Cr's are Thinkerー深く、淀みへー
窓を覗くと部屋の灯りは落とされていた。
射し込む月が化粧台やクローゼット、小さなテーブルの陰影を微かに刻んでいるだけ。
寝台のシーツには微かな膨らみがあり、誰かが横たわっているのは確かだった。
俺が控え目に窓をノックすると、即座にシーツに包まっていた者が起き上がる。
横になっていたせいか少しクセのついた橙色の髪。間違いなくリーシャの髪だった。
何やら不機嫌そうに俺の方を見て、リーシャは素足を床に下ろしてこちら側へと歩いてくる。
リボンのあしらわれた白いワンピースはきっと寝間着だろう。
リーシャはそっと鍵を解いて、なるべく音が出ないように窓を開ける。
「お姫様はお目覚めでしょうか?」
「待ちくたびれて寝てしまっていたわよ。盗人さん」
素っ気なく答えてみせるが、それにしては起きてくるのが早すぎた。
眠ったふりをしていてくれたんだろう。
「それにしても貴方、すごいところから来るわね、ここ三階よ?」
「流石に勇者一行と言えど、堂々と来るわけにはいかなくてね。屋根から失礼させてもらったよ」
リーシャは身を乗り出して、上方から伸びる縄を見つめる。
「器用なことするわね。とりあえず入って」
促されるまま、俺は静かに部屋へと入り込む。
変に物音を聞かれると厄介なので、なるべく静かに静かに。
「本当はもう少し早く来る予定だったんだけどな。随分遅れちまった」
「来ないと思っていたから別にいいわよ」
窓を閉めながらリーシャはやはり素っ気なく答える。
微かに漂う香水の匂いが鼻腔をくすぐっていた。まあ、口にするのも無粋なもんかね。
「少しくらい祭りも楽しめるかと思ったけど、もう終わっちまっただろうな」
本当は中途半端に終わってしまった一日デートを再開させるつもりだったんだが、ランタンの一件もあってどうも抜け出せないままこんな時間になってしまった。
今はもう日付も変わっていることだろう。
時計は置いてきた。
「そんなわけで代わりと言っちゃなんだが」
言いつつ俺はそっと隠し持っていた赤ワインのボトルをリーシャに見せる。
「あら、結構いいものじゃない」
奮発したからな。
これでしばらく贅沢はできない。元から贅沢なんてできやしない。
「一日は寝るまで終わらない。というわけで少し飲もうぜ」
そっとリーシャは笑う。
照れるわけでもなく、満面の笑みでもなく、どこか夜に浸透するような微笑が今は最も眩しく思えた。
「お父様、相当心配していたみたいだわ」
「そらそうだろうな」
「しばらくは外出も難しそうだわ」
「やっぱり、そうなっちまうよな」
グラスに注いだワインの香りと共に事の経緯が語られていく。
エルフの子供達はとりあえず皆、無事保護されたらしい。中には憔悴している者もおり、しばらくは侯爵の負担で医療施設に入ることになるかもしれないとのこと。
侯爵としても保護したエルフに何らかのことがあって問題になるのが嫌なのだろう。
認知していない間なら目を背けられても、保護となってしまっては無視することも許されない。
その後のエルフの扱いに関してはとりあえず保留となっているようだ。
ハルケスト族の男など、組織の者たちは情報提供に協力的であり、実際にエルフを誘拐していた別の組織についても出来る限りのことは話しているとのこと。このまま行けばそちらの方も早々に対処できるかもしれない。
俺たちはただリーシャを助けるつもりだったんだが、それが結果的にこの街に巣くう問題を一つ解決してしまった。
本音を言えば、そんなものはどうでもよく、ただリーシャの抱える問題一つどうすることもできない自分に歯痒さが感じるばかりだ。
俺の心中を察したのか、リーシャは困ったように笑う。
「そんな顔しなくていいのよ。貴方たちのお陰でいろんなことが解決したし、私だって無事帰ってこれた。全部貴方たちのお陰よ」
「そうはいってもな、何事もなければよかったのに、とは思うさ。お前を助けられたことは素直によかったって思うけどな」
大事にせず解決できれば、どれだけよかったことか。
こいつに与えられた一日の自由に俺はどれだけのことをしてやれたんだろうか。少しでも、こいつがこの街を、自分が息づく場所だと思わせることができただろうか。
結局、こうやってここに来た理由はそれだ。
あのひとときで何もできていないような気がして、ここに来て、やはりまだ何もできていない。
「あんたがそうやって思い悩むことは何もないの。あれはどうしようもないことだった」
リーシャが言葉を探している。
この流れはダメだ。
「全部、仕方のないことだったの。全部、あれは、私が——」
「いいんだ」
口を衝いて言葉が転がり出た。
いいんだ。その先は言わなくて。
「分かってる。言わなくていい。あれは巻き込まれただけだ」
言い聞かせるように俺は繰り返す。
この話はそれで締めくくらなければならない。そうでなければいけない。
ランタンは言った。今回の謀略には下地があった、と。
あいつはそれを利用したにすぎない。今回、事をここまで荒立てた奴は確かにあの道化師だが、首謀者は違う。
最初から全てができすぎていた。
誘拐された一件もそうだが、それ以外もできすぎている。こいつとの出会いも含めて全てが。
なんで連中はリーシャを誘拐しようとした。
先んじて潜入していたプラナは確かに聞いたという。連中は前金つきでリーシャの誘拐を依頼された、と。
侯爵に恨みを持つような何者かの犯行とも思いかけたが、だとしてもおかしい。あんなゴロツキどもに依頼する理由がない。
そんな大金があるのなら、もっと使える奴を雇ったはずだ。
その上、何者かが組織を嗅ぎ回っていたから、小さな拠点は引き払っていたという話も聞いている。
おかしいだろ、何もかも。
全てを額面通りに受け取るのなら、この一件には俺たちが知らない多くの何者かが関与している。しかしそんなできすぎた話は物語の上だけだ。
大体の事柄はもっとシンプルにできあがっていて、さも複雑そうに振る舞っているだけなのだ。
何より、リーシャ。
プラナでさえいないと言ったエルフの名を、リーシャはこの街にいる種族の一つとして挙げていた。
それにどうしてリーシャはあんな状況に居合わせながら全く取り乱していなかったんだ? 肝が据わってるなんてもんじゃない。
一つひとつは何気ないことでも、繋ぎ合わせて考えれば見えてきてしまう。
そう考えるのが最も自然と思える答えが見えてしまう。
ただ、今はまだ確証に至るものがない。だから、これは全て推測にしかすぎない。
リーシャは何かの偶然で俺たちが、この街に来ることを知っていた。そして偶然を装い、俺たちと出会った。
考えてみれば、あの男たちも金で仕向けたか、はたまたリーシャが挑発をして追いかけさせたのかもしれない。
そうやって上手いこときっかけを作り、俺たちを屋敷に呼び込んだ。俺たちがジゼリオス卿からの伝言を持ってきたのは些か予想外だったのかもしれないが。
大枚を叩いて組織に誘拐を依頼したのも、リーシャ自身なのではないか。思い出してみると、俺たちが昼食を摂ったあの店はリーシャが紹介した場所だ。他の行き先は俺に選ばせながらも、その点だけはリーシャが自分で決めていた。
恐らくリーシャの策はそこで狂い始めた。
第一にセシウ。
リーシャは隠れ潜んでいたセシウに気付けた。確かに俺からすればバレバレの隠れ方だったが、素人がそう周りを警戒するものか? ましてや祭りの只中、人で溢れかえっている場所。普通なら油断して警戒も疎かになる。
なのに、リーシャは気付いた。あの人混みの中で。
きっと自分自身で依頼した、自分を誘拐する者だと思ってしまったのかもしれない。
だから、そこで俺を向かわせ、組織の一人を捕まえ、俺に組織の存在を知らせようとしていたのだろう。エルフ密売組織、勇者一行として放っておくわけにはいかない存在だ。
しかし、そこにいたのはセシウだった。リーシャは内心焦ったのだろうか。いや、護衛が増えて却って頼もしいと思ったかもしれない。
それを上回る計画の狂いを起こしたのがランタン。
本来は誘拐を未遂に収め、そのまま組織の本拠地を叩かせるつもりだったというのに、ランタンの小細工によって本当に捕まるハメになってしまった。
そこから先はリーシャの思惑を外れた顛末が、俺たちが知るように展開されていく。
落としどころとしては十分のはずだ。リーシャの準備した下地はしかし、ランタンによって改竄され、それでもなお結末はリーシャの望む通りとなった。
組織のボスを殺したのは恐らくランタン。真相を知る者がいなくなったことで事実は全て闇の中だ。
ここまで含めて、ランタンの思惑だったというのだろうか。
どちらにせよ確証を得る手段は消えた。だからこそ、俺も知らない振りを通すと決めた。
俺の向かいに座るリーシャはワイングラスに指を添え、じっと弱々しい顔で赤い水面を見つめている。
撫で肩が少し持ち上がっていた。きっと変に力が入っているんだろう。リーシャは一度深呼吸をして、意を決したように顔を上げた。
「分かっているなら言わせて」
「言うことねぇよ。自分から辛い思いをするこたねぇだろ」
「目を背けたくないの。だから、背けないで」
リーシャの目は本気だった。
少し潤んでいるように思える水浅葱色の瞳は力強く俺を見据えている。
向き合わないままじゃ、何も始まらない、か。話を聞くことで、告白することで、リーシャが楽になるのか、苦しくなるのかは分からない。それでも、それを受け止めてやるのも務め、かね。
「じゃあ、聞かせてくれ。なんでお前はエルフを助けようとしたんだ?」
俺の問いに、リーシャはワインを一度口に含み、ほんの少し火照った息を吐き出す。
「あまり、大きな理由はないわ。この塔の上部に住まうような上流の人たちはエルフ密売組織があることを知っていた。公然の秘密、っていうのかしらね。ただ、その問題が発覚した時のことを恐れて、面倒事を避けるためにずっと触れないでいたの。検問で引っかかれば対応はするけれど、その時だけでそれ以降は何もなし。目に触れれば払うけれど、感知できないものはなきものにしてきた」
もしエルフ密売組織が見つかれば、種族間問題にも発展しかねない。その面倒を嫌ったのだろう。
一つの大きな街を背負うからこその決断、か。
正義感で民を養えない以上、そういうこともある。
「でも、私はそれが嫌だった。自分の街でそんなことが行われているということがどうしても許せなかった。だから、無断で外出して、侍女にも協力してもらって、いろいろ調べていたの。商人さんに頼み込んで流通ルートも調べたし、身分を隠して忍び込んで構成員の身元も分かる限り割り出したわ」
話だけ聞けば、作り話のような働きだ。
身分を隠した貴族の娘が巨悪を打ち倒すために奔走する。そんな夢物語を正義感のためにやってのけようとしていたんだろう。
「見つけた情報を纏めて、私はお父様に見せたわ。あとはお父様が私兵を向かわせれば済む話だった。なのにお父様は……」
リーシャが言葉を詰まらせる。
今まで見て見ぬ振りしていた父親が、それ一つだけで動き出すはずもない。事実、今日まであの組織はのさばり続けていた。
俯きがちだった顔を上げ、リーシャは髪を掻き上げる。
「ジゼリオス卿に結婚を申し出たのもそこがきっかけかしらね。この場所に嫌気が差していたのかもしれないわ。そこまで話をしたわけではないけど、あの人はきっとお父様みたいにそういう問題を見過ごしたりはしないのだろうって思ったし、そういうところに惹かれていたのよね、きっと」
確かにあのおっさんはそういう人だろう。
そんな悪事が行われているとなれば、真っ先に行動しそうである。
「まあ、結果はこの通りなんだけれど」
少し自嘲するようにリーシャは笑う。
「貴方たちが来るって知ったのは、お父様との一件があって、途方に暮れていた時よ。ジゼリオス卿の街から来た商人から伝え聞いた話でね。もしかしたら、ここに来るかもしれないって言われて、その時に思いついたの」
「商人?」
「貴方も知ってる商人よ。ほら、お祭りの時に会った」
「ヘスチナか……。あの野郎」
一体どこですれ違っていたんだ。それとも情報網に引っかかっていたのか。
あいつの顔の広さと情報の早さは侮れない。
「貴方と知り合いだって知った時は正直びっくりしたわ。それにあの商人さん、一人で行った時も普通に接してくれてたけど、私が誰なのか分かった上でそうしてくれてたのね。今度会うことがあったらお礼を伝えておいてくれないかしら?」
「そりゃいいけどよ」
律儀なことだ。
「貴方たちの外見は伝え聞いていたから、門の近くに隠れて待っていたらすぐに分かったわ。それで人通りの少ないところに行くのを見計らって、近くにいた人相の悪い人を適当に挑発して、ね」
そしてリーシャは目論見通り俺たちと出会うことになった。
「なるほどな。ついでに聞くが、なんで俺をデートの相手に指名したんだ?」
ふと気になったことを訊ねてみる。
普通に組織を潰すならクロームの方が適任だろう。
そもそもデートなどという体にする意味もなかったはずだ。
リーシャは困ったようにグラスへ視線を落とし、少し考え込むように唸る。
「どちらでもよかったんじゃないかしら。たまたま貴方の方が頼みやすかっただけで」
ま、クロームよりは言いやすいだろうな。
あいつ常に仏頂面で素っ気ないし。
「ごめんなさいね。期待を裏切るようで。デートの時のこともあまり真に受けないで頂戴」
役目が終わった以上、リーシャも変に俺を持ち上げる必要もない。
分かりきった話だ。ならばここでこうやって変に先延ばしするのも無粋なのかもしれない。
「そうか。それだけ分かれば十分だ。わざわざ話してくれてありがとうな」
言って俺はワインを飲み干し、席を立つ。
ここに長居されてもリーシャに迷惑だろう。俺としても事の真相が分かった以上、ここにいる意味はあまりない。
「ええ。利用してしまってごめんなさいね。それにありがとう」
リーシャも俺を引き留めるようなことを言わない。
当たり前のことだ。
俺はそのまま窓へと向かい、リーシャの横を抜けていく。
そうしてそっと懐に忍ばせていたものを背後からリーシャの首へと巻き付ける。
驚きにリーシャが息を呑む。
「あんま動くなよ。ちゃんとつけれねぇ」
「ちょ、何よ」
不審そうに訊ねるリーシャを無視したまま作業を終え、俺は鏡をリーシャの目の前に翳す。
リーシャの背後にいる俺からも蒼い宝石の嵌め込まれた、小さなネックレスはよく見えた。テーブルの上に置かれた小さな蝋燭の光を受けて、仄かに輝くのは碧炎竜石と呼ばれる宝石だ。
西方に棲息する碧炎竜と呼ばれる竜の血液が結晶化したもので、竜の乱獲が取り締まられ流通にも規制がかかっている今では滅多に入手できないレアものである。
デート中、セシウとリーシャを残して店から離れた時にこっそり買ってきたものだ。
リーシャはじっと宝石を見つめ、はっと我に返り俺の顔を見上げてくる。思わず得意気に笑ってしまう。
「プレゼント。渡しそびれてたからな。今日、つぅか昨日はお前の誕生日だろ?」
「あ、そ、そうだけど……」
リーシャの肩に手を置きしゃがんだ俺は、肩口から鏡に映ったリーシャの顔を見る。
「誕生日おめでとう」
よっぽど驚きだったようで、口をぱくぱくとさせていたリーシャはようやく実感が湧いてきたのか、胸元に揺れるネックレスにそっと手を当て、微かに頬を綻ばせた。
「碧炎竜の結晶……。こんな高価なものを」
「前にも言ったろ? 女性に釣り合うアクセサリーを贈るのが男の責務って奴だよ」
露店の主はこの宝石がそんなレアものだとは夢にも思っていなかったようで、実際はかなり安価に買うことができた。
価格で決定したわけではないが、シンプルながら宝石の輝きを活かしたデザインであり、何より望んでいた色合いの宝石だったために即決してしまった。
「お前の目の色によく合うなって思ってよ。お前の目綺麗だからどうしてもな」
深く透き通る水浅葱の瞳。儚さを思わす色合いと繊細さはしかし真っ直ぐで強気で、様々な表情を見せる。
移り変わる様は水の流れに似ている、だなんて詩人気取りの感想さえ浮かぶ。
「何よ、あの時言ったのはその場の思いつきじゃなかったのね」
ふと呟かれた言葉の意味を捉えあぐねる。前にもなんかそれっぽいこと言ったんだったか、俺。
はにかむようにして、頬を染めたリーシャは何度もネックレスの宝石を指先で弄っている。
そこではっと何かに思い至り、リーシャは下唇に歯を立て微笑を消し去った。
「私、あんたのこと利用してたって言ったはずよ」
「ああ、言ったな」
「誰でもよかったし、今まで言ったことも全部ご機嫌取りだって説明したわよね」
「確かに聞いたな」
「じゃあ、なんで!」
思わず声を荒げるリーシャに俺は自然と笑みが零れる。
「女性の甘い嘘には敢えて騙されたフリをするというのが信条なのですが、ここは一つ無粋なことを言いましょう、お姫様。貴女はどうでもいい相手を部屋に招き入れるほど安い女ではないでしょう?」
俺の一言に痛み堪えるように目を細めたリーシャは、その後ゆっくりため息を吐き、立ち上がった俺の胸元へしなだれるように頭を置いた。
「どうした?」
「そうね、酔ってしまったみたいだわ」
リーシャの前のワイングラスを一瞥する。
ワインは三口ほど飲んだだけで、まだほとんど減ってはいない。
「飲み過ぎか?」
「そうね。いろいろ話したからかしら」
じゃあ、しょうがねえな、と俺はそのままその場に留まることにした。
リーシャはまた手慰みのようにネックレスの表面を撫でるように指の腹を這わせ、ふふっと微かに声を漏らす。
「素敵なネックレス……ありがとう」
「誕生日だからな」
「こんなに嬉しいプレゼントは久しぶりよ。誕生日ってこういうものだったのね」
その一言に救われたのは俺だった。
少しでもこいつが自身の生まれた日を喜べたことが誇らしくさえある。
何もしてやれなかった俺が少しでも何かをしてやれたんだと思い込めた。
「もう少しだけ貴方のご機嫌取りをしてあげるわ」
「それは光栄ですね」
リーシャはテーブルの上に立てていた鏡をそっと倒す。これでリーシャの顔は見えなくなった。リーシャからも俺の顔は見えなくなった。
蝋燭の柔らかい光だけが頼りの室内。静けさだけが降り積もる空間。
俺はリーシャの頭が微かに動く感触と、鼻腔をくすぐる香水の香りだけを感じていた。
「貴方を選んだのは、なんだかすごく失礼かもしれないけど、あの人にちょっと似てたから」
ジゼリオス卿か。あのおっさんと俺は似てるのかね。
「あの人はいつも頼りなさげに笑っていて、貴方はいつもどこか納得いかないような顔してるけど、なんだか雰囲気がね。なんていうんだろう。変わった風に見えて、びっくりするくらい普通の人みたいな価値観とか持って素朴なところっていうの?」
「庶民臭いってか」
「茶化さないの。そういうんじゃないのよ。箱庭だとか、貴族だとか、そういった普通とは違う世界にいながら、普通の価値観を忘れないでいるところっていうのかな。あー、もう、どう言っていいのか分からないわ……」
まあ、なんかあのおっさんとは通ずる部分もある気がするから、分からなくはないけどよ。
「酷い話よね。私に気を遣って慰めにきてくれた貴方に他人を重ねるなんて」
「そうは思わねぇよ。きっかけなんて結構みんな不誠実なもんさ」
「貴方らしいわ、その台詞」
くすっとリーシャが肩を竦めて笑う。
ワインを流し込み、落ち着かせるように息を吐き出した。
「でも、一緒に行動して違うなぁって思ったわ」
「幻滅したか?」
「その逆、かしら」
思わぬ不意打ちに上手い返しが思いつかなくなる。
「ほら、また言葉に詰まってる。貴方女慣れした風でいろいろするくせに、直球で褒められると困るわよね。そういうところ、いいと思うわ」
からかわれてんのかね、俺。
「貴方がふざけた風して私を慰めてくれたのは素直に嬉しかったわよ。本当にありがとう。だから、なんだか、ちょっとだけこの人といたら楽しいのかなって思ってしまったの」
「あんまし楽しませてやれなかったけどな」
「そんなことないわよ。すごく楽しかったわ。だから、ありがとう」
付け加えられた感謝の言葉が湿っぽく、それがどこか妖艶な壊れ物めいていて、またくらっとする。
「貴方は私のためにいろんなことをしてくれた。本当に数え切れないくらい多くのことをしてくれた。だから、自分を責めないで。楽しんでしまった自分が申し訳なくなってしまうわ」
「リーシャ……」
思わず名前を呼んでしまう。
そこにどれだけの感情があるのか自分でも分からないままに名前を呼んでしまう。
「なんだか今日はいろいろ話しすぎね。酔ってしまったみたいだわ」
そうしてリーシャはグラス一杯も空いていないワインを前に呟く。
分かりきったものだ。
俺はそっとリーシャから身を引き、腰をかがめる。申し合わせたようにリーシャが振り返る。
熱っぽい視線が絡み合う。いずれ一つの領地を背負うとは思えぬほどに薄い双肩に手を添え、俺はその距離が縮めることさえ感じ入るようにゆっくりと顔を寄せた。
…………。
重ねた唇の柔らかな感触と隙間から漏れる熱い息に脳の奥が痺れる。
リーシャが酔ったフリをするのなら、俺はそこにつけ込むフリをしよう。
口唇が離れ、俺とリーシャの目が合う。
「名前、教えて」
そっとリーシャが言う。どこか湿っぽい、よがるような声はそれだけで男を狂わすことだろう。
「初めての口づけの相手よ。名前を知らないなんておかしいじゃない」
名前。俺がガンマとなる前の名前。俺の身近じゃセシウくらいしか知る者のいない名前。
俺はそれを静かに呟いた。リーシャは楽しそうに歯を見せて笑う。
「似合わない名前」
俺もそう思う。
リーシャはその名前を何度も口にした。
抱き締めてもまだ足りない分を補うように何度も互いの名前が転がり落ちる。
それがリーシャにとってどんな意味を持って残るのかは分からない。望まれたものを望まれるように与えたような体で、俺もまた自分が望んだことをしている。
この行いはきっとさぞ歪なのだろう。
それでも溺れるように二人で絡まって、足掻いて、欠損を補うように貪り合うしかない。
互いが互いに知り得ぬ、求め合う意味。自分でも分からず相手の中にそれがあるような気になって。
この素直な欲求もまた過ちの上に成り立っている以上、間違った感情、不誠実な想いとされるのか。
歪から生まれる全ては、過ちと成り果ててしまうのか。
自分の何気ない言葉が蘇る。
きっかけなんてものはどれも不誠実なものだ。不純な動機から始まったことに思い入れが生まれていく。
そう考えてしまう俺が今までしてきたことは全て過ちとなってしまうんだろうか。