ゆらゆらでふわふわでどきどき
僕らは案内されるまま店内に入り、テーブルについた。床の木目調はそのまま壁の一メートルほどまで続き、そこから天井までは白で統一されている。床のものよりやや明るい色のインテリアは、窓から入る穏やかな陽光に照らされて少しだけ温かい。どの席も埋まっていて、賑やかな店内を店員さん達が忙しなく動き回っている。
窓際の二人席。向かい合って座った僕らは注文だけを済ませ、少しだけ気まずさを引きずったまま、運ばれてきた水にも手を付けずに黙り込む。
「でね、私も色々と考えたわけよ」
……と、思っていたのも一瞬のこと。グラスの水を大きく一口飲み込んだ後、ぱっと顔を上げた彼女はテーブルに肘から先を組むように乗せて身を乗り出してきた。内緒話でもするみたいな小さな声だけど、不思議とよく通る。
「あ、その前にちゃんと説明しなきゃだね?」
「え、あ、うん」
一方的にまくしたてるように。確かに今日の黒瀬さんはよく話してくれるしよく笑ってくれるけれど、それと同時によく聞いてくれた。僕のつまらない話を、根気よく。
だから何となく、さっきまでとは違うのかな、なんて思う。
「吊り橋って、まぁ、要するに、そういうこと、なんだけど?」
「……なんだけど?」
「……だめかぁ」
いや、説明しなきゃという割にまったく説明になってないから。
「いやほら、吊り橋といえば、みたいな言葉あるでしょ。心理系のあれで」
「吊り橋、といえば」
「といえば?」
「……効果?」
「正解!」
そりゃあもちろん知ってる。有名な話だ。
吊り橋を渡っているような――恐怖感や危機感のある状況で、それによる「ドキドキ」を、その場にいる異性に対する恋心と錯覚してしまうこと。僕も詳しくは知らないけれど、ざっくり言えばそんな感じだったと思う。
そうしてその意味を頭の中で反芻して、はてと首を傾げる。
それじゃあまるで。
「黒瀬さんが、僕に?」
「他に誰かいる?」
いやだって、あんまりにもあんまりな冗談だ。突拍子もなさ過ぎてもはや嘘だ。
頭の中が真っ白になって黙り込む僕を、笑うでも怒るでもなく黒瀬さんはただ黙って見つめている。目が合うとやっぱりそこに吸い込まれるようで、そこではたと気が付いた。
濡れたような、じゃない。濡れている。
真っ白だった頭が熱を持つ。涙をたたえる女の子っていうものと対面したのは初めてじゃないけれど、それは小学生、もっと言えば低学年の時のことだ。……あ、いや、ついこないだ当の黒瀬さんで見たばかりではあるんだけど、そうじゃなくて。
結局、熱を持った僕の頭は何一つ答えを導き出してはくれなかった。
「……ごめん、急すぎて」
「だよねー。だから私も色々考えたんだよ。そもそも吊り橋効果って自覚した時点で成立してんのか? とか」
「……たしかに」
けろりと「いつもの」爽やかな顔で語る黒瀬さんの目は、いつも通りに濡れたような輝きを湛えている。変わり身の早さに「さっきのは?」と疑問に思わないでもないけれど。
さておき吊り橋効果っていうのは思い込みで錯覚で、それと自覚した時点でつまり思い込みでも錯覚でもなくなるんじゃないか、と。
自分で言うのもなんだけど、僕に惚れる要素がまるで見当たらない。容姿、学力、運動能力、どれをとっても十人並。コミュ障ってほどじゃないかもしれないけど、人付き合いが希薄で話が盛り上がらない。バイトをしている分お金はそこそこあるけれど、それだってあくまで学生としてはだ。将来性がどうのという話になれば「わからない」ってところに落ち着く。
色々と考え込んでしまう僕を、黒瀬さんはからかうような笑顔で見ている。
「で、まぁ考えた結果、好き嫌いは置いといて、とりあえず追っかけてみよっかなーって」
「はぁ」
「元々どんな人かなーとか、気になってはいたしね」
「あやの弟だから?」
「あーやの弟だから。あと、おいしいコーヒー淹れてくれるし」
「それは、バイトで」
「淹れてる時の真剣な顔、いいよねー」
「……それは、ありがとう」
爽やかに笑い、黒瀬さんは机から身を離して背もたれに預けた。水をまた一口大きく飲み込んで、ふと軽くため息をつく。僕もそれに倣って、何となく浮ついた空気が落ち着いたように思う。
憧れの人が、経緯はどうあれ僕に興味を持ち、そして僕を追っかけてくれる。舞い上がりそうな事実なのにどこか落ち着いているのは、それがあまりに現実離れしているから。言葉と事実として理解できても、それをうまく咀嚼できない。飲み込めない。
ぶっちゃけ意味がわからない。恋愛どころか人付き合いの希薄な僕には、結局のところ「どうすべきか」がまるで見えないんだ。
「お互い、自分勝手に行こう。私は綾人くんが気になるから。綾人くんは人付き合いの練習台に」
見透かされたような言葉。驚く僕に、黒瀬さんは「ね?」と首を傾げた。
「じゃあ、そういうことで」
「いえー」
テーブルの上、五センチでハイタッチ。ちょっと照れ臭いながらそれに応じれば、嬉しそうに笑う黒瀬さん。そもそもこれをハイタッチっていうのかな。違ったとしたらなんていうんだ?
現実逃避の疑問を頭に浮かべながら彼女と手を合わせた右の掌を眺めてみる。
「女の子の手はもっと柔らかいもんと思ってた?」
「……いや別に、そんな」
「硬いんだよなぁ、子どもの頃からラケットぶんぶんしてたから」
確かに、言われてみればちょっと硬い気がした。全体が、というよりはところどころが。
「何歳くらいから?」
「五歳。年長さんからだね」
「え、すご」
「だろー? 十年選手ってやつだよ」
その硬い感触に、言葉の意味を感じる。積み重ねの証がそれなんだ。
五歳の頃の僕ときたら、あややぐるみと山を駆け回って遊んでばかりだ。一つのことに真剣に打ち込み結果を残す。この歳になっても難しいことを、そんな小さな頃からやってるって言うんだから。
どやっと胸を張る黒瀬さんだけど、素直にすごいと思ってしまった僕にはそれを茶化すこともできない。
胸を張っていたのも束の間、がくっとわざとらしく肩を落とす黒瀬さん。
「……ま、結局二回戦止まりだけどね」
「全国?」
「そ。インハイ出たけど、レベルたかいたかーいですわ」
言う割に表情は変わらず、けれど気にしていないなんてこともないだろうと思うと何も言えなくなってしまう。出られるだけすごい、というのは偽らざる本音だけど、そんな言葉を彼女が欲しがっているとも思えない。
思えば誰かと本気で競ったこと自体、あんまりないかもしれない。競技とは無縁の僕には彼女の想いも想像すらつかないものではあるけれど。
「……一回、ちゃんと見てみたいな」
「おぉ? 試合を? 私を?」
「黒瀬さんの、試合を」
「なるほど。……まー、機会があれば見に来たまへよ」
素直な本心。それに対する彼女の反応に、言葉尻に、ちょっとだけ違和感を覚えた。いつも通りの爽やかな笑顔、テーブルに載せた手。指先をピンと伸ばして、あるいは「伸び」をするような。
けれどその違和感の正体が僕にはわからなくて、きゅぅと絞られたみたいな渇きを感じた喉を潤すように、グラスを呷って飲み下した。
「ちなみに練習ならいつでも見に来ていーよ。綾人くんなら誰も警戒しないだろーし」
「……そうかなぁ」
「お姉ちゃん見に来たーって言えばいいじゃん?」
「これまで一回も見に行ったことないのに?」
「……まぁ、それはそれとして」
そこはごまかしちゃいけないところでしょうに。ツッコミすらできない僕に、黒瀬さんは「あはは」と笑ってごまかした。
「でも実際、あーやの練習してるとこも気にならない?」
「まぁ、ちょっとは」
「でしょー?」
僕が普段見ているところなんて、ほんの数十秒だ。そりゃあコートの脇を通る時間は掃除だったり読書だったりとその日の用事によってまちまちで、それとなればその練習内容もまちまち。色々な練習を見てはいるけれど、結局のところ所詮は数十秒。それで何がわかるのか、って話だ。
それはあやだけの話じゃない。ぐるみのことも、黒瀬さんのことも、僕は本当に知らないことだらけ。
「じゃあ、また今度」
「ん、そーして。人付き合いにしても恋愛にしても、まず知るとこから、だよねー」
「……確かに」
黒瀬さんの言葉に、本当に今更ながら当たり前のことに気付かされた。
僕が彼女について知らないように、彼女もきっと僕のことを何も知らない。
逆に言えばそれはチャンスなんじゃないかな。いいところも悪いところも知り尽くしてるなら、その先の変化はそうそう起こるものじゃない。何も知らなくても縁がないなら進展もない。
何も知らない同士の僕らが、何をきっかけにしても興味を持ってこうして近づいた。進展も後退も、人間関係においては停滞よりもマシ。そんな一般論が頭に浮かぶ。もちろん後退なんてしたくはないけれど。
知りたいと思ってもらえてる。それがチャンスじゃなくて何なんだ。
正直に言えば、僕の中の「憧れ」にどれほどの恋愛感情が含まれてるのかはわからない。可愛いと思うし、なんだったらたまにエロさを感じたりもするけれど。
「じゃあ、よろしくね」
微笑みながら差し出された黒瀬さんの白い手に、僕はパンツで手のひらを何度か拭い、おずおずと応じた。
「……どう?」
彼女の言う通り、硬い手だ。男の僕よりもよっぽど。それなのにところどころ柔らかくて、少しだけ汗ばんでいて、そんなどこかちぐはぐな印象が不思議と彼女にぴったり当てはまって――
「かっこいい手……かな?」
「ほぉ。あは、よく言われる」
彼女は僕の月並みな感想を、爽やかな笑みで受け止めた。




