に方向転換して走り出す。

「ふふふ、無様ね。逃げ回ることしかできないなんて。まるで虫のようだわ」

「うっせぇなクソ! 余計なお世話だ!」

 走りながらもトリエラの嘲笑に噛み付くが、どう見たって負け犬の遠吠えだ。情けないにもほどがある。

 触手は相変わらず俺の後を追ってきているし、どうすっかね……。

 プラナとセシウもクロームの両側まで吊り上げられ、見事に晒し物と化している。

 クロームの《旧い(アカシックブレイド)》やプラナの魔術による援護も期待したが、よくよく周囲を窺えば、床にクロームの愛剣デュランダルとプラナの杖であるセレネが転がっている。

 ……これじゃあ援護も望めねぇな……。

 走りながら思考を巡らす。

 今や戦えるのは俺だけ。三人の活躍は期待できない状況。

 どうする?

 どうにかできるのか?

 俺が? 俺だけで?

 最高に笑える冗句だな、おい。

 勇者一行最弱の俺が、四人がかりでも傷一つつけられない魔女を出し抜けだって?

 面白くもなんともねぇ。

 ただ滑稽なだけじゃねぇか。

 本来だったらいの一番に逃げたい心境だっつぅのに。どういうわけか頭は勝機を探っている。

 救わなければならない。あの少女だけでも。

 見過ごせるわけがねぇだろ。あの純粋な少女の心がただ踏み躙られるだけなんて。

 俺は大きく円を描くようにして曲がり、触手を後ろに引き摺ったまま中心を目指す。

 やらなければならない。

 なんとかしなければならない。

 ただ、俺にどうこう出来るわけもねぇ。

 この状況を変えられるのは勇者だけだろう。俺はそのきっかけを作るより他ない。

 全てを、クロームの可能性に賭けよう。

 前方の空から細い触手が俺目がけて降ってくる。俺は前へと転がり込むようにして、その突撃の下を抜け、一回転した足の裏が地に触れると同時に立ち上がり、さらに走り続ける。姿勢が僅かに前傾し足がもつれかけたが、なんとか体勢を立て直すことはできた。

 止まったら後ろの触手に捕まることになる。ここで俺まで捕まったら完全に詰んでしまう。

 ホールの中心目がけてひたすらに走り続ける。こちとら一歩間違ったら死んでいたような重症を負った身だ。プラナの治癒魔術でなんとかある程度傷は癒えたが、それでもダメージは残ってる。

 正直、走ってるだけでも辛い。

 脇腹にはナイフを刺されたような痛みだってあるし、煙草でさんざん痛めつけてる肺は悲鳴を上げている。

 呼吸が掠れる。とてつもなく息苦しい。

 足だって感覚が薄れてきており、ちょっと間違えれば転倒してしまいそうだ。

 それでも止まるわけにはいかなかった。

 いつもの俺なら音を上げているだろう状態だっていうのに、俺の身体は走ることをやめない。

 なんだよ、やればできるじゃねぇか、俺。

 普段根性ないだけだけどさ。

 ホールの中心、床の上に煌めく銀色の輝きを目指して突っ走る。床に転がったクロームの愛剣デュランダルが主の手に還るのを今か今かとじっと待っていた。

 勇者の反撃に、伝説の一ページに、伝説の武器は欠かすことのできない要素だろうよ。

 お前がいなきゃ始まらねぇよな。

 走りながら俺は掬い上げるように剣を拾い、そのまま地についた右脚を軸に半回転する。目の前には俺目がけて突進してくる四本の触手。

 剣の柄を両手で握り締める。細身な上に、クロームが軽々しく振るってるから誤解してしまうが、やはり剣は剣、両手にずっしりとした重みがのしかかる。

 それは殺人器としての罪の重みか、勇者の伝説の象徴としての重みか、俺には分からない。

 英雄伝説が正当化された殺人記録であるというのなら、その重みは表裏一体であり区別などつけようがないのかもしれない。

 俺に答えを見出すことはできない。ただ、この剣が俺達の命運を決める要素である以上、例え重みがどちらのものであろうと上等だ。それくらいの重みがあってこそのものだろう。

 俺の唇の両端はどうしてか吊り上がっていた。自然と、意識することもなく、俺は大胆不敵な笑みを浮かべている。不思議な感覚だ。

 この高々一振りの剣という要素を手に入れたことで、俺は自信を持ってしまっている。この剣をクロームが握れば、どうにかこうにかできてしまうような確信さえ持ってしまっている。

 迷うこともなく、俺は向かい来る触手へと駆け出していた。

「うおらああああ!」

 似合わない雄叫びを上げて、直線的に突っ込んでくる触手の先端に剣を突き刺す。突進してきていた触手は俺が力を入れる必要もなく真っ二つに引き裂かれていく。緑色の鮮血が飛び散る。俺の視界の両端を触手の断面図が通り過ぎていく。

 剣を振るって鮮血を払い、さらに触手を力ずくでぶった切る。お世辞にも綺麗な太刀筋とは言えないが、それでも十分すぎるほどの効果だ。

 動体視力には自信がある。敵の動きを見極めて避けることならそれ相応にできる。なら、避けた後に横合いから剣を振り下ろせばそれだけでも戦える。

 幸い、触手の攻撃は直線的だ。見切ることはできる。

 触手をやり過ごして両手で構えた剣を力一杯に振り下ろし、即座に襲ってくる別の触手を横に跳んで避ける。

 一息つくこともせず、俺は剣を渾身の力でフルスイングして触手を切り裂く。

 触手の頭側が勢いのままに吹っ飛んでいき無様に地面を転がる。

 次いで俺目掛けて鞭のように振り下ろされた触手を飛び下がって紙一重で避けきる。触手が先程まで俺がいた場所に叩きつけられ、大理石の床が破砕される。飛び散る破片の一つが俺の頬を引き裂いたが、今は関係ない。今となっちゃこれしきの痛みなんてどうってこともない。

 着地して間もない俺は床を蹴って走り出し、触手を踏みつける。そのまま躊躇せずに走り続け、俺はクロームやセシウの見様見真似で細長い足場を突き進んだ。

 よく滑る足場だ。

 踏み込んだ右足が滑る前に左足を地に着け、その左足が滑るよりも早く右足で踏み込めばいい。言うなら簡単なことだ。

 現実的にやるのは辛いけどな。

 それでも必死にその動きを真似るしかない。歩幅は短めでもできるだけ早く次の足を前に出していく。

 有り難いことに急な傾斜もないお陰で走り続けることは十分にできた。同じような細い触手に飛び移るなんて芸当はできないからな、俺には……。

 看板娘の姿が目前に迫った頃、俺の両隣に触手が並ぶ。今にも俺に絡みつこうと様子を窺っているようだ。まともに関わっている暇はない。とはいえ、応戦するほどの余裕なんて俺にはない。

 正々堂々なんてことが一番嫌いな俺は、触手を蹴っ飛ばして跳躍する。全身のバネをフル動員した跳躍で看板娘との距離を一気に詰め、すぐ側の触手本体へと着地する。足が僅かに滑るが、即座に両手を触手につき、無様な獣のように触手の表面へとしがみつく。

 格好は悪いが、まあ俺にしちゃ及第点だろう。

「あんたやれば出来んじゃん! いつもそんくらい頑張れよっ!」

「お前は肝心な時に役立たずだな」

「うっさいわっ!」

 触手に捕まったまま褒めてるんだか貶してるんだかよく分からないことを言ってくるセシウを適当にあしらう。今は相手をしてる場合じゃない。空中で吊されたままじたばたと暴れるセシウのことを視界から追いやり、俺は看板娘へと向かい合う。

「待ってろ……今助けてやる……」

 本当だったら今すぐこの場所から解放してやりたいくらいだが、それは俺の仕事じゃない。

 まずはクロームを解放しなければならない。この剣を持つべきは俺じゃなくクロームだ。クロームこそが少女を救済するべき人物だ。

「クロームッ」

「そんなに大声を出さなくても分かっている」

 触手に四肢を締め上げられ身動き一つできない状況で吊されているというのにクロームの表情は普段通りの仏頂面である。どこか偉そうに俺を見下している節さえあった。

 なんで余裕そうなんだろ、こいつ。

「偉そうにしててもカッコつかねぇぞ?」

「別に? 偉そうにしているわけではない。焦っていないだけだ」

「はぁ?」

「お前ならそれなりのことはしでかすと思っていたからな」

 なんだよ、それ。

 調子いい野郎だな。

 その上あんま期待されていたような気にもなれない。多分違うんだろう。

「とりあえず、デュランダルをこちらに投げろ」

「はぁ? お前両手塞がってんだろ」

「いいから」

 ……キャッチできなくてもしらねぇぞ。

「受け取りに失敗した場合はお前の投げ方が悪いと思ってくれて構わない。もしもの時は安心して世界に詫びろ」

「プレッシャー……かけんじゃ、ねぇよ!」

 文句でリズムを取りながら剣を力一杯クロームへと投げつける。くるくると回転しながら剣はクロームへと飛んでいくが、クロームの両手は未だ締め上げられたまま動くことさえできない。

「デュランダルッ!」

 クロームが愛剣に呼びかける。その声に呼応するようにデュランダルは全体に白い仄かな光を帯び、クロームの左手に吸い寄せられるかのように方向を転換した。

 勇者の手に、そうあるのが必然なのだと世界が証明するように聖剣が舞い戻る。最もよく知っているであろう感触を確かめるように力強く剣を握り締めたクロームの眼が白銀の光を仄かに放った。

 瞬間、無数の銀色の細い線が俺の視界へと刻まれる。行き交う銀糸に音はなく、気付いた時にはそこに残影だけがあった。

 何か、と考える間もなく、俺の身体は浮遊感に包まれ、すぐさまそれが落下へと変わる。胃が浮き上がるような冷たい感触に背筋が凍り付いた。

 他の三人が触手から解放され、落ちていくのを視認して状況を把握する。周りには触手だったものだと思われる細切れの肉片もある。

 クロームが瞬きの間に全てを斬り刻んだのだ。

 足の底が引き攣るような感覚を覚えながら落ちていくその最中、クロームは手中にナイフを精製していた。先端で傘が開くように返しを四方に広げた剣身がナイフにしては少しばかり長いものだ。

 クロームはそのナイフを落下しながらも正確に看板娘を縛る触手の本体へと投擲する。空を裂いて、斜め上方に放たれたナイフは直線を歪めることなく、真っ直ぐ触手へと突き刺さった。

 撥ねる緑色の鮮血。とはいえ、所詮はナイフ――触手は痛くも痒くもないようで、呻くことさえしていない。

 一体何を考えている? 僅かばかりの訝りの答えもすぐに提示された。

 クロームの手から銀色の鎖が伸びている。その鎖の逆端は触手に深々と突き刺さり、返しによってがっちりと固定されたナイフの柄に繋がっていた。

 クロームの《旧い剣》はただの剣ばかりを無尽蔵に創り出すものではない。現存していたものであり、そこに“切る”という概念が付与されるものであれば、いくらでも再現できる。

 こんな少し変わり種の武器も再現できるわけだ。

 下降によって鎖が限界まで引き延ばされ軋みを上げ、クロームの身体だけが俺達から離れ、ナイフを中点とした円上を振り子のように渡り始める。

 まるでジャングルに住む野生児が蔓で谷を渡るようだ。クロームの身体は地面ギリギリを滑るようにして、下から触手の裏側へと回り込んでいった。

 下を向けば地面はすぐ目前である。俺は意識を自分に集中させる。大丈夫だ。これくらいの高度からの落下ならまだなんとかできるはずだ。

 一応セシウから教えられている。

 運動面で不安の残るプラナのことも、セシウがすでに抱え上げるようにしているので問題はないだろう。

 俺は俺のことをまずなんとかしよう。床は目前だ。下手を打てば死んでもおかしくない高さだ。せいぜいそうならないように頑張ろう。

 唾を飲み込み、息を止める。床に着地する瞬間、頭の方へエネルギーを伝達していくようなイメージで、身体の下部から順番に折り曲げていく。足首に鈍い痛みを感じたが、問題はないだろう。それでも勢いは殺しきれず、俺の身体は前に傾き、転がり込むように地面へと倒れてしまう。

 なんとも情けない。着地一つ満足にできないとは……。

 それでも、まあ、体中に落下の衝撃を分散させ、なんとか身体にかかる負担を出来うる限り減らすことはできた。俺の中では及第点かな。

 勇者一行としては落第間違いなしだが……。

「情けない……」

 上からぼそりと声が聞こえる。バカにするようでも、笑うようでもないその声は、あまりにも無感情で冷たいものであった。仰向けに倒れたまま、俺は頭上に向ける。

 プラナを横に抱きかかえたセシウが、俺を蔑むような目で見下していた。

「……うっせぇな」

「さっきまではちょっと格好よかったのに、やっぱりガンマはガンマだね」

「うっせぇっつぅの!」

 上げた両脚を振り下ろし、背中の力で起き上がった俺は、そんな全く以て理性的ではない上に、効力もない言葉を返してしまう。

「いいだろ? 着地はできたじゃねぇか! 文句あんのかよ!?」

「いや、べぇつにぃ」

 プラナを床に下ろしたセシウは大仰に両手を広げて、嫌味ったらしく唇の両端を吊り上げてみせる。

 反抗はできても反論することができないから辛いな。どう見ても俺が情けないのは事実だし。

 ふと、上空で耳を劈くような甲高い奇声が鳴り響き、俺達は素早く顔を上げた。その直後、俺の眼はずたずたに斬り裂かれ、緑色の体液を振り撒きながら悶え苦しむ触手を見ていた。

「何?」

 セシウの小さな疑問の声に、俺は苦笑を漏らす。

「そんなの決まってんよ」

 やった奴なんて一人しかいないだろう。今まさに絡まりつく触手を斬り裂き看板娘を救い出したクロームしかしない。

 デュランダルを鞘に納めたクロームはぐったりと力ない少女の肢体を抱え上げ、何の躊躇もなく触手から飛び降りた。ふわりと空へと舞い上がった身体は、その後すぐに俺達目掛けて急降下してくる。

 クロームの銀色の髪が、看板娘の亜麻色の髪が風にふわりと揺れる。

 後ろでずたずたに斬り裂かれた触手が絶命し、真っ白な光の粒子へと分解されていく。所詮は召喚獣。活動限界を超えれば、亡骸も残さずに消えていく定めだ。

 雪のように舞い散り消えていくエーテルの中、クロームはまるで羽でも生えているんじゃなかろうか、と疑わずにはいられないほど軽やかな動作で俺達の目の前に着地した。音さえも軽やかな着地だ。靴の踵が床を叩く、小気味いい音しかしなかった。

 一体どういう身体の構造してるんだろうね、こいつら。

「クローム! ナイスファイト!」

 真っ先に駆け寄ったセシウがクロームへと親指を突き立てる。クロームも本当ならなんらかの返しをしたかったんだろうが、生憎今は両手が塞がっている。せめてもの返しに、本当に微かな笑みを見せるだけだった。正直言って、あまりにも変化が僅かすぎて、顔を見慣れていない奴だったら気付かないくらい地味だ。

 クロームは膝を折ってしゃがみ込み、そっと床の上に看板娘を横たえる。

「本来なら何かを下に敷いてやりたいのだが、今はしょうがない」

 そう言いながら、クロームはジャケットを脱ぎ、少女の裸体を隠すように優しい手つきで服をかけてやる。

「ありがとな、クローム」

 俺は特に考えもなくそんな言葉を口にしてしまう。看板娘を救ってくれたことに対する、俺なりの心からの感謝の言葉だった。

 クロームを信じてよかった。俺が信じた通り、クロームはやり遂げてくれた。

 感謝をしないわけにはいかなかった。

 しかし、立ち上がったクロームは俺を見て、眼をぱちくりとさせやがった。何だよ、その意味が分からなそうな顔は。

「なんでお前が礼を言うんだ」

「いや……まあ、そりゃあ……」

 そうだけどよ……。

「礼を言うのは俺の方だ。助かったぞ、ガンマ」

 ……はいはい、そりゃあ悪うござんした、ね……?

 今度は俺が眼をぱちくりさせる番だった。

「あ? 今なんて言った!?」

「阿呆も阿呆なりにやる時はやるものだな」

 すぐに背中を向けて歩いて行くクロームに聞き返しても、嫌味だけが返ってくる。

「そうじゃねぇだろ!? なんか言ったよな!?」

「何も言ってないわけがないだろう。愚図め」

 ひらひらと振り返りもせずにクロームは手をひらひらと振る。

 ……んだよ、クッソ……。油断しててちゃんと聞いてなかったぞ……。

 気になるじゃねぇか。

 俺に背を向けたクロームはプラナの元へと向かっていた。そういやプラナの奴、さっきから一言も話してねぇな。どうしたんだ?

「プラナ、あの子に宿った卵を処理する方法は分かるか?」

 クロームがゆっくりと問いかける。

 そうだな。看板娘を触手から解放することはできたけど、まだこいつの胎内には魔物の卵が植え付けられたままだ。

 これをどうにかしなければ、救ったことにはならない。

 とはいえ一番の難関だった触手からの解放はできたんだ。こっから先はなんとかなるだろう。

 でも――プラナは俯いたまま何も答えようとしなかった。

「……プ、プラナ……? どうしたの?」

 不安になってセシウが問いかける。その声はすでに震えていて、頼りがない。

 ……嫌な予感が胸を縛り付ける。咽喉が詰まるような感触。事実を知ってしまうことを恐れ、俺の両手は震えていた。

 強く握り締めても、手は震えを止めてくれない。

「ね、ねぇ……プラナ……? 助けられるんだよね!?」

 プラナは答えない。いや、違う。きっと答えられないんだ。

 俺達に真実を突き付けることを躊躇ってしまっているんだ。

 どうして?

 決まっている。その真実が俺達に残酷なものだからだ。

 助けられないっていうのか? ここまでやっておいて?

 俺達のすぐ側に少女はいるっていうのに。邪魔する奴なんて誰もいないっていうのに。

 それでも救えないっていうのかよ……?

 おかしいだろ……そんなの……!

「おい、プラナ。黙っていても俺達は何も分からない。それがどんなものでも、俺達に教えてくれないか? どういうことなんだ?」

「ごめんなさい……」

 クロームの説得にプラナは俯いたまま、虫の羽音のような掠れた声で謝罪だけを口にする。その言葉もすでに涙で濡れていた。何かあるとすぐに縋り付くように抱き締める杖がないからだろう。プラナは自分の身体を掻き抱くように肩へと指を食い込ませていた。

「すみません……赦して、ください……」

「謝っていても分からないんだ。頼む、話してくれ」

 押し殺したような声でクロームはさらにプラナへ説明を促す。それがプラナにとってどれだけ辛いことなのか、俺達には分かりきっていた。

 だけど、それでも、知らなければいけない。

「ト、トリエラは……あの子の生命力を吸い上げて、卵が孵化すると言いました……」

 プラナが途切れてしまいそうな声でゆっくりと話し始める。

「もしそれが本当だったのであれば、いくらでも助け出す術はあります。胎内の魔物だけを殺す手段なんていくらでもあるんです。宿主の身体を傷つける必要さえありません……」

「じゃ、じゃあ、それをすれば……!」

「それができないんですよっ!」

 セシウの言葉を遮り、プラナが引き裂けてしまいそうなほどに痛々しい声で叫ぶ。それはどこまでも悲しく、残酷で、凄惨な否定だった。

「私だってできるのなら、そうしたいんですよ。そうするつもりでした……。でも……それができないんですよ」

 プラナの纏うローブの肩口に赤いシミができていた。指先に沿うようにできたそれは鮮血なんだろう。プラナの立てた爪がローブを裂き、肉にまで食い込んでいた。しかも相当深く肉を抉ってるようだ。

 それでもプラナはやめようとしなかった。ただ凍えるように震え、頭を振っていた。

 それはきっと痛みにではなく、悲しみによるものなんだろう。

「他の生物に卵を植え付ける習性がある魔物というのは、本来そうしなければ卵が孵化しないからなんです。自分の身に抱えておくと外敵に対する自衛ができないから、比較的安全な生物に卵を植え付けるんですよ。人間は優良な宿主なんです。例え卵を育てるために生命力を吸い上げても、宿主を害すモノというものが少なく、体力がなくてもそれなりに生きていくことはできますから」

 なるほどな。確かに理に適っている。

 野生の世界では、身重になればそれだけで生存が難しくなる。誰かが守ってくれればいいが、雄が必ず守りきってくれるとも限らない。安全圏にいる生物に預けた方が確実に子孫は残せるだろう。

 人間は確かにひ弱な奴でもそれなりに生き残れる場所だ。よっぽどの不運がない限り、死ぬことなんてない。ただしそれは低い確率でしかなく、弱者でも贅沢を言わなければ生存できてしまう。

 これを狙わない手はないな。

 頭がよろしいことで。

「でも、彼女に植え付けられてる卵はそうじゃないんです。元々、卵としてひり出されるものです。後は温めでもしておけば、勝手に生まれるようなものです。つまりそこに必要なエネルギーは詰まってるんですよ。それをあの魔女は植え付けたんです」

「……それが、どうしてできないということに繋がるんだ?」

 それなら同じ手順を踏めば、卵を取り除くことができるんじゃないのか?

「今、この子の身体はとても危険な状態です。生命力が著しく低下している。おそらくあの魔女が事前に何かを施したのでしょう。生きているのが奇跡とも言える状況です……。それでも生きている。何故だか分かりますか?」

 ……俺達は首を横に振る。

 俺達には到底分からない。分かるはずもない。

 プラナはゆっくりと息を吐き出し、話を再開する。

「卵の持っている魔力の影響でこの子は治癒力が高まり、ギリギリの状態を保つことができているんです。だからなんとか生きている。卵のお陰で生かされている」

 ……卵が少女から力を得ているのではなく、少女が卵から力を得ている?

 じゃあ、それってつまり――

「逆に言えば、卵なくして、もうこの子は生きられない……そういうことなんです」

 俺もクロームもセシウも、何も言えなかった。何かを言えるはずもなかった。もう十分すぎるほど純然たる事実が俺達の前には横たわっている。それを否定することができないし、神でもない俺達にはねじ曲げる手段だってない。

 クロームもセシウも理解が早かった。これはそういうものだと受け容れざるを得ないことを知っていた。

 俺だってそんなこと分かりきっている。でも模索せずにはいられない。

 考えることをやめたくなかった。

「今までもいろんなケースがあった。でもどれにだってそれに対応する対策があった。こういうケースにだけ相対するものがねぇってのはおかしいんじゃねぇのか?」

 そうだ。

 今までだって。困難に見られた問題にも打開策があった。プラナの魔術によって切り抜けられた場面は多い。

 今回だってプラナは前例のない魔術に対しての対抗魔術を不完全ではあるが、短時間で編み出してくれた。いくらだって手はあるはずだ。

 今からだって遅くはない。

「……そうですね。確かに方法はあります。近年では儀式級ではありますが、魔術のみでの摘出手術が生み出されていますし、その理論を元にした個人で使える手法もあります。少々手荒ではありますが」

「じゃあ、なんでそれをやらねぇんだよっ!」

 俺は衝動的に怒鳴り声を上げていた。プラナが何も悪くないことなんて知っている。むしろよくやってくれているし、こんな辛いことを懇切丁寧に俺達に教えてくれてまでいる。

 それでも怒鳴らずにはいられなかった。

 これほどまでの不条理に対して、俺は心を何としても持ち上げなければいけなかった。負の感情であったとしても、感情を高ぶらせておかなければ、そのまま俺はどこまでも沈み込んで絶望してしまいそうだったから。

「ガンマ、考えてみろ。プラナはこの短時間で、どれほどの魔術を使ってきた?」

「……クソッ!」

 クロームの言葉に俺はいよいよ絶望してしまいそうになった。

 そうだ。もうこいつには魔力なんてほとんど残っていない。どれだけ脳の回路を、肉体を、精神を酷使してきたと思っているんだ。

 俺を治療した段階でも限界だったのに、プラナはそれでも魔力を身体の芯から搾り出し、なんとか俺達を助けてくれていたんだ。

 まただ。また手が届かないっていうのか?

 時間が、魔力が、力が、それらがあれば、また違ったというのに。どうして全てが俺達の手をすり抜けていく? どうして気付いた時には全てが手遅れになっているんだ?

 クソ……!

 頭を使え……!

 何を絶望しかけているんだ、俺は!

 まだだ……まだ手はあるかもしれない……!

 考えろ……!

 思考を止めるな。考え続けろ。神経回路が焼き切れるまで思考をするんだ。

 頭をフル回転させろ……!

 諦めるわけにはいかない。諦めたくない。やっと繋がると思った命を前に、何もできないまま終わるなんて嫌だ。

 俺には考えることしかできねぇだろうが。それさえ出来なくってどうするんだよ……!

 頼むよ……なんか、ねぇのかよ……手段は……。

 どれだけ方法を考えても、結局は何かが足りない。時間が足りない。もっと早く救えていれば違ったのかもしれない。もっとプラナの魔力に余力があれば違ったのかもしれない。

 もっと、俺達に力があったのなら……。

 そんな考え自体がすでに手遅れであることは自分でも分かっている。でも、そう思わずにはいられないだろ……こんなの……。

「来ないでっ!」

 前髪を握り締め、思考を巡らせている最中、背後から悲鳴のような声が聞こえて俺達は振り返る。

 クロームが頬を押さえたまま目を瞠り呆然としていた。突然の出来事に理解が追いついていないようだ。

 そしてクロームの目の前には身体を起こした看板娘の姿があった。ジャケットで身体の前を隠し、腕は振り抜いたまま下ろされていない。

 看板娘に平手打ちをされたのは明白だが、なんでまた?

 俺達四人の顔を見回し、目のすぐ下までクロームのジャケットを引き上げた看板娘は立ち上がって俺達から数歩下がる。

 何かに怯えるような、そんな動きだ。

「おい……どうしたんだよ……」

「お願いします……! 来ないで下さい……!」

 一歩近付こうとする俺に、看板娘は懇願するような声を悲痛に絞り出す。その必死な否定に、俺もそれ以上近付くことはできない。

 ……おいおい、何があったっつぅんだ……。

「どうしたんだ? お前のことはクロームが助けてくれた。何も気にすることなんて……」

「そうじゃないんです! そういうことじゃ……ないんです……! だって……私、私……ま、魔物に……!」

 言葉の後半は嗚咽交じりになっていて、最後にはその声さえも途切れてしまった。看板娘は顔にクロームのジャケットを押し当てしゃくりを上げ始めてしまう。

 セシウが俺に指示を求めるように顔を窺ってくるが、俺は首を横に振っておく。今は下手に刺激しない方がいい。

 俺達はこの子にかけるべき言葉なんて持ち合わせていない。全ては俺達の責任だ。クロームを始め、全員がそれなりになんとかすることができる力を持つ連中が、一夜のうちに抵抗することもできずに、身も心も蹂躙された非力な少女にどんな慰めの言葉をかけろというのだ?

 俺達四人は身に危険が迫っても、自分の身をある程度守れるだけの力と技量を持っている。危険に身を晒す覚悟だってしている。

 でもこいつは違う。

 そんな覚悟なんてしていなかっただろうし、もし自身に危機が迫ったこいつはただ恐怖に震えながら嵐が通り過ぎていくのを待つことしかできない。

 そんな少女が一夜にして受けた惨劇を、俺達がどうやって取り消せるというのだ?

 今、こうして、理性を保てていること自体、本当は信じられない部分もあるんだ。ずっと理性を手放さないように耐えてきたんだろう。

 クロームも、俺も、かけるべき言葉なんて見当たらない。どんな言葉だって、この場所では薄っぺらい。俺達が言ったところで何の価値もない。

 こいつを救済できるのは、こいつと同じ仕打ちを受けてしまった弱者だけなのだ。

 でも、そんな奴は今ここに誰もいない。

 弱者は一人残らず死んでしまった。誰もいないのだ。もう何もない。

 そして、だからこそ、今こうして助け出し、尚も救いきれない人の心一つ、俺達は癒すことができない。

 ……あまりにも情けなすぎる話だ。

 俺達の掲げた正義は、こんなにも脆く弱いものだったのか?

 悔恨に沈み俺の隣に、背後に立っていたはずのプラナがいつの間にか立っていた。今にも泣き出しそうな顔で、下唇を噛み締めている。

「……ガンマ、まずいです」

「まずいことは分かってるよ……」

「そうじゃありません。あの子が意識を取り戻したということがまずいんです……おそらく卵の魔力が活性化しています」

 ……プラナの前だというのに、俺はつい舌打ちをしてしまう。後悔に浸らしてくれるような生温さは、どうやら世界にないらしい。

 分かりきってたことだけどさ。

「孵化が近いってわけか」

「猶予は、もう……助けることも……」

「そうか……」

 それ以上を、プラナには言わせなかった。言わせたくなかった。これ以上こいつに辛い思いをさせたくなかった。

 クロームにも、セシウにも、苦しみを与えたくなかった。

 せめて、俺は、あの子の心だけでも救済してやらなければならない。

 こんなことをしでかしてしまった者として、それだけはしてやりたかった。

 せめて? せめてってなんだ?

 結局、自分の苦しみを、罪悪感を少しくらい軽くしたいだけなんじゃねぇのか?

 そのためにあいつを利用するのか? そんな行為こそ腐ってるんじゃねぇのか?

 そう思うと、たった一言さえ言葉をかけることができない。してしまえば、自分がとても汚い人間に成り下がってしまうような気がする。

 こんな時でも綺麗にあろうとする俺は、どんだけ最悪なんだろうな。もうとっくに汚れきってるっていうのによ。

 自分で自分が嫌になるな、本当に。

 俺達は誰も優しい言葉一つかけられない。どんなことをしたって助けられないのは分かっているから、優しい嘘一つつく覚悟もできなかった。

 もうそんな簡単な嘘を突き通すことができないほどに俺達は疲弊しきっていた。

 嗚呼、なんてことだろうか。

 俺達は諦めてしまっていた。少女を助けることが不可能だと理解してしまった。

 抗うことを放棄してしまった。

 その時点で、もう全ては確定したのだろう。

「どうして……どうして……よりによって……。なんで、なんで……ガンマさん達なんですか……! 一番見られたくなかったのに……!」

 掠れた声で、看板娘が呟く。絶望に彩られた、涙に濡れた声で。

 どうしてお前なんだ、って思っているのは俺も同じだ。お前じゃなければよかったのに。

 この村に来て、一番時間を共有したのはこの子なんだ。例え、この一件で犠牲になったとして、こいつの死に様だけは見たくなかった。

 情報なら受け容れることもできたんだろうが、現実としてこいつの死を目の当たりにして、認識してしまうことだけは絶対に避けたかった。

 なのに、どういうわけかお前だけが生きてここにいて、最も凄惨な形と成り果てていた。

 俺だって直視したくなかった。看板娘だって見られたくなどなかっただろう。

 尊敬している人が、恋慕しているであろう人に最も見られたくない姿なのだろう。

 見てほしくない相手が、唯一少女をあの場所から救い出せる力を持っていたというのも皮肉なものだ。

「どうして……助けたんですか……? こんな姿を見られるくらいなら助けられたくなんてなかった! 独りの方がよかった!」

 俺達を責めるわけでもなく、ただこの場所に広がる現実を否定するように少女は叫ぶ。でもそんなことしたって、この現実は変わらない。

 少女の悲痛な声に、セシウは顔を歪めている。きっと同情しているんだろう。あいつは人の痛みが分かる奴だから、どうしても悲しみを感じてしまう。

 なのに俺はなんで、こんなに冷静に思考してるんだろうな。

 後悔だの、自責だの、憐憫だの、人間らしい感情を持っておきながら、俺はこうやって普通に事態を分析している。

 思考が感情に染め上げられることもなく、考えることを続けられている。気持ち悪い奴だな、本当に。

「見過ごせるわけがないだろう」

 ぽつりと誰かが言った。詰まった咽喉から、無理矢理声を押し出したような声だった。

 その声の張本人は今、俺達の先頭に立ち、拳を握り締めていた。震えもしない背中、でもそこに冷たさはなく、ただ力強さがあった。

 ジャケットに顔を埋めていた看板娘がおずおずと顔を上げる。

 殴られて青痣のできている頬、腫れ上がった左目、傷だらけでかつての朴訥とした可憐さなんてものが消えかかった顔。それを見るだけでも心が痛んだ。その上涙で顔はぼろぼろで、あんなにも優しかった微笑も今はない。

「あんなお前を見て見過ごせるわけがないだろう。お前を助けないわけにはいかないだろう」

 クロームが一歩、歩み出る。少女は震える足で一歩下がる。その顔には自嘲するような笑みがあった。看板娘にこんな疲れた笑いをさせてしまっている事実もまた、俺達の心を抉る。

 こんな顔ができない子だったように思う。

「あなたが勇者だからですか?」

 卑屈な問いだった。

 目を伏せ、涙を堪えるようにしながら看板娘は濡れた微笑を絶やさない。

 トリエラが行った仕打ちは、確かに少女の心を穢したのだろう。世界の悪意というものを少女に染み込ませたのだろう。

 横目でトリエラの様子を窺う。

 あいつは今も欄干で頬杖をかき、静観を決め込んでいる。ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて、俺達の苦悩を悠然と鑑賞していやがる。

 あいつだけは絶対に殺してやる。

「あなたが勇者だから助けたんでしょう? 私の気持ちなんてどうでもよくて、ただ勇者として助けなければいけないから助けたんでしょう? ただ自分が勇者であるために、私の気持ちなんて考えることもせずに助けただけ――」

「違うっ!」

 吠えるようにクロームは看板娘の言葉を遮る。勇者を勇者たらしめる威厳を具現化させたような衝撃さえ感じる声に、看板娘の肩がびくんと撥ねた。

「そうじゃない。そんなことのためだけにお前を助けたわけじゃない」

 力強い足取りで拳を握り締めたまま、クロームは看板娘へと歩み寄っていく。足早に近付いてくるクロームの拳を見て看板娘は暴力が来ることを予想し、肩を縮こまらせて目をぎゅっと閉じた。

 今、俺からはクロームがどんな顔をしているのかは分からない。もしかすると鬼のような形相をしているのかもしれない。

 それでもクロームは決して罪なき人に手を上げない奴だと俺は思っている。看板娘だってそれは分かっているはずだ。

 ただ、これまでに受けた容赦のない暴行が植え付けたトラウマが、人を一途に信じるという尊い感情を少女から奪っていた。

 そんなところまで哀れで、大切に取っておいた宝物をなくしていた時のような喪失感が、俺の胸にぽっかりと穴を空けている。

「勇者だから? 違う。そんなものはどうでもいい。お前の気持ちがどうでもいい? そんなわけがあるか。そんなことできるわけがない」

 クロームが近付くほどに看板娘は拒絶するように下がろうとするが、その場所から逃げだそうとはしていなかった。

 怯えた瞳がクロームをずっと凝視している。

 やがてクロームは看板娘の目の前で立ち止まった。あと一歩も踏み出さないうちに身体が触れ合ってしまいそうなほどの距離、クロームは看板娘を見下ろしていた。少女は勇者を見上げていた。

「どうして助けたか? そんなのは簡単なことなんだ。確かにこれはエゴなのかもしれない。でも勇者としてのエゴじゃない。俺としてのエゴだ」

 クロームの声音は先程までとは打って変わって柔らかいものであった。少女を気遣うような、繊細な声でクロームは語りかけていた。

「どういう、ことですか……」

 恐る恐る、少女が訊ねる。その最中、クロームは両手を少女へと伸ばし――

「お前が、俺達にとって大切な人だからだ」

 細すぎる裸身を抱き寄せていた。

 突然のことに肩から覗く少女の目は見開かれていた。状況をまだ理解しきれていないのだろう。

 俺だって理解できていない。

「え……?」

 看板娘が弱々しい声を漏らす。その声はあまりにも情けなく、瞳はきょろきょろと動き回って必死に理解しようとしている。

 抱き締められている。そんなことはとっくに分かっているんだろう。そんなことになったわけが分からないのかもしれない。

「ゆう、しゃ……さま?」

「お前が大切な人だから助けたいと思った。そこに嘘はない。俺達はお前に感謝している。ありがとう、本当にありがとう」

「そん、な……そんなこと……」

 クロームの両腕がより一層強く、看板娘の肢体を抱き締めた。その命を手放さないようにしているのか、その温もりを記憶に刻みつけようとしているのか、俺には分からない。

「わ、わたし……私は……」

「すまなかった。もっと早く助けにこれればよかった。いや、本当はこんなことになる前にお前達を助けるべきだった。……全て、俺の責任だ。俺達が無力だったばかりに……」

 クロームの声に感情の変化は見当たらない。いつも通りの抑揚の少ない声だ。だけど、どうしてだろうか?

 その声を聞く俺達の心には、苦い疼痛が生まれていた。

 あいつの背中がとても痛々しいものに思えて、見ているこっちが辛くなってくる。

 あいつはあの背中に、どれだけの十字架を背負っているんだろうか?

「そ、そんなことないです……! 勇者様は私達のために……」

「そこに何の意味があるというんだッ!」

 こんな時でさえ他人を気遣うような看板娘の言葉をクロームは遮る。びくり、と看板娘の細い肩が撥ねた。

「そこに……一体、何の意味がある?」

 クロームの声は僅かに震えていた。

 今までどれほどまでの感情を押し殺し、あいつは勇者としての振る舞いを続けていたんだろう。

 自分自身を壊してしまうほどの自責を抱え、襲いかかる不条理の責任を自分一人に背負い込ませ、それでも尚、勇者として毅然とあろうとし続けていた男が見せたあまりにも深すぎる苦しみを、俺程度が推し量れるわけもない。

「お前達のために戦おうとした。お前達を絶対に守ろうと決意した。そうして死に物狂いで戦った……。それでも、結果がなければ意味なんてない……。俺はお前の村を救うこともできず、みんなも救えず……今ここでようやく救えたお前の命さえ助けられずにいる……すまない……本当にすまない……」

 きつく抱き締められた看板娘はクロームの言葉で全てを理解したのだろう。

 今にも涙で滲みそうな声で謝るクロームの横顔を見つめ、やがて少女は安らかな笑みを零した。この状況には不釣り合いなほど穏やかで温かい、慈母のような微笑だった。

 少女は知ったはずだ。自分はもう助からないのだと。クロームの謝罪が全てを示している。

 なのに何故、あの子はあんなに穏やかなのだろう。

 力なく下ろされていた少女の両手が上げられ、優しく包み込むようにクロームの背中へと回される。

「クロームさん、私達のためにそこまでしてくれて、本当にありがとうございます」

 そっと静かに、子供でもあやすような声で看板娘はクロームに語りかける。クロームを抱く手は、ぽんぽんと穏やかなリズムで背中を叩いていた。

「そこまで想ってもらえただけで、私は幸せです。ありがとうございます、クロームさん。あなたの想いはムダなんかじゃない。私にとって、いいえ、きっとみんなにとっても十分すぎるほどのものです。ありがとう……本当にありがとう」

 死を目前にしていることを分かっているはずの少女の言動に、俺達は言葉を失っていた。

 なんで、こいつはここまで強くあれるんだろうか? なんで、こいつはここまで他人を思い遣ることができるんだろうか?

 少女の言葉を俺達の膿だらけの心さえ温かく包み込み、そっと癒していた。

 心から想う。こいつを喪いたくない、と。

 こいつが今ここで凄惨に死んでいくことを許容したくなかった。

 なんていう皮肉だろうか。

 勇者一行として持て囃されていた俺達は少女一人救うことができないというのに、何の力も持たない少女一人が俺達の心を救済している。

 おかしな話だ。

 三文小説みたいなもんだ。

 くだらない。

 なのに、なんで、こんなにも視界がぼやけるのだろうか……。

「俺は、お前達を救えなかったんだぞ……何故、責めない……? お前にはその権利がある……」

 それでも尚罰を求めるクロームに、看板娘はくすりと笑い、そっとその顔に頬を寄せた。

「クロームさんは助けようとしてくれた。勇者であるクロームさんにできないってことは、きっとそれは他の誰にもできなかったことなんです。だからいいんです。そんな私達を助けようとしてくれただけで。ね? クロームさん。いいんです。これで、いいんです」

 平凡な少女だと、出会った時から思っていた、本当にどこにでもいるような普通の少女で、特に目立った特技もなく、ひたむきさと純粋さだけが取り柄のような奴なんだろうな、と俺は決めつけていた。

 でも、実際はどうだ?

 この子は俺達よりもずっと強い心を持っているじゃないか。

 こいつの心に比べれば、俺達こそが凡人だった。力に頼って、何かを解決することしかできない俺達とは違う。こいつはその心だけで俺達を救っている。

 あまりにも情けない話だよな、本当に……。

「ね……だから、クロームさんは……世界を……うっ!」

 突然、看板娘の顔が苦痛に歪んだ。

 大きく膨らんだ腹部を押さえ、呻きを上げながらその場にしゃがみ込んでしまう。

「おい! どうした!?」

 即座にクロームが肩に手を置き顔を覗き込むが、看板娘は答えることもできずに苦痛に喘いでいた。

「いけません! もう時間が……!」

「クソ……ふざけやがって……」

 毒づいて、何かできるわけでもないのに、俺は看板娘へと駆け寄っていた。俺が行ったところで何かが変わるわけではないくらい分かっている。またなんかしようと考えることさえできずにいる。

 それでも駆け寄らずにはいられなかった。

「おい! 大丈夫か!?」

 そんなバカ丸出しの問いかけまでしちまう自分がみっともなくてしょうがない。どう見たって大丈夫なわけがない。それでも聞かずにはいられなかった。

 少女の全身からは汗が浮き出て、荒い呼吸をしながら呻き声を漏らしていた。押さえられた腹部がぼこぼこと蠢いている。胎内から何かが押し上げている?

 何が?

 分かりきったことだろ……!

 バカか、俺は……!

「が、ガンマさん……」

 呼びかけられて俺は顔を上げる。少女は激痛に顔を歪め、涙目になりながらも、それでも俺に笑いかけていた。

 どうしてなんだよ……なぁ……。

「なんで……お前は笑ってんだよ……」

「どうして、でしょう、ね…………うぐぅ……!」

 痛みの波が激しいのか、なんとか絞り出していた声も苦しみに掻き消されてしまう。

「ほ、ほら……わた、しみたい、な……なに、もできないひとは……じ、じぶんで、なに、かをする、なんてでき、できませんから……せ、せめて……わらって、ま、まえむきにいき、る……どりょく、をするし、か、ないんです、よね……あはは、なんて、いったみたり……」

「何言ってんだよ……!」

 こんな時でも笑っていられるものなのかよ……。

 少女の太股の内側を液体が伝っていく。破水? いや、僅かに紅が差している……血も混じっているのか……?

 立っているのもやっとのようで、俺とクロームの支えがあってようやく立っているような状態だ。

 この場合は……横にした方が楽になるのか……?

 クソ……! んなこと自分には一切関係ないと思って、調べたこともまともにねぇぞ……。

 どっちにしても無理に起こしておくよりは横にした方が楽だろうか……?

 どっちが正しいのか分からないまま、俺はとりあえず自分の判断で少女の身体をゆっくりと横たえてやる。

 胡座をかいた自分の脚に背中をかけさせ、頭を下から手で支える。

 少女の身体が小刻みに震えているのが、全身に伝わった。きっと俺なんかには想像できないほどの痛みが少女の中でお構いなしに暴れているんだろう。だというのに、少女は俺の顔を見上げて、必死に笑みを絶やさなかった。

「め、めんどうおかけ、します……」

「気にすんな……バカ。何かできることはあるか?」

 俺は年端もいかない少女に、なんで意見を求めてるんだろうな。いつもムダに回転している頭もパニくってるせいで思考を纏めてくれない。

 一番大事な時にどうしてこうなんだろうな。

「じゃ、じゃあ……ちょっと、てを、にぎってもらって……いい、ですか……?」

「あ、ああ……」

 力なく上げられた手を俺はなるべく力を入れないように握る。すると看板娘からは考えられないほど強い力で握り返された。

 少しばかり予想外だったけど、それでもその痛いほどの力に応えるように、俺も手に少しだけ力を込めた。

 そこに何の意味があるのかは分からないけど……。

 何故か俺に対して満足気に微笑みかけた少女は、首を巡らし傍らにしゃがみ込むクロームを見上げた。クロームは今にも泣き出しそうな顔で、それでも絶対に涙を一滴たりとも流さず、少女の顔を見つめていた。

「はぁ……はぁ……く、クロームさん……どうか、じぶんを、せめない、で……ください……。あなたが……あなたたちが……わたしたち、を……たすけよう、と……してくれ、た……。そ、それだけで……すご、く……うれしいんです……」

 いつの間にか駆け寄ってきていたセシウとプラナにも笑いかけた、看板娘は再びの激痛に歯を食い縛りながら呻きを上げた。

「こんな時にまで人のこと気遣ってる場合かよ……!」

「あは、は……それも……そうかもしれませんね……。でも、ほんとうに……そう、なんです……。だか、ら……みな、さんも……じぶんを、せめないで……くだ、さい……。みなさん、は……うっ……く……っ……なに、も、わるくなんて……ないんです……」

「もう無理しないでっ!」

 セシウがくずおれるようにしゃがみこみ、そのまま撓垂れかかるようにして看板娘へと抱きつく。その顔はもう涙でぼろぼろだ。

 泣きじゃくりながら縋るように抱きつくセシウの頭を、空いた手で撫でながら、やっぱり看板娘は笑っていた。

「セシウさん……ありがとう……わ、わたしなんかのために……ない、てくれて……。が、ガンマさんと……な、なかよく……して、ください、ね……」

「え……?」

 思いも寄らない言葉をかけられて、セシウは少女の顔を見つめる。涙で濡れて真っ赤になった瞳は、驚きに見開かれてる。

 まさか、俺もそこで名前が出てくるとは思わず驚いてしまっていた。

「おふた、りは……おにあい、ですか、らね……」

 そう言って、看板娘はまたにっこりと笑う。本当にこいつはどこまで経っても人の心配しかできないのか……。

 こんな時でさえお人好しすぎる看板娘の姿に、セシウは大粒の涙を流しながら口元を手で覆い、それでも必死に何度も何度も頷く。口を覆った両手、その指の隙間からは堪えきれない嗚咽が何度も何度も漏れていた。

 もう話すことも儘ならないんだろう。いや、一度声を出してしまったら、悲しみを抑えきれず声を上げて泣いてしまいそうなのかもしれない。

 看板娘は最後に、俺達の輪から外れて独り立ち尽くすプラナへと目を向けた。プラナは小さな拳がさらに小さくなってしまうほどにきつく握り締めて、唇を噛み締め、微動だにすることなく看板娘を見つめていた。痛みを我慢するような顔で、涙を堪えるように目を細めたまま、ただじっと弱っていく少女を見ている。

 今、あの子の小さな胸の中にはどれだけの悲哀が詰め込まれているのだろうか?

 俺には分からない。

「ごめんなさい……私には、貴女を救う術がありました。組成式も私の脳髄に保管されている。それでも私には貴女を救うことができない。私の力が足りないばかりに、私は貴女を見殺しにすることしかできない」

 薄情とも思えるほどに淡々とした口調で、プラナはただ事実を告げる。それは冷酷なことなんだろう。優しさとは程遠く、偽善で本人が悦に浸れるわけでもなく、また言われた側からその一瞬だけでも救われるような言葉でもない。

 それでも俺は責められない。

 今にも泣き出しそうな顔で、それを気取られないように抑揚をつけず話すプラナを誰が責められるか。

 今、こいつはきっと、看板娘に責めてほしいと思っているんだろう。自分のせいで救えない命から、責められ、罵られ、貶されてしまいたいのだろう。

 同じ事を二度と繰り返さないように、自分を戒めるために。

 しかし、責め苦を求めるプラナに対しても、看板娘は微笑みを絶やさなかった。それはある意味、最も残酷な仕打ちだったのかもしれない。

「わたしには……まじゅ、つのことは……よく、わからない、ですけど……でも、プラナさんがむり、なら、きっとそれは、しょうがな、いこと……なんです、よ。それ、に……みごろ、し、なんて……いわない、でください……。みなさん、に……看取ってもらえる、なんて……わたし、ぜいたくすぎじゃ、ないですか……?」

 えへへ、と看板娘は無理に笑ってみせる。時々苦痛に顔を歪めながらも、それでもまた力強く元気に穏やかに笑おうとする。

 それでも、俺の身体にかかる温もりはどんどんと重くなっていく。もう、自分の身体を支えることさえ難しくなってきているんだろう。だというのに左手は尚も俺の手を強く握り締めている。

 まるで残り僅かな生にしがみつくようにして……。

「……こんなすがた、を……みられちゃったのは、ちょっとはずかしい、けど……でも、あなたたちに、みまもられ、ながら……なら……いいじゃ、ないですか……。みにあま、る……ほど、ですよ……うあ……ッ!」

「こんな時に何を言っているんですか!? わ、私は……貴女を助けることもできないんですよ……!? 私のせいで……貴女は……!」

 未だに弱音を吐かず、責めることもしない看板娘にプラナが声を荒げる。でも、感情が堰を切って溢れてしまった以上、最早悔しさだけを堰き止めることはできず、少女の声は嗚咽に掻き消されてしまう。

 泣き顔を見せないようにプラナは俯き、フードを引っ張って顔を覆い隠す。それでもおとがいへと流れる涙の筋だけは隠せない。

「だれのせい、でも……ないです、よ……。プラナさん、も……わるくない、です……。だから、そんな……に、せめない、で……くださ、うっく……あぐっ……!」

 一際強い痛みに襲われたのか、少女の細い身体がびくんと撥ねる。握り合っている手に予想外の痛みが加わり、一瞬砕かれるんじゃなかろうか、とさえ思ってしまった。

 歯を食い縛り痛みに耐え、波を沈めようと少女は肩を上下させながら荒い深呼吸を繰り返す。

「ぷ、らな、さん……わたしたち、みたいなよわ、いひとたちにも、とっておきのおまじないが、あるん……ですよ……?」

「え……?」

「それは……ぷらなさんみたい……な……すご、いまじゅつしさまには、くだらない、ものかもしれない、けど……わたしたち、には……とっておきの、じゅもん……なんです、よね……」

 そうして少女は脂汗で汚れきって、ぼろぼろで弱々しい顔で、懸命に笑顔を見せた。

「それは……『ありがとう』……ていう、じゅもんなんです……。それだけ、で、みんな……しあわせに、なれるんです……だか、ら……ありが、とう……」

 ……なんで……なんでこいつはこんな状況で、俺達にお礼を言ってられるんだ?

 最後の最後まで責めてくれればよかったのに……。

 どうしてこいつはこんなに笑顔で……どうして俺達を憎まない……?

 それどころか、トリエラに対して恨み言さえ言いやしない。

 おかしいだろ……そんなの……。

「が、がんま……さん……? どう、して……そんなに、かなしそう、なんです、か……?」

「お前はどうしてそんなに笑顔なんだよ……」

 弱々しく問いかけてくる看板娘を見つめ、俺はかろうじて言葉を吐き出す。

 目の前に命があるのに、それすら救えない。分かりきっていた事実が、俺の心をずたずたに斬り裂いていた。

 俺の問いに、やっぱり看板娘は曖昧に笑った。

「どうして、でしょうね……? えへへ……」

 また看板娘の手に力が入る。今も激しい痛みを必死に耐えているんだろう。先程から何回も俺は少女の苦しみを感じていた。

 それでも笑顔を絶やそうとすることはなく、少女はできるだけ明るく振る舞っていた。苦しみを感じ取っていながら、何もできない自分が不甲斐ない。

「がんまさん……さいごに、ひとつだけ……わが、ままをいって……いい、です……か?」

「なんだよ……。なんでもしてやる……」

 どんな願いでも叶えてやりたかった。遠慮深いこの子の最期の我が儘一つ叶えられなかったら、俺達は本当に何もできないまま終わってしまう。

 せめて、何か一つだけでも、少女を満たしてやりたかった。

「わた、しを……すくって……くだ、さい……」

「え……?」

「たすから、ないのは……わかってます……。だか、ら……いちばん、ひどいすがたになっちゃ、う……まえに……おねがい、です……わた、しを……」

 それが……お前の最期の我が儘だっていうのかよ……。

 奥ゆかしく、謙虚で、朴訥としたお前が、最期に叶えて欲しい願いがそれなのかよ……。

 クソ……なんで、なんで……こんな子が……こんな目に遭わなきゃいけねぇんだよ……。

 こいつが何をした? 何がいけなかった?

 どうすればこうなることを避けられたんだよ……。

 もし時を遡れるのであれば、今すぐ摂理をねじ曲げて、こいつの手を引いて、他の全てを投げ出してでも救ってやりたい。

 村を捨て、森を抜け、山を越え、草原を駆け、できるだけ遠い場所へと連れて行ってやりたい。

 でもそれを少女は望まないんだろう……。

 躊躇に視線を彷徨わせるが、少女の縋るような瞳が視界の端にちらついてしまう。

 ……何を迷っているんだ、俺は……。

 間違った行為だってことは分かっている。正しいものではないことは分かっている。

 だけど、もしこの子がそれを望んでいるのであれば、俺は叶えてやるしかない。

 何より、この子の踏み躙られた尊厳、その最後の一片を守り通すために。

「……いいんだな?」

「……はい……」

 か細い声で、それでも力強く少女は頷いた。

 俺は他の三人の顔を見ることもなく、ただゆっくりとホルスターから銃を引き抜いた。

「ガン、マ……? 何してるの……?」

 涙に湿り震えた声で、セシウがおずおずと問いかけてくる。俺は返事をすることも、目を向けることもせず、慣れた手つきでセーフティを外し、口で遊底を押さえて弾丸を薬室へと装填する。

「ねぇ……? ガンマ……? うそでしょ……?」

 俺は答えない。

 セシウも分かりきっているんだろう。それだけが少女を救済しうる最後の手段だということを。

 だから、受け容れがたい真実を否定する答えを俺に求めていながら、決して力尽くで止めようとはしてこない。

 クロームも、プラナも、同じなのだろう。

 汗ばんだ手でグリップを何度も握り直す。そうやって避けられない結末を先延ばしにしながら、なんとか決心をつけようとしていた。

 でも、どんなにグリップを握り直しても銃は手に馴染まない。まるで銃さえもが行為を拒否したがっているかのように。

 でも、それじゃあ、ダメなんだよな……。

 せめて、出来る限りのことをしてやらなければならない。

 平素の力加減を忘れ、力任せに銃を握る。力みすぎているせいで銃口はかたかたと震えていた。

 情けない……情けないよな……本当。

 そんな頼りない銃を、俺は自分の膝の上に横たわる少女へと向けた。

 どこに銃口を当てるのか、しばし迷ってしまう。

 顔には向けたくなかった。死に顔は綺麗にしてやりたい。

 こんなに傷だらけになってしまっているけれど、それでも看板娘の顔を傷つけることは憚られた。

 なるべく苦しませずに死なせてやりたい。やっぱり、狙うのは心臓か……。

 少女の胸に銃を向ける。痛い思いを出来る限りさせないために、銃口は看板娘の身体から僅かに離した。

 でもそのせいで、銃はかたかたと震えていて、まともに撃てるかどうかも怪しかった。

 ……クソ……止まれよ……。

 震えてる場合なんかじゃねぇんだよ……。

 勇者の仲間なんだろ?

 こんな時くらい、らしく振る舞ってみせろよ……。

 演じるのは、偽るのは、得意じゃねぇのか?

 こんな時にできなくてどうするんだよ……。

 何度も何度も唾を飲み込んだ。口はやけに渇いている。咽喉に何かが詰まっているかのように息がし辛い。

 咽喉の奥からこひゅーこひゅーと掠れた呼吸音が聞こえる。

 だっせぇな……。

 そんな震える銃身を、そっと肌荒れの酷い繊手が握り締めた。水仕事ばかりでボロボロになってしまった看板娘の手だった。

「がんまさん……なきそうなかお、してます、よ……」

 くすくすと看板娘は悪戯っぽく笑う。もう憔悴しきっているっていうのに、どうしてそんな余裕があるんだろうか……。

 俺は――釣られたように、そっと笑みを零す。ちゃんと笑えてるかどうかは分からないけど、俺の中では笑っていた。今はもうそれでいい。

「うるせぇ……」

 俺は銃口を軽く振って、少女の手を払う。

 最後くらい、しっかりやらねぇとな……。

 銃はもう震えていない。震えてはいけない。

 引き金に指をかけ、そっと少女の心臓に銃口を向ける。

 もう誰も、俺を止めようとはしなかった。

 セシウも嗚咽こそ漏らしているが、覚悟は決めたらしい。

 ゆっくりとしんと冷えた夜気を吸い込み、肺の中に溜まった鉛のような空気を全て吐き出す。

 少女の目を見つめる。荒い呼吸を繰り返す少女は目に涙をいっぱいまで溜めながら、じっと俺を見つめていた。

 握る手に力が籠もる。怖くないわけがないんだ。こいつだって怖いに決まっている。それでも一人の人間として死ぬために少女が選んだのなら、俺はその選択に従うしかない。

 俺は、ゆっくりと、それでも決して力を緩めることなく、引き金を引いていく。

「ありが、とう……がんまさん――」

 俺は答えることはせず、ただ絡め合わせた視線だけは絶対に解かなかった。最後、引き金を一息で引き切る。

 ――大好き

 声が聞こえた気がした。

 でもその声は、銃声に掻き消され、現実のものなのかどうかさえはっきりとはしない。

 ただ、撥ねた鮮血が、俺の頬を叩いた。硝煙の匂いが鼻を衝いた。

 それだけは、間違いなく事実だろう。

 握り合った手に感じていた痛みを今となっては本当にあったのかさえ分からなくなるほどに綺麗さっぱりなくなっていて、少女の微笑みも今となっては消失した。

 消えた。何もかもが。

 あるのはただ一つ――人間の、亡骸だけだった。

 死に顔は、穏やかだった。

 眠るように安らかで、今にも目覚めそうなほどだ。

 顔を撃たなくてよかった、と思う。そんな顔で死ねたのなら、俺の行為も無意味ではないと思えそうだった。

 そんな思い込みも赦されそうだった。

 少女の胸の谷間を鮮血が滴る。止め処なく溢れた絵の具のような赤が、少女の白い肌を滑っていく。

 青に透けるような白い肌と赤黒い血液の対比はどうしてか美しく、惨いものとは思えなかった。

 ああ、お前の死は美しいよ。

 汚くなんかない。

 綺麗なままに死ねたよ、お前は。

 それで、よかったんだよな?

 問いかける相手も、答える人も、今はもういない。

 記憶に刻み込むように、事切れた少女の裸身を見ていくと、腹部に先程までなかったはずの突起物があった。

 黒い何かだった。腹部からまるで生えているかのように思える。

 目を凝らせば、すぐに分かった。

 それは深々と腹部に突き刺されたナイフの柄であった。

 今になって、頭はいつも以上に良好な動作をし始めていた。思考が冴え渡り、深く考えるまでもなくそのナイフの意味を理解することができた。

 クロームがやったのだろう。

 少女の胎内の卵が孵化することを防ぐために。

「……クローム……」

 俺は少女の顔に目を向けたまま、静かに呼びかける。

「……心臓が止まった後だ」

 言葉足らずなこいつの言葉も今は理解できた。ナイフは、少女が事切れた後に刺されたものだったか。それならよかった。無用な痛みを感じることはなかったんだろう。

「穢させたくなかった」

 腹部に深い傷はできてしまったけれど、魔物に胎内を蹂躙されるよりはマシだろう。少女が死んだところで、卵まで死んでくれるわけではないのだ。

 クロームの判断は正しい。この状況での行動としては何も間違っていなかったはずだ。それが全体として正しいわけではないけれど。

 もしかしたら、殺すことなんてせず、最後まで抗うべきだったという人もいるかもしれない。俺だってこれが善だとは思わない。

 だけど、俺は、もっと早く殺してやるべきだったとさえ思ってしまっていた。こんな苦しみを受ける前、できるなら触手に拘束され意識を失っていた頃に、何も知らないままで殺してしまうべきだったのかもしれない。そうすれば余計に苦しむこともなかっただろう……。

 俺はそっと絡み合わせた、少女の手を外す。そうして少女の身体を少しだけ持ち上げ、胡座をかいていた脚を引き抜いて、そっと地面に横たわらせた。

 立ち上がり、未だにその場に座り込み、見開かれた瞳で看板娘を見つめ続けるセシウへと目をやる。

「……そいつを……頼む……」

 セシウは返事をしなかった。

 あまりにも辛いことばかりが起こりすぎた。茫然自失となってしまうことを責めるつもりはない。そうなる気持ちも分かるし、そんな状態に陥ることができる正常さに安心さえした。

 代わりにプラナへと目を向ける。プラナもプラナで今にも泣き出しそうな顔でわなわなと震える唇を力一杯噛み締めていたけれど、それでも確かに、力強く頷いてくれた。

 あの子は、二人に任せよう……。

 俺達は、俺達のするべきことをしよう。

 看板娘を背に向け、セシウの脇を通り過ぎ、俺はエントランスホールの最奥を睥睨する。隣にはいつの間にかクロームが立っていた。

 何を言うこともなく目配せをし合うこともなく、俺達はただあいつを睨み付けていた。

 今もまだ、艶然と上機嫌に微笑み続けているトリエラを。

 煙管から紫煙を漂わせながら欠伸をかいていたトリエラは俺達の存在に気付き、くすりと子供のように笑った。

「あら? もう終わりましたの? 青臭すぎて、退屈で、飽き飽きしてましたの。冗長なのは嫌いですわよ。もう少し乱れてくれれば面白かったというのに」

 俺もクロームもトリエラの言葉には答えない。ただ示し合わせたわけでもなく、俺達二人は同時に歩き出していた。

「ガンマ……分かっているな」

「分かってるよ」

 もう、殺さない配慮なんてしてられる状態じゃなかった。

 仮にも勇者一行。一般人を殺すことは出来る限り避けたい。例えそれが殺人鬼であろうと極悪人であろうと、生かして捕まえるようにありたかった。

 悪を裁く権利を持っているからこそ、それを濫用せずにいたかった。

 だけど、それももう限界だ。

 俺もクロームも、あいつを殺さなければ気が済まない。八つ裂きにしてやらなければ収まらない。

「勇者の名に懸けてあいつを倒すのはやめにしよう。俺は、クロームとして、あいつを――殺す」

 言い切る頃にはすでにクロームは駆け出していた。おそらく駆けたのだろう。その経過を俺は観測できなかった。ただ、クロームがトリエラに斬りかかったというその結果から逆算して、駆けるという経過を算出したにすぎない。

 クロームの剣が振り下ろされたという経過を、斬りかかったクロームを包み込むように湧き上がった塵埃と響き渡る轟音から認識する。

 ホールの一番奥にある階段の踊り場はあっという間に煙に包まれ、金属と金属がぶつかり合う音が何度もそこから聞こえてくる。

 おそらく、クロームの剣をトリエラが煙管で防いでいるのだろう。

 俺は五感で感じる情報から、現状を把握することに努める。

 そうして次に取るべき行動を割り出す。

 一定のリズムを以て鳴り続けていた甲高い金属音――そのリズムが僅かに乱れる。ほんのコンマ数秒のズレを感じ取り、俺は煙の向こう、クロームがいるであろう場所、その背中側目掛けて引き金を引いていた。

 耳を叩く銃声。放たれた弾丸は螺旋状に空気を裂きながら駆け抜け、湧き上がった煙の中へと飲み込まれていく。

 湿り気を帯びた短い音が聞こえる。

 銃弾が何かを撃ち抜く確かな手応えを俺は第六感で感じ取っていた。

 となれば、次に取るべき行動も見えてくる。あいつは俺の敵対行動を痛みと共に認識したはずだ。どうする?

 俺は振り返らないまま、背後に銃を向け引き金を引いていた。

「あぐっ!」

 後ろから、今俺を最も苛立たせる声が聞こえてきた。確かな手応えを感じながら、俺は振り返る。そこには右腕を押さえて顔を歪めるトリエラがいた。

 こいつはいつも俺達の背後に回るように現れていた。考えれば分かることだ。

 まあ、振り返らない分、急所は狙えなかったけどな。

 当たったのは上腕の中程か。押さえた手の隙間から紅い血が滴っている。

「どうして……」

「黙ってろ」

 痛みに喘ぎながら問いかけるトリエラの言葉をただそれだけで切り捨てる。

 まだ、足りない。まだこんなものじゃない。

 あいつが受けた痛みはその程度のものじゃない。それでもあいつは最期まで笑っていた。

 貴様が痛みに苦しむような素振りを見せる、それ自体が最早おこがましい。

 俺は脚を振り抜き、トリエラの顔面を蹴飛ばしていた。小さな身体がいとも容易く吹っ飛び、大理石の床を転がる。

 髪を纏めていたシュシュが外れ、纏められていた髪が崩れた。汚れた床に広がる紫苑の長髪。

 トリエラは髪を整えることもしようとせず、覚束ない動作で立ち上がろうとするが、撃たれた右腕が痛むのか、身体を支えることができていない。

 床に伏せた頭をのろのろと動かし、トリエラは怨むような目で俺を睨み付けてくる。

 だから? それで? どうしたっていうんだ?

 俺は銃を構え、何食わぬ顔でトリエラの両脚、脹ら脛の部分を撃ち抜く。

 絹を裂くような悲鳴が耳を打つ。しったこっちゃない。

 貴様には悲鳴を上げる権利もない。それはあの子さえ上げなかったものだ。お前が叫ぶ権利など万に一つも存在しない。

 目の端に涙を浮かべながら、トリエラはそれでも俺を見上げて、くすくすと蠱惑的な笑みを見せる。

「あらあら……怖いお顔ですこと。何をそんなに怒っているの? あんな小娘一人殺したところで、何も変わりはしないでしょう?」

「ふざけんな」

 低く唸るように言い放つ。脅すような俺の声に対しても、トリエラはくつくつと咽喉の奥で笑ってみせた。

 飾りもないリトル・ブラック・ドレス――そのスカート部分に穿たれた二つの穴からは紅い液体が浩々と広がっている。

 早く泣き叫んで、命乞いでもしてくんねぇかな。いたぶり甲斐ってもんがねぇ。まあ、気丈に振る舞ってる奴を屈服させるのも嫌いじゃねぇけどさ。

「不思議ですわね。うふふ。村人をたくさん殺した時より、たかだか一人の小娘死んだ時の方が、貴方の憎しみは深い。どうしてかしらね? 勇者の仲間も、人の命を天秤にかけていらっしゃるのかしらね? うふふ」

「黙れ」

 不快な言葉を囀るトリエラの左肩を撃ち抜き、強引に黙らせる。

 トリエラが短い悲鳴を上げた。剥き出しの薄い肩からは鮮血が溢れ、白い肌を穢していく。

 もっと汚れてしまえばいい。

 乱れて床に広がる髪の毛先が血溜まりへと触れ、紫に紅が浸透していく。

「あは、は……うっ……ぐっ……うふふ、貴方達も私達と同じよ。人の命に値札を付けてる。貴方にとって、あの小娘は他の村人達よりも有益な人間で、私達にとってあの命は全て無価値だった。それだけの違い。やっていることはきっと何も変わらない。きっと貴方もいずれ同じことをする。もうしているかもしれない。だって、貴方は私の命は無価値だと踏んでいるから、こんなことをするんでしょ? うふふ。同じよ、同じ。全部同じ」

「ああ、そうかい。それがなんだ」

 俺は倒れ伏すトリエラへと歩み寄り、その腹部へと爪先を叩き込んだ。

 腹部へと走った衝撃にトリエラの目が見開かれる。くぐもった声が漏れ、蹴られたせいで赤く腫れていた頬がリスのように膨らむ。

「うぷっ……う、うえ……ッ」

 堰き止めて呑み込もうとしていた嘔吐物がトリエラの小さな口から吐き出される。大理石の床へと垂れ流される嘔吐物の中には消化しきれていないものも多く、その気になれば今日の食事のメニューまで分かりそうだ。

 結構いいもんを苦ってんだろうな。随分な量を吐くじゃねぇか。

 うつ伏せになったままのためトリエラの顔は床に広がった嘔吐物に汚れていた。いい気味だ。見苦しくてお似合いじゃねぇか。

「きったねぇな……クソが」

 俺の嘲笑混じりの罵声に、一頻り胃の中身を吐き出し終えたトリエラはぐったりとした顔で俺を力なく見上げてくる。

 嘔吐っていうのは案外、体力を使うもんだからな。

 疲れ切った目は俺の心を優越感に浸らせる。

 口の中に残った胃液をぺっと吐き捨て、トリエラはふんと鼻を鳴らした。

「……貴方、いい顔してるわ。悪人にお似合いの顔よ」

「うるせぇ」

 まだ抵抗の意志が残っているらしい。まだ痛めつけられそうだな、こりゃ。

 そう判断して、俺はトリエラの床に散らばった髪の一房を引っ掴み、強引に持ち上げる。髪を引っ張られる痛みにトリエラは顔を歪め、少しでも痛みを緩和しようとやむを得なく身体を起こした。

 髪に吊られて力なく立ち上がったその姿は、糸の切れた操り人形のようだ。右の頬は蹴られて赤く腫れ、左の頬は嘔吐物塗れ。髪も乱れ、ドレスの肩紐はずれ、先程までの気品なんてどこにもない。

「うふふ、それが本当の貴方っていうことかしらね? とても活き活きしてるわよ? 勇者の仲間なんて、本当はやりたくもない立場なんでしょう? 自分を押し殺して、周りになんとか合わせて、凡庸を気取ってるけど、本当の貴方は今なんでしょう? どうして無理に合わせているの? 全て解放してしまえばいいじゃない。うふふ、押し殺したところで本当の貴方はいずれ露わになってしまう。そうして全て喪ってしまうのは分かりきっているじゃない。なら、最初から隠さなければいい。ずっとそっちの方が楽よ」

「何訳分からないこと言ってやがる」

「だって、貴方、今嗤っているもの」

 ……何を訳の解らないことを言っているんだ。

 俺は今、憤怒にかられている。あの子を痛めつけたこいつを、止め処なく溢れる憎悪に身を預けて殺そうとしている。

 そんな俺が笑っているわけがないだろう。

 俺の顔は殺意に歪んでいる。そうあるべきだろう。

 俺の心を読み取っているかのように、トリエラは目を細め俺を嘲った。

「無理しなくていいわ。いいのよ。あの子のため、そういう理由があれば、貴方は本当の貴方を存分に解き放てるんでしょう? あの小娘の死を利用して、好きなだけ自分の欲望を満たせるんでしょう。いいじゃない、それで」

「黙ってろ!」

 俺はあいつの死を利用なんてしていない。俺は本当に、あいつを弄んだこいつを殺したいと思っている。

 ただ、それだけのはずなんだ。

「貴方、きっと魅力的な悪党になるわ」

「ふざけんなっ!」

 叫んだ途端、俺の手から柔らかい髪の感触が消え失せた。はっとなって顔を上げるが、そこにはもうトリエラの姿がない。

 クソ……逃げられたか……。

 さっきのは逃げるための隙を作るための芝居だったのか?

 ふざけたこと抜かしやがって……。

 気にするな、あれは嘘だ……。俺はこの状況を楽しんでなんかいない。

 今はあいつを殺すことに集中しろ……。騙されるな。これじゃ相手の思う壺だろう。

 殺すことだけを考えて行動しよう。せめて今だけでも意識の外に置いておこう。

 ふと、ホールの中心から金属が打ち合わせられる音が耳を劈く。クロームとトリエラが再び交戦を再開したようだ。

 視線を向けると、トリエラからは傷が消えており、髪も整い、嘔吐の後さえ残っていない。

 自身の再構成は、全ての状態を初期化できるわけか……。面倒な相手だな、こりゃ。

 対処法が見つからなければ倒すことも難しいぞ……。

 どっちにしろ、俺もクロームに協力しなければな。

 クローム一人に任せるわけにはいかない。剣と煙管をぶつかり合わせる二人の元へと俺も駆け出す。

 クロームのデュランダルとトリエラの煙管がぶつかり合い火花を散らす。同時にクロームは左手にレイピアを精製し、トリエラの心臓目掛けて突きを放つ。しかしレイピアは虚空を穿ち、トリエラの姿は忽然と消えている。

 背後にトリエラが再構成され、クロームの後頭部に向かって煙管を振り上げた。

 まずい、と思ったその瞬間、宙を舞ったのはトリエラの右手――二人の間にはカトラスが突き刺さっていた。

 上空に精製した剣を飛ばしたらしい。

 一拍遅れて、肘から下を切断されたトリエラの右腕が地面にぼとりと落ちる。

 腕の断面から血飛沫が舞う。すぐさま飛び下がろうとするトリエラにクロームが振り返りながら、剣を振り抜く。

 左腕の手首が斬り飛ばされ、鮮血が迸った。

「うぐっ!」

 さらに左手に構えたレイピアの刺突がトリエラの右肩へと突き刺さる。同時に上空で銀色の閃光が走り、三振りの剣が精製され、トリエラへと降り注ぐ。

「ふざけた真似をっ!」

 トリエラの姿がエーテルに分解され、俺達では視認できないレベルの極小の粒子レベルへと成り果てる。飛来した剣だけがクロームの目の前に虚しく突き刺さる。次に再構成されたのは、宙へと舞い上がった自身の左手首のすぐ側であった。

 両手のないトリエラは器用にも手首に噛み付き、すぐさまエーテルへと分解される。

 そして地面に落ちた右腕の前に再構成されたトリエラは繋ぎ合わされた左手で腕を掴み、止める間もなく消え失せた。

 ……クソ……切断しても無意味なわけか……。

 ふざけやがって……。

「斬っているのにキリがないな」

 遅れた駆けつけた俺に、クロームはそんな自嘲的な皮肉を呟く。

「試し切りには丁度よさそうだな」

「その発想はなかったな。どれ、では試してみるとするか」

 言って、クロームは左手のレイピアをエーテルへと分解し、新たなる剣を精製する。再現されたのは、刀身の幅が俺の肩幅と同程度の広さを持つ大剣だった。刃に当たる部分は全面が鋸のような細かい歯となっている。

「なんだその剣?」

「いや、《万物の記録(アカシックレコード)》に記録されているものでな」

「なんでもあんだな……」

「だろう。人間相手に切れ味を試すいい機会だ」

 クロームの唇の端が不敵に吊り上がった。まるで肉の裂け目のような不気味な笑みに、俺の背筋がぞくりと震える。

 ギラギラとしたクロームの眼の輝きに嘘はなかった。

 餓えた狼のような捕食者の笑みだ。

「全く……勇者の名前も本物のようですわね」

 トリエラの声がホールの奥から聞こえる。また、踊り場に戻ったようだ。突如現れたトリエラに、その場でしゃがみ込んでいたベラクレートが引き攣った声を上げて飛び退く。

 全く、完全に空気だな、あの男は。

「タネのない切断マジックをやるつもりはない。いい加減、斬り捨てさせてもらうぞ」

「できるのならどうぞご自由に」

 クロームの言葉にトリエラはにっこりと微笑み、煙管から紫煙を呑み込み、虚空へと吐き出す。

 やはり、傷一つない。俺が蹴った頬も今はもう真っ白だ。

 クロームが斬った腕にだって傷跡は見えない。

 殺すという心で向かっていってはいるが、それができないんじゃ意味がない。

 あいつは一撃で絶命するような傷さえ負わなければ、いくらでも逃げられるんだしな。

 普段の立ち回りはおざなりだというのに、致命傷に関してはきっちり避けていきやがる。

 分かりきっていたが面倒な相手だ。

「どうせ、貴方達には勝てないんですもの。今は亡きお嬢さんのために精々意趣晴らしすればよくてよ。何回撃っても斬っても、ムダですものね、うふふ」

 あんにゃろう……ふざけたことばかり言いやがって……!

 あいつはきっとあの子の死なんて何とも思っていないんだろう。村人の死さえどうでもいいに決まっている。

 むしろほんの暇潰し程度のことなのかもしれない。

 だからこそ、赦すわけにはいかない……。

 クロームも最早挑発を聞き流す余裕がなくなっているらしく、歯を食い縛り静かに一歩踏み出す。

「ふざけるなよ……貴様に――」

「いい気になるのもいい加減にしろ、この雌猫がぁっ!」

 突然の咽喉を枯らすような怒鳴り声に、俺もクロームも眼を瞠る。トリエラもまた同様だった。

 視線がホールの最奥、トリエラよりもさらに向こう側、手摺りに縋るようにして立ち上がったベラクレートへと向けられる。

 腰が抜けているらしく手摺りに完全に寄りかかったベラクレートは恐怖か怒りのどちらかに唇をわなわなと震わせながら、人差し指を突き付け血走った目でトリエラを睨み付けていた。

「どうかなさいましたの? ベラクレート卿?」

 呆れかえったトリエラはため息混じりに、それでも慇懃な口振りで肥え太った豚へと問いかける。

「何を気取っているんだ! 私は、貴様が私を不老不死にするというから、この計画に手を貸してやったんだぞ!? なのに、これはなんだ!? 貴様らのせいで勇者なんぞに目をつけられてしまったではないか!」

 トリエラがうんざりした顔でもう一度ため息を吐き出し、両手を広げて肩を竦める。この世に数ある呆れの感情表現を出来る限り詰め込んだような呆れ方だな。

「あー、はいはい。勇者はどうせ殺すのですから、それでいいじゃありませんの」

「だったらさっさと殺せぇっ! 余裕ぶっている暇があるのならさっさと殺せ! この雌猫が! そして早く私を不老不死にしろっ! あんな屑どもはどうでもいいが、私の使用人まで差し出したんだ! 何が何でも永遠の命にしてもらうぞ!」

「はぁ……はいはい。やればいいんでしょう、やれば」

 額に手を当て、おざなりに返答したトリエラは煙管を指先でくるりと一回転させる。雁首の先端、煙の吐き口にぽうっと青白い光の球が浮かび上がった。

 あれは……さっきも見た村人の魂じゃねぇのか?

 嫌でも視線を惹きつける魔性の魅力を持った光球を凝視し、ベラクレート卿は気味の悪い引き攣った笑声を漏らす。

「おお……そう……それだ……! それを早く私に寄越せぇっ!」

「はい、承知致しましたわ」

 トリエラは煙管を片手にベラクレート卿へと歩み寄り、雁首を脂ぎった額へと近づける。

「それではベラクレート卿、さようなら」

 途端、煙管を勢いよく振り上げたトリエラはその先端を力任せにベラクレート卿の眉間へと叩き込んだ。

「う……うが……! な、何を……」

「ベラクレート卿申し訳ありませんのぉ。実はぁ、魂は当然のようにぃ、高濃度エーテルのぉ塊であるわけでしてぇ――よっぽどの才能がない限りぃ、肉体も精神も保たないんですぅ。すっかり忘れてましたわぁ。すみませんですのぉ。私ったらドジですわぁ、あは!」

 媚態を作ってわざとらしい謝罪をするトリエラに、ベラクレート卿の目が見開かれる。

 まんまと騙されていたわけか。あのおっさんも。

「ガンマよ」

「あんだよ」

「俺は今、非常に不服であるがトリエラに賛辞を送りたい」

「あー、俺もだ。いい気味だぜ。精一杯感謝の宴を開いた後に参加者全員であの小娘をタコ殴りにしてやりたいくらい感謝してる」

 別に良心は傷まない。永遠の命だとかいう幻想のために、罪もない村人を犠牲にしたような奴だ。

 どうにでもなってしまえばいい。

 殺す手間が省けただけのことだろう。

 ベラクレートの額に青白い球が沈み込んでいく。肥え太った芋虫のような指が自身の額に爪を立てて、何とか掻き出そうとしているが脂ぎった表皮が掻き取られていくだけだ。

「魔女が……! 騙しおったな……!」

「仕方ありませんわぁ、ベラクレート卿。大いなる犠牲の上に成り立つのが成功とは限りませんのよぅ。うふふ、来世への教訓になったではありまんかぁ。よかったですわねぇ。来世は家畜としての人生をお楽しみあれ」

「お、のれ……雌猫が……」

「雄豚に言われたくないのですわぁ」

 恨み言も冴えないベラクレートの額にエーテルの塊は完全に沈み込んだ。同時にベラクレートの両目から、口から、鼻から、耳から、眩いほどの光が溢れ出す。

「うごあ……!」

 ベラクレートのぶくぶくと太った身体がよろける。光はさらに強さを増し、豚の全身さえもが光り始める。

「肥えた豚が光源でなければ綺麗だったな」

「肥えた豚じゃなけりゃな」

 俺もクロームも、大してベラクレートの末路に興味はない。クロームもいくら勇者といえど、あいつの犠牲に心を痛めるつもりはないようだ。フリをするのもバカらしいしな。

 光は尚も弱まることを知らず、ホール全体を照らすほどだ。あまりの眩しさに俺も目を細めずにはいられない。そうして一際眩い閃光が破裂するような音と共に瞬き、俺とクロームは手で光を遮り目を閉ざした。

 ベラクレートの断末魔の叫びが聞こえた気がする。それも濡れた破裂音が邪魔してよく聞こえやしない。聞きたくもなかった。

 光が過ぎ去り、ちかちかとする眼で何度か瞬きをして周囲を見渡す。ベラクレートはどうなっただろうか?

 踊り場の方へと目を向けると、そこには変わらずトリエラの姿があった。そしてその背後は恰幅のいい人型……まさか、成功でもしちまったのか?

 しかしその予想が外れていたことは、人型のシルエットを観察することですぐに分かった。

 頭から生えた奇妙に曲がりくねった二つの角、広すぎる肩幅、前のめりになっているため分からなかったが身体もベラクレートより遙かに大きい。顔の中心には平べったい鼻があり、二つの穴からは荒い息が絶え間なく漏れていた。

 ……ありゃ……なんだ?

「うふふ、よかったですわねぇ、ベラクレート卿。生まれ変わる前から家畜になるなんて思いませんでしたけど」

 トリエラが実に愉快そうに上機嫌な笑声を零している。

 ありゃ……ベラクレートだったものなのか……?

 人と豚を足して割ったような姿の化け物が鼻を鳴らす。円らな両目は血走っていて、涎を振り撒くだらしのない口からは鋭い牙がはみ出していた。

 剥き出しの身体は分厚い筋肉に覆われ屈強で、腰にはベラクレートが着ていたものと思われる豪奢な布が巻かれている。

「何がどうなってんだよ……こりゃ……」

「何ってベラクレート卿ですわよ。少しワイルドになってしまいましたけれど、こちらの方がずっと魅力的ですわ」

 何がそんなに面白いのか、トリエラは楽しそうに笑い煙草の煙を味わっている。これも予測済みの事態だったわけか……。

「イメチェンにもほどがあんだろ……」

「笑えない冗談だな」

 俺の苦し紛れの冗句をクロームは鼻で笑う。

「笑える冗談があんなら俺に教えろよ、この状況でさ」

「そんなことに頭を悩ましている暇があるか。もっと有益な事を考えろ」

 言って、クロームは剣を構える。

 豚の化け物もそのつもりらしく勇ましいことに踊り場から直接飛び降りて、ホールへと着地する。大理石の床がその重量と衝撃にひび割れ盛り上がる。

 うへぇ……ぞっとするね……。

「相手が人間なら良心も痛むが、化け物ならば容赦なく斬れる。都合のいい相手だ」

「ああ、いいねぇ。ぶった斬るだけでいい奴はさぁ。羨ましいよ、本当」

 何にせよ、あれはトリエラの忠実な下僕と化しているらしい。生かしておく価値もない。

 遠慮なく戦わせてもらおう。

 なんでこう次から次へと面倒が増えるのかね……。

 化け物の雄叫びがホールに響き渡り、俺達へと突進してくる。俺は銃を構えながら後ろに下がり、クロームが駆け出す。

 誰も救えず、救われない戦いは月さえ見守ることもなく続いていく。勝者なんてどこにもいないんだろう。

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