糸生コーチ
手を変え品を変え、試行錯誤の繰り返し。諦めることだけはしない。
そんな僕らの「ハヤシライス」に、沙織は楽しそうに付き合ってくれた。
けれど冷静になってみると、このある種膠着した状況が沙織の「現状」と重なるものがあると感じてしまって。その自覚の有無に関わらず、僕はきっとどこかで不安がっていたんだろうと思う。
夢を見た。沙織がこの町から、僕の傍から去っていく夢。
梅雨入りが近々発表されそうだ。週間予報に雨のマークが目立ち始めたこの日は、長い雨模様を目前にして、最後の晴れの日だった。
あやの地区大会がどうなるか、なんて心配を家族がしている中、僕だけがそれに乗り切れない。それがなんだか申し訳なくて、僕は無言でうつむいたまま朝食をかき込んだ。
朝練に向かう直前のあやが、そんな僕に言う。
「やめろよ、もう、塞ぎ込むの」
「うん」
それだけ。でも、十分伝わった。
自分の中に溜め込んで落ち込むくらいなら、相談くらいしろよ。
――と、そう言ってくれている。
もちろん好意的な解釈であることはわかってるけど、「変わってない」あやならそう遠くはないはずだ。そのくらいの想像は許される、という信頼は残っている。
だから僕は少しだけ持ち直して、学校に向かった。
「私今日ちょっと部活行くね」
「あ、うん」
昼休み、四人で小さな机を囲んでいる中、沙織が唐突に切り出した。
別に意外でもない。彼女は相変わらずテニスが好きだろうし、大会で勝つあやを、そして負けるぐるみ他部員たちを見て、色々とくすぶるものもあったはずだ。むしろ今日までが不自然で、何の気なしに頷く僕に、彼女はどこか不満そうだ。
「綾人、今日見に来て欲しいんだよね」
「何かあった?」
「こないだ璃子が言ってたじゃん? 糸生っていうコーチが、こっち来てるって」
「コーチがこっちに?」
「違うから」
「さすがさーちゃん」
「違うから」
あやとぐるみのコンビネーションににらみを利かせつつ、沙織は話を続ける。こういう軽いノリに、まだ僕は上手く乗れない。
「で、今日はウチの部に指導に来るんだって。そこに私がいないわけにはいかんだろーって、きょーこちゃんが」
「なるほど。で、僕?」
「居てくれると嬉しいなー。なぜなら嬉しいから」
つまり特に理由はないけれど、ということらしい。
理由はなくとも、僕がいて嬉しいと言ってくれるなら、そんなに嬉しいこともない。何より、もとより断る理由もないんだから。
僕が承諾すると、沙織は手に持った箸で「ピースサイン」を作る。
いつの間にやら情報共有がされていたらしく、「糸生」というコーチのことも西機さんのことも、あやとぐるみは知っているようだ。
その時にはまたひと悶着あったらしいけれど、ひとまずのところ沙織が答えを出すまでは何とも言えない。ぶつかりそうでもぶつからない三人は、やっぱりバランスがとれていて。離れ離れになるところは見たくないな、と思う。
「しっかし全国行くようなやつを育成してるコーチってことは、それなりに有名な人なんだろ?」
「そうだね。まー全国で名を知られる、って感じではないけど」
「はー。そんな人がこんなド田舎にねー」
「教え子が全国行けば、それだけ名前も売れるしねー」
なんとも現実的な話で悲しくはなるけれど、それもまた黒瀬沙織の価値であることに変わりない。僕だって多聞に漏れず、全国に行ったすごい人、という認識はもってたわけだ。
そして他の部員にとってもそれはチャンスだ。葛木高校のテニス部に来る以上、沙織だけを見ていますで通用するはずがない。このネット社会でそんなことをすれば、名前を売るどころの話じゃなくなってしまう。……まぁ、希望的観測ではあるけれど。
どこかソワソワとした空気を含んだまま、昼休みはあっという間に過ぎていく。
放課後、今日は沙織が日直らしくて、僕はその手伝いをすることになった。もう一人、男子側の日直は、「代わる」と言ったら喜んで部活に向かって行った。
とはいってもやることと言えば学級日誌の記入と黒板消し、施錠くらいのものだ。自分の席でさらさらと日誌に向かう沙織に背を向けて、僕は黒板消しで黒板をなぞる。最後の授業は世界史だったらしい。
「そういえば沙織、中間どうだった?」
「学年九位。ちょい上がった感」
「やっぱりすごいなぁ」
「そういう綾人は?」
「五十五位。あやにも負けた」
「意外。優等生だと思ってた」
「まさか。コーヒー図鑑ばっかり読んでるのに」
「……たしかに」
五十五位は、たぶん都会の学校に通っていたら「そこそこ」くらいに思えると思う。けれど全校生徒三百人にも満たないこの高校においては、むしろ下位グループだ。
テニスばかりしている沙織に負けてるのは、まぁ、言い訳のしようもないけれど。
「じゃあ期末の前は一緒に勉強会しよっか。私が教えてやろう」
「沙織がいいなら、お願いしようかな」
「いいよいいよ。あーやとぐるみも一緒だけど」
「それは全然。なんか色々予定がごたついてきたなぁ」
「スマホにメモっといた方がいいよー? 忘れられたら悲しいし」
「そうする」
黒板消しをクリーナーにかけて、元あった場所に戻す。
それから沙織が日誌を書き終えるまでの間、沙織に確認しながら予定をスマホに記録していった。
あやの大会が終わってからのテニス教室、その後の食事会。沙織の誕生日。
書き出してみればたったそれだけ。ごたついてもいなかったけれど、それもまた印象の話だ。沙織と過ごしたこの二か月ばかりが、僕にとってあまりにも濃密だったから。これからを考えると、頭がごちゃごちゃしてしまう。
ばたんと日誌を閉じた沙織が立ち上がる。スクールバッグとラケットバッグを担いで歩き出す彼女の後を、僕も鞄を担ぎながら追いかけた。
更衣室に消えていく沙織を見届けて、僕はウォーミングアップ中のテニスコートの横、前にも座ったベンチに腰掛けた。
ふと視線を向けた先、コートを囲む金網の、入り口近くの向こう側。見慣れない大人の男性の姿があった。周りの部員たちと比べてもかなり大きい。百八十半ばくらいはありそうだ。茶色の髪は、なんというか、言うなれば「おしゃれなスポーツ刈り」みたいな。いかにもスポーツマンらしい爽やかな印象だ。
あの人がたぶん、糸生コーチ。
思わず見つめてしまう僕の肩を、誰かの手が叩いた。考えるまでもなく沙織だ。見慣れたジャージ姿、見慣れたポニーテール。ラケットを持つと、やっぱり印象がガラッと変わる。
「糸生コーチ、もう来てたんだ。じゃあ私、早く行かないと」
「うん。がんばれ」
「がんばる。あのね、がんばる」
「うん」
小さく手を振って、沙織はコートに駆けていった。
入り口脇の糸生コーチに頭を下げ、一言二言交わした後、ウォーミングアップに加わっていく。部員たちがそれを切り上げストレッチに移行する中、沙織だけは走り続ける。
やっぱり準備運動は怠らないんだな。みんなが切り上げるから、で甘えたりしない。
ストレッチが終わると、糸生コーチが動き出した。並ぶ部員たちの前に顧問の裁原先生と並び、話し始める。その声はとてもらしくて、僕のところまで聞こえてきた。
「今日一日、皆を指導することになりました、糸生です。今そこで一人寂しく走ってる黒瀬の元コーチでもあります」
「うるさい!」
爽やかな印象に違わない、爽やかで軽快な話。笑い声が響く。
「うるさい」というたった一言で、沙織との間の「気安さ」のようなものが見えた。それはたぶん、信頼と言い換えることのできるもので。
ずきりと、胸がうずく。
「テニスのこと、人体のこと、これでも皆よりちょっとだけ勉強してきました。きっと助けになれるはずです。困ったこと、わからないこと、なんでも聞いてくださいね」
そろった「はい!」という元気な返事。そこには当たり前に、あやとぐるみも含まれる。なんだか楽しそうで、生き生きしている。
当たり前だけど、僕といる時とはまるで違う。
「ではまず様子を見たいので、向こうのベースライン、センターマークを挟んで二列に並んでください。二球打ったら左右交代です」
「はい!」
そして当たり前に、彼はテニスが上手い。
ストレッチを終えた沙織がそこに合流して、糸生コーチが打つボールを、部員たちが次々と打ち返していく。
僕には違いのわからないあの子とあの子。あの人とあの人。
二巡三巡してから、彼は一人一人にアドバイスを始めた。そのどれもがたぶん的確で、誰も彼もが「得心」を顔に書いて次に向かって行く。次の順番が来るのが楽しみで仕方ないという顔で。
なぜだろう。当たり前のことなのに。これまで誰にも感じたことのない感覚。
「フォアの癖直ってないぞ黒瀬ェ!」
「私にも敬語使えよぉ!」
楽しそう、というわけでもない。必死、というわけでもない。
けれどそこに確かに、見たことのない沙織がいた。
それが何でか、痛い。
なんでかなんて、わかりきっているのに。




