Cr's are Thinkerー深く、淀みへー
長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が上げられていく。焦点の合っていない水浅葱色の目が、何度か瞬きを繰り返す。
「ん……ここは……」
リーシャは目覚めきらない意識のままに、周囲を見回す。埃っぽい室内、全面がコンクリート打ちっ放しだった。床には砂埃がガトーショコラの砂糖のように塗されている。
飾り気のない壁は傷だらけで、嵌め込まれた窓は曇りきり、弱々しい光を室内に投じていた。一条の光の中で所詮埃にすぎないものが雪になったつもりでいるのかキラキラと光っていて、まるで自分のようだな、とリーシャはぼうっとした頭で自嘲的になんとなく考える。
広い空間に生活感はなく、木箱や工具と思しきものが無造作に置かれていた。
体を動かそうとして、全身をきつく締め上げる縄の存在に気付く。荒縄はリーシャの華奢な肢体に何重にも巻き付けられ、衣服越しに深く食い込んでいた。両の足首も同じような縄に締め上げられている。
そもそもどうして自分は座ったままの姿勢で意識を失っていたのか。
「あ、起きました?」
背後で身動ぎする気配が伝わる。微かな動きにリーシャの肩がびくりと跳ねる。体の自由が利かないので、首だけで背後を見る。赤い髪に包まれた頭が見えた。長い髪は頭の下で緩く纏められている。
覚えのある髪と声で、リーシャは背中合わせに座る人物が誰なのか理解した。
「セシウ?」
「ええ、まあ、そんなところです」
何故か申し訳なさそうにセシウは答える。
「聞くまでもないことかもしれないけど、これってやっぱり捕まってるのかしら?」
「ええ、まあ、見たまんまのことを答えるのはあれですけど、お縄を頂戴してるところです」
セシウの妙な言い回しにリーシャは口許を綻ばせる。
「なんだか罪人みたいね」
「あはは、確かにそうなっちゃいますね」
背後のセシウは気楽に笑う。リーシャも釣られて笑う。
「リーシャさん、こんな状況なのに取り乱さないんですね」
「え? そうかしら? 貴女だってそうじゃない?」
「いや、私は場慣れしてますけど、リーシャさんはこういったこと初めてなんじゃないですか?」
その問いかけにリーシャは一瞬黙り込む。まずいことを聞いたのかとセシウが不安になる程度の間を置いて、リーシャは息を吸い込んだ。背中合わせになっているセシウは、それを口を開く前兆だと悟った。
「そうでもないわ。一応侯爵の娘ですもの。こうなることもあることは覚悟していたし、初めてでもないもの」
「そうなんですか?」
「ええ、昔誘拐されたことあるわよ。なんかすぐにここからそう遠くない草原で発見されたらしいけど」
リーシャが物心がつく前の事件だった。そのため、あまり詳しい事情は知らない上に、誘拐を経験したという実感すらない。
ただ、彼女の父が現在のように娘を過保護に扱うようになった原因の一端であると侍女が推測したことがあるために深く覚えていた。
セシウは感嘆めいたため息を密かに上げている。
「はぁ……やっぱり貴族となると人生経験も桁違いですね」
「何言ってるのよ、貴女の方がよっぽど私よりすごい経験してるでしょう?」
思いがけぬ言葉にリーシャは吹き出しそうになるのを必死に抑えた。まさにこの世界の最前線で死闘を生き残ってきた者にそんなことを言われるとは誰も予想はできないだろう。
彼女の今までの歩みに比べたら、自身などなんと生温い生活をしてきたことか。セシウの今までを知らなくても、それは容易に察せられた。
「ですかね? なんかもうそれが日常になってて、あんまり実感ないんですよね、本当のところ」
「そういうものなのかしらね?」
「そういうものなんですよ」
ふと沈黙が二人の間にやってくる。互いに何を話していいのか分からなくなってしまっていた。
そこでようやく外から物音が聞こえることに気付く。いつからだったのかは分からない。随分とくぐもっているが、男性の野太い声がいくつも重なっていた。何か作業をしているのかもしれない。
その間もセシウは必死で話題を探すが、あまり言葉を交わすこともなかったせいか、共通の話題を見つけられないでいた。なんとなくセシウが困っていることを察して、リーシャが次の話題を考える。
「ねぇ、貴女ってどうして勇者一行にいるの?」
「どうしてって言われても、まあ、そういうのが生まれ持っての役目みたいなものですから……」
慣れていないせいなのかたどたどしい敬語の上に、答えづらい質問が重なって、セシウの声は弱々しい。
「《創世種》のセシウだったから、としか答えようがないっていうか……」
「私もある程度は知ってるつもりだけど、《創世種》って生まれ持っての素質みたいなものなのよね?」
「まあ、そんなところですね。それぞれに違った特別な力が備わっていて、それぞれに名前が与えられます。生まれた時から力を使える人もいるらしいですけど、ほとんどの人はあとから使えるようになって、アタシもそのクチですよ」
それはリーシャも知っている。
固有の能力を持つ者は二人とおらず、能力の所有者が死んだ後、一定の周期で同じ能力を持つ者が生まれるという話だった。
「そんで、まあ、誰かが力が使えるようになると猊下も分かるそうで、《箱庭》からその人のところに迎えがくるんです」
「セシウもそうだったの?」
「そりゃあ、まあ、もちろん」
当然のようにセシウは答える。それでもリーシャはその疑問を感じさせない言葉が腑に落ちなかった。
「突然やって来た連中に呼ばれて、貴女は何も感じなかったの? 元の名前は捨てさせられて、それまでに関わっていた人とは滅多なことでは関われないっていうじゃない。見ず知らずの連中に連れて行かれることを不条理だとは思わなかったの?」
「んー、アタシは力が出てきた時、結構周りに迷惑もかけちゃって、困ってたりもしてたんで事情が分かる人が来てくれたのは正直助かったってーか……。それに迎えとして来てくれたのがガンマだったから、まあ、そこまで抵抗はなかったかなぁ」
セシウが幼馴染みということはリーシャもガンマから聞いていた。セシウの悪口ばかり言いながらも、優しさが滲む目は鮮やかに思い出せる。
まだリーシャが納得いっていないことを察し、セシウは見えないと分かっていながらもそっと笑んだ。どこか全てを受け止める慈母のようにも思える、快活で溌剌とした彼女にはそぐわない笑みだった。
「アタシには不条理だとか理不尽だとかってのは分からないし、それにアタシが家族や故郷の人たち、それよりもたくさんの人を救うための助力ができるなら、それはやっぱり悪いことじゃないと思ったんです」
「でも、それじゃあ、貴女はどうなるの? 貴女の人生を擲って、他人のために戦うなんて、そんなの簡単に納得できる話じゃないでしょう?」
リーシャにはそれがどうしても理解できなかった。
恐らくは意識を失っている間に見た、あの夢のせいなのだろう。
自身はただの社交の場で不遇な目に遭っている気になって、世界に絶望していた。何もかもが崩れ去ってしまえばいいとさえ思っていた。セシウの言葉を聞くと、そんな自分がたまらなくくだらないものに思えてならない。
過去を捨て、故郷を捨て、ただ持って生まれたもののせいで死地に赴くことを強制されてなお、それを受け容れて今も穏やかに屈託なくあれる彼女の精神が信じられず、認めたくもなかった。
セシウを思いやるような言い回しで、彼女の口から自身と似た何かが出てくるのを期待している。それを聞いて安堵しようとしている。
自分とそう変わらない。この人もまた、同じように苦しんでいるのだから、自分の悩みもまた正当なものだと思い込むために必死になっていた。
そんな自分を分かった上で止まらない自分が、また酷く惨めにも思えた。
「リーシャさんは優しいですね。そんな風に思ってくれるなんて、やっぱり嬉しいです」
邪気のないセシウの言葉に、リーシャは胸を串刺しにされた感覚に陥る。
「でも、アタシは、ガンマが頼み込んでくれたこともあって、もともとは割と安全な猊下の直轄護衛だったんです。そんなに危険に晒されるようなこともなくて、《箱庭》で平穏に暮らしてたんですよ。緊急時には駆り出されることもありましたけど、そんなに危険なものも少なかったですし」
「じゃあ、なんで、今勇者一行にいるの? そのまま平穏に暮らせるならそれが一番じゃない」
「アタシが自分で望んだんですよ。自分で望んでここにいるんです」
「それは……どうして?」
「んー、それは……」
縋るような問いにセシウは考え込む。唇に指を当てようとして、縛られていることを思い出す。思えば囚われの身だというのに随分と悠長な話をしているな、とセシウは自分に呆れた。
「理由はあるんですけど、恥ずかしいから内緒です」
「何よそれ。どんな理由なのよ」
「ははは、すみません。でも、まあ、これは内緒です。ただ、アタシは自分で望んでここにいますし、辛かったり痛かったりしますけど、嫌だと思ったことはないです。それは本当です」
セシウは確信を以て答えた。
理由は言えずともそれは本当のことだった。
自分や仲間が傷つくことも、誰かを助けられなかったことも辛い。他者の悪意に晒されることも、数多の敵の前に立つことも、常に死の可能性に晒されていることも恐ろしい。
それでも、自らの選択を後悔したことは一度もなかった。
「アタシは自分がやるべきだと思ったことを信じてます。きっと、やらなかったら後悔すると思って、今ここにいることを選んだんです。だから、後悔なんてないんです」
セシウの力強い言葉に、リーシャは自身を省みる。
歳もそれほど変わらないであろう彼女は自分の意志で戦場に飛び込んだ。
平穏を約束された場所を擲って、自分がすべきだと思ったことを信じて動いた。
だというのに自分は鳥籠の中にいることを嘆いていただけだ。口先で文句を言い、悲劇のヒロインのように振る舞いながらも、その場所に留まっていた。
「貴女は、強いのね……」
同時に自分が酷く惨めな存在に思える。
「あはは、そう言われるとなんだか気恥ずかしいですね。でも、強くなんかないですよ、アタシも」
照れくさそうに笑いながらも、セシウは否定する。それはただの謙遜だろう、とリーシャは思った。
彼女の思いなど知ってか知らずか、セシウは言葉を続ける。
「アタシは結局甘えてるだけなんです。戦うって決めたような口ぶりで喋っていても、そう決めた理由は結局甘えだし、今もそうやって同じところに甘えてるんです。戦って傷つくことよりも、何も知らずにただ穏やかに暮らしている方が怖いことがあって、だからアタシはここにいます」
セシウが戦う理由を知らないリーシャには、それが意味するところは分からない。
それでも、どこか痛みを堪えるようなセシウの言葉が嘘や謙遜の類であるとは思えなかった。
きっとこれはセシウの本心なのだろう。確かな理由はなくとも、リーシャはそう感じずにはいられなかった。
「誰の助けも借りずに戦う決意ができる人なんて、そうそういないとアタシは思うんです。誰だってやっぱり、今あるものを投げ出して、別の場所に向かうなんて怖いはずなんです。だって、アタシだってそれは怖かったから。戦うのは怖いし、何より傷つくことは辛い。それでも、そうせずにはいられないものがあって、それをなくすために、ここにいる。結局アタシだって楽な方に逃げてるんです」
確かに、それは逃げなのかもしれない。
いつ襲われるか分からぬ獣の潜む森から逃れるために怒濤へ飛び込むような決意。
それでも、もしそうなった時にリーシャ自身が選べるという確証はなかった。それだけの自由への渇望が自分にあるのか、今となってはもう疑わしい。
「て、こんなこと話しててもしょうがないですよね。まずはここから逃げることを考えないといけません」
言ったことを振り返り気恥ずかしくなったのか、セシウの話題の変え方は唐突なものだった。少し上擦った声で言われて、リーシャは少しもったいないような気もする。同時によかったとも思ってしまっていた。
「逃げられるの?」
「逃げられると思います。ただ、何があるのか分かりませんので、少し機会を窺おうかなって」
「この状況から何かが好転するようなことはないと思うのだけれど?」
おそらくここは敵地のど真ん中だ。その上、敵が何人いるのかも分からないし、武装している可能性だって十二分にある。
下手な動くことが危険なのはリーシャにだって分かる。だからといって、このまま待っているだけで逃げる糸口が生まれる可能性も低いと考えられた。
「状況は変わります。絶対に変わります」
セシウは力強く言った。
何か、策でもあるのだろうか。
そこまで根回しがいいようには、正直リーシャからは見えない。この事態は突然のことだったのだから、用意をしている余裕もなかったはずだというのに。
「今は待ちましょう。虎は伏して機を窺うものだって、この前読んだ本にも書いてありました」
彼女と読書というお世辞にも結びつくとは思えない要素に、リーシャは少しだけ可笑しくなる。
どちらにせよ、守られる側のリーシャが何か口を挟むことはできない。彼女に託すしかないのだろう。