君が打って、僕が打つ。
コーヒーを飲み終える頃にはすっかりリラックスして、いつも通りの僕らでいられるようになっていた。沙織はテーブルに肘を突いて、僕はあぐらで話を聞く。
あるある、なのかはちょっとわからないけど、卒アルというものを見せてもらった。
少しだけ幼い沙織が、小さな枠の中でこちらを見ている。
「かわいい」
「おー。まだ一年ちょいだけど、変わるもんだねー」
「真面目そう」
「真面目だよ。今でも」
「うん、そうだよね」
「なんだよー」
僕の隣にクッションを置き直し座った沙織が、肩をとんとぶつけてきた。さらりと流れた髪が、肩にかかってすぐに落ちる。
細くて柔らかい、けれど芯のある。
「あ、西機さん」
「そう、同じクラス。まだ可愛げがある頃だね」
「沙織、西機さんに辛辣だよね」
「まー、結構バチバチにぶつかり合ってた感じだからなー。仲良くケンカ、みたいな」
昔そんなアニメがあったような、なかったような。
沙織は昔を懐かしむようにパラパラとアルバムをめくりながら、その都度思い出を語ってくれる。
どのクラスの誰々と仲が良かった、悪かった。あの先生は好き、嫌い。体育祭では日頃培った身体能力で無双しただの、文化祭の出し物は写真見るまで忘れてたとか。
思い出を語る彼女の顔は、とても楽しそうだ。頬が揺れて、唇が震える。
楽しげな手が、とあるページでふと止まる。部活動の歩みと銘打たれたそのページでは、一ページを大きく使ってテニス部の活動が取り上げられていた。
僕の知らない人たちに囲まれて、沙織がいた。集合写真ではやっぱり真面目な顔で、大会中の写真では踊るようにラケットを持った彼女が写っている。
この町に来て変わった、と沙織は言っていた。事実彼女の表情は今よりずっと引き締まっていて、緩やかに笑う仕草があまり見られない。けれどその表情はどれも魅力的で、この町で見せる今のこの顔が、少なくとも「よかった」とは言えないような気がして。
「そいえばさ、綾人はどっち好き? 普段のと、部活中のポニテ」
「え、うーん……めっちゃ迷う」
「他のもやってみよっかな。バイト中はちょっと変えてたね」
「あれもよかったなぁ」
「なんでもえーやん」
「全部似合ってる……と思うよ?」
嘘じゃないし、お世辞でもなければ誇張もない。全部似合ってるし、全部可愛い。それが伝わったのかどうかはわからないけど、一応のところ納得はしてくれたようだ。
「でも、しいて言えば普段の、というか今の」
「そっか。そこそこきれいにしてるんだよ、がんばって」
「うん。きれい」
「さわる?」
「え、でも」
「本人がいいって言ったらいいだろー」
じゃあ、と僕はゆっくり手を持ち上げてそれに触れた。
あやとぐるみがいるから、なんとなくだけどわかっていた。年頃の女の子は、そうそう自分の髪に異性を触れさせない。幼馴染のぐるみも姉のあやも、よっぽどのことがなきゃ触れないし、触れさせてくれない。もう随分長いことそんなよっぽどのことなんてなかったから――
自分のものとはあまりに違う、艶に触れたような滑らかさ。軽さ。さっと手を撫でるようにすると、まるで墨が落ちるように流れていく。そうして空気が流れると、爽やかな甘みが香りになって鼻腔をくすぐる。
たったの数秒。僕は心臓の音に急かされるように手を離した。
「すごい、きれい」
「ね? 子どもの頃からお母さんがむしろ気を遣っててくれてね」
「そうなんだ」
「で、せっかくきれいだからって自分でもやるようになって」
自分で髪をいじりながら、沙織は柔らかく微笑んでいる。なんだか吸い寄せられるような、穏やかな表情。
浮ついた空気。沙織を近くに感じる。触れたくなる。
そんな静寂を切り裂くトープの通知音。慌ててポケットから取り出したスマホの画面には、朱子君からチャットメッセージが届いたと通知が表示されていた。
「空気読めよー」
「しょうがないよ。なんだろ」
「なんだろー」
僕のスマホを覗き込む沙織に、それを見せないように体一つずれてから確認した。「けち」とでも言うように不満げな彼女には、あえて構わない。
メッセージは、端的にあやとぐるみの行く先を気にしている旨が記されていた。
沙織には秘密にしているコーチとの特訓を、彼には知らせていいものか。数十秒くらい迷った後、素直に教えることにした。
最初に声をかけられた時からそう、彼は三人組の誰かを気にしている素振りだった。そして今二人を気にかけているということはつまり――
おそらく心配になるであろう、コーチとのプライベートレッスン。彼がそれをどう受け止めるかは置いといて、だからこそ尚更に知らせるべきだと思った。
それに対して「ありがとうございます」と返信があって、それ以降朱子君からのメッセージは途切れてしまった。
「だれ?」
「朱子君」
「あー、じゃああーやの心配だ」
「……そうなの?」
「見てれば気付くよー。休むのもめったにないし」
「そうなんだ。……そうなんだ」
「かわいいもんねー。ちなみに私も心配してるよ。ね、綾人」
「……だから、ごめんって」
「うそうそ」と明るく笑う沙織に、僕は苦く笑いながら身体を戻した。
そうして、自分で驚く。驚くくらいに自然に、沙織に対して身体を寄せていけたこと。それに対してまるで躊躇も緊張もしなかったこと。
自然に受け入れてくれる沙織が、嬉しい。
「にしても、朱子君、あやなんだ」
「別に意外でもなくない?」
「それはまぁ。でもなんか、きょうだいの恋愛事情聞くのって複雑なんだよね」
「えー、きょうだいで恋バナとか、憧れるけどなー」
「そこは男女差あるかも」
男女差なのか個人差なのかはこの際どうでもいいとして。
「でもあーやだって私たちのこと聞いたりしてきたでしょ。言ったらそれも恋バナだよ」
「……確かに?」
恋愛関係であろうがなかろうが、それに言及した時点で恋バナだ。言われてみればその通りなんだけど、なんだろうこの釈然としない感じ。
「でも知ってるってことは、あんまり応援したりとかはないんだね」
「あーやにその気があれば考えるけどねー」
「あー……」
あやの恋愛に関してあまり知りたくもない気持ちはある。けれど、例えば朱子君に対してアドバイスができないかと言われれば、そりゃあできないこともない。何しろ姉であって、疎遠の時期こそあれど同じ家に住んでいる人間だ。生活リズムから食べ物の好みまで、他人じゃそうそう知り得ないことも知っている。
でも、僕にできることは今日したことくらいまでだ。彼が心配しようが、僕は糸生コーチのもとに行くあやを止めないし、必要以上の情報を教えたりもしない。
「でもさー、例えば私があーやの立場で、理由も言わずに部活休んでたらどう思う?」
「……それは」
なんて、割り切ったことを考えながらも、沙織の質問に動揺を隠せない僕がいる。
一度口ごもる僕を面白がって、沙織は身を乗り出して僕の顔を覗き込んだ。
「ちょっと、気になる」
「だよねー。私も鬼トープする」
「それはちょっと怖いね」
さっぱりした性格の沙織だから、そこまでするところがいまいち想像できない。何しろ今だって、面白がったようないたずらっぽい笑顔で、まるで僕をからかうみたいだ。
僕は肩でぐいっと沙織を押した。力が入り過ぎたのか、その拍子にこてんと横向けに倒れてしまった。慌てて肩に手を添えて、「大丈夫?」と聞いてみれば。
くすくすと小さな笑い声。またからかわれたみたいだ。
「お腹見えてるよ」
「なおしてー」
「嫌だよ」
「だよね」
ぐあ、と勢いよく体勢を戻した沙織は、少しだけ乱れた制服を手早く直した。髪もちょちょいといじって、あっという間にいつもの沙織だ。
「ちょっと庭に出てテニスしよう。近くで打ち合うだけのやつ、ショートラリーっていう」
「え、今から?」
「うん。だいじょぶだいじょぶ、ラケットもたくさんあるし、庭広いし」
「……まぁ、沙織がいいならいいんだけど」
立ち上がった沙織がクローゼットからラケットを二本とボールを一つ取り出して、僕に手招きをする。彼女について部屋を出て、玄関から左手の広い庭へ。月桂樹と季節の花が植えられた花壇は目に楽しくて、広々とした芝生は短くそろえられて踏み心地がいい。
渡されたラケットを見て、なんとなく感動してしまう。赤いフレームに白いグリップ、白いガットには赤く何かのマークが描かれている。
「思ったより軽いね」
「うん。でも全力で振ると意外と負担あるから、気を付けてね」
「うん。まぁ、この距離ならそんなことないだろうけど」
距離にしておよそ五メートル。広い庭をたっぷり使っても、やっぱりテニスをやるには物足りないけれど。
「最初はボール来るとこに置いとくだけでいいからね。打ちやすいところで打つ、っていうのが大事」
「打点が全て、だよね」
「そう! わかってるなー」
沙織の言葉はできる限り覚えていたい。なんてことを口には出さず、僕は「おっけー」と言って身構えた。
沙織が軽くボールを打つ。力のないボールは僕の一メートル手前で跳ねて、身体の右側、ちょうど一メートルくらいのところに飛んできた。
彼女の言う通り、ほとんどスイングすることなく置いただけ。それでも思った以上に飛んでしまって、沙織はノーバンでそのボールを受けることになってしまった。
「ごめん」
「いいよいいよー」
僕はまたそれを打ち返す。今度は少し距離が抑えられた、けれど。
「むずいなー」
「面を上に向けなくてもいいよ。ほぼ真っ直ぐくらいで」
「あ、そうなんだ」
それなら、と工夫はするけれど、今度は距離が足りなくて沙織の遥か手前でワンバウンド。それでも沙織は一歩前に乗り出して見事に打ち返す。
繰り返し繰り返し、僕らは暗くなるまでボールを打ち合った。何度繰り返しても沙織は僕の打ちやすいところへ打って、それを返す僕のボールはあっちへ行ったりこっちへ行ったり、ふらふらと定まらない。
けれど彼女はそれを責めたりはしなかった。それどころか楽しそうなくらいで、それを見ていたら僕もなんだか楽しくなってきて。
「うまいうまい。これなら二人とやる時も、困らないと思うな」
「そうかな。もっと、めっちゃ距離あるでしょ、コートって」
「まー、延長だよ。ちょっと勇気出してスイングすれば、意外とあっさり届くからね」
「そうなんだ。じゃあ、頑張ってみる」
「うん。がんばれ」




