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東京からの脱出1

 孝輔と恵子を乗せたタクシーは、平井駅前から新宿区若松町に向かった。蔵前橋を渡った辺りから、孝輔は心臓の激しい動悸に襲われた。柄にもなく殺人犯なんかと渡り合ったせいで、心臓の調子がおかしくなったのかと思っていると、今度は頭が割れるような酷い頭痛が襲ってきた。タクシーのちょっとした振動が頭の芯にずしりと響く。孝輔は目を瞑り必死に痛みに耐えていた。

 タクシーの運転手が孝輔に声を掛けた。

「お客さん、そろそろ若松町ですけど、場所はどのあたりですか」

「夏目坂通りに入って貰って、ひとつ目の信号を・・・あれ?」

 孝輔が前方に目をやると、江渡神組の事務所のあるマンションの前に三台のパトカーが赤色灯を点けて止まっていた。マンションの入口にはふたりの警察官が立番をしている。組事務所で何かあったのだろう。あるいはオレオレ詐欺のかけ子部屋が摘発されたのかも知れない。少なくとも、ヘロインの入ったリュックサックを持ってウロウロできる状況ではなさそうだ。今日は諦めて高円寺の部屋に帰ろう。激しい頭痛の中で孝輔は考えた。

「運転手さん、申し訳ない。止まらずにこのまま真っ直ぐ進んで貰って、JRの高円寺駅に向かって下さい」

「JRの高円寺? はい、了解しました」

 タクシーが夏目坂通りを下り切ったところで、身体が震えるほどの悪寒が加わり孝輔は意識が朦朧となった。ガチガチと歯が鳴る。恵子が心配そうに声を掛けるが、何を言っているのか聞き取れない。孝輔はうわ言のように「大丈夫だ」を繰り返した。高円寺の駅前でタクシーを降りたときには、孝輔はひとりで立つこともままならず、恵子に支えられながら何とか部屋にたどり着いた。そのあたりのことを孝輔はぼんやりとしか覚えていない。

 JR中央線の高円寺駅から徒歩で十五分ほどの場所にある、古びた三階建てのアパート「幸福荘」の304号室が孝輔の部屋である。八畳とキッチンしかない一Kの間取りで、脱ぎ捨てたままのシャツやズボン、コンビニの袋に入ったごみ、林立するビールの空き缶が孝輔と恵子の周囲をぐるりと取り囲んでいる。

 孝輔と恵子は小さなちゃぶ台を挟んで座り、買い置きのカップラーメンを啜っていた。 孝輔はラーメンにほとんど手を付けないまま割りばしをちゃぶ台の上に投げ出すと、そのまま畳んだ万年床にぐったりともたれ掛かり目を瞑った。食欲は全くない。身体の節々が軋みをあげて、頭が割れるような痛み、加えて時折ガチガチと歯が鳴るような悪寒が襲ってくる。タクシーに乗り込んだときに孝輔が握りしめていた裁ちばさみを見てギョッとした運転手の顔と、その後に続いて乗り込んできた恵子が握りしめていた孫の手を見てポカンとした運転手の顔が、孝輔の頭の中でグルグルと渦を巻いている。

 恵子はカップラーメンをズルズルと啜ってからモゴモゴと言った。

「ねえ、よっちゃん、具合悪いの? 大丈夫? 熱は・・・あら、酷い熱。その汚い布団を敷いて横になりなさい、お母さんが看病してあげるから」

 孝輔が熱にうなされたように呟いた。

「お母さん? いや・・・お母さんじゃないんだ・・・ゴメン、ダメだ、明日、明日話すよ・・・本当にゴメン・・・」

 孝輔はそう言うと意識を失った。

 恵子は不思議そうな顔をしてちょっと首を傾げると、ちゃぶ台を片付けて万年床に孝輔を寝かせてから、孝輔の枕元に置いてあるリュックサックを手に取り、鼻歌を歌いながら流し台に向かった。


 孝輔は夢を見ていた。

 トーテムポールのような二本の門柱

 木造二階建ての古びた校舎。小学校だ。

 校舎の屋根に覆いかぶさるような大きな木。

 ここはどこだ・・・北のはずれ・・・竜飛岬・・・なぜ竜飛岬と分かるんだろう。

 あれはお母さんだ。手を繋いでいる子供は・・・よっちゃん?

『お母さん、お願いがあるんだ。僕が埋めたタイムカプセルを一緒に掘り起こして欲しいんだ』

『ウフフ、いいわよ。ねえ、よっちゃん、タイムカプセルはどこに埋めたの』

『それは秘密。この小学校のどこかだよ』

『そのタイムカプセルは、いつ掘り起こすの』

『三十年後だよ。ねえ、お母さん、約束だよ』

『分かったわ。よっちゃん、約束ね』

 ふたりが指切りをしている姿を、孝輔ははるか空の上から見ていた。


 どこかで着信音が鳴っている。

 孝輔の枕元でウトウトしていた恵子は着信音で目を覚ますと、辺りを見回した。着信音は万年床の横に積み上げられた汚れた洋服の上に投げ出してある紺色のジャケットから聞こえている。恵子はジャケットを取り上げると内ポケットに手を差し入れ、スマートフォンを取り出した。自宅の固定電話しか使ったことのない恵子は、着信音を発しているスマートフォンをじっと見つめてから、パタパタと振ったりひっくり返したりしたが着信音は鳴りやまない。

「これって、どうするのかしら。ボタンも無いし・・・」

 首を傾げた恵子の指が偶然に液晶画面に触れ、着信音が止んだ。静かになったスマートフォンから男の声が響いた。

「誰だ」

 恵子は吃驚した顔をして、スマートフォンを手鏡のように顔の前に近づけた。再び男の声が響いた。

「誰だ」

「誰だって・・・貴方こそ誰よ」

「ん? 女か・・・。孝輔は・・・浅井孝輔はそこにいるのか」

「アサイコウスケ? ここにいるのは私とよっちゃんだけ。でもよっちゃんは酷い熱で起き上がれないから電話に出るのは無理ね」

「よっちゃんって誰だ」

「馬鹿ね、よっちゃんはよっちゃんよ。それよりも、貴方こそ誰よ」

「俺は江渡神組の鮫島だ。これは俺のスマートフォンだぞ、俺のジャケットに入っていたはずだ。なぜお前が持っているんだ。お前は誰だ」

「ええ? エドガワクの鮫島さん? 何だご近所さんじゃないの、私は平井三丁目の佐木田です。町内会の役員をやってたの、町内会連合の総会で会ったことあるかしら」

「何? ご同業さんだと。白井会の三代目? ウチの関東弘心会と張り合ってる関東白井会か。関東白井会の三代目の下で顔役のサキタだと? そうかい、お前さんが噂に聞く崎田組の女組長かい。女のくせに相当きついことやるって噂じゃねえか。俺は江渡神組のしがない代貸でね、関東総連合の総会なんぞに顔を出せる身分じゃないんだ」

 ふたりの会話は誤解に誤解を重ねて続いていく。

「何言ってるかよく分からないけど、町内会のことで困ったことがあれば言って頂戴、相談に乗るわよ。うちの町内会長はいい人だから話をしといてあげるわ」

「うちのシマのことを関東白井会の会長に相談できる訳がないだろう。ははぁん、お前、うちの組が弱小でオヤジが入院しているのをいいことに、うちの組にちょっかい出そうとしてやがるな」

「ええっ、お父さん入院しているの? おせっかいなんかじゃないわよ、心配しているの。そうだ、一度警察に相談してみなさいよ」

「警察に捜索させるだと? なるほど分かったぜ、昨日のガサ入れはお前んとこが裏で糸を引いていたって訳か。東中野署の山岸が情報を持ってるなんておかしいと思ったんだ。畜生、汚ねえことするじゃねえか」

「何言ってるかよく分からないけど、そろそろよっちゃんに薬をあげなきゃいけない時間だから、電話を切るわね」

「何! クスリだと! お前、どうしてヘロインのことを・・・そうか、孝輔はお前んとこの組の若い衆か、やられた・・・さすが、噂どおりやることがきついぜ。なあ、崎田組の女組長さんよ、頼むからそのヘロイン返してくれないか。そいつは本家筋の極村組の組長からの預かりもんなんだ。うちの組のブツじゃないんだよ。それを返さなきゃウチの組は極村組に皆殺しにされちまう」

「薬はよっちゃんにあげなきゃいけないから、貴方に渡せるわけないじゃない。薬は私とよっちゃんの物です」

「よっちゃん・・・そうか関東白井会の大番頭と言われる、吉川組の吉川健一か!三代目とは反りが合わないと聞いたが、崎田組の女組長とつるんでいたってことか。そういや、関東白井会の三代目会長は昔気質でクスリには手を出さないって噂だが・・・なるほど、お前と吉川組でクスリのしのぎに手を出そうとしているってことかい。くそっ、こうなりゃ意地でもヘロインは取り戻すぜ」

「あら私、ヘロインなんて見てないわよ。そのコウスケって人がヘロインを持っているんじゃないの」

「お前の手元にない? 孝輔がまだ持っている?・・・そうか、孝輔の野郎、ヘロインを持って逃げやがったな。崎田組と他の組を天秤にかけて、競わせて高値でヘロインを捌こうとしてやがるのか。ふざけやがって。崎田組の女組長さんよ、孝輔はウチが先に捕まえる。お前さんには渡さないよ、それじゃあな」

 徹頭徹尾誤解したまま、鮫島からの電話が切れた。声のしなくなったスマートフォンをしばらく見つめていた恵子は、「訳分かんない」と呟いてスマートフォンを元のジャケットの内ポケットに仕舞った。そして恵子は孝輔の枕元に座ると、孝輔の肩を優しく揺さぶった。鼻の頭に玉のような汗を浮かべて眠っていた孝輔は、弱々しく目を開けた。

「よっちゃん、具合はどう?」

 孝輔は目の焦点がぼやけ、目の前にボンヤリと座っているのが誰だか分からず、一瞬何を言われているのか理解できなかった。

「よっちゃん?・・・ああ、・・・お母さん。うん、だいぶん良くなったよ」

「どれ・・・熱はだいぶ下がったみたいだけど、もう少し寝ていた方がいいわ。よっちゃん、お腹空いていない?」

 恵子の声を聞いた途端、孝輔のお腹がぐうと鳴った。キッチンから昆布と醤油の入り混じった良い匂いが漂っている。恵子は笑いながら流し台に立つと、暫くして湯気の立ったどんぶり鉢を持ってきた。孝輔は万年床の上に起き上がると、恵子からどんぶり鉢と箸を受け取った。

「おうどんを作ったの。ご飯物より食べやすいと思うわ」

 孝輔は、ウンと頷いてから勢いよくうどんを啜り込んだ。柔らかなのど越しの麺に昆布の出汁の利いたおつゆが絶妙に絡み、空腹の孝輔の箸が止まらない。孝輔の横に座って、恵子もどんぶり鉢を持ってうどんを啜っている。

「うん、美味い。お母さん最高だよ」

「うふふ、そうでしょう。お母さん頑張っていっぱい作っちゃった、お代わりもあるから食べてね」

 うどんを二杯もお代わりをして満腹になった孝輔は恵子から薬を貰い、汗で濡れた肌着を着替えるために上半身裸になった。

 孝輔の胸の真ん中には喉元からおへそに向かって三十センチほどの大きなみみずばれのような傷跡が付いていた。

「よっちゃん、その傷・・・・」

 恵子は大きな目を見開いて孝輔の傷跡を見つめている。

「ああこれ、子供の頃に心臓の移植手術をしたんだ。これは手術の痕だよ」

「子供の頃?」

「二十年前になるかな・・・ううう寒い」

 孝輔は慌ただしくシャツを着ると、もう一度万年床に横になった。孝輔は布団の中でゲフッと満足気にうどんの出汁の臭いのする息を吐くと、直ぐに寝息を立て始めた。恵子はどこか遠くを見るようなボンヤリとした目で孝輔の寝顔を見ていた。


 孝輔は万年床の中で目が覚めた。

 朝の光が薄いカーテンを通して部屋の中を明るく照らしている。昨晩の熱が嘘のように下がり、身体の節々の痛みも取れて頭はスッキリと晴れている。孝輔は万年床の上に起き上がると、両手を上に突き上げてウンと大きく背伸びをした。熱に浮かされて何か夢を見ていた気がするが全く思い出せない。

 万年床の横では汚れた洋服やゴミに囲まれて、身体にタオルケットを掛けた恵子が猫のように丸くなって眠っていた。軽く鼾をかいている恵子の顔を見て、孝輔の頭の中に昨日の出来事が蘇ってきた。孝輔はテレビの電源を入れると、ズボンのお尻のポケットに刺さったままバッテリーの切れているスマートフォンを充電器にセットした。流し台に立って水道の蛇口に口を付けてゴクゴクと水を飲むと、孝輔は手の甲で口を拭き、テレビに向かって万年床の上に胡坐をかいた。

 テレビのワイドショーでは、平井三丁目のマンションで起こった殺人事件が報じられていた。犯人は逃走中であり、手掛かりはいまのところ何ひとつないという捜査関係者からの話が伝えられた後、画面は現場の風景に切り替わった。マンションを取り囲むように規制線が張られていて、その前で交通整理をしている警察官をバックにして、猿のような顔をした男のリポーターがマイクを手に持って早口で喋り始めた。

『平井三丁目マンション殺人事件の関連情報です。捜査関係者の話として、現場のマンション近くの一軒家に住む佐木田恵子さんが、昨晩から行方不明になっているとのことです。佐木田恵子さんの自宅の居間には何者かが土足で侵入した跡があり、殺人事件に関連して何らかのトラブルに巻き込まれた可能性があるとして、誘拐事件も視野に慎重に捜査が進められています。また、佐木田恵子さんは認知症を患っており、どこかを徘徊している可能性もあることから、警察では情報提供を呼び掛けています。以上、現場から猿山がお伝えしました』

 孝輔は思わずギョッとして自分の耳を疑った。

 ・・・誘拐事件? まさか僕が誘拐犯だってことになるの? 冗談じゃない、僕はお母さんの命の恩人だぞ・・・そして、オレオレ詐欺犯で・・・しかもヘロインを所持していて・・・。やばい、やばすぎる。警察に捕まったらおしまいだ。何とか上手く、お母さんだけを警察に保護して貰わなきゃならない。

 テレビの前で孝輔が頭を抱えていると、目を覚ました恵子がタオルケットを胸の前で掴んだままムクリと起き上がった。恵子の視線はボンヤリと部屋の中を彷徨い、やがて孝輔の顔の上で焦点が合った。恵子は小首をかしげて言った。

「貴方はだあれ? ここはどこ? 私はなぜこんな所に居るの?」

 孝輔が目を剥いた。

「ええっ! 僕のことを覚えていないの。こうす・・・いや、よっちゃんだよ、息子のよっちゃん。いやだなお母さん忘れないでよ」

 狼狽えた顔の孝輔を恵子がギロリと睨んだ。

「何言ってるの、私の息子の良夫は二十年前に死んじゃったわよ。嘘を吐かないで頂戴。それに良夫は死んだお父さんに似てもっとハンサムです」

「なるほど、よっちゃんって良夫という名前なのか・・・いやいや、それよりも、まさか本当に昨日のことを覚えていないの」

 孝輔の頭の中に認知症という言葉が浮かんだ。本当に覚えていないのかも知れない。

「昨日は一日中家に居ました。貴方なんて知らないわ・・・まさか・・・ひょっとして誘拐! 私誘拐されちゃったの? 貴方は誘拐犯?・・・怖い! お願い、命だけは助けて頂戴。お金はいくらもないけど、五百万円なら持ってるわ。何に使うのか忘れちゃったけど、昨日郵便局から下ろしてきたの」

「違う違う、僕は誘拐犯なんかじゃありません・・・えっ? 五百万円持っているの? 昨日は知らないって言ってたじゃない」

「あら、三百万円だったかしら・・・」

 恵子が首を傾げた。

 突然、孝輔のスマートフォンの着信音が鳴った。孝輔は飛び上がるほど驚くと、恐る恐るスマートフォンを手に取った。

「はい?」

「おっ、出やがった。孝輔、お前、ブツを持って逃げやがってふてえ野郎だ。しかもお前、関東白井会崎田組の若い衆だっていうじゃねえか。マッタク仁義もへったくれもねえな」

 スマートフォンから、頭の天辺から抜けてくるような甲高い鮫島の怒鳴り声が響いた。孝輔は何を言われているのか理解できないまま思わずヒッと首をすくめた。

「あの・・・鮫島さん、誤解です。ヘロインの持ち逃げなんてしてませんよ」

「何を言いやがる、現に逃げてるじゃねえか。何で昨日のうちに組事務所に連絡しねえんだよ。スマホの電源も切りやがって。俺は昨日の夜、崎田組の女組長とサシで話をしたんだよ。ネタはバレてんだ、言い逃れはできねえぞ」

「そんな馬鹿な、本当に何かの間違いですって。昨日の夜、ヘロインを返そうと組事務所に行ったんですが、マンションの前にパトカーが止まっていて中に入れなかったんです。ヘロインは直ぐに返しますから、ねっ、それで勘弁してくださいよ」

「孝輔、ヘロインはまだお前の手元にあるんだな」

「もちろんです」

「いまどこにいるんだ」

「高円寺にあるアパートの、僕の部屋です」

「よし、すぐお前の部屋に前田を取りに行かせる。こっちも昨日のがさ入れで警察に引っ張られたおかげで、まだ後始末にバタバタしているんだ。孝輔、逃げんじゃねえぞ。もし逃げたら、地獄の果てまで追いかけていって必ずぶち殺すからな」

 鮫島はそう凄むと、孝輔の返事を待たずに一方的に電話を切った。

 孝輔の目の前にしゃくれた顎をした鮫島の般若の面のような凶暴な顔が浮かんで消えた。孝輔はブルルと身震いをすると手に持ったスマホを放り投げ、慌てて周囲を見回した。

 ない。確かに枕元に置いたはずのリュックサックがない。

 孝輔は万年床の周囲にうず高く積まれている洋服やゴミ袋を片っ端から放り投げて、「ない、ない」と呟きながらリュックサックを探した。

「誘拐犯さん、何を探しているの」

 キッチンから恵子の間延びした声が届いた。

 いつの間にか恵子は流しに向かって立ち、コンロでお湯を沸かしていた。コンロの横にコーヒーカップが置いてあり、その横にインスタントコーヒーの瓶が並んでいる。

「ねえ、コーヒーで良いわよね、というかコーヒーしかないけど。ちょっと落ち着きなさいよ。貴方は凶悪な誘拐犯なんでしょう? その割にはボンヤリしてるけど」

 孝輔がムッとした顔で言い返した。

「だから僕は誘拐犯じゃないって言ってるでしょ。それよりも、ねえお母さん、ここにあったリュックサック知らない? 中に大切な預かり物が入っていたんだけど」

 恵子がムッとした顔でやり返す。

「だから私は貴方のお母さんじゃないって言ってるでしょ。リュックサック? リュックサックってこれのこと?」

 恵子はキッチンの床に投げ出してあるリュックサックを指さした。リュックサックはしなびた姿で力なくキッチンの床に横たわっていた。

 孝輔はキッチンに駆け込むとリュックサックを掴み上げた。やけに軽い。孝輔は嫌な予感を覚えながらリュックサックの中に手を入れた。

「ない! ここに入っていたヘロインがない! お母さん、あのヘロイン・・・いや、白い粉の入ったビニール袋を知らない?」

「ああ、あの小麦粉ね。食べちゃったわよ、昨日の夜。貴方も美味しいって言って二杯もおうどんをお代わりしたじゃない・・・ん? おうどん?」

 恵子の頭の中で何かがピカリと光った。恵子は何かを思い出そうとするかのように、スッと目を瞑ると、ゆっくりと首を左右に振った。そして、スイッチが切り替わったかのようにパチッと目を開けた。

「・・・そういえば・・・あら、よっちゃん、貴方もう身体は大丈夫なの?」

「食べた? おうどん? ヘロインを? いったい何を言って・・・。それよりお母さん、僕のことが分かるの?」

 混乱している孝輔を見て、恵子は情けないという顔をした。

「何言ってるのよ、よっちゃん。しっかりしなさいよ、昨日のことも覚えていないの。まあ、そうか、酷い熱だったから仕方ないか。そうよ、よっちゃんが粉から打った本格的なうどんを食べたいから、小麦粉を持っているって言ったんじゃない。だからお母さん、よっちゃんが寝ている間に小麦粉を練っておうどんにしたのよ。そば打ち教室の腕前発揮ね。美味しかったでしょ」

 自慢げに話す恵子に向かって、孝輔は拝むように両手を合わせて懇願した。

「あんな量のヘロインを食べたら死んじゃうよ。ねえ、本当のことを言ってよ、もうすぐ江渡神組からあのヘロインを取りに人がくるんだ、それを渡さなきゃ僕は殺されちまう」

「だ、か、ら、おうどんにして食べたって言ってるじゃない。よっちゃんも食べたでしょ、共犯よ共犯」

 両手を腰に当ててきっぱりと言い切る恵子を見て、孝輔の脳裏に疑念の雲が湧き上がった。

「そんな・・・あれは本当に小麦粉だったってことか」

 孝輔の頭の中で思考がグルグルと渦を巻く。

 ・・・誰かが中身をすり替えて、鮫島さんにヘロインだと言って渡した。鮫島さんはそれを知らない。だからあんなに必死になって僕を追っている。・・・ということは、現物がなければ中身が小麦粉だったことは証明できないってことだ。・・・それじゃあ僕がヘロインを持ち逃げしたってことになる! 何の証拠もなしに『あれは小麦粉でした』って言っても鮫島さんは信用してくれやしない。・・・殺される、このままじゃ鮫島さんに殺される!・・・

 孝輔は頭を抱えるとキッチンの床に蹲った。恵子は孝輔の姿を見て「変なの」と言いながら沸いたお湯でインスタントコーヒーを淹れた。

「ほら、よっちゃん、とにかくコーヒーでも飲んで落ち着きなさい」

 孝輔はコーヒーカップを受け取り、俯いてがぶりと一口飲んでから、ふっと顔を上げた。恵子を見上げる孝輔の目が血走っている。

「そうだ、お母さん、小麦粉の残りはどうしたの、それと小麦粉が入っていたビニール袋もあるはずだよね」

「小麦粉はぜーんぶ使っちゃったわよ。ビニール袋? どこに捨てちゃったかしら。この部屋のどこかのゴミ袋の中にあるんじゃない? ゴミ袋はそこら中にあるから分かんないなあ。だから部屋を綺麗に片付けなさいって、お母さんいつも注意してるでしょ」

 孝輔の目の前が真っ暗になった。もはや残された道はひとつしかない。

「ダメだ、探している時間もないし、そもそもビニール袋だけじゃ信用してくれやしない。このままじゃ、殺される、逃げるしかない・・・お母さん、僕は逃げるよ。お母さんは警察に行って、昨日見たことを話して保護して貰えばいいよ」

「昨日見たことってなあに? 昨日はお母さん一日中この部屋に居たわよ」

「覚えていないのか・・・そうか、お母さん認知症で・・・」

「何を言っているの、お母さん、認知した子供なんて・・・」

「分かった、分かったから。とにかくここに居ちゃダメだ、お母さん、ひとまず一緒に逃げよう。その後のことは逃げた先で考えよう」

 孝輔は万年床の上で素早く着替えると、放り投げてあったスマートフォンをズボンの後ろポケットに差し込み、空のリュックサックを手に持った。そして周囲に散らばっている洋服を適当に拾い上げてリュックサックに詰め込んだ。

「よし、お母さん、出発しよう」

 孝輔が恵子の方を振り向くと、恵子は流しの前に立ってボンヤリとコーヒーを啜っていた。

「よっちゃんダメだ、このインスタントコーヒー古いんじゃない? 香りが飛んじゃっているわ。まあ、インスタントだから仕方ないか」

 相変わらず恵子の声には緊張感がない。

「お母さん、コーヒーを飲んでいる場合じゃないんだよ、早く逃げなきゃ。捕まったら殺されるんだよ」

「あら、困ったわね、今日は猫のジュリーもいないし」

 何気ない口調の恵子の言葉に、孝輔はガツンと頭を殴られた気がした。重要なことを忘れていた。

「猫? そうか、あの殺人犯もいるんだった。殺人犯に見つかっても殺されちまう・・・なんてこった。とにかく逃げよう」

 恵子は万年床の横に置いてある巾着袋を首から下げると、小さな旅行鞄と孫の手を持った。そして、汚れた洋服の上に放り投げられている紺色のジャケットと床に落ちている裁ちばさみを拾い上げた。

「よっちゃん、忘れ物。ほら、ジャケットを着て、護身用の武器を持って」

「これ僕のジャケットじゃないんだけど・・・まあいいか、少しはましに見えるだろう」

 孝輔はジャケットを着ると、裁ちばさみをリュックサックの中に押し込んだ。


 孝輔と恵子が幸福荘の狭い階段で二階まで降りたとき、玄関前の路地にブレーキ音を響かせながら白のバンが急停車して、中から数人の男が飛び出した。先頭を走るひょろりとした体形のパンチパーマの男は江渡神組の前田だ。前田たちは玄関ドアを乱暴に開けて幸福荘の中に雪崩れ込むと、我先にと階段を駆けあがった。

 孝輔はハッと立ち止まった。

「いま車の止まった音がしなかった?」

 孝輔はそういうとじっと耳を澄ませた。階段の下から響くドタドタという足音が大きくなる。

「いけない、江渡神組だ。こんなに早く・・・逃げなきゃ」

 孝輔は咄嗟に左右を見回したが、逃げる場所も隠れる場所もない。万事休す。捕まれば鮫島に殺される・・・ヒューズが切れたように孝輔の思考が停止した。その場で棒立ちになった孝輔の膝がガクガクと震えた。

「よっちゃん、こっち」

 恵子は孝輔の手をグイッと引いた。そして恵子は目の前の202号室のドアを無造作に開けた。

「おはようございまーす」

 恵子は能天気な声であいさつしながら、孝輔の手を引いて部屋の中に入った。ドアを閉めると同時に、ドアの向こう側から階段を上っていく前田たちの足音が響いてきた。間一髪だった。

 孝輔の部屋と同じ間取りの202号室では、ダボシャツを着てステテコをはいた髭面の男がお茶碗とお箸を持ったところだった。こたつの上には納豆のパックと焼き魚が置かれている。いきなり部屋に入ってきた恵子と孝輔を見て、男は一瞬何が起こったのか分からず、お茶碗を持ったままの姿でポカンと口を開けて眼を丸く見開いている。虚を突かれたその男は呼吸すらしていない。

 無言の男に向かって恵子はにっこりと笑った。

「あら、お食事中でしたか、ごめんなさいね急にお邪魔して。えっと・・・回覧板です。あらっ、回覧板を持ってくるのを忘れちゃった。オホホ、私ったらドジねぇ。それじゃあまた、失礼しました」

 恵子はそれだけ言うと回れ右をし、あっけに取られて立っている孝輔の手を引いて部屋の外に出た。三階の廊下を孝輔の部屋に向かって走る前田たちの、ドタドタという足音が頭上から響いている。

「さあ、よっちゃん、いまのうちに逃げよう」

 恵子は未だに呆然としている孝輔の肩をポンと叩いた。恵子の機転が孝輔を救ったのだ。孝輔がハッと我に返る。

「何だか分からないけど、とにかく助かった」

 とりあえず命を永らえた孝輔は恵子の手を引いて階段を駆けおりた。


 孝輔と恵子は幸福荘の玄関から前の路地に飛び出すと、左手に見える大通りに向かって走り出した。孝輔と恵子の後ろを追いかけるように、路地の奥に停車していた黒のベンツがゆっくりと動き出した。徐々に速度を上げながらふたりの背後に近づく黒のベンツの、フロントガラスの向こうでチラリと出っ歯が光った。

「待てこのヤロウー! 逃げるんじゃねえー!」

 路地に前田の叫び声が響いた。孝輔が振り返ると、幸福荘の304号室の窓から顔を出した前田と目が合った。前田の目が怒りに燃えている。孝輔の背中にゾクリと悪寒が走った。孝輔が路地に視線を戻すと、孝輔と恵子の二十メートル後方でベンツのエンジン音が突然吠えるように高まり、ベンツのタイヤから煙が上がった。孝輔と恵子に向かってベンツが一直線に急加速している。

「何だあの車・・・危ない!」

 恵子を庇うように抱きかかえた孝輔の目に、ベンツのフロントグリルが禍々しいほど大きく映った。

「うわー!」

 孝輔は叫び声を上げ、恵子を抱いたまま咄嗟に身を屈めた。

 孝輔と恵子が身を屈めたことで、ふたりの身体で遮られていた動物病院の看板が顕わになった。その看板には可愛らしい三匹の子猫の写真が使われている。看板に目をやると、三匹の子猫に見つめられているようだ。

「ひいっ、猫!」

 ベンツは急ハンドルを切り、孝輔と恵子の脇をかすめるように走り抜けると、路地の反対側にある宅配業者の手荷物集配店舗に突っ込んだ。

 孝輔が恵子の肩を抱いたまま、宅配業者の手荷物集配店舗を滅茶苦茶にして、ひしゃげたボンネットから煙を上げているベンツを呆然と眺めている。ベンツの屋根には黒い猫の絵が描かれた宅配業者の看板が墓標のように載っていた。

「助かった・・・いったい何が起こったんだろう」

「黒猫の祟りじゃない?」

「猫? まさかあの殺人犯が・・・」

 幸福荘からどやどやと数人の男たちが路地に飛び出してきた。男たちの先頭で前田が孝輔を指差して何か怒鳴っている。

「いけない、お母さん、逃げよう」

 孝輔は前田に気付くと慌てて恵子の手を引き、大通りに向かって走り出した。


 前田たちが路地を抜けて大通りに入ると、百五十メートル先を孝輔と恵子が走っている。その先には羽田空港行のリムジンバスがパーキングランプを点滅させながら停車していた。孝輔と恵子の姿がリムジンバスの車体に遮られて前田たちから見えなくなった。

「あいつら、あのリムジンバスに乗るつもりだ。急げ」

 前田たちはリムジンバスに追いつこうと必死になって大通りを走り出した。どこからか救急車のサイレンが響いてきた。事故の通報を受けた警察官が自転車に乗って高田たちの方へ走ってくる。

 ベンツの事故現場に向かっていた警察官は必死の形相で走る前田たちに気付くと、不審そうな顔をして自転車を止め、腕組みをして前田たちを睨んだ。

「前田の兄貴、ポリ公だ。こっちを見てますぜ」

「みんな走るな、ゆっくり歩くんだ。何でもないようなツラをしろ」

 前田たちは慌てて走るのを止め、警察官と目を合わさないように下を向くとゆっくりと歩き出した。わざとらしく目を逸らしながら目の前を通りすぎていく前田たちを、警察官は首を傾げながら暫く見ていたが、ベンツの事故現場に向かう救急車のサイレンが近づくと、慌てて自転車に乗って走り去った。


 前田たちの目の前でリムジンバスは発車した。一足遅かった、停留所には誰も残っていない。前田は呆然とした顔で遠ざかっていくリムジンバスのテールランプを見送りながら、ノロノロとした動作でポケットからスマートフォンを取り出した。前田の額にびっしりと汗が浮いているのは走ったせいだけではないようだ。覚悟を決めた前田は、ゴクリと生唾を飲み込んでから話し出した。

「あっ、鮫島さんですか、前田です。あのー、実は、孝輔に逃げられました。・・・ひっ、そんなに怒鳴らないで下さいよ。こっちだって一生懸命に・・・分かりましたよ。俺が悪いんです・・・えっ、指? そんな酷い・・・指だけは勘弁して下さい。この次は絶対・・・ええ、孝輔はリムジンバスで逃げました。羽田空港行です。・・・はい、先回りして・・・任せてください」

 前田はスマートフォンを切ると、ふうっとため息をついて首を振り、額の汗を手で拭った。横にいた若い男が心配そうに前田に声を掛けた。

「前田の兄貴、鮫島さんは相当怒ってました?」

「相当なんてもんじゃない、お前ら全員指を詰めろって怒鳴られた」

「えっ、俺たちも? 前田の兄貴だけじゃなくて? 俺たち下っ端は前田の兄貴の指示どおりに動いただけですよ、それで責任取れなんて酷くないですか。やはり責任は管理者である前田の兄貴ひとりで負うべきですよね、なあみんな」

 若い男の後ろに控えていたふたりの男が同時に頷いた。前田のこめかみに蚯蚓腫れのような血管が浮き上がる。

「うるせえ! こうなったら一蓮托生なんだよ。とにかく、羽田空港に先回りして、孝輔がリムジンバスから降りたところを押さえるぞ。今度失敗したら・・・怖くて言えねえ」


 前田たちが警察官の前をそしらぬ顔で歩いていたときに、孝輔と恵子はリムジンバスの停留所にたどり着いた。アイドリングのゴロゴロという低いエンジン音を響かせながら停車中のリムジンバスは直ぐにでも発車しそうな様子で、孝輔はバスの乗降口から中を覗き込んだ。何とか逃げ切れそうだ。孝輔の顔が安堵で緩む。

「羽田空港行です。そろそろ発車時間ですが、乗車されますか?」

 運転手の声に頷いた孝輔が乗降口のステップに片足を掛けたとき、孝輔のジャケットの背中を恵子がグイと引っ張った。

「なに? お母さん、早く乗らなきゃ、やつらに追いつかれちゃうじゃないか」

「よっちゃん、こっちのバスに乗ろうよ。こっちのバスが先に発車するみたいよ」

「こっちのバスって・・・?」

 恵子が指さした先には、車体に派手な色で今出川自動車教習所という名前と電話番号がでかでかと書かれた十人乗り送迎用マイクロバスが止まっていた。

「これって自動車教習所の・・・」

「さあ急ぎましょ。よっちゃん、捕まったら殺されちゃうんでしょ」

 恵子は孝輔の答えも聞かずにさっさとマイクロバスに乗り込んだ。

 時間は迫っている、恵子をマイクロバスから引きずり下ろす余裕はなさそうだ、こうなったらヤケクソだ。孝輔は天を仰いでから、恵子の後に続いた。恵子は運転席のすぐ後ろの席に座ると、運転手に話しかけた。

「運転手さん、早く発車してくださいな。そうでないと、この子が殺されちゃうの」

 マイクロバスの運転手は乗り込んできたふたりを見ると、キョトンとした顔をした。

「殺されるって言った?・・・冗談? まあいいか」

 孝輔と恵子を乗せた今出川自動車教習所の送迎用マイクロバスが、ガラガラと騒々しいエンジン音を上げながら動き出した。マイクロバスの後を追うように、羽田空港行のリムジンバスもプシュというドアの閉まる音に続いて滑るように動き出した。リムジンバスの車体に隠れるように前を走るマイクロバスの姿は、停留所まで追いかけてきた前田たちには見えなかった。

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