#A757A8 Th―群咲の魔女―
ベラクレートの屋敷へと向かう最中、いくつか覚えのある場所に立ち寄ったが状況は惨憺たるものだった。この状況で無惨ではない景色を探すことの方がバカげているんだろうけどさ。
酒場にも立ち寄ろうと思ったのだが。それはプラナによって制された。考えてみりゃ、あそこのすぐ側に大魔導陣は設置されていた。最悪、魔界に飲まれた可能性もある。
確認してみたい気持ちはあったけど、さすがにいつ新たな魔物が湧き出すかも分からない場所に向かうのは無謀だと判断し諦めた。この調子だと宿も絶望的だろう。
あの子の花環も今となっては枯れ果てたはずだ。
俺達は普通に活動できているけれど、魔界の大気が含む高濃度のエーテルは人間にとってかなりの毒物である。一般に障気と呼ばれるものだ。
三時間もいりゃ簡単に死ぬことになる。
植物だって例外じゃない。今頃朽ち果てているのがオチだろう。
そういった意味でも、村人が生存している可能性は絶望的な数値だった。
俺は二時間ほど、気を失っていたらしい。プラナ曰く、一歩間違えば死んでいたほどの重症らしいので、よくそれだけの時間で起きられて、また今こうやって活動できるな、とさえ思う。
プラナの才能には感謝してもしきれない。その力を少しでもあの少女に向けられたのなら、何か違っていたのだろう。
今となってはどうしようもない仮定だな。
クロームとプラナは俺が気絶している間に、魔界から現れた魔物を討伐していたらしい。クロームは最も身体への負荷と戦闘力が釣り合った、《旧い剣》の八小節解放の状態で戦い続け、プラナも魔術を駆使して村中を奔走していたそうだ。それでも村人を助けきることはできなかった。
たくさんの村人が目の前で死んでいったらしい。
当たり前だ。どんなに二人が卓越した戦闘能力を持っていたところで所詮は人間が二人。村人全員に覆い被さるようにやってきた厄災全てを振り払うことなんてできやしない。
魔術が発動してしまった時点でこの結果は当然だと言える。
それでもクロームは村にいる魔物のほとんどをすでに狩っていた。俺が倒したあの獅子は、残り僅かな魔物で一匹であったというわけだ。
魔術が発動した当初には、村中を魔物が闊歩していたそうだ。
それをたった二人でここまで殺してみせた。本当にこいつらは化け物じみた力を持っていやがる。
先頭を歩くクロームの背中を見つめる。
今あいつの胸の中に去来している感情はなんなんだろう。
ふと、そんなことを考える?
後悔? 自責? 憤怒? 憎悪? 悲哀? 無力感? 虚無感?
今あいつの背中からそれを読み取ることはできない。ただぴんと伸びて、弱さを欠片も見せない背中がある。
俺とクロームの間を並んで歩く、セシウとプラナの様子を窺う。セシウはすでに憔悴しきっていて足取りが頼りない。そりゃそうだ。こんな短時間の間にこいつが経験した苦しみは計り知れない。辛いに決まっている。むしろ立ち止まらずにいることを俺は賞賛したいくらいだ。プラナもプラナで魔術を多用したためか疲弊の色が見える。ただでさえ白い顔色は蒼白に近く、ただ歩いているだけなのに息が荒れている。魔術が身体にかける負担はそれほどまでに大きいのだろう。
全員が追い詰められていた。精神的にも、肉体的にも、限界が近かった。
辛うじて俺達を支えているのは、使命感と意地でしかなくて、一番の拠り所で使命感なんてのは最早ハリボテ同然だ。守るべき者などここにはもういないし、果たすべきことを果たせてもいない。
俺達は失敗した。失敗したのだ。
その事実から目を背けて、ベラクレート卿に問い質すという勇者一行の格好をつける行動を見つけて、そこに縋るしかない。
あまりにも危うい均衡だった。
なまじ有能で失敗のなかった連中だ。今までの旅では全てが丸く収まってきていた。ただ必死に、懸命に戦えば、成功というものがやってきてくれていた。だからこそ、今回の大失敗は三人の心に重くのしかかっているはずだ。
失敗ばかりの俺でさえかなりきているものがある。こいつらはそれ以上の苦しみを味わっているんだろう。
ふと、俺の視界の端で何か黒い影がちらつく。誰か生きている奴がいると思って視線を向けた瞬間には、黒い影が俺達へと駆けてきていた。
魔物だった。
猿のような、でもそれよりもよっぽど獰猛な形相をした、魔物だった。
地面を蹴って俺達との距離を詰めた猿は、そのままクロームへと飛び掛かり――
飛来した銀色の剣に頭部を突き刺され、絶命した。
クロームは顔一つ動かしていない。ただ歩くという行為を続けながら片手を振って、再現した剣を魔物へと飛ばしただけだ。
特に何かを言うこともなく、クロームは歩き続ける。セシウとプラナも何も言えない。一番後ろを歩く俺も、言えるわけがない。
ただ、その背を追う以外に何もできなかった。
額を割られ絶命した猿の顔が俺達を嘲笑っているように思えた。
ベラクレートの屋敷の敷地内は思いの外静かだった。広大な庭が広がるその空間の中で、耳が痛くなるほどの静寂を纏い、森厳と佇んでいる。まあ、庭って言っても、今や息づいていたはずの植物たちは全て枯れ果て、更地同然なんだけどな。
紫色の霧に包まれたそこはまるで魔城のようで、本当に魔王を討伐しに来た勇者みたいだな、なんていう逃避的な思考さえ浮かんだ。
クロームは歩調を早めることも、緩めることもなかった。逸りも躊躇もなく、正面からベラクレート卿の屋敷へと進んでいく。
足下に散乱していた村人の亡骸がいつの間にか兵士の亡骸へと変わる。上半身と下半身を引き千切られた兵士、頭部だけを持っていかれた兵士、最早四肢の一部しか残っていないものもあったし、血溜まりに鎧だけが倒れ込んでいるものもあった。きっと、溶かされたかね。
こいつらも、まさか、自分達が被害に遭うとは思っていなかったんだろうな。当然のようにベラクレート卿を信じ、使命を果たそうとしていたはずだ。
こいつらの心がどうであれ、間違いなく連中も被害者なんだろう。
加害者は、どいつなんだろうな。
ふと、上空から奇声が聞こえ、弾かれるように素早く顔を上げると、そこには俺達目がけて急降下してくる怪鳥の姿が――次の瞬間には無数の剣にブッ刺され、血飛沫を上げる肉塊だけがあった。
これもまたクロームのやったことだろう。
力を失い地上に墜ちる怪鳥を振り返ることもなく、クロームは未だに進み続けている。
まずいな……。
クロームの奴、相当キレてる。
感覚が鋭敏になりすぎだ。それじゃ長くは保たないだろう。
かといって何か忠告すれば先程の猿や怪鳥と同じ末路を今度は俺が辿ることになりそうだ。
ここで調和が乱れるのはまずい……。
黙ってるのが一番なのかね、結局。
そんなことを考えている間に俺達は屋敷の前にまで到達していた。クロームは立ち止まらずに鞘から剣を引き抜き、豪奢な扉に向かって振るう。神速の太刀筋を目で追うことは叶わず、次々と扉に刻まれる直線だけが剣を振るっているという事実を伝える。気付いた時にはクロームの剣は腰の鞘にあり、そのまま呼吸を整えることもなくクロームは扉を蹴り飛ばした。
無数の断片へと寸断された扉は呆気なく瓦解し、俺達に目配せをすることもなく、クロームは屋敷の中へと踏み行っていた。
……こりゃ、誰にも止められねぇな……。
さあて、悪魔城への入城だ。一体どう出てくるだろうか。
なにせここは敵陣の真っ只中。何が仕掛けられていてもおかしくない。
俺は神経を研ぎ澄ませ、周囲を警戒する。
正面玄関を蹴破った先には、エントランスホールが広がっていた。下手人としてここに突き出された時は、シャンデリアの輝きに照らされて眩しいくらいだったのに、今は一切の光もなく廃墟のような様相を呈していた。
目視ではあまり状況が分からないとはいえ、内装はすでに記憶している。広いホールには二列に整列した円柱が並び、足下には黒と白のタイルが規則正しく交互に敷き詰められている。
両側には各部屋と通じる扉が並び、最奥には一際大きな扉がある。その扉を囲むように緩やかな弧を描いた階段が二つ、吹き抜けの二階へと伸びている。
見たものはなんでも記憶しちまうのは俺の癖だ。一回来ただけでも、間取りは意識せずとも記憶できる。
そういう風になっちまってるからな。習慣のせいで。
閉め切られていたのだろうか。濃厚な血の臭いが鼻を衝いた。最早嗅ぎ慣れてしまった臭いだった。
……ここも、外と同じような状況らしい。いやになるね、全く。
クロームがエントランスホールを進んでいくと、ぴちゃりという濡れた音が耳を舐めた。どうやら血溜まりを踏んだようだ。
大した反応もせずにクロームはエントランスホールを進む。セシウやプラナも、最早大きな反応は見せなかった。反応する余裕がないというのも大きそうだけどな。
俺も三人の後ろを付いていくと、少しずつホールの全容が見えてきた。開けた空間の中には無数の死体が放り出されていた。暗くて、全てを数えることはできないが、目に入る範囲でも相当の数だ。燕尾服や給仕服などから察するにほとんどベラクレート卿の使用人だろう。
魔物達に襲われて、命からがら逃げてきてエントランスホールで殺された、といったところか。
全く、本当に分別ってのがねぇな。そんな奴に仕えていたこいつらが哀れでならない。
クロームが何の反応を示さなかったのも分かる。こんな場所じゃ死体や血溜まりを避けて通るのは無理だ。どいつもこいつも鮮血をブチ撒けて死んでいる。
わざわざ避けて通るのもさぞ面倒だろう。
「あらあら、これはこれは」
俺達がホールの中程まで至ったちょうどその時、ホール全体に聞き覚えのある声が反響する。
子供が背伸びをしているような大人ぶった声――トリエラ……ベラクレート卿お抱えの魔術師。この村に魔導陣を仕掛けた張本人。
やっぱり生きていやがったか。
《魔族》に騙され、自らのその魔術の犠牲となったのならまだよかったのにな。
残念ながらこちらのクロームさんは絶賛マジギレ中だ。最悪、トリエラが《魔族》と密接な繋がりを持っていなくても、ぶち殺されかねない。
魔物の餌食になっていた方が、まだ同情を引いたな。
ホールの最奥にある一際大きな扉の上、弧を描いた階段を昇った先にある踊り場に、前触れもなく光が灯る。
シュボッという短く力強い発火音を伴って、踊り場の両側に紫色の炎が現れた。
なんだ、あの炎は?
目を細めて炎を見つめると、それは人を包帯で余すところ無くくるんだ燭台だった。油でも染み込ませているのだろうか。頭部は勢いよく燃え、包帯から零れた髪はあっという間に焼け落ちていく。
趣味の悪い燭台を両側に飾り、トリエラは踊り場の欄干の上に腰かけていた。虚空に投げ出した白い足を組み、艶めかしい太股を見せつけながら、煙管を咥えるその姿は応接間で出会った時のあの時となんら変わっていない。周囲には三頭の蝶が舞い、羽ばたく度に菫色の鱗粉を振り撒いている。
なんなんだ、あの鱗粉は? やたら強い輝きを放っている。
紫色の炎に照らされたその顔は艶然とした笑みを湛えており、どこか上機嫌のようにさえ見えた。
「ご機嫌麗しゅう、勇者御一行様。まだ生きておられたのですね。今日はもう遅いですから、早々にあの世へお帰り願えませんでしょうか?」
どこまでも丁寧で気品溢れる口調で、トリエラはそんなことを言う。
クソ……やっぱり、こいつも黒幕の一人か。利用されてるってわけじゃあなさそうだ。
全然取り乱した様子がない。この事態は分かりきっていたことらしい。
憎悪が込み上げてくる。今すぐあの女をあの階段から引き摺り下ろし、四肢をナイフで縫い止めて、服を剥ぎ、強姦してたっぷりと辱めた後で、ぶち殺してやりたい。
出来る限りの苦しみを味わわせ、女として生まれたことを後悔させ、自分がしでかした行為の罪深さを自覚させ、さんざん謝罪の言葉を言わせた後に、可能な限り時間をかけて殴り殺してやりたい。
どす黒い感情が溢れ出してくる。
あらゆる痛めつけ方を考えている自分がいる。そんな非人道的な方法が絶え間なく浮かぶ、自分の脳みそに僅かばかりの嫌悪感さえ抱くほどだ。
なんならしばらく苦痛の中を生き存えさせて、相手の快楽なんて考えず暴力的な強姦を繰り返し、身ごもった子供を腹から引きずり出し、食わせてやるのもいい。
きっと気分がいいだろう。
何としても、あの女が泣き叫ぶ顔を引き出してやりたい。絶望のどん底に叩き落として、その端整な顔立ちを苦痛や悲しみや惨めさや恥じらいや後悔や悔恨でぐしゃぐしゃに歪ませ、何よりも惨くて惨めで薄汚れた死を与えてやりたかった。
それでも、今は手を出すわけにはいかない。《魔族》の情報を可能な限り聞き出してからだ。
まあ、話さないなら、気の向くままに拷問でもしてやればいいんだけどな。それはそれで愉快なことになりそうだ。
人間としての尊厳を散々踏み躙り、俺のどす黒い感情の捌け口として使い倒し、無惨に殺してやる。
想像しただけでも、嗤いが込み上げてくる。俺は吊り上がりそうになる唇の端を必死に抑え込んで、トリエラを睥睨する。
他の三人もまた、同じようにあいつを睨み付けているだろう。
「あらあら、なんて怖いお顔でしょうこと。育ちの悪さが滲み出ておりますわよ? うふふ、挨拶もできないのですか?」
「黙れ、小娘。ベラクレートを出せ」
クロームが低い声で唸るように言う。こいつらしからぬ威圧的で感情任せの口調だった。
無理もない。
ベラクレートどもはクロームの逆鱗に触れてしまった。普段なら、この状態のクロームからは三十キロメートル以上距離を取っていたいと思うほどだ。
最早、クロームはこいつらに対して容赦しないことだろう。
だが、トリエラはくすくすと子供のように愛らしく笑うだけだ。その仕草さえ気に障る。
目を抉ってやりたい。口を引き裂いてやりたい。頬を削いでやりたい。その顔に硫酸をぶっかけてやりたかった。
「何をそんなに怒っているのです? たかだか村一つ消えただけのこと。瑣末ですわ、実に瑣末ですわ」
くすくすとトリエラは悪戯っぽく、それでも上品に幼い笑みを零す。どうにも釣り合わない仕草だ。やんちゃな子供の意地悪い態度と、育ちのいい令嬢の上品な振る舞いが混在していて、言動を把握しづらい。先読みできない相手は苦手だな。
クロームは鞘に納めたばかりの剣に手をかけ、鯉口を緩めた。
基本を確かめるように、ゆったりとした動作、その厳粛さに俺は息が詰まる。
今、あの女はわざわざ自分の命を縮めている。ご苦労なことだ。
「貴様、瑣末と言ったか」
低く唸るような声は、ぼそりと零れたように転がり墜ちたというのに、広いエントランスホールにずっしりと反響する。
クロームの声は、本当によく通る。
民衆を先導する者には必要な要素だ。
「増長だな。生かす価値もない」
冷たく言い放ち、クロームが剣を抜く。トリエラの唇の両端が吊り上がり、爬虫類のような気持ち悪い笑みを浮かべたのを俺は見逃さない。クロームの剣先が煌めき、切っ先が遠方のトリエラへと向けられる。
刹那、トリエラの斜め上方に閃光。
瞬きに気付いた時にはすでに遅く、この世に蘇った大剣がトリエラの心臓目がけて放たれていた。
容赦ない一撃は確かにトリエラの心臓を貫き、その細い身を背後の扉へと縫い付けたことだろう。
トリエラがいた場所へ木端微塵に破壊された扉の破片が降り注ぎ、あの女の姿を視認することはできない。
それでも、逃げることはできなかったはずだ。そんな余裕などなかったはずだ。
だというのにどうにも引っかかる。あいつが最後に見せた気味の悪い爬虫類染みた笑みが頭から離れない。
何故、あいつは最後に笑った? 最後? 最期じゃなくて?
どっちだ?
きっとトリエラは心臓に大剣を深々と突き刺され、あの向こう側に倒れているはずだ。
「うふふ、乱暴な殿方ですこと。堪え性がないというのは考え物ですわね」
背後から冷たい声が耳を這う。背筋に冷たいものが駆け上がり、俺達四人は一斉に振り返っていた。
振り返り際に銃を引き抜き、相手を視界に収めるよりも早く弾丸を放った。
ホールに反響する銃声。しかしその弾丸はモノクロのタイルの上で虚しく撥ねた。
ちょうど、トリエラの足下のタイルに弾痕が深々と刻まれる。それを見て、トリエラは艶然と微笑んでいる。黒い手袋で覆われた指先に挟んだ煙管を上機嫌に弄ぶ。
「ダメですわ。全然なっておりませんわ。本当に、ダメ。マナーも戦い方もなっておりません。底が割れますことよ?」
……なんで……こいつは俺達の背後にいる? さっきまで階段の上にいたはずだというのに……どうやって?
俺の横合いを真紅の一閃が駆け抜ける。雄叫びと共に疾走したセシウは拳を振りかぶり、トリエラの顔面へと拳を叩き込ん――
拳は虚しく空を裂き、蹈鞴を踏んだセシウはそのまま勢い余って地面を転がってしまう。
「うぐっ!」
ばさり、と傘の開く音。気付けば、レースのあしらわれた黒い日傘を差したトリエラはセシウのすぐ側で上品に膝を揃えて折り、床に倒れたセシウの顔を覗き込んでいた。
にっこりと、少女は優しく微笑む。
「あらあら、お嬢さん、そんなところで寝ていては、身体を痛くしますわよ? 貴方には地獄の腐った土がお似合いですわ」
「くっ!」
セシウが倒れた状態のまま撥ねるように足を振り上げ、トリエラの顎に一発お見舞いしてやろうとするが、それも無駄な抵抗。トリエラはいつの間にかセシウの背後に立っていた。
おいおい、どうなってんだ?
速いとか、そういうレベルじゃねぇ……。確かに視界に収めているはずだというのに、次の瞬間には消えている。
どういうトリックだよ、こりゃ……。
今度は白銀の一閃。数条の銀の閃きが頭上からトリエラへと殺到する。クロームが精製した剣だ。
素早く反応したセシウは身体を転がして剣の雨から逃れる。
しかしそれらの剣さえもタイルに突き立てられるだけで、その場所にはもうトリエラがいない。
そう思った矢先には背後で甲高い金属音が響く。急いで振り返ると、そこには煙管の羅宇でクロームの振り抜いた剣を簡単に受け止めるトリエラの姿があった。片手で日傘を差したまま、指先に挟んだだけの煙管で、鉄さえもバターのように切り裂くクロームの太刀を防いだだって?
馬鹿げてる……。
俺の視界の端でプラナが杖を振る。先端の三日月を模した飾りに嵌められた水晶が紅い鱗粉を撒き散らし、灼熱の炎を放つ。火の元素を用いた第五魔術、か。
「死に晒せッ!」
透き通った愛らしい声でそんな危なっかしい言葉を叫んだプラナの杖から人の頭程度の大きさの火球が三つ放たれ、トリエラへと襲いかかる。巻き込まれないためにクロームは素早く背後へと飛び下がった。
トリエラはくすりと嗤い、黒い日傘をくるりと回す。
次の瞬間には飛来した火球がトリエラへと直撃する。三重の爆音が俺達の耳を劈く。
湧き上がる橙色の光が。闇に隠された死体の姿を俺達の視界へと映し出した。
プラナの放った炎は容赦なくトリエラを燃やし尽くしたはずだ。確かに今のは直撃だった。
……事実、魔術はトリエラに当たったのだろう。
それは間違いない。
じゃあ、タイルの上で燃え盛る炎が酸素を喰らう音に紛れて聞こえてくる、紫煙を吐き出す音はなんなのだろうか?
「新しい煙草に火を点けるには、程度のいい火力ですわね」
炎を取り囲むように立った俺達四人に戦慄が走る。
おいおい。おいおい……どうなってんだ。
揺らめく炎の向こうに、俺達は気丈に微笑むトリエラの姿を見出してしまった。
火傷も一切の傷もなく、炎を避けるようなこともせずそこに立っている。煤の一つも被っちゃいねぇ。
差している日傘のレースだけが僅かに燃えている。
「まさか……あの短時間で傘の硬度を上げた?」
「ヘカテー学院では、そんなことも教えていないのかしら? 魔術師様」
くすりと首を傾げて、トリエラは笑う。
これは何かの夢か? 幻か?
天下の勇者一行が四人がかりで、少女一人に太刀打ちできないなんてどうかしてるとしか思えない。
「なめるなっ!」
プラナが叫ぶ。瞬間、杖の水晶が緑色の燐光を放ち、突如として烈風が吹き荒れる。俺達の髪をぐしゃぐしゃに掻き乱し、服の裾を弄んだ一陣の風は真空の太刀を伴い、トリエラへと襲いかかる。床を舐める炎の火勢を強めた風は灼熱の颱風となってトリエラへと襲いかかる。
「組成がゆるゆるだわ。再提出ね」
微笑みを湛えたまま冷たく、見下すように言い捨て、紫苑の髪をふわりと揺らしたトリエラは煙管を軽く横に振るった。途端、烈火と烈風が今度は俺達へと襲いかかる。
「なっ!」
愕然とする俺の身体がふわりと浮かぶ。そう感じた時にはすでに俺のことをセシウが担いだまま、走っていた。その隣にはプラナを抱きかかえて併走するクロームの姿。
そして背後には炎の顎と風の爪。プラナが放った魔術そのものが俺達へと反転していた。いや、そうじゃない。プラナの魔術をさらに強化したものだ。
風に後押しされる炎は疾く、火勢も遙かに強まっている。振り切れないと判断したセシウが右側へと飛ぶ。対してクロームは左側へと軌道を逸らし走り抜ける。
分断された……!
セシウはそのまま俺を抱きかかえるような体勢となり、背中からタイルに衝突する。耳元でセシウの呻く声が聞こえる。
床の上でセシウの身体が撥ね、俺の身体が空中へと投げ出される。俺は受け身を取ることもできずに左肩から床へと墜落し息が詰まる。身体は止まりきれずにモノクロタイルの床をほんの僅かな距離を滑ってようやく止まってくれた。
旋風を纏った炎の獣は俺達の脇を抜け、転がる死体を貪りながら真っ直ぐに駆け抜けていき、やがてエントランスホールの終端である壁へと轟音と共に衝突した。炎が弾け、一瞬視界が橙色に染まる。まるで内臓を撒き散らすように火の粉を散らし、天井へと舞い上がる炎。
熱風が頬を叩き、呼吸をするだけで咽喉が焼ける。肌をちりちりと熱気が舐めていた。
雪のように舞う火の粉の中、俺は燃え盛る炎に照らされて橙色の光沢を帯びたモノクロタイルに手をついて、ふらふらと立ち上がる。
セシウも腰を押さえながら立ち上がろうとしているが、動きは鈍い。身動きする度に顰められる顔が、全てを物語っている。
俺を庇うようにして背中から落下したからな……。そりゃ痛めてもおかしくない。
全く、余計な無茶ばかりしやがって。
「セシウ、戦えるか?」
「うん、だいじょ……ッ……!」
強気に笑おうとしたセシウの唇の端から苦痛が漏れ、顔を歪めて腰を押さえる。
……ちょっと、まずいかもしんねぇな……。
クロームとプラナは大丈夫だろうか。二人の影を探して、俺はホール内を見回す。
炎に照らされて浮き彫りになった死体ばかりが目に付いた。炎の強い光は俺達の周りは照らしてくれるが、それ以外の場所の闇をさらに強めてしまっている。
まずいな。夜目が利かなくなりそうだ。
黒い闇に目を凝らす。見えないものをなんとか視ようとする。
ふと、俺は闇の中に白銀の煌めきを見た。
――クロームか?
「セシウ、行けるか?」
「行けると、思う」
「珍しく気弱だな」
曖昧な返事に俺は微かに笑う。
らしくない。
「そりゃ……自信は持てないよ、こんな状況じゃ」
何気ないセシウの言葉の続きに、俺の顔はほんの少しだけ引き釣る。
――ああ、そうか
こいつも今回の一件で、この取り返しのつかない失敗が招いてしまった惨劇で、大事なものを失ってしまったのか。
それは無謀さ、大胆さ、勇敢さ。こいつは自分の考えを信じきれなくなっている。だから考えるよりも先に猪突猛進することもできず、失敗した時のことを考えて躊躇してしまっているんだろう。
そういうのを人は成長って言うんだろうな。
そりゃ浅はかじゃないのはいいことだし、むしろ思慮深い方が人としては生き易い。他人だったのなら、俺はそれを成長と呼んだはずだ。
失敗から学ぶのが人間だからな。
でも、なんだかこいつが真っ直ぐ突っ走れなくなるっていうのは、同時にその純粋なひたむきさまで失ってしまうことのように思えて、どうにも歓迎できない。
宝物が汚れてしまったような、大事なものを壊されてしまったような、そんな感覚。
こいつにはいつまでも純粋に、真っ直ぐでいてほしかった。
うだうだと考え込むより先に行動できる奴であってほしかった。
考えるのは俺の役目だ。セシウにはやりたいようにやってもらいたかった。
この惨劇は、それさえも奪ってしまうというんだろうか。
そんなのあまりにも残酷じゃねぇかよ。
目の前の現実が理不尽に思えて仕方なく、俺は唇に歯を立てていた。舌先に僅かな血の味が染み込む。
妹と呼んだ女一人の純粋ささえも俺は守れちゃいねぇのか。こいつの心が惨劇に陵辱されてなお、俺は何もしてやれないのか。
家族同然の存在だった。子供の頃から兄妹のようにいつも一緒だった。
誰よりも多くの時間を共有した存在だった。
家族であると、妹であると、自然にそう思っていた。
だけど、違うんだろう。結局、俺とこいつは他人同士だし、家族でも、兄妹でもない。
ただの一度も守ってやることのできていない俺が、家族だの兄だのの振りをしていることさえ、本当はおかしいことだ。
身の程を知らないのはいつも俺だ。俺だけがいつも自分の立場を履き違えている。
なんとも自分の姿は滑稽だな。
「ガンマッ!」
ふと、セシウの声が耳朶を叩き、俺の意識は思考の海から急浮上した。ハッと弾かれるように顔を上げると、目の前には煙管を振りかぶったトリエラの姿が――と思った瞬間には視界から紫苑の髪の少女は消え失せており、一拍遅れてトリエラがいた場所に銀色の剣が突き刺さった。空しく空のみを裂いた細身の剣はエーテルに分解され、燐光を散らし消えていく。
「ガンマッ! ぼさっとするな!」
クロームが叫ぶ。剣を携え、俺の方へと駆けてくる。俺の方? 違う――
俺は背後へと体を反転させながら銃を構え、視界に霞のように映った残像へと引き金を引いた。
耳を劈く銃声。銃口で火が爆ぜる。手に感じる反動。無理な体勢で強引に撃ったため、手首が僅かに軋んだ気がする。
「くぅっ……!」
声が聞こえた。誰の? 俺の?
違う。俺じゃない。
目の前には両手で腹部を押さえて、身体を折ったトリエラの姿があった。端正な顔は苦痛に歪み、呪うような目で俺を睨み上げていた。
「そんな……見えなかった……!」
腹部を押さえる両手の指の隙間から零れ落ちる赤い液体。止め処なく溢れて、指の隙間を滴っている。それは間違いなく鮮血。
俺の銃弾は確かにこの女の腹部を撃ち抜いていた。この女に対して、ようやく一撃を与えることができた。
そして目の前では腹部を押さえ、苦痛に顔を歪めるトリエラ。
殺れ――
誰かが言う。
誰かが俺に命令口調で偉そうに怒鳴っている。
誰だ?
どうでもいい。
それは俺が今最もするべきことなのだから。
俺はゆっくりと一歩を踏み出す。確かめるようにさらにもう一歩踏み出す。
少女の顔が近付く。痛みというものに慣れていないのか、額に脂汗を浮かべ動くこともできていない様子だ。
人の痛みも知らず、村人に多くの苦しみを与えた。
赦すわけにはいかない。赦せるはずがない。
誰が赦しても俺はこいつを赦さない。
「な……何……?」
少女の胸倉を掴み、俺はその矮躯を持ち上げる。羽でも生えているかのように軽い。少女の細い身体は簡単に持ち上がり、爪先も床から離れた。
整った少女の唇から呻き声が絞り出される。熱を帯びたその吐息は肉感的で、少女とはあまりにも不釣り合いだった。
そのまま俺は少女の首を締め上げる。緩く、それでも呼吸が儘ならないように確実に、気道を潰していく。
簡単には殺さない。
そう簡単に殺してなるものか。
じっくりと嬲って、殺してやる……!
「うふ、ふ……なぁに? そんな、に……怖い顔を、して……。がっつく男は……趣味でありま、せんの……うぐぅっ!」
尚、上品に構えようとする少女の首を強く絞め、言葉を強引に遮る。
「お高く止まってんじゃねぇよ」
俺の声は驚くほどに低くて、まるで自分のものではないようだった。
手に力が籠もる。
力の調整ができない。ただ全力で、この女の首を絞めることしかできない。
復讐の算段をどれだけ考えても結局はここに行き着く。力の限り殺すことしかできない。
極まった憎悪とはただ殺すことしかさせない。それ以外の考えを遮断する。ただ憎むべき相手を殺すことしかできず、それ以外のことを考える余裕なんてありはしない。
――殺せ――殺れ――今すぐここで――
「てめぇは醜く泣き叫んで、ボロボロになるまでいたぶられ、ぐちゃぐちゃに犯されて、それでもなお無様に赦しを乞うて、生き延びるために俺達に媚びを売って、惨めに死んでいくのがお似合いなんだよ……!」
酸素を求めるように口を大きく開く少女の姿はまるで餌を求める魚のように醜くて、見ていて最高に気分がいい。小さな手を俺の手にかけて引き剥がそうとするが、特に邪魔にもなりゃしない。
無様に抗う姿は生殺与奪を握った身としては何とも滑稽だ。
足をばたつかせている。小さな足だ。細くてしなやかだ。ドレスから零れる白桃のような太股は何とも艶めかしい。
たまに膝に爪先が当たるが、そんな痛みも気にならない。
口から涎が零れる。滑らかな肌を滑った唾液は、そのまま細い首筋を伝って、俺の手にかかる。
雪のように白かった頬は紅くなり、円らな瞳は充血し、涙に濡れている。
気分がいい。
情けない顔だなぁ、おい。醜くて、見苦しくて、この顔を衆目に晒してやりたいくらいだ。
しかし、その瞬間、少女が涙でぼろぼろになった顔で、毅然と不敵に微笑んだのを、俺は見た。
見ていたはずだった。
「――!」
いない……?
俺の手は空を掴んでいた。もうそこには少女の姿なんてない。
何故だ?
どうして?
俺の手の中には確かにあの女の体温がある。感触だって残っている。
だけど、それなのに、どうして誰もいない?
どういうことだ……?
「あー、とても痛かったわ。とてもとても苦しかったわ。酷いですわ。淑女にこのような仕打ちをなさるなんて」
背後から、声が聞こえた。
ぞくりと背筋が凍り付く。首筋には何か冷たい感触。
指先が俺の首をなぞっているのが分かった。
「このような酷い行いをなさるような殿方は、醜く泣き叫んで、ボロボロになるまでいたぶられて、ぐちゃぐちゃに犯されて、それでも無様に赦しを乞いながら、生き延びるために私の前に跪いて、惨めに死んでいってもらわなければなりませんわね」
くすくすとトリエラが笑う。
あー……クソ……。ふざけやがって……。
心の中で毒づく。
「うおらああああ!」
背後から聞き慣れた雄叫び。途端、首筋から指の感触が消える。
振り返ると、拳を振り抜きながら顔を歪めるセシウの姿があった。腰の痛みが大分酷いようだ。激しい運動をするだけで激痛が走っているのだろう。
「うぎぎ……いってぇ……!」
そのまま腰を押さえてしゃがみ込むセシウ。
「無茶しやがって……でも助かったわ、サンクス」
「うぃーっす……ちょっと戦力には期待せんでねぇ……」
痛みを堪えながらあははと気弱に笑って、セシウは俺にひらひらと手を振る。
まあ、あんまり無理はさせられんな。
出現したトリエラをクロームが素早く迎撃する。神速の一太刀を羅宇で受け止め、トリエラは後ろへと飛び下がる。
ふわりとドレスが風を孕んで膨らむ。
その腹部に……傷が……ない?
着地する寸前のトリエラの横合いから、今度は火球が闇を吸い込みながら飛来する。トリエラは長い髪を棚引かせながら炎の方へと顔を向け――
その姿が消失する。
火球は虚しく床に衝突し、小規模の爆発を起こす。身体へと叩きつけられる熱風を帯びた爆音に俺は顔を顰めた。
火の粉が舞うその場所にはもうトリエラの面影はない。
さらに別の場所で鋭い金属音。視線を巡らせば、クロームとトリエラが剣と羅宇を噛み合わせていた。
相変わらずトリエラは指の間に煙管を挟んでいるだけ。どうしてそれで鍔迫り合いができるのか分からない。
セシウ同様に魔術で強化でもしているのだろうか?
クロームが剣を傾け、トリエラの羅宇を下へと流す。トリエラは素早く煙管を引き戻し、さらにクロームへと振るう。剣と煙管がぶつかり合い、二人の間で火花が散る。さらに一合二合三合――何度も何度も火の徒花が咲き誇り散っていく。
おいおい……クロームの舞うような剣技と渡り合うなんてどういうことだよ?
遅れてやってきたプラナも、援護をすることができない。クロームとトリエラの距離が近すぎる。下手に魔術を放てば、クロームまで巻き込んでしまうことになる。
もう何合目かも分からない、剣と煙管の打ち合い。クロームは素早く剣を引きながら身体を回転させ、勢いをのせて蹴りを放つ。
申し分のない不意打ちだ。普通の相手だったら、多少のダメージも期待できたはずだ。
それでもクロームの脚は虚空を貫いた。
大した動揺を見せることもなく、クロームは反転。背後に現れたトリエラに剣を振るう。
トリエラは先程と同様軽やかな動作でふわりと剣を避ける。トリエラと剣の距離は紙一重。それでもトリエラの顔に恐怖はなく、艶然と微笑んでいる。
……余裕なんだろうな、あいつからすれば。
しかし、この状況に於いてクロームはぎらぎらとした眼でにやりと嗤っていた。
「動きが単調だな」
言って、クロームは右手に構えた剣を天井へと掲げた。
「伝説よ、今へと還れ。降り注げ、白銀の時雨よ」
短く、謳うようにクロームは呟く。
途端、トリエラの上空に大量の剣が出現した。瞬きもせぬ間に、閃光を伴ってそれは再現された。
幾百もの伝説級の剣の群衆。その一振り一振りが世界で語り継がれる伝説を背負った名剣だ。行方も杳として知れぬままとなった伝説の象徴は、今この場所へと還ってきた。
普段は省略している詠唱を行ったことで、精度も速度も数量も圧倒的だ。
頭上に浮遊し、天井を覆う銀の群れの切っ先は全てトリエラへと向けられている。
トリエラが微かに後ろへと下がると、その都度剣の向きは修正される。
《旧い剣》はなんとも羨ましいことに全自動の追跡が可能だ。放たれた後は直線的な移動しかできないが、それまでは相手がどんなに素早く動き回ろうと、切っ先は綺麗に対象から離れない。
蛇竜を倒した時がいい例だ。どんなに逃げ回ろうと、決して逃れることなんてできない。
天井を覆う剣を見上げ、トリエラはうっすらと笑みを浮かべる。
「ふふ、伝説の無駄遣いね」
呟いたトリエラへと向けて、二条の剣が降ってくる。トリエラは即応し、背後へと飛び下がることで剣の矢を避けた。床へと突き刺さる、意匠の凝らされた二振りの剣。
「ムダかどうか、貴様の身を以て知るがいい」
唸るように、それでも抑揚のない声で吐き捨て、クロームは愛剣の剣先をトリエラへと突き付けた。
「怖い怖い。本当に怖いわ。泣いてしまいそうなほどに」
くすりと微笑んだ瞬間、トリエラの姿はまた前触れもなく消え失せた。
ムダなのは、どっちだ。
どんなに速く逃げ回っても《旧い剣》は決して逃がしてなどくれない。
どんなにトリックかは知らないが、頭上を覆い尽くす剣がお前の居場所を教えてくれる。そう考えながら、俺は天井を見上げて息を呑んだ。
「は……?」
剣の切っ先は全てが全て、それぞれに異なる方向を向いていた。
どうなってんだ……。
おかしい。
例え《旧い剣》の補足範囲外に逃げても、剣は一定の方向を向いたまま停止する。こんな乱雑とすることは今までなかった。
しかも剣の切っ先は未だに微かに動いている。それぞれの剣は、何かを追っている。
どういうことだ?
対象がトリエラという個体だけである以上、別々の方向を向くわけがない。また剣が未だに方向修正を行い続けている以上、そこにトリエラがいなければおかしい。
……クロームもこの事態は予想外だったらしく、剣を見上げたまま硬直している。
剣がその軌道を大きく修正していく。ばらばらに向かっていた剣が細かく動き回り、やがて一箇所へと集約していく。
俺達より僅かに離れた場所に全ての剣が向けられた時、そこにはくすくすと笑うトリエラの姿があった。
クロームは即座に頭上に広げた剣の四振りをトリエラへと飛ばす。その場から今までと同じように、トリエラの姿が消える。
すぐさま剣に視線を移すと、やはり剣の切っ先の向きはバラけている。それぞれが素早く動き回り、また同じ場所へと集まった。
視線を示す先に向ければ、やはりというべきか、そこにはトリエラの姿があった。
一体、《旧い剣》は何を追っているんだ?
「ま、まさか……そんな……」
ふと、プラナが小さな悲鳴を上げる。口元を手で覆い、フードの下から覗く片目は見開かれていた。
まるで目の前の現実を認めたくないように、トリエラの姿を凝視したまま震えている。
「……自分自身を、エーテルに分解したっていうの?」
「あらあら、ようやくお気付きになったの? おバカさんにしては上出来ですわ」
にっこりとトリエラは微笑んでみせる。
「ど、どうして……そんなことができるというのです……。人間がするようなことじゃ……!」
わなわなと唇を震わせながら、プラナは呆然とした声で呟く。
なんだ……?
どうしてプラナはそんなに驚いている? いや恐がっているのか?
どっちにしても解せない。タネが分かった手品なんて何も恐れることはないだろうに。
なんでプラナはそんなに怯えているんだ?
「あらあら可哀想に。生まれたての子鹿のようだわ。そのような弱さで勇者一行ですの? うふふ」
頬に手を当て、トリエラはくすくすと笑う。
全貌が全く分からない。どういうことなんだよ、一体。
この二人以外、置いてけぼりになってしまっている。
「おい! プラナ! どういうことだ!」
「か……彼女は……自分の身体をエーテルに分解して……空間を移動しています……!」
震えた声でプラナは声を絞り出す。
でも、それはもう分かっている。
「だからなんだってんだよ?」
「分からないんですか!? 一度エーテルに分解された以上、その意識は死んでしまうんですよ!? 例え、再構成された存在が同一の身体、記憶、精神、魂を維持していても、それはもう別の存在なんです! 主観は死んでしまうんです……。本人の中では、何度も死んでいるも同然なんです……!」
……つまり、なんだ?
もし俺が同じことをした場合、そこで俺の意識というものは死亡するのか? そして新しく再構成された俺という意識が、継続した思考を繰り返すというわけか。
傍から見れば何も変わらない。何一つとして変化など分からない。
ただ、俺個人の主観だけが消え失せるということか。
……だとしたら、あいつは何回死んでいる? 何度も何度も死んで、それでも新しく構成された自分が自分という存在を継続させる……。
「こ、こんなこと……普通の人間がするようなことではありません! あまりにも……狂っている……!」
「何をそんなに恐れているのです? 別に私の主観が途切れたところで、新しく再構成された私の意識は、私として継続する。それならそれでいいじゃありませんの? うふふ、なんて弱いのでしょうね、魔術師様」
当然のことのように、トリエラは言う。こいつには、主観の死なんてどうでもいいのか?
狂っている。
自分自身の意識は死ぬんだぞ? 新しい自分は確かに今までと変わらず振る舞うかもしれないが、それでももう今の自分は完全に消滅する。
今まで自分がいた場所には自分とは違う自分が居座り、今まで自分が得た物全てをそいつが奪っていってしまう。
それをどうして許容できるんだ?
俺ならごめんだ、そんなこと。
とてもじゃないが、そんなことはできない。
なるほど、こいつは確かに狂ってる。
そんなものを平然と多用できる精神が理解できない。
「ふん、主観の死すら恐れないか。ならば、その命、贖罪に捧げても構わんな……」
ふと呟き、クロームが疾駆する。地を蹴った身体は世界を縮め、トリエラとの間にあった距離を一瞬にして翔破する。
目に止まらぬ肉薄――一閃の煌めきがトリエラの身体を切り裂いた。
いや、もう、その場所にトリエラはいない……。
また一つ、あいつの主観が死んだ。
そんなこと、あいつにはどうでもいいことなんだろう。
「勘違いしないで頂戴。別に私は、命がいらないわけではないわ。私は、私という存在を継続させることができればそれでいいの」
トリエラの声が聞こえる。剣を振り抜いたばかりで体勢を整えきれていないクロームの背後に、少女は再構成されていた。
俺は即座に銃を構え、トリエラへと発砲していた。トリエラは一瞬にして分解され、その場から完全に消え失せる。
次いでプラナが詠唱を省略して魔術を高速で発動させる。現れたばかりのトリエラ目がけて真空の太刀が突風を伴って放たれる。再構成されたばかりのトリエラは再び自身を分解し、移動する。真空の太刀は目標を失っても尚駆け抜け、足場に転がる死体を切り刻みながら、壁へと衝突する。猛獣が引き裂いたような深い傷跡だけが虚しく壁に刻まれた。
クロームは上空に展開した剣を操り、トリエラが再構成される度にいくつかの剣を放つが、それら全ても少女には当たらない。
「気を付けて下さい! 彼女は自身の身体を再構成する時に、肉体の損傷も再生しています! 一撃で止めを刺さなければ意味がありません!」
「はぁ!? じゃあ、どうしろっていうんだよ……」
捉えられない上に一撃で仕留めなきゃ意味がないなんて、そんなのどう考えても不条理だろう。
どうかしているとしか思えない……。
一体どうやったらこいつを殺すことができる……? 考えろ……考えるんだ。
「ガンマ……私があの子の動きを封じれば……」
「バカなこと考えんな。それに、あいつは例え動きを封じてもすぐに逃げ出せる。意味がねぇ」
俺があいつの首を絞めている時でさえそうだった。どう考えたって無理だ。
「じゃあ、どうやって……」
「だから! 今それを考えてんだよ!」
俺の突然の怒鳴り声に、びくんとセシウの肩が撥ねる。
しまった……。考えが巧く纏まらず、つい感情的になってしまった。
自分の前髪をくしゃりと握り、俺はため息を吐き出す。
「悪ぃ……今考えてる……手はあるはずだ……必ず、どこかに……」
今もクロームとプラナが分解と再構成を繰り返すトリエラに翻弄されながらも何とか戦ってくれている。
なんとか探し出さなければならない。
あいつを倒しきる作戦を……。
どこかに穴があるはずだ。必ず欠点があるはずなんだ。
なければおかしい……。
完全なんてあってたまるものか。
考えろ、考えろ、考えろ!
「トリエラ様!」
ふと、そこでくぐもった声がホール中に響き渡った。ここにはもう俺達以外生きている者はいないと思ったのだが、一体誰だ?
声がしたのはホールの最奥。最初にトリエラがいた、階段の上だった。
全員の視線が声の方へと集まる。そこには白いバスローブを着たベラクレート卿の姿があった。ただでさえ剥げ散らかしている頭をさらに乱し、目は血走り、全身に脂汗をかいていた。
何か、とても混乱しているように見える。
トリエラの姿をホールに見つけた家畜は欄干をぶくぶくと膨れた手で握り締め身を乗り出した。
「トリエラ様! これは一体どういうことですか!?」
怒鳴り声を上げるベラクレート卿の傍らに突如としてトリエラが出現する。ぎょっと目を瞠ったベラクレート卿は情けない声を上げて、その場から飛び退いて距離を広げた。
「どうしましたの? ベラクレート卿? そんなに血相を変えて」
「どうしたもこうしたもありません! 一体どういうことですか!? どうして村人どもだけでなく、私の私兵までもが魔物に殺されているのですか!?」
……なんだ? 一体何があった?
ベラクレート卿が村人を殺すことを了解していることは知っている。こいつの予定では私兵は生き残るはずだったのか?
どっちにしろ村人は最初から犠牲にするつもりだったわけではあるんだな。
腐った野郎だ。
青白い顔で唾を飛ばしながら抗議するベラクレート卿に、トリエラは最高傑作の冗句でも聞いたかのようにくすくすと上機嫌に微笑む。
「あぁら? いいじゃありませんの。不老不死になるための犠牲ですもの。別に新しいのを雇えばよろしいのではなくて?」
「そんなことを言っているわけではありません! 何故!? 何故、私までもが魔物に追われなければならないのですか!?」
ベラクレート卿の片手は今も欄干を握り締めている。その手はぷるぷると震えて、何とも情けない。
きっと命からがら魔物から逃げてきたんだろうな。そのまま喰われちまえばよかったものを……。
しかしそんなベラクレート卿を嘲るように、今もトリエラは笑っている。
「うふふ、それはどうしたのでしょうね? きっと、ベラクレート卿が丸々と美味しそうな身体をしていたから、食べたくなってしまったのでしょうね。しっかり叱りつけておきますわ、うふふ。しょうがない子達ね、全く、うふふ、全くね」
「笑い事ではありません!」
「いいじゃありませんの、生きているのですもの。何も問題などありませんわ」
特に気にした様子も見せないトリエラに、ベラクレート卿はぶるぶると脂ぎった顔を震わせる。脂肪がたぷんたぷんと揺れて気持ち悪い。
「仲間割れか?」
いつの間にか隣に来ていたクロームが俺に尋ねてくる。眉根を寄せて、何とも居心地の悪そうな顔だ。
クロームも突然の展開に理解が追いついていないんだろう。俺だってそうだ。
「さあな。まあ、あの豚が騙されてたところで特に心は痛まないな」
「ああ、勇者としてこういう発言はどうかと思うが、正直そのまま喰われてしまえばよかったとさえ思うな」
冗談めかしたわけでもないクロームの発言に俺は思わず笑ってしまう。
「お前らしくねぇな、そういうこと言うのは」
「俺だって寛大ではいられない。私怨と言えば私怨だが、村人の無念は晴らさなければならない。なんとしても、あの二人は殺してやりたい」
それに関しては同感だ。何より、それは間違いなく義憤だ。
悪にはそれ相応の鉄槌を下して然るべきであろう。あいつらは絶対に殺しておかなければいけない人種だ。
「あの、二人とも……今のうちに、彼女の魔術への対策を考えた方がよいのでは?」
おどおどと俺とクロームに間から顔を覗かせたプラナが提案をしてくる。
確かにな。
今のところ、打つ手が全くと言っていいほどない状況だ。
少しでも話し合った方がいいかもしれないな。
「ふむ……とはいえ、あいつに打つ手などあるのか?」
顎に手をかけ、クロームは顔を顰める。
これだけ交戦して、ほとんどあいつにはダメージを与えられていない。今はクロームやセシウの卓越した反応速度でやり過ごせているが、それも時間の問題だ。このままでは嬲り殺されるのも時間の問題だ。
「やっぱり奇襲が一番なのか?」
先程、俺はあいつの腹部に一発喰らわせることができた。あの時は完全な不意打ちだったからな。
俺の早撃ちもなかなかバカにできないもんだな。
「しかし、それはなかなかに難しいぞ。あいつの出現した瞬間の警戒の強さは異常だ。どこから斬りにかかっても感づかれる。お前の場合はただ単に、それほど脅威とは思われてなかっただけだろう」
うぎぎ……俺が甘く見られてただけかよ……。
そういう事実はできれば黙っていてもらいたかったもんだ……。
「じゃあ、四方向から同時に攻撃をかけるっていうのは?」
今度はセシウからの提案。腰の痛みは大分引いたのだろうか?
いや、まだ動きが鈍いから、あんまり戦力としては期待できねぇな。
「それは却下だな。攻撃が一点に集中する以上、一回瞬間移動されちまえば、次の瞬間には固まった俺達が一網打尽にされ――」
「いい加減にしろっ! 小娘風情が!」
突然怒声がホールに響き渡り、俺達の視線が一瞬でホールの最奥へと束ねられた。
そこにはトリエラの小さな両肩を掴み、詰め寄っているベラクレート卿の姿があった。その肥えに肥えた身体を恐怖ではなく怒りに震わせ、血走った眼球でトリエラを凝視している。
トリエラの顔にも笑みはなく、氷のように冷たい無表情で面倒そうにベラクレート卿の顔をただ眺めていた。
まるで虫けらでも見るような目だな。
「早く私に不老不死の力を寄越せ! 今すぐにだ! そういう契約だろう! 小娘風情が偉そうに構えているんじゃない!」
「ベラクレート卿、もう少しお待ちになってくださいな。まだ、早いのですわ」
「黙れ! そう言って貴様らはどれだけ待たせている!? 私は貴様らの要求にどれだけ答えてきたと思っている!? 金だって回してやっただろうが!? いつまで待たせれば気が済む!? 早く私を不老不死にしろ! 今すぐにだ!」
ベラクレート卿はトリエラの小さな身体をがたがたと揺すぶる。そのたびに頭がぐらぐらと揺れているが、それでもトリエラは無表情のままだ。
「ベラクレート卿……もうしばらくお待ちに。今から本日のメインイベントが始まりますの」
「な、何を?」
ベラクレート卿が疑問を口にした時には、すでにそこにトリエラの姿は消えていた。トリエラは欄干の上に腰掛けた形で再構成され、俺達を見てうっとりと微笑む。
何か、嫌な予感がした。
「うふふ、勇者一行様、実は貴方方に見せて差し上げたいものがありますの」
「下らない余興に付き合うつもりはない。貴様らが何をしようとしているのかは知らんが、全て斬り伏せるのみだ」
クロームは冷たくトリエラの言葉を切り捨てる。元よりこいつらに構っている場合ではないのだ。
こいつらの息の根を止めることが最優先だ。それ以外のことをしている暇はない。心の余裕もない。
「そう言わないで下さいな、勇者様。きっと、気に入りますわ」
言って、トリエラは煙管の雁首で欄干をカンと叩く。ホールに反響する小気味のいい音に導かれるように、トリエラの手前の天井から何かが降りてきた。
どうやら穴が開いていたらしい。偶然なのか、もともとトリエラが仕組んでいたものなのかは定かじゃないけどな。
もし仕組んでいたのなら、俺達がここに来ることも折り込み済みだったわけか。ご苦労なこった。
現れたのはぬめぬめとした粘膜を纏った、触手だった。ずりゅずりゅと蠢動と蠕動を繰り返し、その度に粘着性の透明な液体がタイルの床へと滴り墜ちてくる。
なんだこりゃ……?
悪趣味にも程があんだろ……。
セシウも不快感に顔を顰めている。見ていて気持ちのいいもんじゃねぇな、こういうのは。
いくつもの触手が粘膜を絡み合わせ、粘着質の液体の糸を引き合い、のろのろと動いている。
気持ち悪ぃな……。
一体これを見せてどうしようっていうんだろうな?
そんなことを考えていると、次第に降りてくる触手の隙間に、人間の白い脚があることに気付いた。
……人間? しかもあの細さと白さはおそらく女性のものだろう。
まだ、生き残りがいたのか。
徐々に降りてくるにつれて、人間の身体が見えてくる。
一糸纏わぬ太股が見えた。内股には紅い血の筋が伝っている。さらに上部が見えてくると、鮮血は秘部が伝っているものだということが分かった。
膨れ上がった腹部が覗く。子鹿のように細い脚から察するに決して太っているわけではない。ということは、あれは妊娠しているのか?
妊婦でも囲みやがったっていうんだろうか……。
次に小振りな胸が覗く。ゆっくりとそれでも確実に降りてくる触手の群れ。そこに絡め取られた女性の姿が明らかになっていくに連れ、俺達の顔は引き攣っていった。
粘ついた触手に浸されて、すっかり艶を失ってしまった亜麻色の髪が見えた。どこか痩せ細りすぎているともいえる華奢な身体。滑らかな白い肌。
その全てが今となっては粘液に包まれても、汚されきってしまっている。
飾り気のない素朴な可憐さを宿していた顔は、今や傷だらけで右の頬は腫れ上がり、ぼんやりと開いた唇の端から血が零れていた。俯いたまま、四肢を触手に絡め取られ、身動きもできず脱力しきったまま吊された少女の顔を俺は、俺達は知っている。
今や生気もなく、ぼうっと開かれたままの瞳は何も見ていないのだろう。
……おいおい……冗談だろ……。
なんでだよ……!
どうして世界はこんなにも辛い現実ばかりを俺達に突き付けるんだ。
傍らでセシウが息を呑む。
プラナは杖を震えるほどに握り締めたまま俯き、決して顔を上げようとはしない。
俺もクロームも目を逸らさずにはいたが、呆然と立ち尽くすことしかできていないだけだった。
目の前の現実はあまりにも残酷だった。
そこには無慈悲にも陵辱され、純潔を無惨にも散らされた、看板娘の痛々しい姿があったのだから……。
俺達の存在に気付くこともなく、呆と口を小さく開いたまま、項垂れた少女は光のない瞳で床を眺めている。もう考えることさえ放棄してしまったのだろうか……。
俺達は言葉を失い立ち尽くすことしかできない。そんな俺達を苛むようにトリエラの上機嫌な高笑いだけがホールには反響し続けていた。
世界は……そこまでして、俺達を狂わせたいのか……?