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黒瀬沙織、初めての労働





 僕らの二回目のデートは、何の波乱もなくただ順調に幕を閉じた。別れ際、前と同じ沙織の家の玄関先で、彼女は僕の手を握って「ばいばい」と笑った。


 どうやら気に入ってしまったらしい。男らしくごつごつもしていないし大きくもない。特別きれいというわけでもない。そんな僕の手に、自らの手を重ねるのを。


 家に帰った僕は、義母さんに声をかけてから手を洗い、自室に入った。あやはまだ帰っていないらしく、夕飯までまだ時間もある。なんとなく手持無沙汰で、勉強机の椅子に腰かけてスマホを取り出した。


 トープのチャット履歴。僕の数少ないやり取り。家族との必要なやり取りがほとんどだったのが、沙織との履歴で一気に華やいだみたいだ。とはいっても遡るほどもない、ほんの数度のやり取りだけど。


 だから、その文字からもスタンプからも、声が聞こえてきそうなくらいだ。


 そんな最中に当の沙織からの通知音。思わずびくりとスマホを取り落としそうになって、慌てて持ち直した。


「明日からバイトだよ。よろしくね」

「うん。よろしく」


 店長からの条件で、せめて目測がとれると判断できたら、と約束していたらしい。自己判断でいい辺りが実に店長らしいけれど、はてさて。とはいえ「目測」という一点に関しては、沙織のそれはきっと一流に近いものがあるはずだ。


 実際、初日は起こった種々の問題も、今日のデートではほとんど見受けられなかった。慣れるまで、適応までの時間が早い。


 だからバイトに関しても、僕が教えることも早々になくなるだろうなぁ。


「手取り足取り教えてくれよ」


 と可愛いゆるキャラっぽいスタンプをつけての「お願い」。思わず緩む口元を意識して引き締め、僕もスタンプを送り返した。


 デフォルトで最初からある、「OK」のスタンプだ。




 放課後、僕らはそろってセルジュに裏口から入った。少し「おそるおそる」な沙織がちょっとおかしくて、可愛くて、笑ってしまう。


 そんな僕をじとっとにらんだ後、キッチンで働く徹さんに気付く沙織。びしっと不自然なくらいに背筋を伸ばし一礼。


「よろしくお願いします!」


 この辺まさに体育会系だよなぁ、と思いながら、僕は「お客さんに聞こえるよ」と注意した。


「あ、ごめん。ごめんなさい」

「次気を付けてくれたら大丈夫。明るいのはいいことだから。よろしくね」


 寡黙な徹さんだけど、気遣いができる大人でもある。そうでなくちゃ、あの(・・)店長を射止めることなんてできなかったはずだ。


 さておき沙織の教育係は彼でなく、僕である。


「ロッカーここね。カーテンだけだけど、一応更衣室も」

「おぉ。っぽいね」

「っぽいかな?」


 ちなみにロッカーはある程度共用である。二つの大きめのロッカー。一つは店長夫妻用、一つはバイト用。


「大丈夫? 僕と共用だけど」

「服と荷物置くだけでしょ? 逆に問題どこ? って感じ」

「そっか。じゃあとりあえず、着替えちゃってね。僕ここで着替えるから」

「はぁい」


 ロッカーから制服を取り出し更衣室(・・・)に入り、カーテンを閉じる。普段ならここでもうひとボケ入るよなぁ、なんて思いながらそれを見送った。


 制服は男女ともに黒のパンツと白の開襟シャツ、それから黒いエプロン。僕は店長がキッチンに入ってこないうちにと手早く着替えを済ませ、沙織のそれを待った。ごそごそと聞こえてくる衣擦れの音が生々しくて、不自然に徹さんの様子をうかがってしまう。


 当然ながら配偶者もいる大人の男は、動じることもなく仕事をこなしてた。こうなりたいものである。


 音が止み、一拍置いてカーテンが開かれる。


 僕と同じ服を着た沙織の姿。だというのになぜだろう、まるで同じ格好に思えないのは。僕も太っているつもりはないけれど、スタイルの良さが何より際立つ。あっちこっち服のヨレやズレを気にする素振りまで可愛い。


 それに、髪の毛も。普段は流し、部活中はポニーテールに。今はそのどれとも違う、きちっとした感じのいわゆるお団子ヘアー。ポニーテールの時よりもまとめる髪が多いのか、そのスッキリとした顔立ちが、輪郭が、より一層際立っている。


 こうして見ると、首が長いんだなぁ。


「ど?」

「かわいい」

「おぉ。初めて聞いた」

「……そうだね」


 初めて言った。改めて、女の子をストレートに褒めるなんていつぶりだろう。照れ臭くて目を逸らす僕の肩を、沙織がぽんぽんと優しく叩いた。


「さてじゃあ、早速お願いします。綾人先輩」

「なんか朱子君を思い出すなぁ」

「会ったの? 素直な子だよねー。私も今日はあんな感じでいくよ」

「ああうん。じゃあ、ホールに出ようか」


 素直な子、という彼に対する評価が間違っていなかったことにちょっと安心しながら。


 ホール、というよりカウンターに出た僕らは、店長の前に並んだ。


「お、来たな。似合ってるよ」

「よろしくお願いします」

「電話でも伝えたが、ホールに入ってもらう。綾人、とりあえず流れだけ説明してやってくれ」

「はい」


 邪魔にならないようカウンターの隅に移動し、ホールの様子を見ながら説明を始める。


 客の案内や水、おしぼりの提供、注文の取り方。メニューの提供、待機中の振る舞い。退店後の片付け、それから食洗器の使い方。


 大まかな流れはそのくらい。細かいところはいくつかあるけれど、それはまた追々で。


「……追々って、数日しかないよ?」

「まぁ、あんまり細かいことに意識向けるより」

「なるほど。初心者は打点が全て、みたいな話ね?」

「それはよくわかんないけど」


 沙織が言うからにはたぶんテニスの話だろう。打点以外意識しなくていい、みたいな?


 であればきっと遠くはない。


「とりあえず最初は僕がやるから、ついてきて、見てて」

「はい先輩」

「……ちょっといいかも」

「でもせっかく呼び方変えたばっかだし、やっぱ綾人がいいな」

「まぁ、好きな方で」


 私語はそこそこに、僕らは仕事に入る。


 何しろ今日はなんてことない平日で、観光客もそうはいない。であれば地元の常連が主だった客で、空席もちらほらと見受けられる。それぞれが長い時間をゆったりとくつろぐ人が多く、受ける注文はコーヒーのおかわりがほとんどだ。


 今日はコーヒーを淹れるのも店長にお任せ。僕は沙織の教育に集中するように言われている。


 無駄なおしゃべりはせず、沙織は僕のあとを大人しくついてじっとその作業を見守っている。これに関しては意外さを感じることもなく、あくまで彼女の「お茶目」はプライベートの時間に限られている。


 部活中の彼女を知っていれば、心配するまでもない。


 丁寧に丁寧に、簡単に思えることもきっちりメモを取っている。今それができるかどうか、簡単か難しいかは重要ではなく、いつでもそれを見返すことができるというのが大事なんだ。どんな些細な、どんな簡単なことでも、それを忘れてしまったら何の意味もないんだから。


 とはいえ初めてのことで、それもたったの数日間。そこまで難しいことをさせるつもりは、僕にも店長にもない。


 説明と実演は、ほんの十分程度で切り上げて。


「じゃあ、次は僕がついてくから、やってみて」

「……マジかぁ。やば、手震える」

「そこは慣れてもらうしか」

「ちょっと握って、ほらほら」

「仕事中だから」

「ぶー」


 カウンターの隅、いちゃついていると言われない程度に雑談を交わしながら。


 初めてのバイト、初めての仕事。沙織はらしくないくらいにおっかなびっくりで、言ったとおりにちょっと手が震えているのがカップの中のコーヒーから見て取れた。声もほんの少し震えていて、僕も最初はこんな感じだったっけなぁと懐かしく思う。


 大舞台、という意味じゃ、たぶんテニスの全国大会の方がよっぽどだろう。でも、緊張の意味が人によって違うことくらいわかる。


 沙織はきっと乗り越えるだろうというのも。


「はー、やば、ちょっと呼吸浅くなってる」


 カウンターに戻った沙織が、ちょっと大げさに肩で息するふり。僕はその背をさすろうとして、やめた。


「……いやそこは来いよ」

「いや、なんかセクハラとか」

「ならんて。あーやとかぐるみ想定くらいでいいよ」

「それはさすがに……」

「……まだそこかぁ」


 がっくり、とカウンターに手をつき、これまた大げさに首を振る。「やれやれ」とでも言い出しそうな空気感だ。


 ともあれ今は仕事中。誰が何と言おうと仕事中であり、決していちゃついていい空間ではない。バイト同士が雑談で盛り上がるコンビニをどう思う? 僕はなんとも思わない。


「注文がない時は、テーブルとかカウンターの備品の位置とか向きとか気にしとくといいかも」

「了解。本格的にやることがなくなった時は?」

「雑談? 店長とでもいいし、僕でも、お客さんでもいいけど」

「へー。意外とルーズ」

「大人しく立っててもいいよ。その方が呼びやすいのも確かだろうし」

「わかったぁ。空気読みつつ、だね」

「そういう感じで」


 飲み込みの早い沙織は、やっぱり仕事の覚えも早い。あっという間に一人で仕事をするようになって、あっという間に時間は過ぎていく――。


 そして午後五時半。予想していなかった来客があった。普段であれば彼女(・・)は、金曜日の部活終わりに友人を伴って訪れる。


「あれぇ、さーちゃん?」


 そしてどうやら、友人(沙織)がここで働いていることを、知らないようだった。




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