浮かれた君は
放課後、セルジュには昼休みのうちに連絡を入れてあるから、その足でテニスコートへ向かった。当日の連絡にも関わらず快く受け入れてくれる、「フレキシブルすぎる」職場に感謝である。
テニスコートは校門から見て右側、グラウンドと隣接した場所にある。四面あるコートが高い金網に囲われており、僕がその外側すぐ傍まで来る頃には部員がそろってアップを始めていた。
金網越し、コート周りを走るのは男女それぞれ七・八人、合わせて十五人ほどのテニス部員たち。誰も彼も真剣な顔つきで、ただのランニングだからと気を抜く素振りも見られない。黒瀬さんはもちろん、あやもぐるみも。
やっぱりこうしてみると、野暮ったいえんじ色のジャージも不思議とかっこよく……は、見えないけれど。でもやっぱり黒瀬さんもぐるみも、ヘアゴムやバレッタで髪をくくるだけでずいぶん印象が変わる。
体力作りではなくあくまでウォームアップ。何周、とかではなく十分弱で全員が切り上げ、次はストレッチに。
なぜか金網の外、テニスコートに向けて設置してあるベンチに座ってみる。
金網越しはいつも通り。けれどこうして腰を据えて「見る」ことを目的にしてみると、見え方もまるで変ってくる。黒瀬さんやあや、ぐるみだけじゃなくて他の部員にも目が向かう。その表情も、細かい動作も、それぞれの体格まで気になってくる。
基本的にはやっぱりスマートな人が多い。けれど身長に関しては色々で、大きいところで百八十を超えるような男子生徒もいれば、小さいとなると百五十を切るような女子生徒もいる……というかあやのことだけど。
ストレッチを終えたあやはラケットを担ぐように肩に乗せ、顧問の先生の話を意外にもだらけることなく真剣に聞いている。ミーティングをサボるっていうからどんなものかと思っていたら、真面目にやってるじゃないか。
他の部員たちも同様で、誰一人その話から意識を逸らしている人は見当たらない。
黒瀬さんは例外として、田舎町の小さな高校で、地区大会以上に進んだなんて話も聞かない。失礼を承知で言えば、そこまで「ガチ」なものだとは思っていなかった。
そりゃあまぁ、失礼な話でしかなかったというわけだ。
練習メニューはといえば、ある程度決まったものではあるものの、その順序だったりを入れ替えたりを徹底しているらしい。
例えばウォームアップの直後にゲーム形式の練習をしたりもする。ちょうどあの日の前日がそうだった。
今日で言えば「クロスラリー」なるものから。文字通りクロス――対角同志でラリーを行う練習らしい。四コートにそれぞれ四人ずつが散らばり、そこに先生も加わればちょうどいい人数だ。
決まった相手と、というわけじゃなく、先生が「交代!」と声を上げれば時計回りに人が入れ替わっていく。
それにしてもやっぱり、すごい。そりゃあ学年もバラバラなら経験もバラバラで、中には数往復の間にミスをしてしまう人だっている。でも全体を見れば、僕には信じられない速度でボールが行き交い、打球音が隙間なく辺りに木霊する。
そしてやっぱり、この二人だ。あやと黒瀬さんが打ち合うと、本当に別次元だと素人目にもわかる。
ミスのないよう一定のリズムで打つのも練習なら、彼女らのように様々な球種を打ち分けそれでもミスなく打ち続けるのもそうなんだろう。
僕の目には「決めに行ってる」ようにしか見えない強打も、黒瀬さんは難なく、それこそ軽く見えるくらいのフォームで打ち返す。そしてそれを気にかけることもなく、あやはなおも強打で攻め立てる。と思えば、唐突にバックスピンのゆっくりとした球を混ぜて、傍で見ている僕でさえ「おっ」と思うような変化を与え――そして黒瀬さんは、それさえ余裕の表情で打ち返す。
僕なら、なんて考えるまでもない。強打を打ち返せず終わりだ。
はてさてぐるみは、と見てみれば、彼女らしい実に穏やかなプレイをしていた。相手は下級生の男子だろうか。お互いのびのびとラリーを続けているように見える。
見えるけれど、明らかに余裕があるのはぐるみだ。コースを打ち分けて、男子の練習に付き合っている。それが僕にもわかるくらいに。
こんなところにも性格が出るなぁ、なんて。当たり前か。
ほんの数十秒じゃあわからないことだらけ。あやの熱意だとか、ぐるみの視野の広さだとか、それから黒瀬さんの「美しさ」とか。
本当に軽い。楽そうにさえ見える。なのにボールは彼女の思う通りに走り、そして緩む。何より彼女は本当にブレない。姿勢を崩さない。思う通りにボールが来ているとわかる。
時間を忘れて見入ってしまう。気付けば練習は一区切りつき、三人はペットボトル片手に僕の前に立っていた。
「あ、ごめん」
慌てて立ち上がりベンチを譲れば、あやを中心に右にぐるみ、左に黒瀬さんと座り込む。軽く息を荒げているくらいでおさまっているのを見るに、そこまできつい練習をしているわけではない、みたいだけど。
それでもただ座って見ていただけの僕がベンチを占領していいわけもない。
「ごめんねぇ」
「いやいや。みんなお疲れ様」
「おー。つってもまだ全然だけど」
「だいぶあったかくなってきたから汗はかくねー」
言いながらオレンジ色のタオルで額を拭う黒瀬さん。それでも額の上の方に残った汗が、前髪を少し絡めて光らせる。
「……張り付いた前髪がちょっとエロいよな」
「あや」
「やめなよぉ」
「わりぃ」
謝りながら自身の額を拭うあやに、黒瀬さんとぐるみがため息と苦笑いをこぼす。
妙なことを言われると、そこに妙な気がなくとも意識してしまう。ちらりと見遣る黒瀬さんと目が合うと、慌てて逸らしてごまかした。ごまかせたかどうかは、置いといて。
「どうだった? じっくり見るの初めてでしょ?」
「うん。いや、思った以上に体育会系だなって」
「あー、確かに結構きっちりやってるよな」
「何しろ個人でインハイ出てるのが近々で二人、だからねぇ」
二人? と疑問符を浮かべる僕に、あやと黒瀬さんが気まずそうに目を逸らす。言い放った直後のぐるみはと言えば、わかりやすく両手で口をふさいで「やらかしたぁ」と気まずそうだ。
インハイに出たという明らかに部にとって名誉あることが、彼女らにとって言い出すのもはばかられるような事実である――何となく、あの日に結びついた。
とはいえ言い出すのもはばかられるなら聞き出すこともしなくていい。
「インハイって夏だっけ?」
「あ、うん。そろそろ予選が始まるね」
「いいとこまではいけんだけどなー」
「わたしはぜーんぜん」
「そう? ぐるみもいいとこまでいってると思うけど」
「そうかなぁ」
そもそも実力を量れるほどの知識のない僕には、誰の言葉が正しいのかわからない。とはいえ経験値を見れば一目瞭然で、なんとなく黒瀬さんの言葉に耳を傾けてしまう。
「ぐるみはねー、性格がねー」
「のんびりしてるからぁ」
「違う違う。優しいんだよ。テニス……というか競技なんて相手の嫌がることしてなんぼなんだから」
「それはぁ……優しいとは違わない?」
「甘いよな」
「それも違う気がする。あーでも確かに、優しいは違うか。ただせっかくいい目してるんだから、もっと選択肢持てるといいよねって」
「なるほどぉ」
らしい会話。競技性のある物事にとんと疎い僕には、いまいちピンと来ない。
けれど、競技において相手の嫌がることを選択する、ということが性格の善し悪しに繋がることじゃないというのはよくわかる。例えば全国レベルの黒瀬さんが、性格が悪いとは思えないことのように。
「沙織は打ち分けえぐいんだよなー。打つ瞬間までマジわかんねー」
「それもまた技術。練習あるのみ」
「あーやはごり押しすごいからぁ」
ピンと来ない会話が続くけれど、でも、意見を交わす三人を見ているのは楽しい。親しいからこそ言いたいことをはっきり言うし、それを受け止める側も悪い意味では深刻にならない。
休憩時間はたったの五分。ひとしきり話したら最後に一口それぞれの飲み物を飲んでコートに戻っていった。
見ているだけなのに不思議と飽きない。練習メニューはどんどん変わっていくし、そのたびそれぞれのプレイスタイルで色々と違いが見えてくるのが面白い。
ぐるみの言う通り、あやは意外にもゴリゴリのパワープレイヤーらしい。順回転のかかった深いボールで相手を釘付けにして、最後にはネットプレイや浅いボールで決めに行く。
ぐるみは予測のテニス。例えばフォーム、例えばラケットとその面の向き。よく見て早めに動ければ、早めにボールに追いつける。早めに追いつければ、相手の動き出しに先んじて決めることもできる……後はもう少し決定力があれば、ということらしい。
黒瀬さんは騙し。あやの言う通り打ち分けがすごい。素人目に見てもフォームとボールが一致しない。真っ直ぐ打つと思っていたらクロス方向にボールが向かう。どうみても強打しに行ってるのに、放たれたボールはゆっくりと敵陣の浅いところに着地する。普通にラリーしていて突然そんなことをされると、そりゃあ追いつくのは難しいだろうなぁ。僕なら反応すらできるかどうか。
他にも色んなプレイヤーがいる。十人十色、とまでは言わないまでも、多少の差異が結果に大きな違いをもたらすのは見ていて楽しい。
僕はいつの間にか金網に張り付いていて、誰をと言わず目で追っていた。あるいはそこにある、そこにいる全部を。
けれどふと目に留まるのは、目を止めるのは、いつも黒瀬さんだ。
手が空いてのコート脇、手の甲で額の汗を拭い、ふと息をつく。ただそれだけの所作が、ただそれだけで絵になる。
――目を奪われたせいだろうか。休憩中のあやの言葉が頭を過ぎったのは否定しない。ちらりと目が合うと、ついと逸らして前髪を気にする素振り。可愛いなぁ、なんて思う僕の視界の外から一筋の黄色。
あ、と声を上げる暇さえなく、それは黒瀬さんの顔に当たって跳ね返り、コート中に静寂をもたらした。
最初に動き出したのは先生。それに釣られるように全員が動き出す。僕も含めて。
深く考えての行動じゃない。あっちは足りてるだろうな、と思ったから、次の目的地に向かっただけ。
テニスコートからほんの三十メートルほど、校舎の隅にある保健室の、その中庭側の扉をノックした。ほどなく養護教諭の男性が現れ顛末を話すと、テニスコートの方をちらりと見遣りそのまま室内へ戻っていった。
ローファーを脱いで上がり込めば、養護教諭は氷水やガーゼなんかを準備しているようだった。とはいえほんの数十メートルで、ゆっくり歩いたってほんの一分かそこらだ。あやとぐるみに付き添われた黒瀬さんは、目を押さえながらも思ったよりもしっかりとした足取りで現れた。
「そこの椅子に座らせて。手でも握っててあげてくれるかな」
「はい」
椅子に座る黒瀬さん。その両の手を握るあやとぐるみ。僕はそれを見届けた後、保健室を出た。
テニスコート横のベンチに戻って金網の中を眺めれば、どうやら残った部員たちは解散の運びとなったらしい。先生がいないようだからそれも当たり前か。
手で顔を覆ってため息をこぼす。
――僕のせいだ。あんな下世話な感情を抱いてしまったせいだ。
あんな不注意な黒瀬さんは見たことがなかった。それも部活の最中に。そこにイレギュラーがあるとしたら間違いなく僕で、あの瞬間間違いなく僕の方を意識していた。その視線を気にして、注意が一瞬コートから逸れてしまった。
でも、きっと黒瀬さんはそれを否定するだろう。断言は、そりゃあできないけど、そういう人らしいっていうのはわかる。
じゃあ、結局のところ僕は僕の中でこれを消化するしかないってことだ。消え入りたくなるような情けなさも、言葉にならないほどの申し訳なさも、そんな言い訳をしながら謝罪から逃げるような心根も。
足取りはしっかりしてたけど、なんてことない顔をしてたけど、額には脂汗が浮いていた。そりゃそうだ、「目にボールが当たった」なんて、言葉にするだけで痛みが走る。
どのくらいそうしていたか、ふと頭上から声が降ってきた。
「先輩、ちょっといいすか」
見上げれば、最初のラリーで目に付いた下級生らしき男子生徒が、すぐ目の前に立っていた。怒っているような、悲しんでいるような、そしてそれらを堪えるような複雑な表情をしていた。




