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Alternative  作者: コヨミミライ
La's Bathos—仕組まれた賛美歌—
110/113

Cr's are Thinkerー深く、淀みへー

 俺たちが駆けつけた時、すでに事態は収束していた。

 広々とした部屋に入ると、入り口の隣にはセシウが立ち尽くしている。埃被った床には魔物と組織の一員と思われる者たちが倒れていた。

 魔物は息絶え、若者たちは皆意識を失っている。

 部屋の中心には尻餅をつき、顔を押さえた男。腰を抜かしているようで、顔を覆う手の隙間からは赤い血が滴り、目は立ちはだかる霊峰のような影を凝視している。

 肩から奔出する怒気が陽炎と化したクロームの背中。握り込められた拳には血が付着していた。

 その傍らにはどこか気怠るげな顔をしたプラナが座り込み、心配そうにクロームを見上げている。

 クロームが一歩踏み出す。ゆらりとした動きだというのに、何よりも威圧的で体の奥底の汚泥が煮立つような怒りを孕んでいることは経緯の分からない俺でも分かった。

「どうしてこうなってんだ?」

「部屋に入ったら、あそこの男がプラナを組み伏せてた」

 セシウの何とも簡潔な説明で納得がいく。そりゃそうなるわ。

 男が短い悲鳴を漏らし、体を引き摺って後ろに下がる。クロームは変わらぬ足取りで男に迫り、その胸倉を掴んで力任せに持ち上げた。

「や、やめてくれ……。た、たすけ、てくれ……!」

「喚くな。心配せずとも殺しはせん」

 低く、唸るように言い、クロームは持ち上げた男の背中を壁に叩きつける。両手で胸倉を締められ、男の口が喘ぐように酸素を求めた。

「それでも、俺の仲間を傷つけたツケはしっかり払ってもらうぞ」

 恫喝するような声だった。男はクロームの手首を掴み、必死に引き剥がそうとするが、どれだけ暴れても巌のように鍛え上げられたクロームの体はびくともしない。

 よく見れば床に座り込んだプラナの体には無数の切り傷が見え、ローブはボロボロになっていた。俺たちが来るまでの間に何があったのかは分からないが、その有様はクロームの地雷を踏み抜くには十分なものだろう。

「お、俺は脅されて、仕方なくやったんだ……俺も被害者なんだ……」

「黙っていろ」

 男の体が軽々しく持ち上げられ、右側へと投げ捨てられる。簡単に宙を舞った体はそのまま壁に衝突し、ずるりと床に落ちた。

 顔は苦悶に歪み、酸素を求め咳き込んでいる。鼻水と涙で顔はぐしょぐしょにして倒れ伏す姿は惨め以外の何物でもない。

「あ、あんた、誤解してんだ……。お、俺がお前らの敵じゃなくて、本当はこんなことしたくなかったってことくらい、この近くの店でアシェントコーヒーでも飲みながら話せば、すぐに分ガッ!」

 震える声で紡がれる弁明はしかし、クロームに頬を蹴り抜かれて悲鳴に変わる。

「いいか。よく聞け、クズ野郎。口からケツと同じものしか出せない、犬のクソ以下の貴様が今すべきことは一つだけだ」

「ち、違ぇんだ……。マジな話だって……。俺ぁ本当に仕方なくやっただけで、耳長どもを好きで売ってたわけじゃねぇ……」

「あれだけのことをしてよくシラを切れるものですね」

 プラナが叫ぶ。珍しくプラナも激怒していた。

 ただでさえ紅い目は充血し、唇はわなわなと震えている。

 貼り付いた塵埃に汗が混じり、頬は泥で汚れていた。微かに刻まれた紅い線は裂傷。あまりにも痛々しい姿だった。

「黙ってやがれ! 魔女がっ!」

 男が喚く。

「私が話さずとも、この建物の有り様を見れば、事実は明白です。無意味な言い逃れはよしなさい!」

「テメェだって変わらねぇだろうがっ!」

 無駄な抵抗を繰り返す男に業を煮やし、クロームが掴みかかろうと腕を伸ばす。

「テメェは俺たち以上のクソだろうがっ! アマッ! 知ってンぞ! テメェ、耳長を喰いやがったなっ!」

 伸ばされたクロームの手が止まる。

 プラナが目を瞠る。

 俺もセシウもリーシャも驚愕に気圧された。

「貴様、何を言って——」

「はは……ハッハッハ! 俺ぁ知ってンぞ。おっかしいと思ったんだ、テメェのその頭のイカれた魔力! エルフを喰ったに違ぇねぇ! そうじゃなきゃおかしい! 耳長の肉には魔力を強める力があんだろ!? 言ってみろよ! 一体何匹喰ったンだよ!? ええ!?」

 俺たちの反応を見て、男は核心をついたと思ったのか、さらにプラナを罵る。

「黙っていろ!」

 クロームが男の顔を蹴飛ばす。低い呻きを漏らし、口内を紅く染めながらも、男は血と唾の混じった液体を撒き散らしながら哄笑した。

 誰もがそうではない、と言いたいだろう。それでもできなかった。クロームでさえ言えなかった。

 最も先に否定の言葉を放つべきプラナが何も言わない。

 床についた手を握り締め、下唇を噛み締めた魔術師は、目深に被ったフードで顔を隠し、ただ黙している。

 プラナがただ一言、それは違うと言えば俺たちはそれを信じられるのに、どうしてプラナは何も言ってくれない。

「ほら見ろよッ! テメェのその大切な仲間も同類じゃねぇか! はっはっは! 知らなかったのか? 知るわけねぇよなぁ! 言えるわけねぇもんなぁ! ざまぁみろよ、クソアマ!」

 男が唾を飛ばして笑う。狂ったように笑う。

 その笑声さえ今は霞んで聞こえる。黙ってろ。今はそれどころじゃないんだ。

 俺たちはプラナがそんなことをするはずがないと信じている。いつでもプラナの否定の言葉を全肯定してやれるだろう。

 プラナが何も答えないこと。ただ、その一点が俺たちを惑わせる。

 そうでなくとも俺たちは、ここに至るまでの道中でプラナの魔術がどれだけ異常に優れ、それが俺たちをどれだけ救ってきたのかを再認識してしまっている。

「オイ! 黙ってんじゃねぇぞアマ! 言ってみろよ! テメェが一体どんなことしてきたのかッ!」

 男は壊れたように笑い続ける。俺たちの目は、まるで神に懺悔するような姿で押し黙るプラナと、地に這いつくばりながら勝ち誇る男の間を行き来する。

 ただ一人、クロームだけが動き出していた。

 右手が銀色に閃く。指先が視認できないほどの動きの後、鋭く暴力的な金属音が俺たちの耳を貫いた。

 気付いた時には男の顔のすぐ近くにナイフが突き立ち、男は得意気な笑みのまま硬直している。

「耳障りだ。黙っていろ」

 低く呟き、クロームが男の前にしゃがみ込む。

「貴様は喧嘩を売る相手を間違えすぎだ」

「何言ってやがんだ……! テメェのお仲間のそのゲスアマが勝手にしてきたことだろうがっ!」

「そんなものはどうでもいい」

 男の反論に対してクロームの答えは平坦だった。

「貴様が何をしてきたのか。どんな不都合を喰らったのか。そんなものはどうでもいい。俺はただな」

 広い背中がゆっくりと上下する。深呼吸の後、クロームは突き立てられたナイフを引き抜き、その切っ先を男の眼前に突き付けた。

「俺の大切な仲間を傷つけた。その一点が我慢ならん。それだけだ」

「テメェのその仲間が耳長を喰ったかもしれねぇゲスアマでもかっ!」

 男は食い下がる。怯えながらも舌だけはよく回る。

 クロームを大仰にため息を吐き出し、手元でナイフをくるりと弄んだ。

「だから、どうでもいいと言っている。貴様が言うその魔術師は絶対にそのようなことをしない。そして何より、真偽がどちらであれ、あいつがあいつであることに変わりはない」

 クロームが男の顔を覗き込む。お互いの吐息を感じるほどの至近距離。鋼のような視線を真っ直ぐに受け、男は身動きさえできない。

「貴様如きの言葉で惑うほど信用できない者を俺は仲間とは呼ばん」

 答えは出た。

 最早、男がどれだけ言葉を尽くそうが、意味などないだろう。少なくともクロームの真っ直ぐな信頼を崩すことは不可能だ。

 俺たちの息を詰まらせていた疑念の霧が一瞬で晴れるのを感じる。

「カッコいいじゃない」

 側に立つリーシャが腕を組み、素直な述懐を吐露した。

 本当にな。男を見せられた気分だ。

 クロームはプラナの全てを認めた。例えプラナが過去に何かをしようと、今のプラナを尊んだ。

 真偽は誰にも分からない。クロームだって分からない。唯一知るプラナは口を閉ざしたままだ。

 それでもクロームのその一言で俺たちの迷いは払拭された。

 セシウが腰に手を当て、ふぅと気を抜くように息をつく。

「これで一件落着?」

「いや、まだだ。クローム」

 名前を呼ぶと、それだけで伝わったらしい。一度頷いてから、クロームは男に向き直る。

「貴様はこの組織のリーダーか?」

「どうだろうな」

 逆手に握られたナイフの先端が男の右目に少し近付く。

「俺は無益な殺生は好まないが、そこまで抉られたいのなら遠慮無くいくぞ?」

「……あ。ああ、そうだよ……」

「他に仲間は?」

「全員そこのアマとテメェにやられたよ」

 改めてプラナの実力の高さを再認識させられる。

 普段は魔術による後衛に専念するためその魔術の威力にばかり目が行くが、それだけが武器だというわけではない。分かっていても、ここまで戦果を上げられると驚きはする。

「他に仲間はいないのか」

「いねぇよ」

「何故俺たちを狙った?」

「知らねぇよ、勝手にやったんじゃねぇのか? うちの仲間は血の気が多かったからな」

「嘘はよせ。首謀者がいるのだろう? 分かっているぞ」

 男は黙り込む。

 クロームは一度ため息を吐いたかと思うと、目を逸らす男の顔を胸倉掴んで引き寄せた。

「爪の一枚や二枚、剥いでやってもいいのだぞ?」

 ふと、視界の端で何かが光る。

 紫苑の輝き。地面に散乱していた縦長の紙切れに描かれた紋様めいた文字が輝きを放っていた。

「なんだ!?」

「いけないっ!」

 俺の疑問の声に続き、何かを察した様子のプラナが弾かれたように動き出す。

 一瞬の閃光と共に現れた杖を握り、クロームの元へと駆けた。

 散乱する札に描かれていた紋様が紙面から剥離し、飛び出すように拡大する。

 宙に浮いた紫苑の光は形こそ円ではないものの、間違いなく魔術の術式だった。一つ二つではない。散らばっていた紙片全てから魔導陣が空間に転写されている。

「リーシャ下がれっ!」

 庇うようにしてリーシャは入り口の奥へ押し戻しながら前へ出ると、セシウもまた俺の隣に立っていた。

 刹那、獣の唸り。くすんだ金色の塊が魔導陣の一つから放たれる。

 応じるように紅が視界の脇で霞み、気付いた時には迫り来る獣を弾き飛ばしていた。

 振り上げた足をそのままにセシウは小さく息を吐く。

「次から次へと落ち着かないねぇ」

「ああ、全くだな」

 別の魔導陣から突如として現れ飛びかかってくる獣の顔面に蹴りを叩き込む、後方へ弾け飛んでいく体に三発発砲する。

 耳を劈く銃声。立ち上る硝煙。獣の腹部に三つの赤い花が咲いたそばから散っていく。

 クロームもすでに反応し、ナイフを獣の喉に突き立てていた。迫る獅子にも似た魔物をプラナが風の魔術で引き裂き、怯んだところをクロームがさらに殴り飛ばす。

 ずれた眼鏡を指で押し上げたクロームが俺を睨みつけてきた

「今度はなんだっ!」

「俺が聞きてぇよ!」

 矢継ぎ早に迫る魔物たちを俺が撃ち抜き、セシウが蹴り飛ばし、プラナの魔術で圧倒し、クロームの拳が粉砕していく。

 魔導陣からは次から次へと魔物が吐き出され、倒した魔物はみるみるうちに干涸らびて土塊へと成り果てる。

「プラナ! 札をっ!」

「はい!」

 プラナが一歩引き下がり、魔導陣を展開する。

 高速で紡がれる言霊。魔導陣に赤い光が集約していく。

 不穏なものを感じたのか、途端にプラナへと迫る獣たちをクロームが弾き飛ばす。

 こっちはリーシャとエルフの子供があるから助けにはいけない。

 前方の獣に向けて発砲し、牽制をしかけていく。セシウに殴り飛ばされた獣の体が鞠のように弾み、獣の群れている場所に転がり込む。怯んだ隙に銃弾を再装填——

「ほいさっ!」

 弾倉を叩き込もうとした俺の体を押しのけ、セシウが横合いに迫っていた魔物の額に踵落としを叩き込む。

「一つ貸しね」

「増える一方だぜ」

 内心ハラハラしつつ軽口だけ返しておく。

 体が資本っていいな。再装填必要なくて。

「下がって!」

 プラナの声が耳を突き、考えるよりも先に後退しようとした俺よりもさらに先んじて動いたセシウが俺の手を掴んだ。有無を言う間もなく、俺の体はもつれるようにして入り口まで引き込まれていく。

 途端に魔術が発動。炎の濁流が酸素を喰らう荒々しい音と共に溢れ出る。転がり込んで重なるように倒れた俺とセシウの顔に熱風が叩きつけられた。

 入り口の向こう側は完全に炎に埋め尽くされ、獣も札も、何も見ることは出来ない。

 視界全体を覆う炎はすぐに時間を逆行するように不自然な動きで引き戻され、後には灰燼だけが残っていた。

 魔物も札も、全てが灰となって消え失せたのだろう。

「何今の」

「プラナの魔術だよ」

 倒れ伏したまま呆気に取られているリーシャの疑問に答える。

「うちの魔術師すごいでしょ?」

「え、ええ……」

 セシウの得意気な笑い声とリーシャの曖昧な答えが頭上から降ってくる。

「つぅか降りろよ。胸が当たってる」

「わわっ!」

 指摘されてようやく今の状態に気付いたのか、セシウが素早く俺の上から退ける。

 苦しさのない重みと柔らかな感触が背中から消え、俺はゆっくりと立ち上がった。

 何故か頬を赤らめて毛先を弄ってるセシウと、呆れたようにため息をつくリーシャに目をやり、俺は「ん?」と顎に手を当てる。

「どうしたの?」

「何かあった?」

「いや、もしかして……お前少し重くなったか?」

 即座に飛んでくる拳をひょいっと避けて、俺はにやにやと意地悪げに笑いながら炎で一切合切が燃やし尽くされた部屋へと戻る。

 クロームとプラナは俺に背を向けるようにして並んで部屋の隅に立っていた。

「これでとりあえずは大丈夫そうだ、な——って」

 部屋を見回してすぐに気付き、思わず顔が引き締まる。

「おい、あいつどうした?」

 振り返ったクロームは困ったように肩を竦めた。

 どこにもあのリーダー格の男がいない。無様に倒れ込んでいた場所から忽然と姿は消え失せていた。

「騒ぎに乗じて逃げやがったのか……」


     〆


「クソ! クソ! ふざけやがって!」

 部屋に入ってくるなり男は喚き散らし、片手に提げたリュックに乱暴な手つきで物を突っ込んでいく。

 ボロボロの棚にあったものから必要最低限のものだけを突っ込み、忙しない足取りで机に向かい、中から取りだしたものをまたリュックに投げ入れる。

「テメェの話に乗ったせいでこの有様だ! このまま行けば俺は破滅だぞっ!?」

 怒鳴る男に対し、しかし部屋の中心に不自然に置かれた椅子に腰掛けた男は肩を揺らしながら喉の奥で嗤うばかり。

「何笑ってやがんだよっ!」

 豪奢のドミノマスクをつけた男は白い手袋を填めた手を顎にかけ、そっと男に視線をやる。

「楽しいことになるとは言ったが、簡単だと言った覚えはないさ、私は。それに、なんだ、猫と思って踏んだ尻尾が虎や獅子の手合いだった、というのはよくある話ではないか。舞台の上では、だが」

「何を言ってんだよテメェはっ!」

 この男から話を持ちかけられた時、彼は楽をして大金を手に入れられると思った。何よりこの道化めいた出で立ちの男がもたらした力は想像を絶するものであり、十分信用に足るとも思えたのだ。

 しかし、今となってはそれら全てが間違いであった。

 この男のどこか芝居めいた、大仰で回りくどい話し口にも苛立つばかりだ。

「君は最高の劇とは、どういうものだと考える?」

「あ?」

 恫喝するような声に対しても道化はゆったりとした振る舞いを変えず、そっと優雅に足を組み直した。

「舞台は人の意識を本人も気付かぬほどじっくりと手繰り寄せ、そうとは気付かせぬままに、一幕の幻想に招き入れるものこそが最高だとは思わないか?」

「だから何を言って……」

「そんな物語を描くというのなら、誰一人の演者さえもが舞台上に立たされているという自覚がなく、誰もが本当のことと思い込み動いているべきではないか?」

 道化は身振り手振りも大袈裟に意味の分からないことばかりを話し続ける。

 声が聞こえているのかどうかも怪しい。

「何が言いてぇんだ?」

「ふむ、ここまで言っても伝わらない、か。よろしい。君のような低俗な人間にも伝わるように言ってあげようではないか。君は私に利用され、私は君を利用した。君たちの必死な踊りはまあ、そこそこ楽しめた。しかし、そろそろ劇も冗長だ。君の手際が悪く、思ったほど面白いものにはならなかったのでね」

「利用した、だと……!?」

「どれだけ演者が演じている自覚がなくありのままの迫真の立ち回りを見せたところで、やはり人間として深みがない演者というものは舞台を中弛みさせる。君はいい実例を見せてくれたよ。その点に関しては非常に感謝している」

「ふざけんな! 初めから俺の組織を滅茶苦茶にするつもりだったってのか!」

「私は道筋を示し、手段を与え、ついでに言えば方法まで授けた。それでも女神が微笑まなかったのは其方の不手際だ。私の目的はこの舞台を面白くすることであり、別に君の結末にはそれほど興味がない。君が今よりも遙かに優秀だったのなら、こんなことにはならなかったとは私も考える。残念に思うよ。もっと面白くなったであろうに」

 先程までの道化の言動は何を言いたいのかも分からなかった。今の道化が語ることは意味も、言いたいことも分かるというのに、分かるからこそ彼が何を言っているのか分からない。

 確かに言葉は行き交い、語るべきものも合致しているはずだというのに、どうやってもこの道化と話し合えるとは思えなかった。

 それほどまでに道化の価値観は理解不能のものだ。

「あいつらもテメェの手先なんじゃねぇだろうな!」

「その質問に答えるのはとても難しい。そう、とても、だ。難しい。ある観点で見れば、彼らは私と近しい存在と言えるかもしれないが、もう一方から見れば私は彼らにとって唾棄すべき存在、とも言えるかもしれない。彼らは私の舞台を盛り上げるのに適した演者であるが、手先や手駒の類かと言えばそうではなく、むしろ相反する存在とも言えるかもしれない」

 道化の言葉は常にふらりふらりと揺れていて、実体がなく何よりも回りくどい。

 要領を得ない言葉は苛立ち、考えることも億劫になってくる。必死に言葉の真意を捉えたところで、この男が何故そうするのかは何一つ理解などできはしない。

「どちらにせよ、君が歩むべき道は最早決定している。知る必要などないだろう? 物語は謎があると深みが増すものさ。君の残り僅かな物語に深みを与える私は、とても善良で心優しきものだとさえ思うのだがどうだろうか?」

「ふざけんじゃねぇっ!」

 男はリュックから拳銃を引き抜き、道化へと突き付ける。

 しかし部屋の中心に佇む椅子にはもう誰も座ってなどいなかった。

「ああ、そうか」

 先程よりも近くで聞こえる声。

 いつの間にか道化は机の上に、男へ背を向けるようにして座っていた。

 優雅に足を組み、そっといつの間にか手に持っていたティーカップを傾け、紅茶を味わっている。淹れたばかりのように見える紅茶からは湯気と上品な香りが立ち、男の鼻腔をそっとくすぐった。

「この面白みのない劇をもう少しだけ楽しむ方法を思いついたぞ。まだまだ劇は終わらない。ならば、後に続く痕跡くらいはあってもよかろう」

 道化はそっと顔を男へと向けた。ドミノマスクの奥、金色の瞳はどこまでも冷たく、凪いでいた。

 底の見えない洞穴のような双眸に得体の知れない恐怖を感じ、男は本能のままに、誘われるように銃を構え、引き金を引いていた。




 銃声のした方向へと急ぐ。

 息堰き駆ける。

 隣のクロームは息一つ乱れていない。

「一体、撃ったのは誰だ。誰に向けて撃った」

 走りながらクロームが疑問を口にする。

「さぁな。分からないが行くしかねぇ。そこに主犯がいる可能性がある以上はな」

 不自然だとは思う。俺とクロームが男を捜して駆け回り始めた矢先にあの銃声。仕組まれているようにも思える。

 それでも発砲するような事態が起こっているからには向かうしかない。

 曲がり角を曲がり、真っ直ぐな廊下へと出る。一番奥に扉があった。

「あそこか!」

「さぁな。行くだけ行くしかねぇよ!」

 俺とクロームは速度を上げて突き進む。

 プラナも一緒に来ていれば、多少は調べようはあっただろうが、生憎あいつは消耗しきっているため、セシウやリーシャと共に待機している。

 らしいところを探していくしかない。

 目前に迫った扉をクロームが蹴破り、俺は銃を構えながら部屋へと押し入った。

「なっ!」

 構えた銃身の先に見える赤い十字に俺は声を詰まらせる。

 埃被った床にひび割れ剥離した壁、無造作に置かれた家具はどれも古びていた。

 入り口の向こう側の壁に背を向けた机の直上、中空に無数のワイヤーが交錯している。蜘蛛の巣を思わせるワイヤーは部屋の各所から引き延ばされ、机の真上で絡み合い、十字架を支持していた。

 ワイヤーを液体が滴り落ちていく。机の上には水たまりができあがり、十字から落ちてくる雫が塗れた音を微かに刻む。

 あれは、なんだ。

 十字の上部には鉛筆やハサミ、ナイフにペン、栓抜きにマドラー、突き立てられるものは全て尽き立てられ、埋もれている。

 各部にはねじ込まれたフックが天井部分から伸びる無数のワイヤーに引っかけられて十字架を支え、左右の先端には杭が打たれ、他のワイヤーを固定していた。

 どこまでも十字めいたそれはしかし十字ではなく、滴る液体は赤かった。

 人だ。人が中空に磔にされている。

 まるで人形でも扱うように無残な手法で、生身の人間が十字架にねじ曲げられていた。

「……どういうことだよ……」

 呟く俺の脇で轟音。

 クロームが叩きつけた拳が壁に歪な罅と擂り鉢状の凹みを生み出す音だった。その横顔は苦痛に歪んでいる。

「どうしてだ……。どうして、命は俺の指をすり抜けていく……!」

 慟哭。いつもと変わらぬ、それでいて何かを抑え込むような声が、俺にはそう聞こえてならなかった。

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