その結実
そうして、あっという間に糸生コーチの滞在は最終日を迎えた。あやとぐるみの育成は思っていた以上に順調に進んだらしく、その日の午前中、僕らは学校のコートに集められた。当事者四人に加えて僕、裁原先生に、部員の中から希望者が。希望者とはいってもほぼ全員が集まったようだけど。
その中には朱子君も含まれた。探るような視線を糸生コーチやあやに送り、二人が何か言葉を交わすたび複雑な表情を見せる。相も変わらず素直な人のようで安心する反面、ほんの少しの罪悪感も募る。
けれど目下の問題はそれじゃない。沙織とあやの試合とその内容、そして結果だ。
ラケットトス――ラケットを回して、グリップエンドにある企業ロゴの向きでサーブレシーブを決めると、あやのサーブでスタートになった。
彼女が大敗を喫してからたったの数日。常識的に考えれば、何かが変わるにはあまりに足りない。
それでも、ここにいる全員がそれを茶化すことなく、固唾を飲んで見守っている。あやなら何かしてくれるんじゃないか、あのコーチなら何かを変えてくれたんじゃないか――そういう期待が見て取れる。
反面、心配も見え隠れしている。あの日の焼き増しのように、またあやが傷つくんじゃないかと。
大きくトスを上げ、ラケットが唸りを上げる。
センターラインぎりぎりに、高く跳ね上がるようなサーブ。ぐるみ曰く、スピンサーブというらしい。それをきれいにさばいた沙織のボールは、あやサイドの左側へと鋭く走る。けれど俊足自慢のあや、難なく追いつきまた打ち返す。
一進一退、最初のポイントから長いラリーが始まった。
この時点で既に、あやの成長が見て取れた。なんていうのか、「沙織の思い通り」から、既に外れているように思う。あるいはそれも糸生コーチの戦略故であり、沙織の解析が進めばこれも対策されるのかもしれない――けれど。
沙織の顔に、わずかながら驚きが見られた。確かに変わった、ということは少なくとも彼女に示したわけだ。
対戦相手への徹底した対策。ミーティングをサボっていたあやに欠けていたもの。それを高いレベルで実践している――とはぐるみの弁。
何しろ糸生コーチは沙織の詳細なデータをわずかな時間で集める有能であり、元より以前の沙織のコーチでもある。彼女のテニスはいわば丸裸であり、僕らには見えない「穴」もコーチからは見えている。
そして1ポイントをあやに奪われ、沙織はそれを悟ったらしい。僕とコーチをにらみつけ、そして笑った。
今回のゲームもまた1ゲーム。けれど以前とは違い、タイブレークという方式をとっているらしい。7ポイント先取で、最初の1ポイントでサーブを替わり、以降は2ポイントごとにサーブが移る。
「さーちゃんに対策される前に、なんとかしたいねぇ」
「……やっぱりあや応援?」
「今は、かなぁ。さーちゃんだって、今のままじゃ、でしょ?」
「そう、だね」
次は沙織のサーブ。その表情は真剣そのもの、あるいは先日のゲームよりも、少しだけ。
沙織は迷っている。停滞している。だから僕みたいなのに構って、楽しそうにしてくれた。もちろん、彼女が再びテニスに向き合ったからといって、じゃあさようならと切られるだなんて思っちゃいない。
でも、今ここから見える彼女の表情は、僕には決して引き出せないものだ。真剣で、緊張感があって、怖いくらいに鋭くて、それなのにどこか楽しそうな、あの顔。
すごく、きれいな。
僕はあやに対して、沙織に勝つための道を示した。そして今それが沙織に伝わって、その時点で僕の意思は僕の想いとは無関係に定まってしまった。彼女にとって僕の意思とは、テニスに真剣に向き合ってほしい、というものでしかなくなってしまった。
――なんてことに今更ながらに気付いて、僕は1ポイントを取り返した沙織に視線を向ける。まるで世界に二人だけ、あやだけを見ている彼女がそこにいる。
続く3点目をあやが、4・5点目を沙織が取り、カウント3-2。
早くも対策され始めているのか、目に見えて圧され始めているあやだけど、まだ焦りは見えない。対策のすべてを序盤から見せることはない、ということらしい。
「すごいね、あーや」
「うん。たった数日で、ここまで」
「わたしもね、本当に、これまでの「努力」って違ったんだなぁ、って、つくづく思っちゃった」
「そっか」
「うん」
裁原先生は、テニス経験こそあってもプロでもなければコーチでもない。それは本人も認めるところだし、何よりそこまでガチガチに指導して全国を目指す、みたいな方針でもなかった。
沙織は子どもの頃からそういう環境で生きてきた。例えばあやがそういう環境に身を置いて力を伸ばしたとして、沙織はまたそこに楽しみを見出してくれるんだろうか? 疑問に思うこともあるけれど、少なくとも今この場で楽しそうにしているのは確かで――
再び沙織にポイント。これで三連続だ。
「先輩、今どういう状況すか」
「あ、朱子君。えっと、なんて言ったらいいのか」
沙織の状況も、あやの心境も、部員たちには詳しくは伝わっていない。どちらも部活を休んで何かをしている、ということくらいで、突然試合を立て続けにしているから、彼らの疑問も当然のものだ。
けれどあくまで個人の問題。どこまで説明したものやら。
少なくとも以前の沙織がまるで本気じゃなかったことは、前のゲームでわかったはず。それが休む理由と繋がっているのかは置いといて、今あやと試合している理由にはなっている。
つまりあやは、本気の沙織に追いつくためにコーチに教えを受け、ここに立っている。僕はそれだけを彼に教えた。
「……そすか。確かに、めっちゃうまくなってるっすけど……」
気に入らない、が顔に書いてある。
沙織が言うように、僕が彼の立場ならと考えると、それを茶化すことはできない。心配だろうな、不安だろう。
「あやはまぁ、面倒見のいい子ではあるけど」
「あ、はい」
「ああやって自分で何かに本気になってるのは、あんまり見たことなかったよ」
「わかるぅ。あ、今までやってきたことが「お遊びだ」、とは言わないけど」
どちらかというと友達を巻き込んで「みんなで頑張ろう」「みんなで楽しもう」が強かった。
歓声が上がる。さらに得点を許したあやが、今度は取り返したようだった。カウントは4-3。接戦だ。
「……確かに、楽しそうっすね」
「うん」
「ねー」
もちろんこれまでの部活だって楽しそうだった。仲間と一緒に上達して、それはきっと彼女なりに本気だったんだろう。
これまで知らなかった「本気」を知ったあやは、楽しそうだ。見たことのない顔をしている。
とても、きれいだと思う。
「できれば応援してあげて欲しいかなぁ」
「ちなみにコーチ、奥さんいるよぉ」
「……いや、そういうんじゃないすけどね?」
うんうん、と頷く僕らに、言い訳を募る朱子君。
コーチに奥さんがいるのは知らなかったけど、とにもかくにもあやとコーチにそういうのは一切ないってことだ。
その情報に僕も安心したのは、内緒だ。
ここで沙織があやの意表をつき、ポイント。立て続けにもう1ポイント。これで6-3。後がない。
当然ながら、部員全員があやを応援してるわけじゃない。沙織を応援する声もあれば、決めかねて迷ってる子もいる。二人とも応援してる、なんて子も。
なんとなく、沙織の事情を悟ってる人もいるのかな。話を聞いた人もいるかもしれない。
ゲームはクライマックス。サーブは沙織で、ここで決まってもおかしくない局面だ。
沙織のトスは頭上よりも背中側に上げられて、それはあやが最初に打ったスピンサーブの為のものらしい。
これまでのゲームで見られなかった沙織のスピンサーブ。小さなあやの頭上を越えるような高さのボールが、彼女から逃げるようにコート外へ鋭く走った。
コート内に沈黙が下りる。これまでのゲームが嘘のような、あっさりとした決着だった。
「切り札は最後までとっとくもんだよ」
ラケットをあやの方に突き出し、渾身の決め台詞。なんというか、沙織らしくて笑ってしまう。
悔しそうなあやは「くそ」と呟きながらも、それでも前を向いてネットに近寄った。同じようにした沙織と握手を交わして、「次は勝つ」と挑発的な笑みを浮かべた。
「気が向いたらねー」
と気の抜けた返答の沙織。
けれど熱に浮かされたような陶然とした目が、あやのその笑みを正面から受け止めていた。




