8 それぞれの思い
廊下で待っていたお姉様を自室に戻らせたお兄様は、ナナを恨めしげに見つめる。
「どうして報告しなかった?」
「イディス様に頼まれたのです。申し訳ございません」
ナナが悲しそうな顔になって頭を下げた。
「ナナは悪くありません。僕の命令です」
そのことに気づいたからか、イディス様が立ち上がると、お兄様は苦笑する。
「どうしてそんなことをしたんですか?」
「喜んでもらえると思ったんですけどね」
「相変わらずですね」
微笑むイディス様を見て、お兄様は表情を和らげた。
こんな柔らかな表情のお兄様を見るのは初めてだわ! お兄様とイディス様は仲が良いのね。
お兄様はもうすぐ十八歳になるが、今は私と同じ十七歳で金色の長い髪を後ろに一つにまとめた美青年だ。切れ長の目のせいか、お母様と同じく冷たい雰囲気を醸し出している。家族の前では寡黙なだけに、余計に話しかけづらかった。
「お前には苦労をかけてすまない。こんなことになるとは思っていなかったんだ」
私の隣に座ったお兄様は眼鏡を押し上げてため息を吐いたあと、簡単に事情を説明してくれた。
ナナを私に付けるようにしてくれたのは、お兄様の計らいだった。ロフェス王国側の意図に気がついたお兄様は、ナナを受け入れることを嫌がるお父様たちに、私のメイドにするように進言し、ナナにはロフェス王国の王家と内密に連絡を取るための橋渡し役を頼んだ。
ロフェス王国側としても、特にデメリットがないため快く受け入れられた。
ナナは私に対して何の偏見もない上に、過去に傷ついた経験があったから、私の痛みに寄り添ってくれると、お兄様は思ったそうだ。
実際、ナナは私の心を何度も救ってくれた。
「そういえば、お兄様とイディス様は面識があるようですけれど、いつお知り合になられたのですか?」
「私が父上の代わりに何度かロフェス王国に足を運んだ時だ。姉上の相手になる人が、どんな人なのか知っておきたかった」
「国政に関わるようになったのは、それでなのですね」
「ああ。そうすれば、ロフェス王国に行ってもおかしくはない。父上は姉上にかまけてばかりだったし、代わりに行くと言うと喜んで任せてくれた」
お父様はお姉様のことを目に入れても痛くないくらいに可愛がっているものね。
「お兄様は私のことなんて興味がなくて、どうでも良いんだと思っていました。本当にごめんなさい」
「気にするな。私もお前に無関心な態度を取っていたからそう思うに決まっている」
「それはどうしてなのですか?」
「私は両親が大嫌いなんだ。お前に優しくすると両親がうるさいから、わざと近づかないようにしていた」
お兄様は憂いに満ちた表情で続ける。
「ナナからお前が辛い思いをしているということは聞いていた。だが、ロインはお前を大事に思っているようだし、姉上がロフェス王国に嫁げば、お前への待遇も違ってくると思っていた。私の考えが甘かったんだ。お前には本当に申し訳ないことをした」
そう言ってお兄様は謝ってくれた。
お兄様を責める気にはならない。だって結果的にはロインが私を愛してくれていないことや、お姉様の人となりがわかったのだから。
「どうしてリックス殿下はご両親のことが嫌いなんですか?」
黙って話を聞いていたイディス殿下が尋ねると、お兄様は苦笑する。
「母はダリアのせいで自分が苦労したと思っていますが、ダリアは何も悪くありません。私にはダリアを責める母の気持ちが理解できないんですよ。浮気をしていないのなら、自分を疑う父を憎むべきです。父については、少し考えればわかることに気づけなかった馬鹿だから嫌いなんです」
「どういうことですか?」
はっきり言い切ったお兄様に、私が驚いて尋ねる。
お父様は確かに賢くない。お兄様がどの出来事について話をしているのかがわからなかった。
「数年離れているならまだしも、俺とお前は年子だぞ。自分の妻が浮気できるかできないかくらいわかるだろう」
お兄様は冷たい声で答えた。
「そうなんですよね」
イディス様は同意して続ける。
「子供を生んですぐに動き回ることはできませんし、王妃陛下なのですから、必ず誰かがついて回るでしょう。長期で旅行に行っていたならまだしも、浮気を疑う根拠がありませんね」
「そうなんです。物心ついて、当時の母のメイドや侍女、父の付き人に確認しましたが、母が城から出たことはなかったそうです。母と仲の良い男性もいなかったんです。一番近くにいた父が母を信じていれば、大きな問題にはならなかった」
お兄様はため息を吐くと、私の頭を撫でる。
「姉上が嫁ぐことになれば、僕は父上に退位を求めて、姉上のあとを追わせてロフェス王国に行かせるつもりだった。両親がいなくなれば、お前も楽になると思っていたんだ。ロインは本当にお前のことを大事に思っていたし、お前もロインを好きだったからな」
「ロインは私を大事になんて思っていません!」
否定すると、お兄様は瞼を伏せる。
「あんなことをするなんて思っていなかった。お前を傷つけるような形になってすまない。罪滅ぼしにはならないが、イディス殿下は悪い方ではない。お前を大事にしてくれるだろう」
お兄様は自分のことしか考えていなかったと謝ってくれた。
単純と言われてしまうかもしれないが、嫌われていなかっただけでも、私は嬉しかったので許すと答えた。
そして、この時に気がついた。私は誰かを頼るということを忘れていたのだ。世の中には一人きりで辛い思いをしている人もいる。だけど私にはナナがいたし、お兄様に助けを求めれば良かったんだ。
イディス殿下にお姉様を押し付けようとしていたんだから、ナナもお兄様も私の幸せを優先しようとしてくれていた。
「ごめんなさい、お兄様。私がロインの気持ちを繋ぎ止められなかったから……」
「謝らないでくれ。人間、追い詰められた時は正常な判断ができなくなる。ロインの人間性に気づけなかった私が悪いんだ」
お兄様が謝ると、ナナも頭を下げる。
「私がリックス殿下に相談するように進言すべきでした。申し訳ございません」
「僕ももっと早くに動くべきだったよ。君は婚約者とうまくいっていると聞いていたから、僕の手は必要ないと思っていた。結果、君を追い詰めてしまった。本当にすまなかった」
イディス殿下にまで謝られてしまった。私からすれば、お兄様もナナもイディス殿下も悪くない。
「今までうじうじしていた私も悪いんです。ナナみたいには無理でも、言い返す強さが必要でした」
それぞれが悪いのだと言い合ったあとは、大事なのはこれからだという話で折り合いをつけた。
お姉様よりも幸せになり、イディス様の元に嫁げなかったことを、お姉様たちに悔やんでもらいたい。
「これからのことはここを出てからでも話せる。君の両親は顔を見せるつもりはないみたいだし、もう、ここを発とうか」
「お待ちください」
立ち上がったイディス殿下にお兄様がお願いする。
「どうせ殿下が来ているなら、姉に会っていってください」
「かまいませんが、どうしてです?」
不思議そうな顔をするイディス殿下に、ナナが笑顔でお兄様の代わりに答える。
「最初はフードを被った状態でいてください。そして、頃合いを見てフードを脱いでくだされば良いかと」
「ああ、そういうことだね」
イディス殿下は、お兄様とナナの考えに気がついたのか苦笑して頷いた。
……もしかして、お兄様たちはお姉様をイディス殿下に会わせてようとしている?
そんなことをして、イディス殿下がお姉様を好きになったらどうしよう。
不安そうにしていたからか、イディス様は微笑む。
「僕がラムラ姫に絆されることはないから安心して」
「……はい」
イディス殿下はさっき初めて会った人だけど、ナナやお兄様が信用しているんだもの。大丈夫だと信じよう。
お姉様の好きなタイプがどんな人なのかは知らない。でも、イディス様の外見なら多くの人が好むと思われる。
お姉様がイディス様を見た時に、どんな反応をするのかしら。少し……、いや、楽しみに感じてしまうのは駄目なことだろうか。




