本気の二人と浮かれた二人
交渉は、交渉とも思えないほどとんとん拍子に進んだ。「お願いします」「いいよ」というレベルだ。何しろ僕の想像していた糸生コーチの思惑が、まるでその通りのものだったから。
沙織はその思惑を聞いて、少し迷った素振りを見せた。そりゃあそうだ、自分がコーチの元で強くなった結果、沙織が遠くへ行ってしまうかもしれない。それも彼の希望的観測に過ぎない、けれど。それでも迷ってしまうくらい、そうなる可能性が想像できてしまう。
そしてあやは決断した。糸生コーチの指導を受けることを。
とはいえ彼の滞在も残すところ三日程度。それで沙織を追い抜くことはできない。
「でも彼女の想定を超えることはできる」
「そこまですか?」
「正しい指導を受ける、というのは大事だよ。もちろん君が積み上げてきたものも無駄にはならない」
ばさ、と机に置かれた数枚の資料。沙織のものと同じように、あやへの分析が事細かに書かれている。直接指導はしないものの、葛木町に来てから部活の様子を見守ってはいたらしい。
そしてあやこそが沙織の説得のキーになると目を付けた。
「まずはこれを読み込んでおくように。こっちに動画もあるから」
「はい」
USBメモリと資料を鞄にしまい込み、あやは居住まいを正した。
糸生コーチが、教え子に真摯に向き合うコーチであることが、たった二回の会話でよくわかった。優秀かどうかは僕には判断できないけれど、実績だって十分にある。
真剣な人に対して、あやは失礼を働いたりしない。
「練習は明日からにしよう。必要なら数日延ばしても大丈夫だからね」
「……コーチの想定も、超えてみせます」
「いいね。そうでなきゃ」
昔から、行動力はあった。けれど競争が好きかと言われればそうでもなくて、どちらかというとリーダーシップを発揮することの方が多かったように思う。
けれど高校に上がって沙織と出会った。「引っ張られる側」に回った。
そこであやの心境がどう変化したのかはわからない。でも、こうして闘志を燃やす彼女を見ていると、ああ、出会えてよかったな、と思う。
それから、もう一つ。
「衣縫さんは、どうですか?」
「うん。なんとなく言われるとは思ってた。君の方から」
いつもあやと一緒だった。保育園、小学校、高校。離れていることの方が少ないくらいだ。
テニスに限らず、そりゃあぐるみは引っ張られる側ではあったけれど。
「俺は本人が望むなら、一人加わるのは問題ないと思ってるよ」
「じゃあ」
「ただ、当然ながら一人一人に割ける時間は減る。それから、彼女はあまり競争が得意には見えないけどね。特に、仲間内での」
「それは……」
その通りだ。たぶん昔の印象というだけじゃなく、今でもそうだと思う。
今でも、沙織やあやを追いかける立場だ。気にしてない素振りだけど、一人「土俵が違う」ことに寂しさくらいは感じていたって不思議はない。
それから仮に。仮にではあるけれど、追われる立場に回ったらどうだろう? 先を行って、後ろを必死についてくるあやを見て、優しいぐるみは?
「お願いします。あの子は、大丈夫なんで」
「……そう。なら、連れておいで。ただ、無理強いはしないように」
「もちろんです」
僕の勝手な想像を振り切るように、あやは当たり前のように決断した。
これで僕らの用事は終わり。ほぼ初対面の大人と雑談を重ねるような性分でもない。立ち上がって一礼を残し、部屋を出て行くあやを見送った僕は、改めて糸生コーチに頭を下げた。
「二人をお願いします」
「目的が何であれ、教える以上は全力でやるよ」
「はい。今日はありがとうございました」
「俺の方こそ」
はて、と首を傾げて、一拍置いて納得した。
僕は曖昧に笑ってあやの後を追いかけた。
翌日から、あやとぐるみは揃って部活を休んだ。あやの言う通り、ぐるみは糸生コーチによるレッスンを受け入れたわけだ。
そしてそうなると、当然沙織の目が僕に向く。
「……あの翌日に、こうなるわけだ」
「……まぁ、なったわけだね」
視線が痛い。美人がにらむと怖い、なんて言うけれど、やっぱり例外はなかった。
僕は悪くない。そそのかしはしたけれど、最後に決断したのは二人だ。
「責任取ってあそべ」
「いいけど……どのみち二人は部活で沙織は休みなんだから……」
「え?」
「何でもない」
スクールバッグを担いで歩き出す沙織を、追いかけるように教室を出る。
バイトの休みがここ最近増えてるけど、店長は「いいよ」と言ってくれている。多少困る場面もあるけど、曰く「学生時代のあれこれは取り返しがつかない」ということらしい。
「そーだ、原付でどっか行こ」
「いいね。でも、町出るとなると結構かかるよ」
「だよねー。下手したら片道二時間コース」
「うん。だから買い出しは休日くらいしか行かないし」
あれこれと話し合いながらゆっくりと歩き、僕らはいつの間にか学校を離れ住宅街に。住宅が密集しているとはとても言えないものだけど、こうして散歩するにはかえって好都合だ。広い庭が「景色」になってくれる……なんて、めちゃくちゃに好意的な見方をしてみるけれど。
なんとなく、スキンシップが増えたような。ちょっとしたツッコミに肩を叩いてみたり、からかうように肩をぶつけてみたり。
「こっちだよ」とでも言うように、手を握ってみたり。
そうしていると、見慣れた住宅街だって十分楽しい。だから時間も忘れて、沙織に導かれるように。
――いつの間にか、沙織の家の前に着いていた。
「え、ここ?」
「大丈夫、お母さんしかいないから」
「いや、知り合いではあるけどさ」
沙織を助けた時と、大会の時。たったの二回、彼女の母親と会ったことはある。怜悧な印象とは裏腹に、物腰の柔らかな優しげな女性だった。
僕と沙織がキャンプに行くのを許可してくれるくらいだから、それはもう理解のある人なんだろうというのはわかる。けれどやっぱり、家に遊びに行くっていうのは一つハードルがあるような気がして。それに、キャンプの時に同じサイトに泊まったことだって後ろめたい。
――なんて言い訳を脳内で重ねる僕の手を、沙織はやっぱりぐいぐいと引っ張った。
「ただいまー」
「おかえり……あら」
「お邪魔します……」
土間を上がり、出されたスリッパを履いたところで、リビングから出てきた沙織のお母さんと出くわした。
どうしよう、顔が見れない。失礼だとわかっていても、後ろめたさというか、恥ずかしさというか。
「いらっしゃい。ゆっくりしていってね」
「あ、ありがとうございます」
「じゃあいこー。お母さん、お茶とか別にいいからね」
「はいはい」
僕は一度だけお母さんの方を見て頭を下げ、沙織の後に続いた。
清潔感のある家。広々とした洋風の、白い壁と白木のフローリング。よくよく光が入るように設計されているのか、電気は点いていなくても十分に明るい。
案内された、フローリングよりやや濃い色のドア。ドアプレートなんかはないけれど、考えなくても間違いない。沙織の部屋だ。
彼女はもちろん躊躇なんかせず、ドアをガチャリと押し開けた。瞬間、いい香りがしたのは気のせいだろうか。廊下とさほど印象の変わらない、淡白で清潔感のある、けれど柔らかな光に満ちた部屋。木製のインテリアを中心に、白やクリーム色、ピンク等の淡い色の小物があちこちに。
ふと目についた棚には、ずらりとトロフィーが並んでいた。それから同じ棚の片隅に、小さな編みぐるみが置いてある。
「あれ、鞄にもついてなかったっけ」
「ついてるよ、ほら」
突き出された鞄を見れば確かに、持ち手の付け根辺りに下げられた編みぐるみ。棚のものよりもさらに小さい。
モチーフは同じで、どうやらデフォルメされた沙織本人。これを作った人には、心当たりがある。
「綾人の部屋にもあったよね。なんとなく触れてなかったけど」
「うん。ぐるみの趣味だから」
「可愛い趣味だよねー。マジ漫画のキャラかよって思う」
「確かに……」
鞄を部屋の中央のテーブルに置き、沙織は隅のベッドに腰掛けた。
「さー、座ってくれ。クッションでも勉強机でも座布団でも、なんでも使っていいよ」
「じゃあ、座布団で」
どうにも、身体が緊張してしまう。動作がぎくしゃくしてしまう僕を、沙織はおかしそうに笑った。
「やっぱお茶かなんか頼めばよかったね。私淹れてくるから、ちょっと待ってて」
「あ、うん。ごめん」
「コーヒー? 紅茶? 緑茶もあるし、スポドリも水もあるよ」
「じゃあ、コーヒーで」
「はーい」
そうして一人残された僕は、きょろきょろと部屋を見渡す。
壁に下げられたコルクボード。貼られた写真。クローゼット、タンス。ベッドと敷かれた布団のしわや、クッションのちょっとしたたわみまで。
テーブルの上のティッシュボックス、テーブルミラー。ベッドサイドのランプ、枕の横には猫のぬいぐるみ。メイクが詰められた収納棚、姿見も。
なんて言ったらいいのか、よくわからないけど。――沙織が見える。
意識し始めると、尚更緊張してしまう。僕はそれ以上何も見ようともせず、ただテーブルの上を見て沙織を待った。
「おまたせー」
「ありがとう」
置かれたコーヒーを一口飲んで、カップをコースターに置いて、大きく一息。少しだけ落ち着く。
そんな僕を、僕の真向かいのクッションに座った沙織がまた笑った。
「うちにきた男の子、第一号」
「……ありがとう?」
「予行練習、というか。私の誕生日に、ここで集まる予定なんだよね」
「むしろその方が最初としては緊張しないような……」
「いいじゃん」
コーヒーをすすった沙織が、拗ねたような上目遣いで僕を見る。
考えてみれば、沙織の家に来たって気づいてから、僕はちっとも楽しそうにしていない。嬉しそうにもしていない。緊張のまま、むしろ「嫌そう」に見えたかも。
「……来れて嬉しいよ。それは本当」
音を立てずにカップを置いた沙織が、顔を上げた。
「そっか」
そうして笑うから、僕はつい俯いてしまう。俯いた先のコーヒーカップ。その下に敷かれたコースターが、前に「焙」で買ったものだと気づいた。
「使ってる?」
「うん。なんか、使ってると沙織のこと思い出すよね」
「わかる。コーヒー置くためなのに、なんか持ち上げて眺めちゃうよね」
「……わかる」
「え。私だけ?」
沙織だけ、かは知らないけど、僕はしていなかった。申し訳ない反面、思い出まで大事にしてくれているようでうれしくて。
にやける僕に、拗ねた沙織が文句を募る。
まだまだお互い浮かれてるなぁ、なんて思いながら、緊張が解れていくのを感じた。




