迷っている間に
さすがにここまで来られては逃げられない。観念した沙織はしばらく考えて西機さんに提案した。
「陽が沈む前に綾人の設営済ませたいから、ここで待っててくれる?」
「逃げない。すぐ終わるから」
そりゃあそうだ。逃げてきた沙織が西機さんと離れたいなんて言ったら、疑われるに決まってる。こうなってしまえば逃げるつもりはないんだろうけど、それでもだ。
「僕、一人で行ってくるよ」
「綾人にはいて欲しいなー。私多分、今冷静じゃないし」
「そう言ってもなぁ」
「ごめんね綾瀬君。ほんと、すぐ終わるから」
スマホを取り出して時間を確認。午後四時少し前。テントの設営時間を考えても、十分に話をする時間はありそうだ。
僕が頷くと、二人は沙織のサイトに歩き出す。
あれだけ解放感に溢れたキャンプサイトも、状況次第では閉塞感を帯びることもある。二人の間に横たわる空気は険悪とまでは言えないまでも、どこか冷え冷えとしたものを感じる。仲は良い、と沙織は言っていたけれど、仲が良いからこそ「ぶつからずに逃げた」ことの意味は大きい。
僕の椅子は沙織に、沙織の椅子を西機さんに。僕は、沙織の張ったテントの入り口に座り込んだ。距離的にも、少し離れているくらいがちょうどいい。
持っていたバッグから取り出した水を飲み、西機さんは一息ついた後に話し始める。
「用件は、なんとなく想像ついてると思うけど」
「私を連れ戻そう、でしょ?」
「うん。ただ、私のいる学校に入って欲しい、じゃない」
「……へえ」
意味深な沙織の呟き。駆け引きのようなやり取り。
でも実際のところ、そんな心理的に深く切り込むような会話じゃない。沙織、ちょっと楽しんでないよね?
「糸生コーチ、覚えてる?」
「一応」
「一応って。まぁいいけど。明日こっちに来るんだ。スクールに誘いに」
「えー」
「不満そうだね」
楽しんでいるか、というのはさておいて。身を乗り出して誘う西機さんに対し、沙織の返答はあまりに素っ気ない。けれど西機さんがそれに気分を害するということもなく、あるいはそれさえ想定通りとでも言うように。
つまるところ、西機さんは、沙織がこんなところで終わるべき人間じゃないと思っている。もっと練習すればもっと上を目指せるし、その「いとう」というコーチならば間違いないと。
学校はどこでもいい、スクールに通えるなら。でも、葛木高校ではない。
そして目下の問題は、沙織にその気がないこと。それはきっと、本心を聞くまでもなく西機さんには伝わっている。
「沙織、それって、私に負けたから?」
「それもある、くらいかなー」
「スコアが前より開いたから?」
「それも、ある」
言いづらい、聞きづらいであろうことを臆面もなく。僕にできないことを、西機さんはサラっとやってのける。
対する沙織にも言い淀む様子は見られない。
現状の把握。きっとそれは、彼女たちにとって当たり前のこと。
僕は二人に請われるでもなくテーブルに向かった。コーヒーを淹れ始める。
会話から少し気を逸らしたかった。紛らわしたかった。僕の様子をちらりと見た二人だったけど、僕には何も言わずに会話を続ける。
「私は沙織が弱くなったとは思ってない」
「まぁ、そりゃあ、たった一回で判断するのは早いっていう理屈はわかるよ」
「そうじゃない。後から内容を考えて、私はそう判断した」
「……聞こう」
やっぱり冷静。テニスに関しては、二人とも相当な上澄みにいるとわかる。
「プレイに遊びがあった。前は「読まれてる」とは思っても、「遊ばれてる」とは思わなかった」
「……いや、それは」
「そりゃもちろん、たまにだよ。1ゲームに1ポイント、あるかないかくらいの」
「ほーん」
「沙織のゲームの組み立てはすごかった。でも、慣れるとどう組み立てるか、ちょっとした予想がつく」
「あー、確かに前みたいに考えて考えて考えてー、って必死さはなかったかもね」
「難しい局面であえて遊び玉を混ぜる、みたいな。そういう余裕が、逆に怖い瞬間があった」
僕は以前の沙織を知らない。それどころか、今の沙織への理解さえ。
「騙しのテニス」という僕の評価を、彼女たちの会話が否定する。沙織のテニスの真価というのが、おそらくは「組み立て」にあるのだと察せられる。
「沙織はもっと伸びる。あいつにだって届くかもしれない」
「それはない」
「だって沙織は自分の変化にだって気付かなかった。自分の伸びしろが見えてないんだよ」
「でも、あの人は違う」
理解できる話。電話口に聞いた、最初のワンゲームで勝てないと思わされた「本物」。
かつてのライバルから聞かされる可能性の話に、沙織はなおも抗弁する。
「まぁ、正直に言えばあいつに届くは言い過ぎたよ」
「……うん」
そしてあっさり認める西機さん。
それほどまでに強い選手なんだろう。僕は抽出されたコーヒーを紙コップに入れ、ブラックのまま西機さんに差し出した。昨日セルジュでそうしていたから。
「お、ありがとう。気が利くね」
「まぁねー」
「沙織に言ってないよ」
二人のやり取りに笑みを浮かべて、僕はテントに戻った。
僕の役回りはきっとこれなんだろう。熱くありそうなところで水を浴びせる。それ以外には口出し一つできない自分が、少し情けなくはあるけれど。
「……昨日と同じ味」
「バイト特権なのだよ。……あれ、そういえば私買えるとか聞いてない」
「バイト特権じゃなくて、前店長の息子特権だからね」
「あー。なんとなくそんな気はしてたけど」
少しだけ緩んだ空気。また話が再開されれば戻ってしまう空気でも、熱くなり過ぎないことが大切だ。
――なんて、そこまで考えてコーヒーを淹れたわけじゃないけれど。
「とにかく、沙織はまだ伸びる。でもそれは、いい環境があっての話。私と一緒に来て」
「まじむり」
「今ここで結論を出せとは言わない。私は明日帰るけど、コーチが一週間この町にいるから」
「……えー」
「一日だけでいいから。練習見てもらいな」
「……まぁ、さすがにここまでされたら、そうするしかないんだろうけど」
沙織が「行かない」と断言できていないことは知ってる。自覚があるにしろないにしろ、心のどこかで迷っている――と、僕だって断言できるわけじゃないけれど。
ひとまずのところ保留、というところで話は落ち着いた。コーヒーをすする西機さんは、改めて風景を見てため息をつく。
気持ちのいいところだね、と呟く彼女に、沙織が笑顔で同意する。
途端に弾みだす会話に、二人が親友であったことを今更ながらに実感した。二人の笑顔に、仲が良いことは疑う余地もなく、ずっとここで二人を眺めていたい欲に駆られてしまう。
キャンプサイトに開放感が戻る。吹き抜ける風にかき鳴らされた木の葉や水が、それを象徴するように僕らを撫でた。
「西機さんも、こういうイベントってあんまり通ってこなかった?」
「そうだね。全国に行くような子は、大体がそういう感じ。もちろん、全くないわけじゃないけどね」
「なんかテニスの話ばっかりしてたって感じには見えないけど」
「お互い落ち着いたってことかもね。沙織なんか、表情からして違うよ」
「そーだろ。自分でも笑顔増えたなって思う」
「へー」
だからきっと、西機さんは「ここに来たことが間違いだ」とまでは言わないんだろう。それどころか、沙織に必要だったのはそれであるかのような物言いだった。
終わってみれば揉めるというほどのこともなく、終始落ち着いて話ができていたように思う。
だからこそ、僕は迷ってしまった。
きっとその理由は、二人が二人、現状に思うところがあったからだ。西機さんは言わずもがな、沙織にも。
わかっていたことではある。
沙織はテニスが嫌いになったわけじゃなく、向き合い方を考えたいと言っただけ。それはつまり、また本気で上を目指すこともあり得るということだ。
そしてそれはきっと、葛木高校ではできないこと。僕やあや、ぐるみが否定してもしきれない事実。
僕は、沙織にどうして欲しいんだろう?
また、全力でテニスに打ち込む沙織を見たい。
沙織のいるすぐ傍で、今この瞬間を過ごしたい。
どちらも偽らざる僕の本音だ。たぶん、どちらも一緒に叶えることはできない。
そして僕にも夢はある。セルジュを盛り上げて、いつかあの日の風景を取り戻すこと――
「……綾人?」
「あ、うん。ごめん、なんだった?」
「もう暗くなるよ?」
「え」
二人の会話を聞きながら、僕は一体どれだけ考えに耽っていたんだろう。辺りを見渡せば既に陽が落ちる直前で、薄暗いと言えるくらいには暗かった。
「じゃあ私は管理棟でタクシー呼んで、帰るから」
「うん。明日見送るから、帰る時教えて」
「ん。じゃあ綾瀬君も、またね」
「あ、うん。また」
手を振り、西機さんはサイトから去っていった。
慌てて道具を片付け原付に積み込むけれど、このままじゃどう考えても間に合わない。移動している間に真っ暗だ。そんな中で設営するのは、僕としても避けたいところだけど
そうするしかないか、とハンドルを握る僕の手に、沙織の少し硬い手が重ねられた。
「危ないから、ここに張ろう?」
「え」
「私管理棟で事情説明するから。お金が必要だったら、あとでまた言うね」
「え」
戸惑う僕を置き去りにして、沙織はさっさと管理棟に入ってしまった。西機さんもまだそこにいるだろうに、どう事情を説明する気だろう。
「え」
戸惑う僕は、「だめだろ」と虚空に呟くのだった。




