沙織のおかえし
ゲームが終わった後、部の皆は少しだけ練習してから解散になった。これで糸生コーチとはお別れだ。全員でお礼を言えば、彼は「楽しかった」と締めくくって笑顔のまま葛木町を後にした。本当、最後の最後までかっこいい人だ。
わかっていたことだけど、あやは「腹減った」と言ってさっさと家に帰っていった。苦笑いのぐるみがそれに付き添い、別れた僕はセルジュに向かうことに。沙織と、それから意外にも朱子君がついてくることになった。
僕がバイトで二人はカウンターに。疎外感はあるけれど、朱子君の対象があやだとわかった今、変な焦りを感じないでいられる自分の浅ましさが少し嫌になる。
二人にブレンドを淹れて、カウンターへ。感心したような朱子君の表情が、そんな僕の心を癒してくれた。
当然ながら僕のコーヒーも、すべての客に好評ってわけじゃない。飲んでる時の表情からわかることもあれば、少し飲んで残している人だっている。そのたび気分も落ち込むけれど、それでも店長からこの役を任されていることは自信と誇りになっている。
沙織は、特に、特別だ。飲むたび穏やかな顔で、香りと味を楽しんでくれているとわかる。
「せっかくだし、お昼食べてこっかな」
「いいっすね。おすすめあります?」
「ひつまぶし」
「あるんすか!?」
「ないよ」
「……っすよねー」
呆れ顔の朱子君に、沙織はとてもいい笑顔で応えた。僕からのおすすめ、ということで朱子君にはビーフシチューとバターライスを。ハヤシライスの研究を繰り返している影響で、デミグラス関係の味はそれなりに定評がある。
なんてことを察した沙織がデミグラスハンバーグを注文した。主食にはライスを。
キッチンに注文を通してカウンターに戻ると、すぐにテーブル席から呼び出しが。それに対応し始めてから途端に忙しくなって、二人に構う暇もなく時間はどんどんと過ぎていった。どうやら店長が会計を済ませてくれたらしく、気付けば二人はカウンターからいなくなっていた。
落ち着いたのは、それから二時間後。今日は不思議と特に忙しかった気がする。
ふぅ、とカウンターで息をついたところで、またしても鳴るドアベル。疲れた顔を慌てて隠し、「いらっしゃいませ」とそちらを向けば。
「来たぜ」
「すんません、忙しそうだったんで」
「あれ、二人とも」
いつの間にか会計を終えて帰ったと思っていたら、どうやら外で落ち着くのを待っていてくれたらしい。再びカウンターに座った二人が、今度はラテとアメリカンを注文した。
「ごめん、結構長いこと待ってたんじゃない?」
「後輩君を指導してた。フィジカルあるからもったいない」
「まぁ、そこらの空き地なんでそこまでできないすけど」
「意識だよ意識。指先まで意識して動かすの」
「って、言うっすけどねぇ」
空き地でできるちょっとしたこと、例えば沙織としたショートラリーのような。そんな中でも、意識一つで成果は大きく違うんだと沙織は言う。
そりゃあそうだろう。ただ漫然とお湯を注ぐだけじゃ、コーヒーはおいしくならない。視覚に嗅覚、それから聴覚に触覚まで。
打つだけ。注ぐだけ。一つの動作には、何も知らなかった頃からは考えられないくらいに工夫の余地がある。僕もまだまだ、突き詰められるところはいくらでもあるはずだ。
ラテアートを描いて、沙織に差し出す。特別サービスは前にしたから、今回は普通にリーフ一つ。
「うまいっすね、ラテアート」
「まぁ、慣れだよね」
「撮っていいすか、黒瀬先輩」
「きれいに撮れよ」
「なんで沙織が誇らしげなのさ」
普段からフランクな沙織だけど、後輩を前にちょっとだけ「偉そう」だ。可愛い。
大きな体躯とは裏腹にとても素直な後輩君は、なんというか、すごく「後輩気質」で。気持ちが大きくなってしまうのは、正直ちょっとわかってしまう。
だから、相談なんてされた日には、乗ってあげたくなってしまうもので。
「で、もうバレてるみたいなんで聞きたいんすけど」
「あーやのことね」
「っす。正直全然、手ごたえどころか指先もかかってない気がして」
「あーやは難しいぞー。何しろその気がないんだもん」
「その気っていうと、恋愛しよう、みたいなすか」
「そー。興味がないわけじゃないんだ。少女漫画好きだし、ロマンティックな展開にきゃーきゃー言ったりもする」
余りあやのパーソナリティについて、詳らかに語るつもりは僕にはない。沙織だってたぶん、それくらいのことは弁えてるはずだ。
それはそれとして、なんだか語ってしまいたくなる魅力が、朱子君にはある。言葉の一つ一つに表情を変えて、面白いから。
「当事者意識の欠如ってやつだよね。自分がその対象になると思ってない感じ」
「そーそー。あの子可愛いって自覚あるけど、「それってマスコット的なあれだろ?」って部分まで自覚的だからね」
「なるほど……」
あやは自分の魅力を、「幼さ」にあると考えてる。あるいは、感じている。そしてそれは一面的に正しくて、沙織をはじめたくさんの人に可愛がられているのもまた事実。
まさかそんな「幼さ」に、「性愛」が持ち込まれるとは思っていない。もう少し大きくなってからだろう、なんてことを高校生になってまで思っている……節がある。
疎遠になっていても、わかることもある。あやの口から語られる「恋バナ」が、いつも漫画か他人のものであること。ぐるみでさえ、あやの口から「好きな人」の話を聞いたことがないこと。
うんと小さい頃の「好き」すらあやふやな初恋の話なら、あったようななかったような――それくらいのものだ。
「ということで、回りくどいアプローチはやめた方がいい」
「伝わらないってことすね」
「そう。というかそもそも、あーやそういうの好きじゃないと思うし」
「だろうね。僕らも、変な気遣いしたらうざがれるだろうし、結局あやをストレートに女の子扱いしてくとこからじゃないかなぁ」
「それがいいねー」
正直具体的にどうしたら、と聞かれたらまるで答えられる気はしないけれど。
とはいえ、少なくとも僕にできるアドバイスなんてこれくらいが関の山だ。何しろ恋愛経験どころか対人経験が人より希薄で、ようやく人と関わるようになってやっとひと月かそこら。
……そう考えると、思わず沙織のことを見てしまう。楽しげにアドバイスをする彼女も、その実その青春のほとんどをテニスに捧げていて――
「ありがとうございました。とりあえず自分でなんとかした方がいい、ってことすね」
「そうそう。決して勝手にやっとけって意味じゃないからね」
「や、わかってますって」
結論としてはなんとも投げやりなものではあったけれど、ひとまず朱子君も納得のできるものではあったらしい。
実際、あやを攻略しようっていうなら、自分の力で正攻法が一番だと僕も思う。
時刻は四時、朱子君は立ち上がってからまた礼をして、セルジュを後にした。残る沙織はといえば、ラテの最後の一口を飲み干してため息だ。まだまだ帰る気配が見られない。
「今日はなんかカロリー高かったなー」
「ごめん、黙ってて」
「いやぁ、私がぐだぐだやってたからねー」
「僕は楽しかったよ、そのぐだぐだ」
「おぉ。私も楽しかったー」
沙織の口ぶりから、たぶん彼女は決めたんだろう。あるいは最初からそうだったのかもしれない。僕ができたことなんて、彼女に誘われるがまま言われるがまま、ただ付き従っていただけ。
沙織の、言うなれば「気の迷い」。それがこうまで僕の人生を変えるなんて。楽しかったと心から言えるのは、いつぶりだろう。
まるでこれが終わりみたいに、思い出が頭の中を行ったり来たり。
「綾人があーやをけしかけてきたから、私も綾人をあーやにけしかけてやろう」
「……ん?」
悪だくみ、とは少し違うけれど、なんとなく含みのある笑顔。思い出に浸っていた脳みそが、急速に引っ張り出された。そもそもやり返すって言うんなら僕に、じゃないんだ。
「私にテニスに向き合えって言うんなら、停滞から抜け出せって言うんなら、あーやにも向き合ってもらわなきゃね。停滞から抜け出す時だー」
大仰なセリフと共に、カウンター越しの沙織が笑う。
いまいちピンと来ない、あやの向き合うべき停滞。けれどきっと僕は――
「そろそろあーやの口から聞きたいな。紡季さんのこと」
わかっていたんだ。割り切っただのもう大丈夫だの言いながら、抜け出せていなかったこと。そして何より、向き合えてなかったこと。
あやだって、お母さんのことが大好きだったはずなのに。




